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自分に被さる男の腕が不自然に固く、振り返った寝顔が薄く目を見開いていて、その瞳孔が完全に開き切っているのに、伊月は戦慄っと背筋が冷えた。
「え、ちょっと・・・。」 普段の朝の弱さをこれほど憎むことも、ない。 その男の体温は既に喪われ、深夜に呼吸の音がしていた薄く開いた口からは一筋、乾いた血が落ちていた。 時間は暫し、遡る。 今吉探偵と伊月助手と薔薇の男。前篇。 その手紙は少々拙い、なんというか、書き慣れないものを書いた、とばかりの筆跡はバランス悪くも今吉探偵事務所に郵便物として、その宛名は意識を凝らせばきちんと読み取ることが出来た。配達員も、間違いありませんか、と宛名や差出人の確認を三度ほど。 あらま、と今吉が目を丸くしたのに、伊月は首を傾げて覗き込んだ。大学は冬期休暇であり、花宮は年末の騒動から寝る間もなく本業に走っているが故、私立今吉探偵事務所での事務仕事分配は自然と増える。 「今月は多めに出させて貰うわ。」 「翔一さんといる時間とお給金が増えて一石二鳥ですね。」 苦笑した今吉に伊月はそうやり返したのは元旦だった。 「ど、どなたです?」 リターンアドレスはこれもバランスの悪い日本語であったが、差出人の名前は《Gioacchino Giannini》と明らかに外国人の名前だった。バランスの悪い、今にも片仮名のハと平仮名のうに分離しそうな《今》の字を、半ば納得したように伊月は読み返し、ペーパーナイフを取り出した今吉が中身を綴る外国語に、あちゃぁ、とぼさぼさの黒髪を掻いた。 「どなたです?守秘義務ありですか?」 「別にええがな。ジョアッキーノ・ジャンニーニ。伊太利人や。」 「じょあっきーの。」 「毎年同じ依頼でくれはんの。まこっちゃん本業で不在や・・・どないしょ。」 「花宮に?」 「まあまあ変わったおっちゃんで。じーさんやけど。」 今回はお断りに連絡せなあかんかな、と今吉がごちるのに、はい、と伊月は挙手して見せた。 「花宮しか受けられないご依頼ですか?」 すると、ううんと考え込むような唸り声を発した今吉が、冬場に綺麗な鉄紺のスリーピースのベスト姿の伊月を爪先から毛先まで見やるように顔を向けて来るので凛と背筋が伸びた。 「ふむ。」 極東人種の真黒の髪は生来にして磨かれ真珠色の天使の輪が浮かび、日に焼けない白い肌に黒曜石色の瞳。爪は綺麗な桜色。育ちもよく礼儀も心得てある。線は細いが多少の武道の嗜みもあるため、骨の細い痩身にして痩躯は鍛えられており、無駄な肉も無く白いシャツから覗く手首から指先は籠球に繰り返した突き指などで多少骨ばっているが柔軟な筋肉が緻密に出来ている。 「月ちゃん、よし、面接だけでも受けてみて。」 「はい。話窺う限り常連の方ですもんね、受けておいたほうがいいですよ。」 にこりと美しく笑った伊月だが、直後苦虫を噛み潰し無理矢理飲み込んだような今吉の顔に、きょとんと、切れ長の目を静かに瞬かせて首を傾げた。 翌日に指定されたカフェーは上流の客が寛ぐサロンの側面もある、老舗の洋風のホテルだった。インバネスを羽織って学生服で訪れれば、豪奢なシャンデリアに煉瓦と漆喰で拵えた壁の際には栗色のゆったりしたソファと黄金色に磨かれた飴色のテーブルは一対一で会話するのに適しているだろう、原稿の遣り取りをする婦人会の隣を抜けて、三箇日明けの静かな休暇を過ごす大人を横目に、空いたソファに腰かけるとインバネスコートと群青色のマフラーを膝に、ふかりとその座り心地にほう、と伊月は頷いた。