ちょっと困った事になったんよぉ、と紅茶に関しては矢鱈口煩い男は、伊月ほしー、とほのほの笑った。
ロマネスク壁画模様の刺繍がされたソファカバーがやけに様になる春日隆平は、先日春の昇進式で海軍准尉になった。












今月探偵と伊月助手と殺人犯の手引帳。前篇。













通学鞄の中身をがしゃがしゃと鳴らしながら誠凛大学の門扉を潜り、風紀当番に立っていた伊月俊の貌を認めると、ぶわぁっ、とその大きな目から涙を溢れさせた。
「いじゅきせんぱぁあい!!」
半ば涙声で呼ばれて、見えてはいたが他の生徒の風紀指導に忙しかった伊月は、ちょっとごめん、と同じ風紀員に所属する生徒に詫びると振り返り、どうした、と問う前に飛びつかれて、反射的に襟を獲りそうになった。
「ちょ、おい、フリ!降旗っ!?どうした!」
「あ、籠球部の。」
「うん、二年の。ちょっとフリ、どうした。落ち着け。深呼吸深呼吸。」
「うおおおい降旗どうしたぁ!?」
伊月に抱き着いて今にも泣き喚きそうな勢いの降旗に、火神が登校してきて気付いて、小金井や水戸部は教室から見えただとかで、慌てて下りてきてくれた。
「えっと、おちゅちゅけ?」
「それは忘れて下さいコガ先輩!!」
わん、と一度がなって落ち着いたのか、ふはー、と深い息を吐いて、取り乱して申し訳ありませんでした、と深々と伊月に頭を下げ、事情聞くからちょっと、と門扉脇に連れられた。
「何があった?」
「いやあの、ちょっと言いにくいんですけど・・・。」
「うん。」
「・・・痴漢に。」
「遭遇した?婦女子助けた?」
うろーっと彷徨った視線に、はぁ、と伊月は腰に手を当て苦笑し、ちょいと指先で招いた。耳打ちのように言ってやった言葉に、今度は視線を合わせて、どうだ、と小首を傾げてやる。
「・・・正解、ですっ・・・!」
「あ、やっぱか。」
「降旗君もですか。」
「「「うおあ黒子!?」」」
「おはよう、黒子。」
「おはようございます、伊月先輩。小金井先輩、水戸部先輩、火神君、降旗君、安定の反応ありがとうございます。」
朝の空気に綺麗に溶け込んでいた黒子の出現と、納得したような物言いに、降旗の大きな目がまた潤む。
「黒子も?」
「はい、急に話しかけられて驚きました。」
「俺も。黒子はあんま話しかけられ慣れてなさそうだしな。」
そうですね寧ろそっちに驚きました、とこっくり頷いた黒子だったが、三人以外は置いてけぼりだ。
「伊月、何の話?」
「あ、そっか、コガは家逆方面だもんな。うん、男に痴漢が最近出ててさ。」
「チカン・・・って婦女子に悪戯する男・・・だろ、あ、ですよね?え、ええ!?」
「火神、声抑えてって水戸部がゆってる。」
はい?とどこか疑問符が残っている火神はまあ置いておいて。
「なにそれ、マジ情報?」
「まじです。ここに被害者の会が結成されました。」
「いや、してない。」
こら、と伊月が黒子を窘める。いやでも実際、と伊月は降旗の不安そうな視線に言葉を濁すのを止めた。
「俺らの年代が丁度いいんだろうね、危うく腕引っ張られてどっか連れてかれそうなった、俺。尻撫でられたり。」
「僕はお茶に誘われました。ダッシュで逃げました。」
「俺もさっき、擦れ違いざまに尻触られて抱き着かれた・・・。」
「うっわぁ・・・。」
「なにそれ壮絶・・・。」
他にも被害報告あるよ、と風紀委員はポケットから黒革の手帳を出してちらつかせるが、そろそろ始業だ、と同輩と後輩を校舎に追いやった。風紀の仕事として、その被害報告を職員室に届ける義務もある。
