夜半に降り積もった雪で足場が埋まる。夏場は後藤の家が主催でガーデンパーティなども催すらしい、煉瓦と漆喰でしっかり作られている、今は華の無い薔薇に囲まれている屋敷に、騒然と、医者を呼びなさい、と聞き慣れた声音が響くのに、今吉は二重になっている扉の前までよれた袴を雪まみれにしながら足袋を水浸しにして、水気を吸った下駄が鼻緒が冷たい感触も忘れて走り寄った。
館の壁に面したそこは、暖められた屋敷に少しだけ雪が解けていた。 今吉探偵と伊月助手と薔薇の男。後篇。 壁に飾られた絵画は宗教画は一切に無く、男色を揶揄したルネサンス期の油彩の模写が少し不気味だった。肌色の多い絵画への興奮材料は様々だろう。 そして、ジョアッキーノ・ジャンニーニ、通称ヨアヒム爺さんの完全なる死亡を、脈拍や瞳孔、死亡推定時刻は寝入った直後、と弾き出した伊月は学生服に着替えたが、セツカに責め立てられるような眼で見つめられた。 「あなたがやったんでしょう?」 その言葉は仕方が無かった。ヨアヒムは自室に鍵を掛けてあり、予備の鍵も机の引き出しに在った。窓も全て鍵が掛けられカーテンが降ろされ、中で何があったか、知ることが出来るのは、出来たのは、伊月だけであったのだから。 ヨアヒムの死因は背中から刃物を突き立てられた傷が肺に達しての失血死であろうな、と伊月は手帳を開いて書き記す。全く厄介なことをしてくれた。刃物の柄は布団の中に在った。 同衾し、そのまま眠ってしまった伊月は勧められるまま、ブランデーの垂らされたココアを受け取っており、横になってすぐ寝入った。髪を肌を撫でた手が、暖かかった。Kei schönes Kind Katze、と囁かれた声に、意味が違いますよね、と微かに応えた覚えがある。そこから夢を覚えない伊月は見事に嵌められた。起きた時、抱き合う恰好であった伊月の手は刃物の柄に掛かってあった。布団を一度捲ってそのまま狙って一突き。そうして伊月の手を伸ばさせた。 「味わえるもんだな、被疑者の気分。」 今度から接し方や言葉に気を付けよう、と椅子に片膝を抱えた。 「月ちゃん!?何この騒ぎ!」 「翔一さん、お医者様の邪魔になりますから、そこ。入って下さい。」 戸板を担架の代わりに、その変死体は運ばれ、遺言により土葬だそうである。セツカとカロルは祖父の部屋に居り、邦夫とドーリスは葬儀の準備、チーロは二日酔い。セツカの母親であるジョアッキーノ・ジャンニーニの長女は体調が優れずこの度の集まりには参加しなかったらしい。 「そうか、亡くならはったん。」 中折れ帽を取って、まだベッドに居る遺体に今吉は頭を下げた。 「死因は?」 「出血多量です。俺の見立てでは。」 「他殺か。」 「他殺です。俺の見立てでは。」 「月ちゃん、どないしたん。」 「この部屋、密室だったんですよ。」 流石にその言葉に今吉は絶句した。 「報告までに、ですが。扉は施錠されてまして、ここは二階です。窓も施錠されてました。換気口は存在しますが、鼠と猫が追いかけっこ出来るくらいでしょうね、幅としましては。」 部屋に飾られた絵画は大小あるが、どれもホモセクシャルの揶揄や皮肉を描いており、なんだか居心地が悪い。 「先ほど、咄嗟に時間を見ましたが、俺が起きたのは午前九時。死後八時間程度。この気温でこの室温ですから多少の誤差は見逃して下さい。凶器はどこででも手に入る包丁、因みに俺の指紋付です。質問は。」 「起きてから真っ先にした事は?」 「ここはどこだって思う事ですね。」 