ふかふかしている。ヴェルベットで設えてある下は綿だろうか、背凭れもふかふかと、凭れかかっても足元をしっかりと作られてある重さに安定感が素晴らしい。猫足のソファの座り心地を堪能していると、ボーイが注文を取りに来た。紅茶を一応注文したが、仲介人と言う名の面接官は、どれなのか伊月は聞いていない。座って待っていればいい、とそれだけ聞かされ、今になって依頼の得体の知れなさに、くちびるに指を遣る。 毎年受けている依頼だが、毎年同じように面接があり、そこから、花宮は落ちた事が無いらしいとは今吉の情報だが、合格すれば、Gioacchino Giannini氏の意向に、との事である。 毎年決まったように頼まれる事とはなんだろうか。伊太利人だというので日本の習慣は通用しないと踏んでいいだろう。毎年の手紙を想定して、それなりに日本には馴染んでおり、しかし書き物はあまりしない。 「大掃除、とか?」 人物像もさること、じーさん、と今吉はのたまったので、それなりの年齢であろう、年に一度の大仕事に若い手が欲しいというのは頷ける。しかしどうも今吉の苦そうな表情から察するに、あまり表沙汰にはしたくない事象なのかも知れないが、伊月を寄越しても大丈夫であろうという今吉の采配を信じるなら、犯罪の類では無い。 「でも伊太利語は喋れないよな、俺。」 伊太利語から独逸語に訳して、というのは授業でやったことはある。語学の程度は最高学府に通う学生の程はあるが、果たして。ぽそりと呟いた横から、音を立てない綺麗な所作でボーイが紅茶を置いて頭を下げて行った。ふうと息を掛けて表面温度を下げていると、モダンガールが華々しくも上品な密やかな色めきを見せた。 「日本語で大丈夫だ。」 絨毯に足音が消されたが、カシャン、と金物が擦れる音に顔を上げれば、飴を溶かし込み混ぜ込んだような綺麗な金髪を持った軍人が立っていた。金属音は腰に下げられてあるサーベルだ。 「おう、待ち合わせか。」 「お久しぶりです、宮地陸軍准尉。」 ぱち、と扇形の綺麗な睫毛が上下し、カップをソーサに戻すと、伊月は深々と頭を下げた。年賀状は交換したが、年が明けてから顔を合わせるのは初めてだ。尤も、こんなに早く顔を合わせるとは思っていなかったし、臙脂の軍服で無く白衣に後ろ髪を纏めた姿で会うと思っていた。 宮地はそのまま伊月の正面に腰かけると、ボーイの運んできた紅茶にシロップとミルクをたっぷりと注ぎ、甘ったるいそれを一口含んで、ペチカの真似事で作られている暖炉の温かいカフェーで一息吐いた。 「宮地さん、日本人ですもんね。」 「ああ。Glückliches neues Jahr.」 「Herzlichen Glückwunsch.」 「ちと堅苦しいな。」 「火神にも言われます。」 「まあ、日本語って結構特殊だからなぁ。」 す、と頭を下げ、失礼します、と伊月は前置き、カップを取る。静かに音を立てないようにスプーンの位置を変え、ゆっくり静かに紅茶を含む。 「お前、ビール飲める?」 「日本酒は一口二口飲まされましたけど、ビールは未体験ですね。」 「Entscheidung. Sie sind vorbei.」 「は?」 Es eine Strafe.と宮地が笑うのに、むうと上目に見やってくる姿は高身長高学歴、高収入も約束された身分であるが、何だか幼くて宮地は静かに声を立てて笑った。 「ってえ、面接官って。・・・なんて面倒な真似・・・。」 