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明治神宮競技大会。明治天皇の聖徳を敬い慕い、国民の心身ともの鍛練を、と長々説明したとして、結局のところ日本中の青年が全ての精神に則る訳でなく、地域予選突破の後に明治神宮外苑競技場へ一堂に会する。
誠凛大学籠球部の結果は、籠球という競技の性質上に地域予選が無く、伊月のパスから火神のアリウープが決勝点に繋がった。歓声や祝福の声の向こう、やさしく笑って拍手をくれた男は、伊月の前に黒子に視線をやったようだが、上品に、丁寧に、何をか。 今吉探偵と伊月助手と残酷な子供。前篇。 その日は真っ青な晴天で、体育館から出た直後に目が眩んで、鷲の目の使い過ぎで視界を真っ白に染めてあった伊月は呆然と立ち尽くし、幼馴染二人に手を引かれて、誠凛大学まで帰った。 明日は引退式をやって、新主将には降旗を、副主将には福田、会計に黒子を置く算段を上級生は既に決めてあって、なんて割と忙しなく秋の日は過ぎ去るようだが、もう稲穂の頭は垂れている。これからの厳しい冬に、今から伊月は唸る。 「こんにちはー。」 大方に部屋の出来た洋式の建物に帰路、伊月は立ち寄るのが習慣になっている。インバネスと学生服は下働きの男らに最初は良い顔をされなかった。最高学府に通う金持ちの道楽か、直接言われたこともある。 「あ、伊月さん!誠凛優勝おめでとうございまっす!」 「おう、高尾。秀徳も準優勝おめでとう。二年主将お疲れ。」 「ですよー。勘弁してほしいっすわまじー。」 建築屋を紹介してくれ、と言われれば、伊月は迷うことなく高尾の家を紹介する。伊月家の現在の派手すぎないしかし威圧感のある和装建築は高尾和成の父親の仕業だ。この建物の施工者も高尾の父であるが、現場は原田という若い男と息子の和成が仕切っている。尤も高尾は秋の競技大会に向けて連日の休職が続いたが、今朝からまた現場に復帰。 この場所は、半年前まで産院があった。しかし産婆が子供を買い取っては殺しと所謂貰い子殺しを繰り返し、そして事件が明るみになった折りに公に処理を行ったのが伊月俊だった。 結論として、伊月はここに孤児院を建てようと思った。伊月の家からそう遠く無く、下町にも程近い立地も気に入った。上流階級も下町も関係の無い求人募集には多くの職員が既に名前を連ねてあって、そこにも子供を亡くした母親や、子供を育てる場所の無い家や、また後援になりたいという半田家と水谷家もあったので遠慮なく伊月は甘えた。使える手段は全部使う。 「上がって下さい。土足オッケーなんで。」 「そうなの?」 「そのほうが誰でも入って遊びに来れるでしょ。部屋はもう全部床張り終ってるんで、原田さんが確認お願いしますって。」 内装も外装も全て高尾家がやった。伊月がやらせた。それはもう、『誰でも気軽に遊びに来れて場合によっては住めるような場所もあって遊べる部屋も休憩室も作って、でも用事の無いひとにはほんとに入れないようにして』と無茶振りにも程があったが、資金は華族が出してくれたし高尾家には優秀な眼を持つ跡取りもある。伊月と意見を擦り合わせつつも、なかなかに面白い建物が出来上がっている。 玄関を入れば正面に小部屋があって、ここでどんなひとが入館するか選別。廊下を行って左右に大部屋が幾つか。遊戯室、劇場、職員の休憩室には既に机が幾つか入ってあって、あ、と伊月の姿を確認したらしい女性の声がかかった。 「百園さん。」 「こんにちは伊月さん!