先程も三人ほど、通学途中で声を掛けられた、体を触られた、と風紀委員の中で気心の知れる輩に報告して、メモに纏められている。被害地域は狭く一定であることから、おそらく犯人は同一の、高等教育を受ける年齢頃が好みの、目撃情報に寄れば、海軍軍服を着ていたという。
そんな諸事情が手伝って、部活動の一端休止が生徒たちには言いつけられた。特に被害のあった生徒は出来るだけ外にも出るな、とのお達しで、伊月のご近所さんでもある日向はかなり鬱憤が溜まっている。
「どーよ、あの話。」
「会計に言われましてもね、主将。」
「風紀に聞いてんだよ。」
帰りの路面電車で相田も一緒になって、どの話、と首を傾げられたが、なんだか男の矜持が傷つけられる気がして伊月は口が重い。
「変な男出るんだと。」
「ああ、部活休止の原因ね?女学のほうは何の被害も無いわよ?」
「・・・だから困ってんじゃん・・・!」
きょとんとされてしまえば伊月はそこで項垂れた。
「風紀に入ってる情報だったら、海軍制服の男に、こー、身体触られたり、連れ去られそうになったり、黒子まで声掛けられたつって。」
「流石にそれは驚きね。」
「どっちに驚いたのカントク、怒んないからゆって。」
あらいいの、なんて相田が笑うものだから、やっぱ止めて、と伊月は少し泣きたい。
「じゃあ、ごめんカントク、ひゅーがのこと頼んだ。」
「はーい、頼まれました。」
「なんでだ!?」
だって俺このまま翔一さんとこ、と次の乗り換えから使う定期を挟んである手帳をポケットに探ると、それじゃあ明日、と伊月はそのまま路面電車から乗り継ぎのために停留所を移動した。次の電車まで何分、と懐中時計を出そうとした目の前に軍用馬車が突っ走って、距離が悪かったのか、学生帽を飛ばされた。
「げ。」
丁度路面の線路の上に落ち、電車が来るまでに拾って仕舞わなければ、と停留所から降りようとして、帽子を拾った手に、その足元に、伊月は気付いて礼を述べようとして、ひくりと眉を顰めた。
「そんな顔しなさんなって~。」
海軍の制服を着た、蜂蜜色の髪の男は、伊月より少しだけ背の高い、半分ほど英吉利人の血が入った、よく見知った相手だった。
「春日さん!?」
「ほい、春日さんですよぃ。この帽子伊月のでしょ~?ごめんねぇ。」
こちらが礼を言う理由はあっても謝罪を受ける所以はあったか、と首を傾げると、春日の視線の先には上等な馬が二頭で曳くチャリオットがあった。覗き窓からこちらを窺う影に気付いて、頭を下げればひらひらと手を振られたので、首を傾げると、宮地も一緒なんよ、と春日が笑った。
「乗っていく~?」
「え?」
「今から探偵事務所っしょ~?」
「え、はい。」
そうです、と言い切る前に、はいきーまりっ、と春日が手を打てば、馬車が戻ってきて、久しぶり、と扉を開けた宮地が臙脂の軍服姿で笑顔を寄越すので、伊月が断れる話ではなくなってしまった。
がらがらと音の割に揺れに強い馬車の中は波斯様式の文様で内部が彩られてあって、陸軍の臙脂色とも海軍の白色とも不思議な均整がとれていた。
「えっと、どうかなさったんです?」
「どうかなさったんよ~。」
「で、俺の紹介でどうだ、って話?俺は今吉サンとはあんま話してねーが、伊月、お前とはやりあったろ?」
「やり合ったって言うか、・・・。」
あれほぼ俺の一方的恫喝ですよねぇえ!と思わず伊月は膝に顔を埋めた。腹でも痛いん、と春日はほのほの笑っている。まぁ気にすんな、甘いもん食いたい、とか宮地も安定に理不尽である。
「えっと、じゃあお話聞けます?」
「およ?伊月が?」