何も言わない宮地に、伊月はこれ見よがしに嘆息し、手のひらでカップを包む。 「茶道は?」 「出来ます。」 「華道。」 「師範は貰ってないです。」 「薙刀。」 「出来ます。」 「剣道。」 「この間翔一さんに日本刀持たせて貰いました。」 「OK.本気で非の打ちどころの無い大和男児だ。おまけに美人と来た。」 最後に質問な、と宮地はテーブルに肘を置く。金色の雫が飴色のテーブルにうつくしく映えた。 「衆道に理解は?」 「・・・嫌味ですか。蹴りますよ。」 「無駄な質問してねーの。まあいいか。そんならヨアヒム爺さんも納得してくれんだろ。花宮じゃなくても。」 様々に言いたいことはあったが。 「え、ジョア、えっと、じょあっきーの、さんでは?」 「独逸読みだとヨアヒム。お前、独逸語のが得意だろ。爺さんも伊太利語独逸語仏蘭西語ってなトリリンガルだが、日本語も大丈夫だ。俺から電話しとく。」 随分とグローバルな話に伊月は額を抑えたが、ここな、封筒を渡され、白手袋に指示され封蝋をそっと剥して中から出て来た地図と住所の書かれた便箋と、行き方と旅費として紙幣と貨幣。宮地がカウンタ横の柱に寄りかかり、バリスタと何をか話しながら、通話が繋がったのか、独逸語で遣り取りしたのに、地図と行き方の記された便箋を広げる。電車で三時間、迎えの車に声を掛ければ山の上に一時間でヨアヒムの屋敷、と随分簡素であったが。 「えっちょ、電車の時間!」 約束の日時は本日夕刻。電車も今から東京駅まで走る羽目になる。伊太利語の辞書と一緒に持ってきた時刻表を鞄から出し、記憶と相違なければ、と紅茶を飲み干して、ふかふかと柔らかく暖かいソファから立ち上がれば、いってらっしゃい、と口を動かした宮地が手を振るので、慌ててホテルを出た。駅舎までは随分と冷え込んだが日差しが暖かくなりはじめる時刻であったのに、汗が出たのでマフラーは外した。 「おお、月ちゃん!」 「翔一さん!?」 発進路線番号を追いかけていると、今吉がそこに立っていて、探す手間が省けた。 「あっ、目印がめるしー!キタコレ!」 「仏蘭西語やね。」 「一応、何か国語かは辞書持ってるんですけど。」 「ほな、ヨアヒムじーさんに・・・かわい、がってもら、とい・・・。」 肩を掴まれ、その力に反するほど、かっくりと頭を垂れた今吉に、伊月はくちびるを尖らせた。 「衆道に理解はと聞かれましたが。」 待合室に風よけに入れば蔓延する煙草の煙が目に染みたが、庇うように今吉が立ち、彼は比較的煙の無い煙管に火を入れた。黒いトンビは肩部分が濡れており、どうやら雪に降られたらしい。ぱたぱたと伊月の手袋に肩が払えば、おおきに、と脂下がる頬を隠そうともせずに笑う。 「もう結構な年やから、添い寝位や。あとは花生けんのとかお茶も好きやさかい。」 「宮地さんに合格貰いました。あっ、合格ってこう書く!キタコレ!」 「駄洒落遊びもしておいで。元々は軍人さんでな、先の大戦で宮地クンの祖父さんやったかが捕虜なった際に何かと手を尽くしてくれたらしーねん。」 「ふむ。可愛がって貰えそうではありますね。」 「日本人大好きやねんて。」 「中でも大和民族の男の子、をでしょ?」 「そんな変態みたいにゆうらたんで。」 「翔一さんで免疫付けた甲斐があるってもんです。」 警笛を合図に、伊月はアメニティは向こうで用意して貰える好待遇で、学生服にインバネスコートと群青色のマフラー。それからタラップで逡巡した後、自分で最後であるのを車掌に手を振って伝え、もう一度警笛が響く中、手袋を外した指の腹に今吉のくちびるをなぞると、そのまま内緒の合図のように自分のくちびるを撫ぜた。 