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本棚を見て、百園は泣いた。間宮も泣いた。
少女の痛々しい死に姿を、伊月は未だ忘れられないで、伊月の誕生日に図るような、晴れた秋の落成式、美しい音楽会を、子供たちが楽しく彩った。 死産で乳が張るだけの母親は母親が無く死にかけていた赤ん坊を抱いていて、震災で妻と子供を亡くした父親が新しい家族を迎えるようにやさしく両手を広げて、年嵩の知恵に若い女が若い男が頷いていて、伊月がその人望で作り上げた養護施設は、表向きは恐ろしいほどに順風満帆だった。 今吉探偵と伊月助手と残酷な子供。後篇。 篠野瑩子と百園さとが顔見知りであったのは面白い誤算だった。 「歌を、歌うのが好きで。」 百園は篠野の演奏に合わせてその清い歌声を披露してくれて、緑間家から寄付のあったグランドピアノは学芸室にあって、二階の図書室にはあの三ケ木書店からも譲られた本があった。簡単なアレンジがされた楽譜も置いてあって、暇なときに子供と教えて遊んでやってくれると助かる、と伊月の申し出に、緑間は、子供は苦手だが音楽は好きなので、と緑間らしい返答。高尾は言われずとも無償で遊びに来てくれるという。 勉強がしたいが教えを乞う金がないなら、簡単な講師を伊月綾やその同輩。半田家が寄越したのはキャロルという名字を持つ英吉利人と日本人のハーフである少女だ。町田蝶子の共によく遊びに来る。日本語はほぼ完璧に喋れるが、読み書きが蝶子と同じレベルだそうで、半田家から出される授業料片手に週一に現れる。幼くして母の顔を知らない赤子は、赤子の顔を見れなかった母に、そら、と名付けられた。夜のそらを照らすのは月だ。 あの廃屋で見つかり保護された少年は一度警察を経由し、唖黙ったまま施設に寝床を与えられ、だが伊月が顔を出すと少しだけ笑う。 「凄いね月さん。」 「なーにがー。」 子供の言葉一つ引き出せないで、と尖った声で百園の声に返してしまった。月さんが怖いっ、と言葉を弾ませて逃げた彼女は、こらさと、と間宮に窘められ、しかしそんな間宮も心配そうに、伊月に紅茶を淹れてくれる。 「まだ玄関が開いてすぐですよ?まともな形になるのは一年後くらいかしら。」 「それは間宮さんの経験則で?」 「ええ、私の経験則で。あの事務所もそうだったんでしょうね。」 今吉には、時折甘えに行く。ただ、甘やかされに会いに行く。 「それじゃあ、今日は失礼します。」 「はいはい。月末の最初の会計報告が楽しみね、さと。」 「昌美さぁん!?」 親子のようで姉妹のような二人に、養護施設の一切は任せてある。伊月の仕事は判子を捺すだけだ。 「篠野さん。」 インバネスに学生服でいつもの上等な革靴が歩いた石畳の街に、篠野瑩子の姿を見て、伊月は立ち止まった。 「あら、伊月さん?」 学生帽を取って、会釈するとぺこりと丁寧に頭を下げられた。 「奇遇ね。」 「ええ。」 言葉少なく道路側に並んでくれる伊月の配慮を篠野は受け取って、そろりと指を擦る。 「ねえ、伊月さん。」 「はい。」 「指を刺されたの。楽器ケースに針を入れられてて。」 「っ。」 ひゅう、と乾いた空気が喉を走った。 「一日休めば三日戻るの。どうしよう。持ってるだけじゃ、上達しない・・・。」 「その程度・・・。」 つめたい声に瞳に、戦慄っと篠野は背筋を凍らせる。 「辞めたら?」 奇妙で、滑稽で、静かで、それはそれは歪に捩じり曲がった感情が、行き場を失くして死んだあの少女のような、そんな。 ぱしん、と乾いた音がして、道行くひとが振り返る。 「辞めない!」 絆創膏の巻かれた指先が熱を持って宙に不自然に浮いている。打たれた頬が綺麗に赤くなったが、伊月はさらりとその美しい黒髪を風に靡かせただけだった。 「伊月さん、変だわ。本屋さんで会ったときは、真摯で、そんな顔しないひとだった。