昌美さんに言われて住まわせて貰ってます!」 天真爛漫を絵に描いたように彼女は笑う。休憩室から扉を繋げて仮眠室は二部屋。広さは三人ほどが不自由なく住める程度で、女性用は奥に、もう一部屋は廊下からも入れる。 「鍵は何種類ある?」 「三種類っすかね。仮眠室、休憩室、それ以外。伊月さんには三種類渡しときまっす。」 高尾はそうやって秀徳高等学校のマントのポケットを探って木製プレートに墨でどの鍵がどの部屋かと書かれて紐で繋がれた鍵を渡す。 「・・・ウォードか。いい仕事だ。」 「そっちは大坪系列の会社なんで、伝えときます。」 「頼んだ。あとは二階と高尾部屋だけど。」 二階は教壇の作られた教室が二部屋合って、資料室という名の本や道具置きが並ぶ。高尾部屋、とは高尾が一部屋を好きに作らせて貰った一室で、一階の階段手前にある。 「はいなー!」 「伊月さん吃驚なさるわ!」 百園も一緒に着いてきて、微妙な身長差に横目で見られた高尾はマントを捲り上げて頭の後ろに手を組んだ。階段の下には小さな物入れ。随分と偏った場所にその扉はあった。じゃく、っと錠の回る音と、若木が軽く、油の回ったばかりの蝶番が軽く廊下側に引かれる。伊月の目は点になった。 籠球のゴールはある。鑢の掛かった木で作られた箱は一見して箱だが、中で木々と棒が交差しており、ちょっとした迷路になっていた。余った木材で平面パズルは勿論の事、立体パズル、手のひらサイズの木枠と硝子の中には迷路と小さな金色の玉が入っている。 「これ・・・知育?」 すごい、と感嘆に声を漏らした伊月に、ぽんっ、と球体の木が投げられた。組み木パズルだ。 「籠球も出来ます。」 ボールはコルクを固めて糸で巻いたものだが、ほいせっ、とフリースロー距離は綺麗にリングをすり抜ける。ネットもゴールも全て高尾の手製だという。 「籠球人口増やしたいですし!蹴球のゴールもちっこいの作りましたけど、本命はこっち。そっちの組み木は迷路感覚で体動かして、パズルで頭動かして。どーですか?」 「おっ前!さいっこう!」 高尾に依頼してよかった、とこころからの感謝をこめて、得意気に笑った頭をぐしゃぐしゃに混ぜた。庭に遊び場を作ったとして、雨なら使えないし、足元の処理は大変だろう、と考えていた矢先に、一室俺にくれませんか、と高尾からの進言は父や原田からすれば成長の一環、伊月からすれば嬉しい誤算だった訳だ。 「二階はもっと本とか増やして、図書室みたいに出来たらいいな。」 「あ、黒子にお勧め聞いて来よう。百園さん、間宮さんから言伝はある?」 「いいえ特に。駄目だったらじゃんじゃん言っちゃえ、ってゆわれたんですけど、前の職場より動きやすいし、何より高尾さん部屋が楽しくって!」 「じゃあ、ちゃんと働きやすい場所にするように、俺は尽力だな。高尾、落成まで頼むよ。」 「あとは硝子入れるだけなんで!来週には落成式出来ますよ。」 女性用仮眠室だけは硝子も入って電気も水道も繋いで完全に住居として機能しているが、ここは様々な事情で子供が集まる場所だ。低い位置に作られた桟を、伊月は目を細めて撫ぜた。 私立今吉探偵事務所。帝都の一等地にある白亜の色が濃い建物は、入ってみればバロックとヴィクトリアを綺麗に混ぜたインテリアで客人を歓迎する。その分事務室は味気ない。 「こんばんはー!遅くなりました!」 「あ、月ちゃん。優勝おめでとさん。」 「・・・っ!」 事務室に一人で資料用の棚に凭れかかってラジオを聞きながらエレキテルの下で新聞を読んでいた今吉の言葉に、戦慄っと甘い痺れが駆け抜けた。