「いってきます。」 「・・・いってらっしゃい。」 中折れ帽を被った今吉の鼻の頭が寒さに赤くなったのと、耳が淡く染まったのを満足気に伊月は帝都を離れた。内陸に乗継、山麓が目立ち始めた辺りでもう一度乗継。便箋はおそらく宮地の文字だろう、丁寧な読みやすい文字は若干筆記体の癖で文字の尻が乱れるのは愛嬌だろう、路面電車の無い、田舎と言うには成金の別荘がそこここにある、洒落た駅舎を眺めた。 山の向こうは覚えのある小さな村がある。クリスマスには郵送で届けて貰った鉛筆の返事は年賀状と共に来た。子供達が元気で何よりだ。 「随分と発展してんな。」 路面電車も無ければ馬車も無い、夏場におそらくは盛る街だろうが、炭屋や土着の八百屋はあるし、奥まった場所には猪の脚が吊ってあったので尋ねてみれば干し肉が薬代わりに買えるだろう。 「さて。」 寒そうに街路樹の下に佇む男を見れば、様々な視覚情報を黒革の手帳に悴んだ手を叱責しながら書き込んでいた伊月と目が合った。 「私立今吉探偵事務所、所長助手花宮の代行で来ました。伊月と申します。」 「・・・伺っております。」 宇治川と名乗った壮年の男は雪を払ったコートを後部座席に放り込み、助手席に伊月を乗せると、寒いでしょうので、と温石を持たせてくれて、綿入れを着せられ足元にも温石が置いてあったので車内の一時間は、言葉少なくも温かくあった。 「毎年のことと聞いてますが、あの。」 「ええ、花宮様はジャンニーニ様と大層仲良く過ごされておりますよ。」 「あいつがぁ!?」 思わず上げた声に、すいません、と伊月は頭を下げた。砂利道の脇は雪が積まれて時折山おろしの突風が飛び込んできてハンドルが振られている。 「寒くなるとひとさびしくなると言いますか。」 「解らなくも、ないですけど。」 「今年、今吉様はいらっしゃらないので?」 「あ、時間が取れれば来るとは言ってました。」 何度か剣舞を見せた折りに随分と気に入られた今吉も、時間があれば窺っておきたいという屋敷はアーチに蔦が絡まる見事な庭の中に在った。 「ここから庭を抜けて頂いて。」 「はい、ありがとうございます。」 想像以上の寒さに縮こまった伊月に宇治川は笑って、庭師を呼んだ。 「イヅキさん、だったかね。」 「はい!よろしくおねがいします!」 ぱたっ、とインバネスの裾が揺れる綺麗なお辞儀に、庭師の小野田は玄関まで案内してくれる。今の時分は椿が血のように紅いが、主に薔薇が見事に咲き乱れるそうで、玄関を入ってすぐ、屋敷中が暖められているのが解った。 「宇治川ぁ!」 「はい、いますぐ!」 玄関から左右に階段が伸びてホール状になったそこへ女中が頭を下げた。運転主の娘だと言う彼女は電話の位置を真っ先に伊月に教えると、階段を上がって、二つ扉を通り過ぎた所の客間へ通してくれた。 「お着替えと、あとは・・・。」 「粗方は所長に聞いているので、そうですね、あとはご依頼主様にご挨拶を。」 数日お世話になります、と頭を下げた伊月に面食らったように、慌てて宇治川女中は頭を下げた。花宮のここでの態度がなんとなくわかった。 「他にも宿泊の方が?」 廊下は静かだが壁のほうが賑やかだ。御親戚の方です、と極々手短な紹介を受け、伊月は教えて貰った電話機に向かう。 「あ、翔一さん、到着しました!今年は来られないんですかって、宇治川さんが。」 ほなひと段落したらいこか、と今吉はどうでも良さそうに息を吐き、しかし今吉の性質は一応にして存じている伊月としては、はい、と何も言わずに返答だけ、柔らかく笑ったのだ。 