「はい。基本的には俺か花宮が話を纏めて、翔一さんが着手するか決めるんですね。今回は宮地さんの紹介ってことなんで、吹っ掛けられることは無いと思いますけど、気に入らない依頼は、あ、キタコレ。」
「キてないなぁ。」
「黙れよ刺すぞ。」
ちょっとメモします、という伊月だっていい感じにいつも通りと安定している。
「はい、気に入らないと門前払いとか普通にしちゃうんで。」
「お客選ぶんねぇ~?」
「いや、誰でも旦那が浮気してないか調べてくれって来たら嫌でしょう?」
「探偵さんも大変ね~?変態も困るよね~。」
「春日さんそれ頂き。」
「伊月、刺殺と銃殺選べるぞ。」
ちょっとまて、と。大変な変態、と書き込んだ㊙メモ帳から伊月は顔を上げる。
「あの、春日さんの依頼ってひょっとしてあの、・・・。」
「うん、痴漢。」
さらっと投下してくれたが、この案件ギリギリじゃないかな、と伊月はまじまじと春日の悩む素振りの横顔を凝視っと見詰める羽目になる。
「最初から話してやれや。」
「あ、それもそうだ~宮地あったまい~。」
「うっせぇ殴んぞ。」
それでは、と一度春日は気取った咳払いをし、明るい色の光彩を真っ直ぐに伊月に向ける。
「狙われたっしょ。」
「・・・はい。」
「やっぱな~そうなんよ~あいつ日本人らしい日本人でぇ、大人しそうなん好みやってゆうとったん~。」
「知り合いの方なんです?」
ちょっとそれかなり嫌なんですけど、と思わず伊月は座りが悪くなって、何だったらこっち、と向かい合いに座る宮地の手招きに有難く座席を移った。
「名前はクラフト。俺の小隊の一平卒やったんやけど、ちょっと問題児でね~。まあ、誰でも小物整理やらペンキ塗りばっかさせられとっても嫌やんかぁ。その鬱憤を陰間茶屋で晴らしよって~。」
うわ、と思わず伊月は呻いてしまって、だっしょ~?と謎の声で同意を求められた。とりあえず頷いた。
「因みに女を買うなという軍規は無い。だからよく青線に遊びに行ったり、慰安婦と遊んだりは、ある。」
俺はあんまやんねぇが、と宮地が補足をくれる。
「まあ、軍人が陰間買ってるって、確かにちょっと醜聞かもです・・・。」
「うん、だから除隊させた。」
「はっ!?」
「除隊。いちおーそんくらいの権力はあんの、俺。クラフトは親父のコネで拾って来たんね。だから、俺がクビってゆっちゃえばクビなん。森山程でないけど俺も七光りの恩恵あるから。」
「ああ、御父上は現役で英吉利の海軍大佐・・・でしたっけ?」
「そ。留学に行ったウチの御袋と結婚したん。まぁその辺どうでもええ。問題はクラフト。除隊さして、英吉利でもっかいイチから始めんしゃいって親父に事情書いた紹介状も送って、隊舎の荷物とかちゃんとあっちのご実家に送ったん。で、問題はこっからな。」
ぴ、と立てられたその人差し指は白い手袋が眩しい。
「実家には何の連絡も行ってない、ゆーて。」
「・・・は?」
ちょっと整頓します、と伊月は黒革の手帳の新しい頁を開く。
「春日さんの家のコネクションでこちらの海軍に入隊したクラフト氏が、男色問題で除隊、その後所在不明、という?」
「connectionね~。発音大事に~。」
「いや、急に英語とか・・・。」
吃驚するところそこじゃない、と考えている内に、石畳の上を走らされていた馬が足を止めた。御者が扉を開けてくれて、そのまま階段を五段上れば今吉探偵事務所のエントランスだ。
「えっと、それじゃあ宮地さんの紹介で、って前置きしてお話しますね。珈琲と紅茶はどちらが。」
「俺紅茶。」
「あ、ダージリンのセカンドな気分~。」
「紅茶にはうっせぇんだよなこいつ・・・。」