ぶわりとその美しい黒髪が波打ったかと思えば、蕩けるような笑顔に自覚はあるのかないのか、インバネスをデスクに投げて、しなやかに伸びてきた腕を今吉は受け取って、そのまま腰を抱く。 「月ちゃん?」 「翔一さん・・・。」 吐息交じりに呼ぶ声が、薄いくちびるが淡く色付いて、頬は薄い桃色に上気した。 「月ちゃん。」 「翔一さん。翔一さん。」 「うん。」 「か、ったぁ・・・!」 因縁も背負った傷も絆も全部。 「皆で、勝てた・・・。」 泣きそうな顔で、うつくしく笑った美貌にくちびるを落としてやれば、胸元にくしゃりと新聞が抗議したようだが、肩口を握ってきた指先が、そろそろと掠れた袷に首筋に頤にかかって、頬を包んだ。 「翔一さん、ありがとう。」 「うん、月ちゃん、おめでとぉ。」 伊月俊は、明日三年間の青春をつぎ込んだ籠球部を、引退する。 ああ、夢が、終わった。 秋の遠い空に涼しい風にインバネスが揺れる。運動部連中は誰も彼も浮き足立って、風紀当番に朝の正門前に立たされた風紀委員は苦笑した。引退式は何故か先延ばしになった。どうやらまだ競技の続いている陸上や野球部連中の後輩と密かに手を組んでいるようだと土田が言った。 「文化部は?女学と合同で色々やるって。」 「お前らのお蔭さ。」 お前ら、とは十中八九、新年度の朝礼で宣誓を行って文字通り大会で優勝を?ぎ取った籠球部を指すのだろう。負けてられるかと各部活でも良い刺激になったのだ。 「そういや籠球の試合に陛下が御出でなさっていたって本当か?」 「さあね。」 仕合に夢中だったよ、と伊月は嘯いた。 「そこ、詰襟開け過ぎ。」 俯瞰の眼を持つ男は行き交う人波から注意項目から生徒を呼んで直させる。下級生は背筋を正してファスナーを上げると綺麗な角度で礼をして学び舎に入った。 「あ、伊月先輩。」 「ん?」 別段見逃していたつもりは無いが、風紀として仕事が無いので見送っていた表情少ない青年が立ち止まった。 「おはようございます。」 「おはよう。」 挨拶に挨拶を返し、伊月が風紀の腕章とチェック用の手帳を持っているのに、頭を下げた。 「後程。」 「ああ、部活無いからな。」 ある程度の自由は効く、と言外に言いやって、黒子が学び舎に入り、目元が真っ赤になっている降旗が伊月の姿を見て、あとから来た木吉と後輩を見てまた泣き出した。ちょっと後輩に甘え過ぎてたな、なんて木吉と笑い合って、予鈴を聞き届けて職員室に腕章と手帳を返しに寄って、医学部は朝から解剖だと水戸部に筆談で聞かされ、少なからず肩が落ちた。河原は最近やっと慣れた。 献体は骨だった。 骨学と骨の中の様子と、と用意された鋸や鐫といった大工道具のような用具で、目の前の大腿骨を、宮地が量産してくれた手袋を装着しての授業は始まる。 「・・・これ、おかしくない?」 全てに配られている大腿骨に、伊月は水戸部と河原の顔を見た。 「えっと・・・。」 「なんでこんな、大腿骨ばっかあんの。」 長さや重さや角度を測った結果、伊月の机に来たのは成人男性のそれで、水戸部は成人女性。河原には成人手前の男性の物が来た。教授は論文提出を言いつけるとそのまま地下の解剖室を出て、生徒は各々に骨を砕いている。慣れた様子であったり恐る恐るであったり、生徒の様子も様々だが、何かが妙だ、と。 ころん、と骨片が落ちたのを拾ったのは隣の席の下級生で、縦に割られた骨は随分と細くて。 「米原!」 「はいっ!い、伊月先輩・・・?」 