「はー、あったけー。」 雪国の屋敷は暖房器具をあまり使用せず、使用するなら大作りのペチカで家ごと温めてしまうらしい。ホール状になった先ほどの広間の玄関は本当の客にしか使用せず、普段は脇に作った二重の扉を使う。伊月は防寒が心許無いのでそちらの部屋も覗いてみれば、七輪や笠、かんじきと色々とあったので、あとは食品や保存食、と手帳にペンを走らせながら、ホールの奥にある大作りの、大理石を刳り貫いて作ったと思われるペチカに手を翳す。 「うわ、ここ離れたくない。」 炬燵でぬくもるのもいいが、暖炉と言うのも洒落ていていい。 「暖炉でダンス・・・うむ、だん、ろ、あっ、花壇、ローズ咲いたよ暖炉の上で!キタコレ!」 「暖か過ぎて枯れてしまいやしないかな?」 「あ・・・。」 赤い髪に禿げ上がった頭頂部。眦の優しい皺と、ゆったりとしたセーターに垂れた髭はグラデーションのように根元に向かって美しい赤毛が垂れている。交差模様のシャツは若いが、皺だらけの皮膚と年輪は隠そうとしない、日本人なら翁と言える年齢の男性は、伊月を見て、うっとりと目を細めた。 「マコトの代わりに、とショウイチは言ったね。キヨシの友人だとも。」 「はい。伊月俊、です。」 「シュン、と呼んで大丈夫?」 「はい。」 老いしゃがれた声は綺麗なバリトンで紡がれた。電話の音がして、そのまま切れたが、伊月はジョアッキーノ・ジャンニーニ、通称ヨアヒム爺さんと邂逅が果たせたのである。 「じょあき、あ、すいません。」 「ヨアヒムでいい。」 ジャポネには発音しにくい名前だからね、とヨアヒムは述べ、笑って伊月の手を引く。友人に接するようにも、孫に接するようにも見えて、その奇怪なアンバランスさが、ゆるりと絡められた指がそう、衆道と揶揄されるのかもしれない。 「着替えておいで。」 「ありがとうございます。」 深々と頭を下げた姿勢が綺麗だ、とヨアヒムは臆面なく言い、綺麗な髪だ、意志の強そうな瞳だ、と一歩進むごとにそれぞれ褒められるのが堪らなく恥ずかしい。 「あら、おじいさま!」 「セツ。綺麗に着替えたね。」 客間の回廊だろう、伊月が与えられた部屋の途中、ヨアヒムは手前の扉から飛び出してきた女性の振り袖姿に穏やかく笑った。辻が花か、と伊月が振り返れば、一瞬剣呑な視線を見せた彼女は、結い上げた赤い髪にびらびら簪を揺らして微笑んだ。 「セツカ・後藤・ジャンニーニと申します。伊月さん、でよろしいかしら?」 「伊月俊です。暫くお世話になります。」 「お世話します、の間違いじゃございませんの。」 頭を下げた伊月はその声にふと顔を上げ、眉を寄せたが、彼女はそのまま広間とは逆方向の廊下に歩いて行った。 「えっと・・・。」 「シュン、着替えておいで。その学生服も似合っているけれどね。」 黒い詰襟とそれを際立させる青いラインも抜け目なくヨアヒムは見止めており、誉める言葉を惜しまない。 「あ、はい。失礼します。」 面食らいながらも一通りの生活用品が置かれた一室に伊月は戻ってきた。鞄には課題の道具から仕事の道具から色々あって、荷物を置きに入った際には無かった羽織袴が衣架に用意されていた。衣紋掛にもまた違った着物と、寝具用で寝間着と綿入り。 「胴着と袴・・・?」 ちょっと訳が分からないが、挨拶するのであれば、と既に揃えられてある羽織袴に、手を伸ばす前にカーテンを閉める。刺繍や装飾の美しい分厚いカーテンだ。 「着れたかな?」 「うわ!?」 