「紅茶は英吉利の文化ですからね。こんにちはー!翔一さん、お客様です。」
エントランスから選んだ扉は面談室。話し声が聞こえるので、少々お待ちください、と伊月は綺麗に頭を下げて、事務室の扉を開けた。
「ちっす、花宮。来客中?」
「諏佐サン。」
「え、何で。」
ばさばさとデスクを掻き回しているのは必要書類を集めているからだろう、ファイリングしたそれらを小脇に抱え、面談室に続く琥珀色の若木の扉に向かう。
「出会い茶屋やら連れ込みで男が惨殺されてたってよ。」
「っ!それっ。」
花宮が面談室の扉を指差す。エントランスで誰が待っているのか、とっくに知っているような顔で、そのまま面談室への扉を聊か乱暴にノックすると入っていった。伊月は慌ててインバネスと学生帽と鞄をデスクに預けると、エントランスにくるりと背を翻す。
「このまま入っちゃってください。ひょっとしたらクラフト氏、関係するかも知れません。」
「え?」
「掻い摘んでしか聞いてませんが、今、警察が来てます。あっちも犯人候補絞りたいでしょうし、情報提供お願いします。俺ひょっとしたら警察連れてかれるんで!」
慌てて捲し立て、面談室をノックすれば花宮が顔を出し、所長デスクで今吉と諏佐がやり合っているのが見える。
「どうも、お久しぶりです。」
「俺、初めまして!今吉探偵の御評判はそれなりに~!」
ソファどうぞ、と伊月に着座を促され、暫く待てば、陽泉大学食品科学科特製たまごタルトと春日の注文通り、ダージリンのセカンドが三つ用意され、珈琲も三つ用意される。諏佐さん落ち着いて、どうぞ、とカップアンドソーサを伊月が渡せば、一瞬にして毒気を抜かれたように、諏佐は呆けて、そのまま珈琲を啜る。今吉には、何やらかしたんですか、と若干棘のある耳打ちと、花宮には資料の中身を覗き込ませて貰いながら。
「月ちゃん、宮地クンと、春日クン?どないしたん。」
「そりゃこっちの科白なんですけどね、翔一さん。諏佐さんが我を無くすほどってよっぽどですよ?」
「あ、珈琲うま・・・。」
「誤魔化すな!」
「伊月に検死の協力依頼をだな・・・。」
「なんで月ちゃん貸さなあかんの、しかも無償。」
「いいじゃないですか、恩だけでも売って置けば。」
「伊月、だんだん所長に似てきた。」
「花宮も苦労してるんだな。」
「お互い様っすね。で、これ頼まれてた資料っす。」
ああ、と諏佐の肩からほっと力が抜けた。
「結局孤児院、どうなったかわかんないんだ?」
「神隠しみてーに職員も子供もいなくなってやがる。」
段々と現場がごちゃごちゃとしてきた諏佐の苛立ちは解らなくもない。そんな中でこの間は一番部下の中で腕の立つ青峰が別件で引っ張られて、と多忙を極めているらしい。
「もう一月くらい、子供とまともに話してねぇんだよ・・・。」
「大変やなぁ、親父さん。」
「翔一さんっ!」
何故そこで嫌味を飛ばすかな、と伊月は肩を怒らせ、タルトに齧りついている宮地に、まあまあと宥められた。菓子を食いながらひとを宥めても逆効果である。
「諏佐さん、痴漢被害って届出出てます?」
「ああ、十代後半の男を狙った・・・お前ら、大丈夫か?」
「俺無事。そっちのほう近付かねーし。」
諏佐の今更過ぎる心配に、伊月はちょっと泣きたい。お前ら丁度被害者たちと同年代じゃねぇか、伊月に至っては生活圏その辺じゃなかったか、とまるで父親のような顔で心配された。
「あーはい、今度誠凛から被害報告纏めて出します・・・。」
「伊月、何かあってからじゃ拙いぞ?」