呼ばれた事に背筋が伸びて、鋭い眼光に後退した彼と机の間に伊月は入る。水戸部を呼んで、共に調べた、長さ、太さ、骨密度。 「・・・米原、これ、誰の骨か、考えた・・・?」 解剖をやると大概誰かがやって見せる、壁に耳あり現象を、真っ先にやらかしたのは伊月の記憶が正しければ彼だった。死者の尊厳を壊していくこの授業は地下にある教室と性質を同じくして表裏一体だ。 「えっと、十歳の女性、あ、女児です。骨密度から、あまり裕福で無い家庭の子供であったと推測しております。」 「うん、俺も同意見。」 違う、問題はそこではない。 献体に来る死体の大概は、死刑執行されたのちの死刑囚か身元不明の行きずりだ。どちらも一度司法の手を受けて、この教室に来る。 「子供の・・・骨?」 河原が真っ青な顔色で、声を震わせながら呟く。 「い、伊月!こっちもだ!」 「伊月先輩、この骨短すぎます!」 「嘘だろ・・・。」 離席した生徒は便所に吐きに行ったらしい。忽ちに騒然となった教室に、伊月は勿論水戸部にも声は行って、河原が同輩に声を掛けに行く。 「こ、ども・・・。」 そういえば。 「孤児院・・・。」 今吉の我儘に付き合って降りる路面電車の道行、遠くの丘にあった赤い屋根のちいさな孤児院は。 「いなく、なった・・・?」 どうなったきり、で、あったろうか。 昼食に持たされた弁当を開く気になれなかったのは、きっとそんな思考の飽和が抜けきらなかったからで、ごっきんと鳴らされた手が、捻じ込みましょうか?と眼前に迫って伊月は我に返った。河原も水戸部もやられたらしい。もそもそと弁当を食べている。降旗は別の意味で泣きそうだ。 「ところで伊月先輩、今朝の続きなのですが。」 「ん、あ!なんかゆってたね。どうした?」 「少し調査をお願いしたいんです。今吉探偵さんに。」 「あー、依頼?」 「案件纏めは伊月先輩のお仕事でしょう?」 表面上はほんわりふかふかと干した布団に寝転がるような先輩後輩の和やかな会話だが、事の真相全てを知る者には薄ら寒いものがある。 「受ける受け無いは翔一さんの采配ね。一応聞くけど。」 「はい、実はですね。」 黒革の手帳を出して、籠球部連中から少しだけ離れる。 事の次第としては、黒子の行きつけに品揃えの良い本屋があるのだが、最近そこで盗みがあるのだという。売り物として並んでいる本をお金も出さずに盗んでいくとは言語道断です、とは黒子の言。 「盗みだったらお前でも対処してやれるんじゃない?」 「そんな訳にはいきません。見て下さいこの力瘤。」 「・・・ねーな。」 仕方ないなぁ、なんて伊月は笑って、そういえばそろそろ自分用に資料を数冊揃えたいというのも実はある。医学は本格的に進めそうだが、法律も心理学もと齧るのなら、授業までは無くとも教本は欲しい。今吉に甘え切りもなんだか癪に障る。 「ひゅーがぁー。今日は部活なーよなー?」 「国体終わるまでは自主練だな。」 「よし、そんじゃちょっと帰りに本屋連れてって、黒子。」 「・・・今吉さんに殺されませんかね。」 「そんな狭い了見のひとを俺が選ぶと思うかい?」 「知りませんよ、案外束縛気質を隠していたりして・・・。」 「やめて、想像しちゃった・・・。」 それでも満更でない自分は最早病気である。医者も草津の湯も匙を投げるとは納得だ。 そんな訳で放課後に伊月が訪れたのは、誠凛大学の教科書から純文学、漫画、古書、同人誌、何でも取り扱う棚が所狭しと並んだ商店街の片隅にある本屋だった。古書の棚に秀徳高等学校の教科書を見つけて伊月は迷いなく購入を決めた。