学生服を脱いだところで部屋の扉を開けられたのを鷲の目は捉え、見られて困る物ではないが、シャツの前を掻き合わせた。 「ヨアヒムさん、吃驚させないで下さいよ・・・。」 はは、と鷹揚に笑った翁は友人のように。召使のように紐や帯を渡してくれる。 「ケガかな?」 「はい?」 「腰の所に、赤く皮膚の下が透けている。」 「ええ、少し。」 着物を羽織ってしまえば隠れる傷は、医師の見立てと今吉の言葉を信じるなら痕は残らないそうだ。今吉が医師に、傷を残しては承知しない、と眼光鋭くしたのは伊月には知らない話でいい。 二の腕の裏に赤い鬱血があったのは気取られずに済んだらしく、帯を締めて羽織には月光紋。 「家紋ですか?」 「マコトがデザインしたよ。シュンにはこの紋がいいだろう、と。家紋は美しい文化だが、私は疎くていけない。」 「そこまでご存知でしたら十分ですよ。」 さらりと髪を梳かれて、伊月は瞼を下すと一呼吸。和装と洋装での体の動かし方で、凛と背を伸ばして顎を引く。足元も用意された綺麗な下駄で、絨毯の上を擦るように歩いてしまうのを少しだけ調整。 「大丈夫かな?」 「はい。」 ヨアヒムの言葉に微笑み、伊月はクロゼットの姿見に体を向けられる。若干撫で肩の気味であるが、和装ではそれは武器だ。 「さあ、私の家族を紹介しよう。」 「先ほどの?」 「ああ、セツカは私の孫だ。」 袂に入れた手帳は早速活用される羽目になる。玄関広間とは逆方向に、また同じようなつくりで空間が広がって、シャンデリアの下、テーブルクロスの眩しいテーブルに真っ赤な染みが広がるのに、伊月は慌てて駆け下りた。 「えっ、ワイン?」 果実とアルコールの馨りに、突っ伏した男が鼾を発したので、つんのめって転ぶところであったが、そこは若い男が腕を引いて助けてくれた。 「お騒がせしたね。マコトではないのが残念だけれど、キミも同じくらい美しいから許容かな。」 ぱちん、と赤毛の下に赤茶色の睫毛が茶目っ気たっぷりに落ちる。カルロ、とセツカが呼ぶ。伊月はびゃぁあと奇声を発した。頬にくちびるを当てられて。 「ちょ、え、ちょまっ、おと、男ですけど!?」 見下ろされる長身は宮地と同じほどであろうか、可愛いな、と髪を撫ぜられた伊月はまるで毛を逆立てた猫だ。 「Hey Jungs, Großvaters.」 「それより、チーロはどうしたんだい。」 「お祖父さん・・・ヨアヒムさんのお孫さんで?」 「お、よく解ったね。独逸語は解る?」 「Sie sprechen, wenn ein wenig.医学部で学びました。」 「こりゃ患者になりたいね!」 ひゅーう、と口笛で遊んだカルロはセツカとは従妹であるとも話してくれて、只今テーブルに絶賛泥酔中の男は父親のチーロ。母親のドーリスが、Ich frage mich in der Nut benommen!と叱りつけた。 「え、独逸語・・・?」 「色々よ。」 セツカは親の仇のように伊月を見るが、未だ混乱している彼を苛める気力は削がれたらしい、嘆息すると、手を揃え、座った椅子に背筋を正して頭を下げた。 「私は父が日本人。後藤は父親の姓。私も日本国籍よ。ヨアヒムの娘、母はイタリー。兄は先の大戦で死んだわ。」 「あ、それは・・・。」 気遣うような声音は華麗にシカトの憂き目に遭った。 「で、カロルは祖父の息子、父親がイタリー。奥様はジャーマニー。国籍は伊太利。」 「ええー・・・。」 ヨアヒムは独逸読みだが伊太利人で、息子娘は独逸人日本人の婿嫁があり、また孫も国籍は様々で、と伊月は耳から煙が出そうだ。