一応珈琲で一息は吐いたらしい。デスクに寄りかかって、鍛えられた体躯で凝視っと伊月を、嘘を赦さない目で見下ろしてくる。
「あーも!解りましたっ!白状しますよ!遭いましたよ痴漢!抱き寄せられてどっか連れ去られそうになりましたよっ!生徒の被害報告の中じゃ俺が一番酷いです!籠球部じゃフリも黒子も被害者です!目撃情報だと、海軍軍服着て・・・。」
ガシャン、とソーサにカップを叩きつけるような音に、伊月はびくと肩を揺らす。振り返りたくない。
「伊月ぃ~、その痴漢の事、もぉちょい詳しく話しんしゃーい?」
緩い口調で籠球でのプレイスタイルよろしく力感の無い声音だが、何故か拒否を赦さない迫力がある。
「海軍制服着て~?男の子に手ェ出して~?どっかで見た事ある男やないん~?」
「知ってるのか!?えっと・・・。」
「海軍准尉、春日隆平。因みに良く聞かれるからゆっとくと、父親が英吉利人。軍では日本語教師もやっとる。こないだ除隊した英吉利人の一平卒は男色のケが強くて、どうも本国には帰ってない様子。だからここに探すことは可能か、ってな依頼の寸法よ。」
これが海軍兵士である春日隆平の姿、と宮地でさえ目元を瞬かせ、ふむ、と諏佐が顎を摘まんだ。
「そうか、情報感謝する。」
綺麗な敬礼に、春日も敬礼を返して、また緩くぽすんとソファに沈んだ。この紅茶毎日飲むには伊月を海軍に引き入れるしかないか、と真剣にぶつぶつやっているのは見ない振りでいいだろう。
「それから、伊月。」
「御断りや、諏佐。何度も言わすな阿呆。」
「翔一さん、それって俺が決める事じゃないんです?」
「ちゃう。伊月俊の雇い主は、あくまで今吉探偵事務所所長の今吉翔一や。采配はワシが決める。それに月ちゃん、最近痴漢に襲われたとこやろ?茶屋から出た遺体、見んほうがええ。」
「それは俺が決めます。」
鋭利な切れ長の目が、ぎゅ、っと今吉に強い眼光で猛禽の標準を引き絞る。
「前半は御尤も。翔一さんに雇われています。俺は。でも、これからあなたに就いていくに際して、見ないほうがいい死体、というのは見ておいたほうがよい死体である、と俺は解釈します。」
宮地と春日が座ったソファの向かいに花宮は諏佐に資料を渡しながら着座を促し、どうも雲行きが怪しい論争を見守る。どちらにしろ、これが終わらなければ次のステップには進めない。
「お子さん今何歳です~?」
「今年で五歳だ。」
「お、可愛い盛りすね。」
「写真あるんですか。」
「ああ、これ。こっちが家内だ。」
「あ、美人な奥さん捕まえましたね~。」
「いや、どっちかっていうと俺がなぁ。」
「あはは。尻に敷かれちゃった感じ~?」
「俺が言えないなら私が言う、つって結婚した。」
「え、諏佐さんヘタレだったんすね。」
「恋愛に関してだけな!」
「それ説得力ねぇわー。」
「何だと花宮。」
「いえいえなーんもー?」
「花たん時々キッツイパンチ食らわせてくっかんな~。」
「花たんってなんすか。」
「花たんって柄か。」
ジジッ、と無線の音に、どうぞ、と三人が頷くので、諏佐は名乗って応答する。未だに今吉と伊月の言葉の応酬は続いている。
「またか。」
通信を終えて、諏佐が頭を抱えた様子に花宮が珈琲のお代わりを用意してやる。恐ろしいほど濃くて熱い珈琲を諏佐は好む。
「地図、いいか。」
「あー、新しいの出しますわ。伊月、これ大丈夫か?」
「大丈夫!・・・だから、ゆってんでしょうが!痴漢くらいだったらあのまま襟とって投げたら通報して大丈夫だって!」
「事実逃がしてしもとるやんか!簡単に許せる思う!?月ちゃんほんっまに自分大事にしてや!ワシの寿命どんだけ縮めたら気ィ済むんな!」