でも、この間から私たちの音楽聞いて、笑ってくれたのも、なんか偽物っていうか作り物みたいだった。正直言って、気持ち悪い。」 その視線は、凝視っと静かに、絆創膏の巻かれた指が痛々しく振れるのを観ていた。 そうか、と吐息が述べたようだった。 「辞めるの止めよう、キタコレ!」 合図のように言いやって、ぱん、と打たれた頬も白いままの頬も、自分でもう一度打った。何事か、と後ずさった篠野は悪くない。 「篠野さん、ありがとう。それからごめん。八つ当たりした!あっ、八つ当たりした奴キタコレ!」 「あ、ああっ、私も殴っちゃってごめんなさい!」 「いいや、殴って貰ってすっきりした。色々思い出した!燃え尽きてる場合じゃないよな、うん。」 言い聞かせるように伊月は頷いて、見えてきた目的地に視線を定める。いっそ睨むというのが正しい。自分で何がどこまで出来るか。考え飽きるほど考えた筈だ。 「篠野さん、また遊びに来てよ。百園さん楽しみにしてるから!」 「えあ、うん!!」 そうして、随分と綺麗な笑顔で一度挨拶すると、そのまま走った伊月の、秋風に揺られるインバネスの裾を見ながら、彼女も無傷な手で拳を作る。負けて堪るか。 「花宮!晩飯なににする!?」 「栗ごはん。」 「帰りに仕掛けとくから明日まで待ちなさい。他は?」 伊月が事務所に入って最初にしたことは、鞄とインバネスをデスクに下して椅子の背凭れに引っ掛ける事。今吉への挨拶もそこそこ、二階で書類を作成していた花宮の手元を覗き込んだ。知らない言語で書かれた報告書を、今は無理だと酷く冷静に判じた。 「三ケ木書店へ黒子をやったのはお前の指示か。」 「いいや。俺は書店の電話機から連絡を受けただけだ。」 「つまり今回の件は黒子の独断。」 伊月をあの場所へ向かわせるための、手段。黒子に指示を与えた人物は別にいるとしても、伊月が三ケ木書店で少年を見つけて確保のために動く。そして子供の骨の調達手段を繋げさせる。 「ったく、身内を疑う日が来るなんてな。」 苦々しく吐き捨てた伊月の横顔を花宮が横目に見やる。 「無駄な授業してねぇだろ。」 「一つ質問だ。花宮が組織上層部に食らいつくとして、その第一手は?」 「信頼を得る事。」 「なるほどなぁ。」 目の前の事象を考える際は顎に指をやる男は、今は天井を仰いでいる。これは、と花宮は口角が持ち上がる。 「おいおい、同輩後輩全員路頭に迷わせる気かぁ?」 「それが障害なんだよなぁ。」 「おい。」 「どこからを疑えばいいのか解らない・・・事は無いな。武田先生は絶対に疑うべきではない。が、疑わなければいけない。」 なんという反問律を繰り返しているのか。しかし戸惑いはその声には聴きとられない。 「月ちゃん?」 花宮が万年筆を滑らせる傍ら、机に腰を預けていた伊月が呼ばれて背指示を正す。内緒ね、とばかりに口元に人差し指を持って行って、扇形の睫毛が飾りっ気のない頬に綺麗に可憐に影を落とす。 「どうしました、翔一さん。珈琲淹れます?あったかいの。」 まこっちゃんにばあい構ってからー、と大人げなく唇を尖らせながら珈琲を淹れる手の背中に覆いかぶさってくる相手のくちびるを掠め取れば、大人しく逃げていく。この子供のような大人は存外に照れ屋だ。 「翔一さんはさ、上司を疑ったことあります?」 こぽこぽとやさしい刺激が湯に立つのに、今吉はデスクに突っ伏していた顔を上げた。 「疑ったからここにおんねんけど。」 「あ、そうでしたね。」 これはうっかりうかうかさん、なんて歌うようにあしらった伊月は、凛と伸びた背筋を一切にして崩さない。 「翔一さんだけを信じて生きても良い?」 それなのに、瞳は随分と寂しそうに揺れるから。 「ええよ。」 世の中全てを敵に回して生きていること事すら否定したとして、最期に今吉の腕の中に揺られるだけなら、そこまでの道のりはきっともう自ら斬り捨てようとどうしようと、どうでも良いわけで。 「まこっちゃーん、切り上げておいでー珈琲はいったでー。」 