他にも楽譜や絵本も並んであって、伊月は圧倒された。 「黒子?」 高い位置からの声に振り返ると、Schubertを手に緑間が立っていた。瞬間、空気が張り詰める。 「準優勝おめでとうございます、緑間君。」 「それは嫌味か、黒子。優勝おめでとうございます、伊月さん。」 「こっち振んな!」 来年は俺たちが勝つのだよ、いいえ来年も僕たちが貰います。云々かんぬん。好敵手として最も良い位置にいると言っていい二人だが、高尾がいなければどうにも捌ききれない言葉の応酬は淡々と続く。 「真太郎さん?お知り合い?」 本棚の向こうからの声に、みつるさん、と緑間が振り返る。 「あれ、伊月さん!?」 「どうも、御無沙汰しています。みつるさん。」 緑間の遠縁である緑間みつるは随分と久しぶりになる過去の想い人の登場に、あらぁ、と口元に手をやった。こちらはオペラの本を抱えてあった。 「今度の公演は門下生関係なく、オペラや色々しましょうかって。主催は緑間先生なんですけど、やっぱり。」 「先生はお元気?」 「今吉さんに紹介して頂いたお医者さまと相性良かったみたいで。」 「それはよかった。」 「礼を言います。まだ生きて貰わなくては困るので。」 「素直じゃないなぁ、真太郎さん。」 門下生が独り立ちするまで見守りたいのも師の特権であろう。激しい運動は禁じられているが、音を奏でるのはこころだと、今吉は言う。 「緑間くん、みつるさん、楽譜揃った?」 今度は管楽器のケースを背負った女性が現れて二人を呼んだ。 「篠野さん、揃いましたー!」 「篠野・・・?」 「東雲管弦楽団をご存知ですか?」 ああ、と伊月が得心したのは、その管弦楽団の演奏会が帝劇であった際に姉妹に引っ張られ、覚えた顔だったからだ。篠野覺太郎率いる東雲管弦楽団は、帝劇であったり地方で青空公演であったり軍隊慰安にも現れる。篠野瑩子は覺太郎の長女だ。 「どうも、篠野瑩子です。緑間門下のお知り合い?」 「伊月俊と申します。緑間統氏とは少々。緑間真太郎は後輩の旧友でして。」 「友人・・・だと。この俺が。」 「緑間君は基本籠球馬鹿の音楽馬鹿の阿呆ですから。」 「黒子ォっ。」 「はいはい、喧嘩しない。高尾じゃないんだから俺じゃお前ら捌けないっつの!」 てかここ邪魔だよな、と場所を移動しつつ本棚を物色。時折不自然に棚が開いているのを見つけると、件の、と黒子に耳打ちされる。緑間みつるも篠野瑩子も最初は黒子の存在に目を丸くした様子ではあった。やはり普段からの影の薄さは健在らしい。 「絵本・・・。」 後ろにいた篠野がぽつんと呟いて。 「絵本、ですか?」 「あ、いえね。以前に慰問した孤児院にね、音楽が好きって女の子がいてね。同じ年くらいなんだけど。親が無くって、その子も孤児だったの。」 「どこも親不足は深刻ですねぇ。」 早くに片親を亡くしているみつるは冗談めかして小首を傾げるように苦笑したが、そうだよな、と子育てに悩む母親向けの読本の背表紙を視線が滑る。 「それが、そこの孤児院、なんか急に無くなっちゃって。」 「は?」 「え?」 飛び交う疑問符に伊月が振り返って瞠目する。 「あ、伊月さんご存知です?下町の辺りにあったんです。」 「しって、ます。」 こんなところで情報が拾えるとは思わなかった。しかも一時とは言え出入りをしていた人間と。 「そうだ、黒子に本とか見繕って貰おうって、思ってて・・・。」 「ああ、伊月家の作った養護施設ですよね。孤児の受け入れや里親の募集、と。