「安定の低血圧やな・・・。」 「それはどうも。」 医師の見分が終わって、駐在の警官が到着。監督の下、死亡届が記されて、これで棺桶と坊主が揃えば家族葬での葬儀は完了する。完了してしまう。 「で、第一発見者及び重要参考人俺の出来上がりです。家の権力振りかざして着替えだけは済ませました。」 「英断。」 「どうも。」 短い謝辞で伊月は応じたが、その横顔は一気に今吉に事の次第を吐き出すと同時、体温や笑顔を思い出したのか、憂いを帯びて泣きそうに切れ長の目の眦が下がった。 「なんで、こんな。」 「シュンは優しいね。」 カロルが髪を撫でようとした手を今吉が振り払えば、おいおい、と口元が引き攣ったが、その眼光に怯んだらしかった。一度面識あれど、にこにこといつも笑っている男からこんなにも獰猛な気配を感じるとは考えもしなかった。 「日本人は二面性凄いん、知ってた?」 「勉強になったよ。」 こころを読んだような今吉の言葉に、そう、肩を竦めてカロルはどこかシニカルに笑い、ソファを陣取った。 「お祖父さまを殺したのは伊月さまでよいのかしら?」 「節佳さん、どないな意味やろ、それ。」 「ジャンニーニの弁護士に面識はおあり?」 「ある。」 あら、とセツカは目を瞬き、洋装のドレスの裾をゆったりと捌いた。祖父の遺体が部屋から出ていくのを見守って、嘆息。残ったのは血痕の遺るベッドと広い部屋だけだった。 「ヨアヒム、ジョアッキーノお祖父さまは、遺書を書いておられたの。毎年の大晦日に新しく。全て内容は同じよ。死ぬ直前に床を共にした相手に全財産を譲る。これだけ。財産分与もあったものじゃぁないわ。」 案外無粋な生き方をしているなぁ、と伊月は思ったが、口には出さない。下手に喋らないほうが良いだろう。 「全財産ってどのくらいや。この屋敷は、勿論やろ、向こう、伊太利に残してあったもんも?」 「そうなるんじゃなくって?」 「弁護士は呼べるか?」 Mutterが電話していたよ、とカロルの言葉はどこか投げやりで、カーテンを退けた銀色に輝く庭を見下ろしていた。 「俊、おいで。」 すっかり俯いていた伊月が貌を見せると、困ったように笑う今吉が居て、延べられた手に手を重ねると、随分と自分の手が冷たいのに気が付いた。 「見て、外。真っ白や。」 「・・・積もりましたね。」 時折ちょろちょろと木に拵えられてある木箱に小さな獣が入ったのは栗鼠だろうか。この屋敷は大きなラテン十字の形をしていて、短い縦線に玄関ホール。横線部分に玄関から入って左手に客間、右手に主の部屋と発電機。そうして奥には広いダイニングと廊下を抜ければ茶室や和室、ビリヤード場など遊技場もある。それを楕円の形で薔薇の園が囲むのだ。ここにもヨアヒムの日本フリークは発揮されていて、大きく四つに分けられた庭には、茶室の方面からは春の園、桜が数種類に渡って植えられ、遊技場から外に出れば泳ぐことも可能な池と木陰に丁度いい常緑樹。玄関の周りは主に薔薇だが、主の部屋からは梅の木、客間からは銀杏が見える。 「雪って、ほんと、静まり返るんですね・・・。」 窓の桟に小鳥がぱたぱたとやってきて、硝子を突くと飛び立った。午前十一時きっかりの鐘が鳴った。パチンと鍵を跳ね、窓を開け放ったのは今吉の仕業で、寒い!と伊月に叫ばれた。 「氷柱も見事に・・・。」 窓の下を誰も通らないので、軍手をした手で叩き折り落としていく。鋭い先端が一階部分を半分埋めた雪に埋まる。 