「俺のために死んで下さるのであれば是非どうぞ!」
その喧騒をバックグラウンドミュージックに、諏佐と花宮で地図に印を付けていく。死体の発見された連れ込み茶屋、痴漢被害が訴えられた地域、先ほど入った情報に書き足されていく情報。
「死体の状態は聞いても?」
「それが、監察医の先生がここんとこ体調悪くてな。」
「あー、気温の変動酷かったもんねぇ~。」
「その分、死体腐るの早くね?」
「ああ、最初の頃のはもう腐敗しててな・・・。」
「うっわ。」
「うん、食ってる時の話じゃねぇわ。」
「伊月の紅茶おいしー。」
幾つか解っている事なら、と諏佐は警察手帳を開く。春日の情報とどこか被るか、被らなければ無関係だと情報が出る。
「死体の口に枯葉を押し込んであったりとか。」
「血液型鑑定がどうのってこないだ宮地研究しとらんかったー?」
「あー、でもまだ五分五分ってトコ。」
さく、と幾つ目になるのか不明のタルトは殆どが宮地の胃袋に収まっている。
「全身に煙草の火が押し付けられてあったのもあったな。」
「唾液から血液判定出来るん~?」
「古くなってたら無理。」
「あとは・・・逸物切り取ってケツに突っ込んだ、ってのがついさっき。」
「どこで?」
地図を辿り、先ほど連絡をくれた同僚の巡回場所は、と、その近くの茶屋は、と見当をつけていく。
「・・・コカイン。」
「どうした、春日。」
「コカイン、検出されとらん?」
「あ、ああ、煙草は麻薬の可能性がある、と監察医は・・・。」
「捜査の邪魔になったらあれやと思って黙ったけど、クラフトはコカイン隠し持っとった。いつも。」
「おい海軍。」
宮地の鋭い声音に、気を付けさしてもこれだけはどうにもならんの、と春日は頭痛を覚えるように額を抑えた。
「今度軍部全員で薬物検査すっかぁ。」
「薬物検査は尿検査が有効ですよ。あと、麻酔科の医師が居れば尚。」
「あ、伊月。」
ちょっと黙らせてきました、とにこやかな伊月の背後を見やると、身体を折って口元を抑えている今吉が恨めしそうにこちらを見ている。どっちの方法で黙らせたのかは定かでない。
「尿検査?つーとモルヒネ、コデイン、メペリジン。と、あとはフェンタニル、スフェンタニル、アルフェンタニル、プロポフォール辺りか?」
麻酔科はあんま未だ詳しくやってないんで、と伊月は申し訳なさそうに宮地からの返答に眉尻を下げる。
「お茶やハーブがちょっと解りにくいのが難点ですけど・・・。あとは毛髪検査ですか。毛髪が手に入らない場合は、腋窩、胸、大腿、恥骨部などから検体を採取ですね。まあ、体毛ならどこでもいいんで。ただ、芥子の実、つまり阿片ですが、こちらは一日以内ならコデインとモルヒネがほぼ間違いなく陽性で結果が出ます。コカインやニコチン、カフェインなんかも薬物依存の一種ですから、珈琲や紅茶にもお気をつけて。翔一さんは煙管気を付けなくていいです。」
遠回しに死ねと仰ったよこのこ!と四人は若干戦慄する羽目になったが、まあ、薬学方面から知識が得られたのは有難い。
「今吉、やっぱり伊月貸してくれ。監察医の先生も、後見にするなら伊月が良いって聞かないんだ。」
「あれ、そっちって断って無かった?」
「ちょ、だったら俺も研究室に伊月欲しいんだけど!」
警察から軍研究所から一気に声が上がって、うへぇ、と花宮は隠れて舌を出す。能ある鷹は爪を隠しておくべきなのだ、やはり。
「わー、月ちゃんもてもてやねー。」
「こころにも無い事言ってんじゃないですよ。そこまで言うならやってやろうじゃないですか、犯人確保。」
は?