このひとはどんな風に生きて行って死んでいくのだろう、と伊月はぼんやりと考えた。この手の中で死んでくれたらいい。ただ、なんとなく。燃え尽きた後に風に攫われる灰のように消えてしまうのだろうなと、そんな風に思う。そんな生きざまを彼はしている。 「フレンチトースト作って。」 「パンどこ?」 「その水屋。」 「おっけ。」 花宮はきっと役目が終われば世話を忘れられた野良猫のように消える。 「マーガリン買い足してあるから使いー。」 「はーい。」 台所でちまちまと働く伊月の背中から、珍しく花宮が視線を外すので、にまりと思わず口角が上がった今吉は、わざとらしく扇子を綺麗な音を奏でて開き、口元にやった。 「んだよ今吉、噺家でもやんのか。」 「やったろか?」 「えっ、翔一さん落語出来るんです?聞きたいです。」 「上方落語ってなんかねっとりしてねぇ?」 「上方やからね。」 「全部上方だからで納得しようとすんな。落語聞きたいなぁ、上方落語。」 フレンチトーストを小皿に分けて、花宮、今吉、と回り込んで伊月は自分のデスクで紅茶にくちづける。心地よい安堵の馨りに肩からゆるりとほぐれた。 路頭に迷わせる?とんでもない。基本として伊月は今回の件に言及するのは避けたのみ、これからも偽善的に優しく誠実に生きてやって、立つ鳥盛大に後を濁して死んでやる。死に方を少しだけ変えただけ、方向性は変わらない。善悪を把握した上で偽善に生きてやる。赤司の申し出は正直なところ、大変に助かったと言っていい。遠くの場所から、知らなくていい真実を知るだけだ。知らなくていい真実なら、知ろうと知るまいと大差ない。ただ、こころが揺れるだけ。蝕んで腐る訳で無し、それでいい。揺蕩う湯気を見ながら伊月はそう考える。ただし。 「翔一さん、諏佐さんに連絡取れますかね。」 「んー?」 「あの孤児院あった場所、少し詳しく調べて欲しいんです。あ、違う。調べたいんです。」 なんやそんなこと、とレンズの向こうで狐目が瞬く。 「いつ言い出すか解らんから、ゆうてもう許可あるで。」 「まじっすか!」 「まじやー。明日にでも行こうか。」 やったね、と貌を綻ばせる同僚に、花宮は嘆息する。何があってのどんな決意か知らないが、好奇心は身を滅ぼす。 「好奇心じゃ、ないよ。」 カップを持つ手が揺れた。揺らしてしまった。デスクを挟んだ向こうには、穏やかに笑う見知った同僚がいる。 「お前さ・・・。」 「ひょっとして翔一さんの真似事しちゃった?ごめーんね。」 さっぱりもって謝るつもりの無さそうな、ぺろりと蠱惑に舌まで見せる伊月に、花宮は逆に、何だか笑えた。諭すつもりも叱るつもりも、怒る気すら失せる。伊月は嫋やかな風に似ている。 嫋やかな春の風に紙風船を遊んだことがある。縁側だった。兄と慕っていた今吉から与えられたものだった。鬼ごとをして遊べる仲間もいなければ、近所では関わり合うなとまで言われていた子供は、風に紙風船を奪われたことがある。花宮はそんな彼が、大嫌いだ。 「つーか、硫酸通り魔確保まで、諏佐サン掴まえらんねーだろ。なぁ今吉ィ。」 「せやねぇ。通りかかりに硫酸掛けられるとか怖い怖い。」 新聞に適当に選んだ話題でその日は終わった。 丘の上は意外と見晴らしのいい場所で、ただ、廃屋と化してからは庭の芝も梅雨を経て夏に伸び放題で、廃屋内も床を破って笹が生えていた。 「広いですねー、籠球出来そう。」 確かに誠凛大学の体育館位の敷地はあって、入ってすぐのホールには風化しかけた靴が数足放置されていた。放射上に六角形の部屋がホールになっていて、六本の廊下が延びている。このホールで少女は死んでいた。脚の折れたベッドと汚れたシーツ。食べ物の類は鼠や野鳥が食い散らかしたのだろうか。 遺体は警察に頼んで伊月の家が無縁仏として弔った。