「この下の部屋は確か使用人やったな。」 「そうだよ。」 「あ、あと暖炉ですよね。」 窓閉めて、さむい、なんでもゆうこときくから、と伊月の哀願じみた声に、やっと窓は閉ざされた。はいはい、とトンビを貸してやれば、羽織って安心したように笑う。 「見取り図作っておいで、月ちゃん。」 「おい、シュンが好き放題屋敷を駆け回るってのは・・・。」 「そんなことしないでも出来ます。」 廊下にいた警官に胡乱気に見られながら、伊月は自分に与えられている部屋のテーブルに紙を広く広げ、鉛筆と物差しでシャ、シャ、と暫し待てば直ぐ、それは完成した。縮尺も完璧な屋敷内見取り図は空白は多いが、それは伊月が見て来なかっただけで、部屋の広さや今吉の言葉でそれぞれ書き込む。茶室へのあの仄暗い廊下の長さを着いてきたカロルは初めて知った。 「歩いた感覚からすると、この下に地下・・・ワインセラーだと思います。ここから使用人用の出入り口があって・・・。」 窓から見ただけの情報が的確に書き込まれて。使用人名簿があればいいんだけど、と伊月のぼやきに今吉が部屋を出た。 「凄いな、俺もここまで知らなかった。」 「えっ。」 「年に一度しかここには来ないから。」 「他の御親戚も、ですか?」 「いや、俺以外は知らない。クニオさんは結構来るそうだけれど。」 セツカは年末からこの娯楽の無い場所にいるらしいが、遺書の事を知っているという事は。 「失礼ですがカロルさん。ヨアヒムさんの遺書に関しては。」 あああれ、とカロルは苦笑したようだ。遠慮勝ちに伊月は鉛筆をテーブルに置いた。ノックの音に振り返ると、宇治川女中が珈琲を持ってきた。ミルクと砂糖を落とし込んで混ぜながら表面温度を落とす。 「俺は遺産は興味ないんだ。可愛い子がいればそれでいい。お金じゃ薔薇色の人生は買えないさ。」 「買えますよ、美女も人生も。」 熱の無い伊月の声に、カロルは背凭れに体を預けてあった身を起こし、その怜悧な美貌を真っ直ぐに見て、黒曜石色の瞳に貫かれた心地だった。 「精々、そうですね。経験は買えませんが。」 「経験?経験するための金だろう?」 「労働、という経験が買えません。」 例えば、と伊月は前置いて。 「美女を買う、美女に愛して貰うことを買う、と考えます。」 手帳を開いて書き記す。綺麗な文字だな、とその走り書きをカロルは臆面なく誉める。 「なら、その美女と出会って恋して愛して貰うための努力、労力ですね。これが手に入りません。恋を告げてそこで恋愛を愉しむこころは手に入りません。」 「なるほど。」 「大金を手に入れる。これもまあ経験と言えば経験ですが、汗水垂らして働いた金を貯蓄して、欲しいものを手に入れる。この一連の経験の中で何が手に入ると思います?集団での仕事であるなら間違いなく仲間との情がありますよ。」 「シュンは誠実だな。」 万年筆で走り書きめいた図を描きながらのその感嘆めいた感想に、どうも、と伊月はちいさく笑んだ。 「月ちゃん、名簿揃ったで。」 「はい、翔一さんありがとうございます。珈琲頂いてますよ。やっぱ冷えますし。」 ぺた、と頬に手を当ててやって、ほら冷えてる、と伊月は悪戯しく笑う。伊太利男の影響を地味に受けている伊月に、今吉は苦笑し、おおきに、と耳元で囁けば、ひゃい、と奇声を上げて飛び退った。頭脳は早熟であっても身体はまだまだ未熟である。 「寝入ったんいつごろ?」 「午前二時です。宇治川さんが翔一さんの連絡持って来て下さったんで。」 「・・・ほーか。」 