全員日本語が共有言語だそうだので、また頭痛がする。 「あっ、後藤!思い出した!貿易の!」 「そ、大戦景気成金。初めてお目にかかるわ、伊月さま。」 いちいち剣のある物言いをするセツカに伊月はそろそろこころが痛い。クニオ、とヨアヒムが階段の上に呼ばうと、チーロ義兄さんまたかい、と苦笑する男の姿があった。後藤邦夫は大戦景気成金で有名な、伊月と面識は無いが、祖父当たりは面識がありそうだ。祖父のノートの記述はどうであったか、思い出す頃に西洋式の綺麗なお辞儀でにこやかに挨拶された。 「伊月家の長男が来ると言うので楽しみにしておりましたよ。」 「あ、お会いできるとは思わず、こちらもご挨拶を。祖父以来でありませんか?父も母もサロンや社交界を面倒くさがるので。」 恐れ入ります、と双方頭を下げ、これだから日本は面倒、とサツカの紅を刷いたくちびるが動いたのを鷲の目は見てしまい、苦笑を隠す羽目になった。 「確か名刺が。」 「はい。」 手帳の折り返しに挟んでおいたそれと伊月も交換し、泥酔したチーロが寝椅子に移動し、数多のワインのボトルが回収されてテーブルクロスが交換されてヨアヒムの着座でそれぞれ着席したが、上座のヨアヒムは納得出来る。しかし長方形のテーブルの上座にヨアヒム、その次席は邦夫とチーロではなかろうか。泥酔しきったチーロは空席で、その正面に伊月が座っているのは何事だろう。 伊月の隣に邦夫、セツカ。伊月の正面は空席で、ドーリス、カルロ。親戚での集まりで例えるなら、完全なる部外の客が大黒柱に寄り添っている状態で、伊月の家でこれをやらかせば、伊月の伯父が怒る。一番に血気盛んで伝統と常識を大事にする性質である。伊月俊はそこまでではないが、伊月本家に生まれた長男としてのある程度の責務は果たし、責任は背負う積りであった。 「あの・・・。」 「ワインは飲める?ああ、未成年だったか。」 「このあと私と遊んでもらうんだよ、クニオ。酔っぱらわれると困るよ。」 「ああ、そうですね。」 広間には階段の下に二つ、上部の扉の真下にも一つ、階段の降りたすぐにまた扉と下座に二つ、どれも綺麗な彫刻装飾と真鍮のドアノブも薔薇と蔦を模してある。 「食事が終わったら屋敷内の案内をしよう。」 「はい。あ、先ほど電話お借りしまして。時間があればしょ、今吉所長が伺いたいと。」 「所長?」 「俺の上司になります。毎年花宮が伺うのはお聞きしましたが、何分俺が未熟なもので。」 「何その皮肉。」 美しいワイングラスにくちづけながら、セツカの声は明らかに棘が生えていた。食事が終わって食後は珈琲で、世間話の程を少々。特に邦夫は伊月の話を聞きたがった。しかしヨアヒムは無粋だと微苦笑し、そこで仕事じみた会話は途切れてくれた。 「わあ!」 扉の一つは狭い回廊で、突如現れた襖に驚いたが、開けてみれば四畳半の茶室があって、躙り口は雨戸を被っていたが、床の間には花器があり、盆や鉄瓶、炉も火を入れればすぐ使える。 「水菓子はどうだい?」 「いただきます。」 茶室もしっかり温まっており、茶道釜を暖め、宇治川女中が茶道の道具を籠に下げ、山茶花を持ってきた。 「あの?」 白い山茶花は品種改良に紅が入り込んでいて、豊かに茂っていた。ヨアヒムが棚を探って、華道の花鋏や剣山を花器に置くと水を引く。 「お流儀は嵯峨でいいですか?」 姉の通った華道教室と母親に叩き込まれた多少の手前であるが、盛り花の形に。床の間に置けば景色生けとなれた。白い指先が美しく枝葉を操り生かすために取り払われる。