やみいろの。






辻にて。



















大会の追い込みに練習は日々ハード。加減は何処にあるのか、一応は信頼している部長のメニュウは、また不思議な事にきちんとしたストレッチと睡魔に任せた夢の世界で回復するのが素晴らしい、とは思う。思うのだが。
糖分の高いパックジュースをずるずるとやりながら、肩に食い込むラケバを背負い直す。右腕に下げる通学鞄はぺらぺらと安定しないが、授業中に浮かんだ音符の羅列が入っていたりもするので実は彼にとってはふたつ目に大切だ。先程の角で別れた、まあ折角ダブルスを組む予定も有るのだし、という協調性の塊な先輩はその五線譜を見ながらとつとつと指先を動かしていたので、ひょっとすれば文化部の発表にも使えるかも知れない。
身体が限界に近ければ脳は脈絡が無い。風呂場のタイルで詮無い事を考えるのに似ている。次の角を曲がり暫く歩けば二世帯の、扉を開ければ甥っ子が飛び出す我が家だろう。財前光は、こきり、首を回して深い呼吸を一度だけ。夏場の長い日は、随分と遠くにあるらしく、空は薄い藍色だった。
こんばんは、と聞こえた。
「こんばんは・・・。」
近所なら珍しくない挨拶の応酬。顔しか知らない近所のおばさんに、朝はいってらっしゃい夜はおかえりなさい、なんて日常だ。
ふと、思った。財前が立つ場所はさほど家に近い場所でない。昔よく遠山に連れられた駄菓子屋は既に閉店時間だ。頬を滑った冷たく鋭い感触に、財前は振り返る。
さあ、と音に満たされた聴覚に、視覚に飛び込んで来たのは墨の中から産まれたのかと思うような、女。
真黒の浴衣に紫糸で蝶を縫いとった黒い帯。
うつくしい、と思った。季節外れの真っ白な肌が、恐怖を招く程、墨色の浴衣に映えた。歳の頃は義姉と同じ位だろうか。思わず見つめるような財前の視線に、女は艶やかに笑んだ。
おやすみ。
時刻で言えば間違った挨拶ではない。財前は頷くような会釈を返して、自宅の方向に爪先を向けた。真っ青な空が夕闇から夜へ。
ふと、思う。どっかヤバイ施設から抜け出して来たんちゃうか、なんて。それでも、女の纏う香は、柔らかく、甘ったるく、それでも爽やかで。
考えながら、自宅の扉を開ける。予想通りの襲撃に、財前の日常はそこに帰ってきた。
不思議な体験をした。
その日のブログはその一文だけで終わらせた。疲労が、濃かった。