便所や風呂に続く廊下は破裂した水道管や湿気から腐敗が進んで、遊戯室らしき部屋には紙で作った飾りが落ちていて、お母さんの部屋、とプレートのある部屋は机が一つ倒れて、散らばった紙には日付と日記らしき記述があるので、記録簿か日誌だろう、と辺りを付ける。 「これはもうこぼってまうしかないやんなぁ・・・。」 床の落ちた二階はまるい屋根が綺麗に見えた。ホールに落ちていたベッドは二階から落ちてきたのだろう。木造の柔らかな建物は、きっともう限界だった。 崩れ落ちた床以外は全てを回れた二人は、玄関に放置されている靴から何か情報を得ようとして見たが、兎に角金がない、という事だけが解った。 広い庭が欲しかったのか、ひとの群れから離れた場所での杜撰な建築と所々に金を使った装飾、廃屋となった後からの治安の悪さ。事件に巻き込まれた不運。攫われ売られてから逃げ戻ったとして、誰も居ないこの孤児院は、生きる術を教えるには教材は少なすぎた。 「こぼ・・・?」 「ああ、こぼつ。解体するとか家壊してまうとか、まあそんな意味?」 今吉と何気なく会話していると、時たま会話が食い違う。今吉から学んだ上方の言葉は微妙に偏りつつある。 「つわものならぬ、ほーびゃー共の夢の跡、やろ。」 「ほーびゃー・・・。」 「朋輩、の訛り。」 「ああ、確かにここに住むのは皆で朋輩ですもんね。朋輩で家族で親子で。」 「せや。解体申請出すか?ワシの下宿近いし、こっちで声揃えたら早いわ。」 「よろしくお願いします。」 綺麗に頭を下げた伊月の肩を押して今吉は顔を上げさせる。 「月ちゃんが今度は作ったる番や。あのこらの朋輩で家族で、おとん、ゆーんは似合わんから、にーちゃんとでも呼んで貰い?」 「皆のお兄さんですか。悪くないですね。」 くすりと微弱に笑った美貌が、夕日に照られて酷く綺麗であったので。 「ついでにワシの嫁においでや。」 耀く天使の輪に指を通せば、割れた窓から赤く照られていた白い頬が熱を持つ。特に耳が徐々に熱くなるのを、くつくつと笑いながら摘まんでやれば、かんべんしてください、とその場に座り込んで膝に顔を隠してしまった。 「月ちゃん。」 「はい。」 からん、と下駄が運ばれる音を合図に伊月は俯きつつも徐に立ち上がって、凛と見据えるまなざしは今日とて誠に優しく強靭で。 「おいで。」 「・・・はい。」 誰かの何かが終わった場所で、始まりを誓う。 「よし、今日は翔一さんも連れて行こうっとー。」 「ええ!?ワシ子供苦手やねんけどー。」 「子供も翔一さんの事苦手だと思いますねー胡散臭いからー。」 くすくすと悪戯気に笑って、路面電車の疾走する風から伊月を護るように今吉は車道側を行く。横断歩道を渡るなら後ろを行ってやる。伊月家のある道よりも今吉の下宿に近い、商店街も程よく徒歩圏にあるその建物は、洋風の外装で、門扉には《Asyl》とあった。希臘語所縁の、侵すことの出来ない神聖な場所、を意味する独逸語だ。 「統治権力、あるやろ月ちゃん。」 「名前だけですよ、俺は。」 あっ、と玄関先で女性の声が弾んだ。 「月さーん!」 「伊月さん!」 「さとちゃんと・・・あれ誰?」 「篠野瑩子さん。音楽家ですよ。よく遊びに来てくれるんです。指の怪我診といたほうがいいかな・・・。」 後半はほぼ独り言のように、そして百園は、翔一さん、と呼びそうになって、しょいまよしさん、と改めた。 「しょいまよしさん?初めまして、篠野です。」 「いやいや、翔一や。今吉翔一。月ちゃんが翔一さん翔一さんゆうから、さとちゃん移ってしもたんよ。」 伊月が注視した指先に絆創膏は無く、腫れも痛みも無さそうだった。見られたことに気付いた篠野はこっち、と手を返した。中指の第一関節にさっくり赤い筋が走っている。 「さっき間宮さんに見つかって消毒されたの。あんまり絆創膏しとくのも悪いのね・・・。」 「ああ、鬱血や痺れが出たりするから・・・寝るときだけガーゼ当てて保護、こまめに消毒です。大事になさって下さいよ?」 「それは私の科白じゃなくって、伊月さん?」 