それは素晴らしい夢だった。



蜘蛛になる夢を見た。
成長期の身体に開けたピアスホールはたった6時間で芯を通しにくくなり、ぴりぴりと鳴いた。毎朝のことなので低体温低血圧の俺はそれで目覚めを呼び起こし、枕元の携帯電話を掴んでスヌーズを消した。

「・・・ったる。」

口に出した自覚も無いまま、起き上がってワックスの付いていない髪をがしがしと掻き回し、欠伸を一つ。覚醒した。
洗面に向かおうとベッドからのろのろドアまで室内スリッパを引っ掛けて、ノブに手を掛ける前にそれは逃げた。

「ひか、おきた。」

甥っ子が、幼子ならではの大きな目を更に大きくしてぽかんと呟く。毎朝腹に飛び乗られて溜まらんわ、と欠伸交じりに言ってやれば、ひかおきたぁ、と甥っ子は階段をてしてし下りていく。落ちないか若干心を揺らしつつ、ゆっくりとしたペースで追ってやる。

「光ぅ、落ちんなよー。」

兄のからかう声には蹴りを投げた。
顔洗ってくる、と妙な方向に顔を向けている兄に告げて洗面所へ向かい、鏡に映る普段と変わらない、起き抜けの不機嫌そうな自分と目が合った。
蜘蛛になる、夢を見た。正確には、自分は蜘蛛だった。
軒下で朝露にぽろぽろと輝る巣に、節足を伸ばして、それを眺め上げる彼の人を見ていた。うつくしい金色のそれは風に遊ばせて相変わらず駆けていた。そして自分のそんな姿を見ながら、とある漫画家であり哲学人である天上人の、とある作品を思い出していた。
失明した美術家の手伝いに女が現れる話。戦争や恋愛だといった要素もあったが、あえて、そう。
中二と言われればそれまでだが、自分はその話が好きだった。その漫画家の哲学は、酷く面白い。酷く切ない。そして酷く幸福だ。
思考を走らせながらも手は毎日の動作を機械のように仕上げていく。ハーブが香る洗顔料で視界をすっきりさせて、終われば後ろ髪の根元にワックスを捻じ込んで立たせて、前髪も自然にしかし不自然に分ける。前髪の生え際に見つけたニキビに小さく舌打して、ざっと仕上げ。いつも通り、不機嫌そうに口元を引き結んだ自分がいる。

「光、朝ごはん出来てるで。」
「今行く。」

自分が蜘蛛だった夢を見た。
女郎蜘蛛だった。
もしも彼の人が絵描きだったなら、物語は間違いなくあの通りに進むだろう。
もしも自分が女だったなら、自分は物語通り彼の人に自分の身が滅んでも尽くすだろう。
もしも胡蝶の夢ならば、向うが現実であればいい。
白米をもそもそと口に運びながら誕生日に貰った腕時計を確認。今日の朝練は無い。幾つものifを考えながら、ごちそうさま、と手を合わせる。

「ひか、ごはんー。」
「今食うたやん。」
「ごはんー。」
「すんません、義姉さん。通訳。」

ころころと笑っている兄嫁に助けを求めれば、食器をシンクに運んでおいて、だそうだ。子供椅子から飛び降りることを覚えた甥は、プラスチック製の食器を手元を泡に突っ込んでいる母に笑顔で押し付けた。

「ども。」

自分が蜘蛛か人間か胡蝶か彷徨っている間に日課を忘れたらしい。茶碗と皿と箸をシンクに置いて、ごちそーさん、と母に告げれば、お粗末様、と、光は相変わらず、なんて笑われた。
朝の食卓の笑い声をバックグラウンドミュージックに、自室に上半身を突っ込んでバックを引きずり出す。

「行ってきます。」

階段を下りて、飛びついてきた甥っ子を引き剥がして義姉に引渡し、スリッパを脱いでたたきに降りるとシューズの爪先具合を確かめて。
腕時計はそろそろ彼の人に会える時間を教えてくれている。俺の中には今、いくつものifがある。あの哲学の氷山の一角がある。
哲学は勿体無いので物語の粗筋と、俺が今朝見た夢を教えてみよう。きっと金色の彼の人は、彼の人らしく不安そうな面差しで、優しい声音で、それでもちょっと怯えた様子で、きっと。

「    、」
「おお、はよーさん、光ー。」

今日の掴みの正門どないする、なんて企み顔を、俺は今から俺の好きな表情に突き崩してやる。





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因みに、作中の漫画は手塚治虫の「女郎蜘蛛」です。

いやーハロウィン楽しかった!!

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みくし2010年10月17日21:40から再録。
光は意外と尽くす男だといいと思う。楽しいから。(私が。

20110203masai