忍足謙也に肩を叩かれ、物凄い勢いで振り返った財前は、かえって忍足を驚かせる羽目になる。本格的にダブルスの相性を確かめるに当たって、何処からチョロ任せたのか屋上の鍵をちらつかせた忍足は、二年生の教室では悪目立ちが過ぎる。中にはファンなんかもいて騒がせる。忍足は相変わらずの人好きする笑顔で、雑談を交わしたり、教室の隅には挨拶に喜んだ女子生徒。あれに気付けば白石部長に負けずの浮いた話も出るだろうに、なんて悪戯に考えながら財前は席を立つ。
屋上は基本的に生徒の立ち入りが禁止されている。例外として、卒業アルバム作成の集合写真というものがあるが、財前には一年以上先程縁の無い話だ。忍足はもう半年程で集合が掛かるだろうが。
未だ未だ夏の話だ。卒業は眼中に無い。
職員室からは死角になる、給水塔の影は、正午を過ぎれば陰が落ちて気温の程も落ち着く。コンクリートはじりりとベルトを焼く。弁当と、途中入手した購買のコロッケパンを広げ、午後の練習に向けて腹を満たす。
忍足は食が遅い。白石の分析によれば典型的な男脳なのだそうだ。財前もそう思う。
何が楽しいのか、喋り出すとそのまま腹を満たす手が止まるのだ。
「ああ、そういえば。」
かこん、と空にした弁当箱に蓋をして、財前は顔を上げた。ん、と忍足は頷いた。食うて下さいよ、と促せば、かつかつとカレーパンを齧り出した。
「昨日、祭りとかありましたっけ?」
は、とパンに噛り付いたままの口が間抜けな音を出す。
「まあ、最近は浴衣で普通に出歩かはる人ありますけどね。」
財前は一人、そうやって片付けた。
そんでもって次回のユウジ先輩小春先輩ペア攻略ですけど、と話の飛躍に忍足は手を止めた。食うてからにしましょか、と財前は諦めた。
午後授業は半分眠りこけ、この学校も午後は練習授業に当てたらええんに、なんて考えて、部活に向かえば千歳と日直で遅れるらしい一氏以外は揃っていて、いつも通りの部活が始まる。
ネットを張る音、空を流れる低空の雲、アップの足音、応援の声、挙げればキリがない、財前の好きな音の世界はどこまでもどこまでも。作戦通りの辛い勝利は明日への糧。暑い中に熱い汗は、目標に向けての一歩。
部活が終われば、ぱらぱらと部室から人が散る。何が楽しいのかレギュラー陣は遅くまで残ることが多い。
「昨日ってさ、どっか祭りでもあったん?」
その口火は忍足だった。昼の話題を覚えていたか、と財前は思った。三歩歩けば忘れそうなのに、とも若干失礼に考えながら。
「無かった思うよ?」
回答は金色。
「花火とかもあらへんかったし。」
「PLは見れんかな、今年開催東京やし。」
「天神さんも何年行けてへんかなー。」
部活漬けの彼等はそうやってころころ話題を変えながら、ふと視線があるのに財前は気が付く。
「浴衣着たいんやったら着たらええやないですか。」
そして、彼らしく、そう。
「最近はファッションで着てはる人多いですし。」
しん。
表すならそれだ。音が一切消える。
ん、と一瞬逡巡に、部室内を見渡す。携帯には、砂糖を買ってこい、と母親からメールが入っていた。
「財前?」
「何でしょう。」
「黒の浴衣女に会うたか?」
疑問系を取りながら、確信の声は白石だった。
「は、い?」
ぎこちないその声音に、石田の数珠がぎりりと唸った。会った。確かに会った。黒の浴衣。今時珍しい、真黒一色の。違和感。
甥の甚平探しに入った一軒の和服小物店。男物はシンプルに、値段が張る物は裾に龍やしゃれこうべ。女物は埋め尽くす程の花や鮮やかな色。無地の黒、なんてどこにも無かった。特注か、それとも自分で仕上げでもしない限り、あの浴衣はあり得無い。帯も、明らかにそうだ。
音楽系統から誤解されがちだが、財前の根底には日本の味が住んでいる。だからこそ音楽は洋物を好む。日本人だからこそ理解できる、日本には無い物。広く深い彼の知識は、あっという間に昨日の女が異様であったことに気が付いた。
「気ィ、つけとき。」
白石はそうやって、日誌を畳んだ。其々が部室を出て、うっとりするような夜空を頭上に、帰路へと爪先の方向を変え、歩む。
「お疲れ様、でした。」
呻くような声だった。忍足はそれを隣に見て、珍しく待った。財前の足取りは酷く重かったから。
「謙也さんは。」
別れの辻まで半分程歩いただろうか。
「知ってはるん。」
何を、と聞くまで忍足は鈍感で無い。財前の所在無げな右手は関節の動きが安定していない。
「怪奇、奇妙、七不思議。」
とん、とん、とん、とリズムを刻むように忍足の足が進んだ。
「いつまでもそこにおって、財前に声かけるようやったら。」
す、と息を吸ったのが解る。それ程に感覚は冴えている。
「・・・んやさん?」
上擦った声に財前は拳を作る。縁起の悪い震えが止まらない。
ざわっ。
髪の毛、と財前は思った。襟足の、随分下に、頬に、額に、自分の覚えの無い場所にそれは擦った。さらり、さらり、ざらり、ざらり、視界に黒い糸が垂れてくる。紫の蝶が遠くを飛んだ。
「財前、なにしてん!」
忍足との距離に愕然とした。いつの間にこれだけ離されたのだろう。隣を歩いた筈なのに。
「あ。」
分かれ道は、酷く暗かった。街灯の点滅間隔が長く、視覚が慣れ無いのだ。
「ちゃんと帰るんやで!」
ざわざわ、頭上の音に、どこか行け、と思った。お前なんかに構う暇は無い、と。薄暗い視界の端、街灯に突進する蛾の群れに、寒気。
「そっちも、転ばんで下さいよ。」
明日の練習に響きますよって、なんてニヒリストは笑った。忍足はそのまま帰路へ、暫く歩けば市内御用達の優しい病院がある。
歩き出す足に迷いは無い。財前はとりあえず、帰って直ぐに腹に食らう甥っ子ミサイルに身構えなければいけないのだ。
「二度とツラ見せんな。お前に構う暇は無い。」
言い置いて、イヤホンを耳に突っ込むと、彼はいつも通りに辻を曲がった。
「あ、新譜チェック忘れた。」
語るでも無いその声に、ジ、と焼かれた蛾が落ちた。
目の前にあった、黒い糸はもう見えない。



すみいろ。









***

まあ、夏なので。
てゆかこういう方向性の多いね、微ホラーてゆうか。
結局アイツは何だったの?っていう話が好きですね、納涼系だと。

20110726喜多っちはぴばー!masai