「失礼しました。」 被さる事に近い形で伊月は頭を垂れた。 「戻った分も遅れた分も後で全然追いつけるわ。今はこれを治す事が一番大事ね。よし。」 伊月と向き合って話をしていた篠野が百園に振り返る。服装ばかり綺麗になっていた少年が、おずおずと顔を出す。やっと頬に子供らしい丸みが出て来たのに、ほっと伊月は花のように笑う。やはり父親と言うよりは兄、若しくは姉だ。 「しゅんにい!」 少年はそれだけ叫んで、盛大に咽た。 「えっ。」 瞠目した伊月の背を今吉が軽く押してやる。甘ちゃんの原因はこれか、と篠野は悟った。上等な革靴が、石と煉瓦で作った玄関への道を踏み出して、百園がやったね、と少年に笑いかけ、遠く館の入り口の向こうからは間宮も顔を覘かせ、先ほどまで教鞭を振るっていたらしき伊月の姉もいる。 「・・・しゅん・・・にい・・・。」 掠れた声が子供の口から発されたその衝撃と感動に、伊月は思わず煉瓦を蹴った。この子供を腕の中に抱いたのは二度目。一度目は泥と砂の匂いしかしなかった少年は、今は体温が感じられて新しい木の匂いがして垢と汗の匂いもする。 「よかった・・・っ!」 急に抱きしめられた事に硬直したが、頭を撫でられながら目の前で流れた涙を拭おうとして、いやもういいや、と涙の流れるまま、もう一度抱き締められて。 「あらら、しゅんにい泣いちゃった。」 「綾さん、からかってあげないのっ。」 間宮と姉の声が弾んでいるのは気のせいじゃない。背後で篠野が今吉に事情を説明してやって、なんやよかったぁ、と苦笑気味に笑うようでもあって、百園が子供の肩を優しく叩く。 「ねぇ、名前は?俺は俊だから俊兄か?俺はお前をなんて呼べばいい?」 「・・・いち。」 「いち?」 「た、いち!」 けほけほと長期の唖黙りに耐えきれていない喉に、白湯を、と間宮がゆっくり子供に飲ませる。 「ゆっくり、ゆっくり飲んで。」 ミカイの華が画かれた湯呑は亜麻家からの寄付だ。白湯をひとくちゆっくりと含んで飲み干した子供の喉が動くことすら、涙腺に来る。スラックスのポケットの中で懐中時計に噛まれていたハンカチをやっと取り出して、一度落ち着くまで腕の中で唸った。 「あんたが子供みたいよ、俊。」 「しょーがないじゃーん!」 「今吉さん、御無沙汰しております。」 「綾ちゃん元気そうで今吉さん安心や。」 「誰がひとの姉貴を名前で呼んでいいと言いましたか翔一さん。」 「ほか、もうじき婿さん貰うんやっけ。あかんあかん。若奥さんにせな。」 「ちょぉ!?」 「姉貴が若奥さんとか・・・!」 涙を引っ込める手伝いをしてくれた今吉と、話したのばらしたのばか俊、と真っ赤になった姉に詰られ、今度は笑いが止まらなくなってきた。 「しゅんにい。」 「ああ、たいち、って呼んだらいいか?」 「ん、いちって、よばれ、けほっ。」 「まだいきなしいっぱい喋んないほうがいいよ。ゆっくり喋ってこう?そんで、お歌も唄おうね!」 「さと、たいちを急かすのは止めなさい。」 「おうた、うたいたい。」 でものどいたい、と未だ骨の目立つ小さな手を胸にやるので、一度気管支系を医師に相談しよう、と伊月は間宮と頷き合って。 「じゃぁ、綾先生帰るけど、俊もちゃんと帰んなよ。」 どこへとは明確に言わない彼女は悪戯心も弟にそっくりであった。途中までご一緒に、と篠野にも声を掛けて、門扉を抜けた。 「そろそろ晩御飯ね。」 「下準備出来てます!昌美お母さん!」 「じゃあ、さとお母さんはお台所ね。俊兄さんは日誌の確認と、今吉さんはお嫁さんの手際でも確認していってくださいな?」 間宮の本日最大爆弾投下に、伊月は鞄を落とし、今吉は挨拶の途中に取った中折れ帽を落とした。 「先ほど花宮さん来られたのよね。確かに面白い反応なさるわー・・・!!」 ぐ、っと一人拳を作っている間宮に、百園は、昌美さんの悪い癖出たぁ、と笑って館内へ逃げて行った。子供も楽しそうに笑って着いて行った。