室内にいた全員のこころの声が揃った筈だ。揃わない筈がない。あの論争がどう転んでどこに着地した。
「幸い、ヒントは多く頂けましたしね。諏佐さん、そこまでおっしゃって頂けているなら、今吉探偵事務所、所長助手としての出来る範囲でお手伝いします。但し、条件は翔一さんから幾つも出ると思うのでそのつもりで。花宮、揃ってる情報全部寄越して。春日さん、クラフト氏が何らかの形で関わっている可能性、低くはありません。痴漢被害の多くは海軍軍服を着た男に手を出されています。これは早急に手を打ちたいでしょう?」
「え、あ、それもそうなん~・・・けど~。」
急に話を振られて春日も流石に動揺を隠せない。確かに、海軍軍服を着ているならば、海軍内部を洗い、そしてもう一度ここに来るべきだった、とも後悔は隠せない。
「名刺、渡しておきます。軍内部の調査が終わったらこちらへ。俺か翔一さんか花宮が絶対います。」
渡されたのは、宮地も森山も隊舎の自室の抽斗に大切に仕舞いこんである、壮絶に美しい黄金比でデザインされてある名刺である。今吉探偵事務所の所長助手のスタンスは崩さない、ということだ。
「諏佐さん、誠凛は部活の自粛命令が出てますんで、今からでも検死解剖出来ます。これは、監察医の先生から俺に寄越した依頼、ということで良いですか。それなら翔一さん断れませんし。」
「本当か!?」
今吉にとって頭の上がらない人間がそんな身近にいたとは、と驚愕と、伊月が協力してくれるという事実の歓喜に諏佐は勢いよく立ち上がって、テーブルの大理石の表面が冷えた珈琲の雫に揺れる。
「翔一さん。」
その冷淡に見せた声は、静かな怒りを孕んでいる。
「俺にその台詞を吐いたこと、後悔させてやりますからね。」
今吉、何ゆった。
これは諏佐と花宮の共通の感想だ。じっとりと今吉を見やる瞳の恐ろしい事。あの標的にはなるまいと、花宮は大人しく資料を作ってやることにしたらしい、来客中ですが一度失礼いたします、と悪童からは想像もつかないほど丁寧な言葉と仕草で頭を下げ、事務室に向かって帰った。否、逃げた。
「伊月、本当に助かる。」
「幾つか条件ついてますけどね。俺でお役に立てるなら。」
赤線リッパー事件と同じ場所だ、と諏佐は告げて、あの事件そんな風に呼ばれてんのか、と考えた伊月には敬礼、そして返礼を受けて面談室からエントランス方面に出て行った。否、逃げた。
「俺ら、どうする~?」
「とりあえず、麻酔に詳しい奴研究棟にいっから、軍部全部洗うぞ。薬物依存怪しいってな奴は森山に一回相談して、結果次第で轢くか除隊だ。」
「轢く必要あったっけ~。」
「どっちかつと銃殺だな。じゃ、伊月、今吉さん、頼みます。」
「お願いね~伊月~。」
「はい、そちらも事なき事、御武運、お祈りしてますよ。」
一気に人口密度の低くなった室内に、カチャカチャとカップを下げる音だけが響き、デスクで難しい顔をしている今吉を鷲の目が見やる。
月ちゃんに危ない事させたない。
それが本音であったとして、それが本心であったとして、伊月がそれで喜ぶと思っているなら。
「翔一さん。」
そのしなやかな指先が持ち上げたのは、よく磨かれた銀製の、菓子を切り分ける刃先の丸いナイフ。
「本気の喧嘩、しましょうか。」
ばかみたいに。


続く。

***

別名、痴話喧嘩編。あ、表紙変わります。
初出:2013年5月7日 02:20


この回からこころ新章になります。進級もして心機一転。

20130903masai