幽玄に馨る蘭はこんな姿をしているのか、静かに静かに、ぱちりぱちりと鋏の音が響き、完成まで呼吸が止まったような時間だった。 天然の葛粉を使って作られている水菓子は、最近帝都でお目にかかる物だと片栗であることが多い。これは田舎ならではの甘味だなぁ、とヨアヒムが茶を立てる傍ら、茶碗を貰う。 「お先に。」 食べる前に言うべき科白を、思い出した、とばかりに伊月は背筋を正したが、気にしない、と柔らかくヨアヒムの翁は笑う。 「シュンは作法が美しい。」 「いえ、お手本の通りでやってるだけでっ。姉のほうが綺麗ですよ?あっ。身内の贔屓目じゃないですけど!」 「お姉さんがいる?」 「妹もいます。」 そうか、と我が事のように笑顔を見せるヨアヒムは、とろとろに飴を溶かしたような、温度と甘さで伊月に接する。伊太利人は軟派だと言うが、どちらかと言えば懐に入れて可愛がりたい、そんな心理に近いのではなかろうかな、と思い出したのは何故か森山陸軍中尉で、あのひとは純正日本人、と頭から追い払った。 「結構なお点前でした、ヨアヒムさん。俺が御馳走してもいいですか?」 「うん、頂くよ。」 略式の作法で茶を交わした四畳半には、随分と濃密な時間が流れ、伊月は羽織の下に滑り込んで腰を抱いた手にも慣れてしまった。 「なんだか花宮が羨ましい。」 「来年からはシュンも気軽に遊びに来るといい。」 「それだと翔一さんも連れてこなきゃ駄目ですね。」 夕食と風呂と終え、課題に向かおうとエレキテルの無い部屋にカンテラを持ち込もうと女中に手配を頼んだところ、ヨアヒムが、私の部屋に来るといい、とその肩を叩いた。宇治川は一瞬苦い顔をしたが、すぐに笑顔で、それがよろしゅうございます、と。そしてヨアヒムの部屋には電気が入っていることを教えてくれた。 「ここの綴りが違うね。」 「あ、ありがとうございます。」 今吉には頼れないネイティヴの独逸語を教わったりもして、深夜遅くに電話があった。 「伊月さま、今吉さまが明朝こちらへ御着きになるとご連絡です。」 宇治川運転手が執事服で部屋を訪ねて来て、そこで時刻が深夜に突入しかけていることに気が付いた。 「あ、じゃあ俺、部屋に・・・。」 戻ります、と発言しようとしたくちびるに、ふにと人差し指が押し付けられ、頬にくちびるを押し当てられて髪を撫でられる。戦慄と背に走る悪寒に似た熱は、今吉の指からよく引き起こされるそれと似ている。伊月は手から逃れるように腰を引いて顔を伏せた。 「・・・納得、しました。」 「何を?」 「花宮が、この依頼の担当であったことを。」 伊月が出奔すると決めた時の今吉の苦い顔は、きっとここに起因するのだ。明朝にこちらに、というのも伊月の身を案じるからだ。 「手は出さない。同じベッドで眠っておくれ。」 それにね、と伊月の手を導くそこには硬さも熱も無い。 「老いたら枯れるものだ。」 安心させるように昨晩、伊月に笑んだヨアヒムは、翌朝、自室にて、稚児と共に眠ったところ、殺害された。 続く。 |
初出:2014年1月5日 22:21
白い猫の続きどこやった?って新春の推理ドラマでネタ被ったからですちょっとお待ちください。
今年もこのシリーズ愛して頂けると幸いです。
ところで今更ですが一話にリンクタグありがとうございます!あのタグめっちゃ憧れてたんですよ!!
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シリーズ初、月ちゃんが容疑者となった記念回でもありましたw
20140421masai