あっそうなると死亡推定時刻が、と手帳に書き記す伊月の傍、ずず、と音を立てて珈琲を啜るのに、行儀悪いですね、と伊月が目を眇める日常に今吉は密かに笑った。昼食の呼び声に、伊月は警察の指示の下、独りで客間で食べた。どんな話題が出るかは解らないが、カロルは伊月に寄った言葉を選んでくれるだろうし、今吉はもともと伊月の側だ。 「密室、なぁ。」 娯楽で読んだことはあったが、まさか直接お目に掛かれるとは思っていなかった伊月は、宇治川女中が、言葉少なく膳を下げるのを眺めながら、ベッドに横になった。天井の文様を暫し眺めていたが、呼吸を深く、飛び起きる。 「よし、現場百回!」 警察に許可を貰って、現場を触らない条件付きでヨアヒムの部屋に入れて貰ったが、結局得られるものはヨアヒムがどんな態勢で寝入ってどの角度で背中を刺されたのかしか解る事は無い。この角度なら確かに稚児扱いの伊月の仕業だと思うだろうが。 「密室っちゅー条件が無かったら、これ明らかに月ちゃん以外の犯行やん。」 「ですよね。」 試に今吉に抱き着いたところ、抱きすくめられれば、肺より下の位置に伊月の腕が来る。呼吸不全に犯人に抱き着く人間心理とは何だ。 「さて月ちゃん、ちっと内緒話しょーか。」 目の前で濃密に接吻した男同士に、警察官は逃げたが、伊月はがっしりと腰を抱かれながらも手で今吉の口を覆ってあった。その視線は、ふざけんのもいい加減にしさらせください、と物語る。 「月ちゃんがこっち到着したんは?」 指の股を舐められ、ぞわっ、と全身が総毛立った。角度の問題とはいえ濡れ場を見せておいてよかった。 「昨夜、というより夕刻ですね。六時を過ぎたと思います。その後夕食、食後に茶室にお邪魔しました。」 「ええこと教えたろ。」 にんまりと実に胡散臭く笑った今吉に、伊月は姿勢を正して上目遣いに手帳と万年筆を携える。 「ワシが今日こっちに到着するて電話したん、七時前や。」 「っ、通話記録!」 「これ。」 「ありがとうございます!」 今吉が独自の人脈を駆使して手に入れた通話記録は先ほど郵便配達員が届けてくれたもので、確かに昨夜午後七時前、今吉探偵事務所から電話が入っている。夜遅くに業者との遣り取りがあったようだが、今吉は伊月の電話から折り返すようにして連絡している。 「さー、どっからやっつける?カロルのにーちゃんは月ちゃん懐柔済みやで。何したん?」 「どこの国でも精神論はこころに打てば響くんですよ。見取り図の空白埋めます。」 ぱたぱたぱたと廊下を小走りに、見取り図を丸めて廊下に出れば、カロルが気軽に手を振って寄越した。 「手伝おうか?」 「よろしく!」 差し出した拳に二回ノックされたので、真似ればこんと上に弾かれ、手が組み合わさった。 「発電室発電室。」 使用人室から鍵を拝借してきて開けた一室は、蓄電器もあり、様々なコードを床にのたくらせてあった。薄暗い部屋に扉があって、手を掛けると明るい部屋に出た。 「へっ。」 「あれ、ヨアヒム爺さんの部屋やんけ。扉なんぞ・・・。」 あったか、と今吉は回り込んで息を呑んだ。絵画だ。高さのある絵画が扉として設えられてあった。 「見つけた!」 そのまま伊月は部屋を横切り、窓の横、正方形に近い絵画を、額縁を確認して外した。手は防寒に使う物とは別の白い手袋をしてあった。 「おかしいと思ったんです!雪国の屋敷と言うのは一階が埋まった際にも出入りが可能であるように二階にも扉を作る!ここです!」 