どうにも間宮昌美という女性は一筋縄ではいかないようで、ころころとそのまま二人の反応を見ている。 「はぁなぁみぃやぁ!!」 「まこっちゃんええ仕事やけど減俸―。」 しゃがんで鞄を抱えて唸った伊月と、あらぬ方向を向いて呟いた今吉と、二人とも初めて来た方角の攻撃から耳元が真っ赤である。 「はいはい、キャロルが伊月さん宛の手紙を預かっていますよ。今吉さんはお帰りなさるのどうするの?」 たしたしと手を打って間宮はにっこりと笑って、百園に呼ばれて玄関を上がっていった。 「手紙・・・なんかあったかな・・・翔一さん、折角だから図書室と高尾部屋見てってください。」 「図書室・・・は解るけど。」 「あ、土足で良いんで。気になるようならこの雑巾使って。」 玄関脇にある椅子を使って伊月は革靴の底に入っている砂を払った。下駄は煉瓦の上でこつこつと叩けば泥は落ちる。 「高尾部屋。凄いですよ。屋内で籠球可能、知育玩具にファルトレクごっこ!」 「月ちゃん、籠球は元々室内競技や。」 「室内なんて知んないキタコレ!」 「高尾部屋てなんや羨ましい名前やけど。」 「そして図書室は黒子セレクトの絵本から児童書から純文学まで!」 「黒子クンまでかい!しかしそれ見物やな。」 「何冊か俺も教科書入れちゃいました。あっ、今日の教科書これにしょー!キタコレ!」 「月ちゃん。」 「はい。」 「ここって、入って来たらなんて言うん?」 まだ落成から間もなく、職員も不揃いで子供がここにどれだけ集まるかも未知数だが。 「間宮さん百園さんは、お帰りとただいまですね。」 「ほな月ちゃん。」 「はい。」 「ただいま。」 今吉の意図に、う、っと思わず言葉に詰まる。 「なーなー月ちゃん。月ちゃん?」 面白がるような声音から、呼んで、顔を覘き込まれて。 「おかえりなさい、しょーいちさん。」 至近距離にあった顔の傍、耳元に囁き蟀谷にくちびるの柔らかさをプレゼントする芸当を、近くにヒトがいない事を確かめた鷲の目はやらかした。 「月ちゃん、ここお布団あるやんね。」 「男性用仮眠室はまだベットの骨しか入ってないです。」 残念でした、と伊月は笑って、間宮に呼ばれて夕飯の香る厨房へと靴底の鳴る音も上機嫌に入っていった。来週の献立を考えるのは伊月と間宮の仕事で、伊月は更にこの《Asyl》最高責任者だ。役所からの手続きは全て若松に担当させた鬼でもあるが、まあ割愛。 伊月俊、18歳。 誠凛大学三年、医学部予科生、籠球に生きた最後の秋。 生きるためでなく、活かすために、寿命を延ばす。 「翔一さん、栗ごはんと栗おこわ、どっちがいいです?」 「月ちゃんがええです。」 「ふざけんな下さい。」 もしも彼の足跡をたどることが可能であるならば、図書室を覗いていけばいい。 もしも彼の頭脳を手に入れたいなら、そのパズルを手に取ってみるといい。 もしも彼のこころを知りたいならば、不可侵の聖域で気が済むまで遊びたまえ。 もしも彼を知りたいならば、まず、その名を呼ぶことから始めよう。 彼は何時でも君に笑って泣いて時には叱ってくれるのだから。 君は君でいいのだと、彼はきっとそうやって抱き締めてくれるから。 愚かに易しく鈍間で不器用ながらも必死で優しく怜悧で利巧に。 誰でも、誰にでも、厳しく不平等で愛をくれる彼がそこにいる。 君にでも、君だけにでも、公正な正義を持つ彼がいる場所。 ようこそ《Asyl》へ。待っていたよ、おかえりなさい。 今吉探偵事務所、明日も長閑に看板出します。 珈琲ゼリーなんか、御茶請けに如何でしょうか。 |
初出:2013年9月26日 01:27
ここから一気に落とします。
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しのちゃんアリスさんありがとうでした!!
こうした助け合い精神は昔からの国民性なのだなぁと調べてて思いました。
20140109masai