高尾から聞いているのだよ。来週に落成式だとか。」 「子供だけじゃなくって大人でも、無償で部屋貸したり考えてるけど・・・。」 最近失業率高いしさ、と。 「あ、そうだ!緑間くんとみつるちゃんと私で、そこの慰問なんてどう?落成のお祝いに!」 「いいですねぇ。」 「高尾にヴァイオリンをやらせるのだよ。」 「でも楽器って一日休むと三日戻るって言いませんか?」 籠球ばかりでピアノの腕は落ちていないか、と黒子の言外の心配を、緑間は鼻であしらって、定番の、人事は尽くしているからな。 「それ凄い嬉しいかも。あの施設の維持管理は俺の名前だから俺に言ってくれれば都合は幾らでも・・・。」 視界の隅を子供が歩く。絵本を見て、話しを繋ぐ黒子の脇をすり抜けて。 「黒子。」 「はい。」 総じて把握、と渡された本を黒子はしっかと抱き締め、会計に向かう。 「三ケ木さん、こんにちは。」 「あら、黒子さん、こんにちは。今日は先輩を連れてくると仰ってなかった?」 「この本はその先輩の物なので、領収書お願いしますね。」 「はいはい。」 万引き犯がうろつく店とは思えない温和さで若い彼女は領収書を切って黒子から金を受け取り精算。ありがとうございました、と親しげに笑う。音楽家三人にも同じように丁寧に対応して、ちゃり、と算盤の珠を玩ぶ。 「緑間君、暫く付き合って頂けますか。」 「伊月さんが帰ってくるまでか。」 「御聡明さは健在なようで感謝します。」 店先に出されてある長椅子に女性二人を休ませて、黒子と緑間は会計台の傍らに立ち読みや指先のイメージトレーニングと様々だ。 「盗まれる本は、ほんとに、安物なの。」 ぽつんと三ケ木は零した。 「誰かが持ってきたの。泥だらけで砂だらけ埃だらけで、そんなに全く売り物にならないくらいで。」 これもそう、と彼女が出してきた木箱は店先に十冊一銭で売られている本で、装丁は傷んで、頁も取れかけている。文字が読めないものは流石に処分した、と切なそうに彼女は表紙を撫ぜる。輝夜姫はぴかぴかに汚れた表紙に綺麗な十二単を着て笑っている。 笑っていた。 少年が走り去って、それを追いかけて、上等な革靴が踏み入ったのは廃屋となった孤児院だった。ぱきん、と落ちた硝子が靴の下で割れた。 《幸福な王子》《ナイチンゲールとばら》《わがままな巨人》《忠実な友だち》《非凡な打ち上げ花火》《灰かぶり姫》《宝島》《不思議の国のアリス》《鏡の国のアリス》《地下の国のアリス》《子供部屋のアリス》《ジャバウォックの詩》《スナーク狩り》 広い視野が見止めたタイトルはキリが無い。海外の物から国内の物から、とにかく薄汚れた絵本がぎゅっと詰められた本棚を目の前に、伊月は立ち尽くした。どれも読んだことがある。憧れた事もある。怖いと思った事もある。夢の凝縮されたその頁の数々に、伊月が出来る事は、絶句。それだけ。 手垢のついた、使う事で角が丸くなっていった背の低いちいさな本棚に、縋るように倒れ伏した少女は呼吸をしていなかった。げっそりと骨の出ている頬と細い首筋。古い着物が浮かんだ身体は下腹の皮膚が緩んで、脚も骨と皮だけ。嘔吐すら出来ない空洞になったくちびるは無くなって、眼窩も瞼が千切れてぽっかりと黒い空洞が出来ていた。 「鳥が食べた。」 徐々に骨になっていく様子を、少年はずっと見てきた。 「そしたら、誰かが骨持ってった。」 見捨てられた少年は、痩せ細った体に着物は着ているというより引っ掛けているような状態だ。 「俺らには墓も作れないんだ。」 酷く無表情に少年は言う。