エレキテルに焼けた壁紙と新しいままの色の壁紙に、扉は確かに現れた。 「でも、外から扉は見えなかったよ!」 「外は外でもっ。」 ギ、と重く扉が軋む。おもい、と呻いたのをカロルが手伝った。そして、扉が軽くなった衝撃と、ガシャン、と硝子の割れる音は同時だった。 扉が開かれて吹きさらしになったそこは、玄関ホールの上部、鱗屋根の上に作られたバルコニーで、手摺が途切れた場所からは階段が作られ、一階の使用人詰所まで、客人からは見えない設計で作られてあった。 「このっ!」 ちらほらと雪の舞う中、伊月は膝をついて奥歯を噛んだ。砂を噛むような気分だ。そこには瓶が幾つも転がり衝撃で割れた物もある。外開きの扉では密室は破られず、他の客間には外に続く扉は無かった。誰かの出入りがあればこんな風には瓶は散らからない。 「畜生、って叫びたい・・・。」 夕食のポトフを頂きながら、行儀の悪い事、誰も見ていないのをいいことに、伊月は冬期休暇の課題も片付け、残りは医学部の研究報告書提出のみとなった。何を選ぶか、考えるうちにぼんやりと、死に顔が蘇ってきて首を振る。一度見た物を完璧に記憶する脳を生まれ持った弊害か、この度は眼前で死に顔があった事にも頭を抱えたい。 「ヨアヒムさんの、ばーか。」 かつ、と用紙に万年筆の先から黒いインクが広がるのに、戦慄りと胸の中を駆け廻った高揚に、椅子が倒れた。 「そーか四面楚歌か紙面では!キっタコレ!!」 室内の騒ぎに警官が来たが、ひょこっと今吉も顔を出す。 「翔一さん、昨夜チーロさんが飲み明かしたワインがどのくらいか!」 「軽く二十本はあったね。あの酔いどれめ。」 揶揄のようにカロルは笑ったが、は、と瞠目した。 「さっきの瓶、エチケットが全て剥されてたんです!確認お願いします!セラーと照らし合わせて!」 あと、と声を潜めた様子に今吉が人を払う。宇治川さんは信用できません、と同意見が耳に転がってきて、よっしゃ、とその綺麗な黒髪はくしゃくしゃに撫でられ乱れたが、ゆるりと頭を揺れば、また美しく真珠色の天使の輪が描かれる。 「アリバイの確認が遅れてすまないな。俺の家はずっと親父の酔っ払いの面倒を見ていた。この家に来るとずっとそうだ。ゴトウのほうはビリヤードを愉しんだ後に三人とも就寝。確認が取れないのは風呂の時間だけだが、全員八時から九時には入浴、就寝だ。」 「ありがとうカロル。カロルも狩ろう、はなんか縁起悪いから、カロルは家老にでもなるか、いい働きだ。」 「やあ、QueenJames?」 「投げられたいか。昨夜チーロさんが飲んでいた銘柄が解れば有難い。」 「書いてしまおう、手帳を借りても?」 「頼む。」 綺麗に銘柄と年式が書き込まれた種類は十に及んだが、それぞれ二本ずつ飲んだと単純計算すればそんなに量は無い。この年の物は豊潤で、この年の物は少しアルコール成分が低い、エンブレムがここの銘柄は特殊だよ、と講釈を受けたが、生憎ながら一般教養として覚えられる範囲で覚えさせてもらった。 「毎年、こんなにも飲む?」 「ここは揃っているからね。あと、熟成具合がいいとメイドの宇治川が運んできてくれたんだ。」 「彼女はここで何年?」 そうだな、とカロルは気障に顎を摘まむが見目が良いので実に画になる。 「俺より五つほど下だったかな。幼い頃から祖父さんが気に入って、親子ともどもここで働いている。昔はこの辺りで農家をしていたと聞いたよ。」 強気な黒曜石色の瞳にカロルは一瞬見惚れたが、薄いくちびるが弧を描いたのが、酷く妖艶で、獰猛だ。獲物を狙う猛禽の姿を連想した。 「Danke, es hat mir geholfen. Sie genug geholfen.」 「Gern geschehen.まさか。」 「上手く誘導してくれると助かるな。」 俄かに警官の動きが慌ただしくなって、今吉がのんびりと階段を上がって来たのに、駐在所の署長が寒さで無く圧力に震えながら、警備はもういい、と震えた声で命じた。 「諏佐さん!」 「よお、伊月!遺体は氷にぶっ込んで解剖室入れといたからな。無念晴らしてやれよ。」 「うわぁ。俺の仕事ですかそれ・・・。」 まさかの本店から来た警察に、田舎の警官はすごすごと居きり上がって鼻息荒くしていた出鼻を挫かれた。そして駅から同行してきたのは、赤司財閥で末端を担う弁護士だ。 「村上さん、御無沙汰してます。」 「二度と関わりたくありませんでした、伊月様。」 爽やかく笑ってくれたが言い様は随分辛辣である。生憎俺もです、と笑った伊月も大概だ。 「ジャンニーニ氏の遺書は私が預かっております。お任せください。そちらはお孫さんのカルロ様でしたか。ダイニングのほうにご家族で揃って下さると助かります。」 丁寧にお辞儀されて、伊月と視線がぶつかった折り、カロルはどうするべきだか迷ったようだが。 「カロルのお祖父様の言葉の代行者だ。行ってくるといい。それでも俺がヨアヒムさんを殺したと言われるのなら、逆に本望だよ。」 酷く寂しそうに笑った伊月は、今吉と諏佐を伴って階段を下りた。玄関ホールにもたついていた警官隊が、逃げるように出て行った。暖炉の前に伊月は立ち止まる。 「ここで、ヨアヒムさんにお会いしました。」 「さようか。」 そして視線を脇の扉に。二重に作られた出入り口は、外に出る扉の他に、使用人の詰所へ続く扉がある。 「諏佐さんは聞いてくれていればいいんで。」 「解った。」 暗い廊下を歩きながら、ストーブに目をやれば、煌煌と石炭が燃えてあり、時折隙間風がある。 「宇治川さん、今、大丈夫ですか?」 年頃の娘と運転手は同じ部屋で暮らしている。伊月はここで推測を確信した。先ほどまで下山し買物して来た宇治川の娘は、まだ着替えの途中であったが、遠慮なく扉を開いた伊月の前でセーターを被り直し、きゃ、と短く悲鳴を上げた。 「申し訳ありません、少し着替える時間を。」 「残念ながら、その時間が惜しい。」 普段の伊月からは想像できない乱暴なやり方に諏佐が眉を寄せたが、ええねん、と今吉が宥めた。お前な、とやり返そうとしたところ、いつもの胡散臭い笑みで無く、深刻に目を眇めた貌に出会った。 「もう、お芝居は必要ないよ、宇治川君?」 「えっ。」 耀き翻ったナイフは一閃、その粗末なセーターを引き裂いた。肌に掠る事も無かった刃物は、綺麗に服だけ切り裂いたのを、宇治川は座り込んで掻き合わせた。 「おや、思ったより柔軟で吃驚しました。」 床にぺたりと座り込む女中はかたかたと、純然成る恐怖で震え、上等な革靴を滲む視界で見て、スラックスに上等なセーターを着た青年を見上げる。 「何を、なさるの、伊月さま・・・!」 「はいそれ、俺の質問!」 がん、と壁を殴った伊月の所業に、その違和感に、は、と諏佐が手を腰の裏に回した。拳銃も手錠も持っている。生憎サーベルは車の中だが。 「ここに、遺書の写しがある。」 本当は駄目なんですけど、と村上が今吉に寄越したそれは、伊月は階段を下ってくる際に読破して、歪んだ殺意に泣きそうになった涙を暖炉で乾かしたところだった、のに。 