黒子のように意図して表情を消している訳でなく、花宮のように作るでもなく、ただ、誰にも相手にされずに独りで過ごすことは、表情を消して感情を殺してしまった。 「あやが、最期に幸福の王子が読みたいって。」 青年の顔が歪むのを、少年は不思議な気持ちで見ていた。読んでいたらいつの間にか息をしていなかった。温かい何かが体を覆って、ああ、と思った。本物じゃなかったけれどお母さんたちは、よくこうやって汚く汚れた自分たちを抱きしめて、お風呂行ってらっしゃい、と笑って、ああ。 「よく、頑張った。」 頭を撫でた大きな手に、少年はかっくりと、身体から力が抜ける音を聞いた。 「よぉ、来たぜ。」 悪辣に嗤った青年の出現に、はぁ、と伊月は息を吐いた。片膝を立てて座った脚を枕に少年は深く深く寝入っている。空は真っ赤に血を浴びるような夕焼けだ。きっと明日は雨が降る。 「黒子?」 「連絡はな。」 花宮が調べていた当時、ここは辛うじて家屋の形状を保ち、アーチ状になった天井の上に真っ赤な飾り瓦があったが、今は一欠けらとしてない。硝子は割れて、天窓に飾ってあったステンドグラスは持ち去られた痕跡があり、住んでいた人間は何者かに連れ去られた形跡があった。 百園さとはその中の一人だった。香港から売られたところで芙蓉の情報網に引っ掛かったようで、無事救出できたのは百園含め三人。間宮は元々近所から通勤してきた人間であったので、風邪に罹って寝込んだ数日後に出勤すると無人の様相に、警察に駆け込んで、事件は依頼として今吉探偵事務所が引き取った。現在は過去に勤務した孤児院を参考に、職員の方向性を定めて求人の面談をやっている。 「さっき、ここで演奏会した事あるってひとに、会って。」 「ふうん。」 パキン、と苦いチョコレイトの馨りが折られた衝撃で少女の遺体が転がる小部屋に広がった。 「奇縁、だなぁ。」 落成式に演奏会してくれるんだって、と少年の頭を撫ぜていた伊月の貌は、立てられている膝に埋められて見えない。 「ねえ花宮。」 知っていた。 どこまで知っていた。 呑気に情人と戯れて籠球に全身全霊で取り組んで、無事に日常の輪を外さない程度に過ごした日々の裏に、彼らは何を隠してきた。 「這い上がってこれたら教えてやるよ。」 少年の呼吸を確かめて、その軽すぎる体を抱え上げると、花宮は、そんじゃな、と夕闇に消えた。 「本、買い足そう・・・。」 影の薄い後輩の顔を思い浮かべ、伊月は多くの命を背負ったような体の重さによろめきながら立ち上がった。 ごめん。 少女の骨だけとなりつつある亡骸を見て、伊月は声が出せなかった。 涙も、流せなかった。 授業で砂になるまで研究され尽くした骨の欠片が、喉に張付くような、飲みにくい粉末状内服薬を飲まされた子供のような、子供のように、ただただ、言葉で表せない気持ち悪さに嗚咽した。 続く。 |
初出:2013年9月25日 21:08
今回はえっと、間宮さん百園さん続投、ついったフォロワさんから2名です!半田さんもお名前だけ出てきます。それでは、伊月助手、最後の秋の国体です。
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一八さんソラ太さんありがとうでした!!
秋の国体ってこういう風に出来てたのねーそして競技科目に籠球もあったのね既に!!ってなりまして導入はあんな感じで。
当時のあの国は富国強兵と追い付け欧米だったので、不自然なことではありませんが。
20140109masai