「なんで、殺した!そんなに金が欲しかったか!!」 血を吐くような叫びと共に、稚児と揶揄された青年は、髪を結い上げていない細い肩を掴む。 「遺書の中身をお前は知らなかった。」 「し、しらな・・・っ!」 「知らなかっただろうさ!だから殺した!!」 その遺書の一文、遺産相続者の欄には宇治川の名前は勿論ない。突き付けられた文書に宇治川は呆気に取られ、え、と声を引き攣らせた。胸倉を掴まれたが抵抗はしなかった。滑らかな、痩せた白い肌に。 「お、とこ・・・?」 「遺書の内容を、血縁はこう言った。最後に夜を共にした相手に譲る。が、例外がある。花宮と、事実上花宮の代行である俺。これは財産分与対象には含まれないと明記されている!これは遺書を見るまで誰も知らない。」 「おい!どういう事だ!」 「犯人はこいつ、っちゅーこと。」 へら、と今吉は風体を崩す。伊月は宇治川を睨み降ろし、奥歯を噛んで俯いた。 「あの部屋は、絵画で隠した扉があるんです。」 ずるりと壁に寄り掛かる形で宇治川は座り込んだ。寝入った隙を刃物で刺し殺し、伊月の仕業のように見せかけた。殺人容疑だけでなく財産目当ての動機もきちんと位置付けて。外に出てから瓶を重ね、出れば倒れるようにしてしまえば、密室は完成してしまう。あの扉に気が付かなければ。瓶はあのまま雪を始め風雨に晒され、朽ちるまま、回収の日まであの場所に置いておく風体にしておくがいい。 「そこの出入りを許されるのは、俺でも花宮でも在りあえない。仮にも客人です。稚児であろうとなかろうと。そこで、俺は今朝見ちゃったわけです、着替えの際に。まるで男の恰好で出ていく後姿の宇治川さんを。別人かと思いましたよ、勿論ね。今ここで出会うまで。」 後ろ襟を引けば白い肌が顕わになって、ふくらみの無い乳房もシャツの袷やズボンの前立てが目立つ服装は。 「諏佐さん、このひと身体検査と指紋採取を。調査は宮地陸軍准尉に任せます。彼は何があろうと、きっと中立を貫きますから。」 ふひっ、と下品な笑いを零したのは宇治川だ。 「いーよ、白状が欲しいんだろ。」 立ち上がって、伊月と視線を合わせるように胸倉を掴んでくる手を、甘んじて受けた様子に、今吉は手を貸してやらなかった。 「カネなんて、別に興味ねーよ。」 「・・・えっ。」 はた、と扇形の睫毛が上下し、切れ長の目が見開かれた。 「ひゃははっ、伊月さまったらおもしろぉい。この展開じゃなかったら惚れてたわぁ。誰もがカネが欲しいと思うなよ。金持ちの思想だ。」 肌蹴た服も露見した性別もどうでも良さそうに、宇治川は見事な様変わりを見せると、伊月に詰め寄り地団駄のように粗末な靴で何度も床を叩く。 「あの爺はよぉ、静かに農業してた私達父子を雇って下さっただけじゃなくってぇ、俺を組み敷いたんだよ、解る?なぁんもしらない農家の息子だぜ?強姦されて夜伽に呼ばれるたび泣いたさ!!」 「情状酌量の余地はあり、かな。」 熱の無い声が薄いくちびるから発された。 「俺も昨夜は驚いた。押し倒されはしなかったけど脱がされたしな。」 「月ちゃん。」 「不貞は働いておりませんので悪しからず。」 「あんたは元が稚児かよ。」 吐き捨てるように宇治川は言い、伊月の頬を、警官の手前殴らずにぺちぺちと叩き玩ぶ。 「そこで折れた、泣いたお前がばかだろう?」 その黒曜石色の瞳は、昨夜の慈しむような体温を思い出し、涙に揺れた。 「お前には第二次性徴が認められないな。」 薄い胸板に骨の出た脇腹。片袖を抜かれたが脇や腕は女にも見えず、子供のまま成長している。そのまま運良く女の恰好で給仕をしたのだろう、そして女中として認識されていた。それでも若い男の熱を欲する老獪の手に、何も言わずに泣いたのだ。そして。 「男の矜持がそんなに大事か?」 「俺は宇治川の長男だ。わかるか、執事の服には丈が足りずに村人にもいつまでも子供のようだ、剰え女のようだと言われる、俺が!」 「茶道華道薙刀、女の技なら俺も持ってる。顔もこんなだ。髪を伸ばせば女だと間違えられる。俺もな!」 ぎりと強く骨が軋む音に、今吉が手を伸ばし、伊月の指を解いた。 「双方の言い分は、よう解った。」 「翔一さん、・・・ごめんなさい。」 何に対する謝罪か、気にするのは後でいい。 「宇治川アキ、本名明。犯行自供と取る。」 カシャン、と手錠の音は、その薄暗い廊下に随分響いた。 「多分、ヨアヒムさん、近いうちにお前を呼ぶつもりだったぞ。」 どこに、とは言わずに察したようで、宇治川は瞠目した。美しく耀く黒髪の、乱れた個所は指を通せば直って真珠色に耀く天使の輪を、呆然と宇治川は見上げた。白い肌に黒曜石色の瞳が美しいと、賛辞を廊下で聞いた。宇治川は少し光彩が茶色くて、琥珀石が住んでいるようだね、と言われたことがある。 果たして憎しみだけだったか、それは宇治川だけが知る。愛憎は表裏一体だと、教えてくれたのはジョアッキーノ・ジャンニーニに他ならない。 「こいつはもう本店で取り調べるか。伊月、お前も参考人だからな。」 「解ってますよ。あと死因の正確特定と、凶器の指紋検出、は宮地さんに頼むとして、あーも。」 休暇が休暇じゃない、と頭を抱える伊月は宇治川の部屋から服を持って来て、乱暴に着せ替える際、手錠を一度外させた。 「俺も長男だ。でも、実家は義理の兄さんに継いでもらう。お前は先を殺す前に、考えるべきだった。過去に縛られず、寧ろ取り入って良かったんだ。」 遺書の写しを見せて貰えば、やはりそこに宇治川の名前は無い。おそらく財産分与には、一切が宇治川の手に渡る筈だったヨアヒムの計略は、宇治川の手で阻止されてしまった。 「また、帝都で会おう。」 そのまま伊月は今吉と共に、帝都に帰った。路面電車で私立今吉探偵事務所に帰る頃には日は落ちて、扉を閉めて珍しく伊月から接吻けてみれば、そのまま事務仕事の積もった面談室には立ち寄らず、書類の積もった事務室を渡って、階段でまた立ち止まって何も語らず交わしたくちびるに密やかに艶の吐息を零す。ベッドに縺れ込むまで、あと三分。 愛も恋も金も憎しみも、こころに秘めた猟奇も殺意も。 「翔一さん、・・・。」 「月ちゃん。」 語らず、夜に沈むだけ。 一晩でも、何も言わずに抱き合う夜があっても良い。 老獪の愛が遺した遣り方は、酷く残酷で、優しかった。泣き出した伊月に何も言わず、今吉は名前を呼んで、涙を拭って、いつかは殺される覚悟を探る。 「月ちゃん。」 そうやって呼ばう声音は、熱に濡れて、何より甘い。 今吉探偵事務所、明日も長閑に通常運転。 書類が減らない、と所長共々助手が頭を抱えていますが自業自得です。 |
初出:2014年1月6日 20:45
もっとぎっちぎちに閉じ込めたればよかった。
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この時代の暖房器具って?と試行錯誤した記憶があります。
20140421masai