何も知らない子供のままでいたかった?
いいえ。
汚くよごれた子供をその手に抱けて幸せ?
はい。
偽善に溺れる自分を賞賛できる?
はい。
偽善を偽善と知って尚?
・・・はい。
生長したと?
いいえ。
ふうん、案外聡明なんだね?
いいえ。
謙遜なんて結構、なんて?
キタコレ。
最後に一言、どうぞ?
消えろ、下衆。
どうもありがとう。












今吉探偵と伊月助手と映画の日曜日。後篇。












意識が完全に落ちた伊月はそのまま今吉の下宿に運ばれた。
「あらまぁ月ちゃん!」
大家が階段を昇る下駄の音に顔を出して、しょぼつく目を瞬かせ、いつものお医者さん呼ぶよ、と電話に向かったのを、頼んます、と今吉は腹に晒を巻いてくったりと背に預けられるままの伊月を一度、伊月の血塗れの服とインバネスを持って着いてきていた日向に手を借りて、胸に抱え直した。
「日向クン、鍵これ。開けて。奥から二番目。」
青峰は伊月の自宅への連絡に走った。なんだかんだでこの場所が、今吉にとっては一番治安が良い。
「いいんすか、緑間総合なら馬車使って・・・。」
「まあな、ちゃんと医者のおっちゃんに診て貰てからそれは判断するわ。ちょお待ってて。」
エレキテルの下、まだらに日焼けした畳と、清潔とは呼べない部屋だが窓を開けて換気と、その間に伊月の身体を預かった日向は血の気は無いが穏やかに眠るように意識を落とした親友の呼吸に安堵する。
「ん、ここ寝かせて。」
「あ、はい。」
「ゆっくりな。」
伏せて血の滲む晒を解きながら、日向が指示を受けてドアを開ける。湯を溜めた桶に大量の手拭いを携えた花宮が肩を上下させており、どけ、と一言。壮年の男性が連れられ、更に同い年程の娘もあった。
「こんばんは、せんせー。」
「翔一君、最近大怪我ないから儂も商売上がったりじゃで。こい、孫な。看護婦なるんじゃと。」
「いやそれ医者がゆうたらあきませんやろ。一応この子の怪我診たってくれます?傷自体は浅い思いますよって。」
血に汚れていた白磁の肌が花宮の手に暖かい手拭いで拭われる。傷の幅を測って、花宮は医者の見分を手帳に書き留めながら、今吉は熱心に聞いている。
「日向、状況どんなだった?」
「あ・・・いや、夜道を歩いてたら刺された・・・。」
「不審な人物は?」
「見てない。なんつの、向かい合って話してたら、・・だから見えなかった、つか。」
「ん、了解。帰っていいぞ。」
「いや、残る。」
はあ、と語尾を上げた花宮に、せやったら大家の婆ちゃんに電話借りておうち電話しといで、と今吉が手を振った。
「・・・う。」
「月ちゃん?」
「ちぃと痛かったかの。」
傷の深さを、異物などの確認に傷口をピンサで探れば呻き声が上がったが、意識は無いままだ。
「血圧弱いよ、お祖父ちゃん。」
「あー、若い内はこんくらいじゃ死なん。縫うか。」
「傷跡残る?」
「月ちゃんは・・・そか、緑間総合辺りにちゃんと傷跡残らんように、のほうがよかろな。野村に連絡しといてやろか。」
「あ、はい。たのんます。」
「止血処理終わった。動脈まで行って無いから、大丈夫だよ、翔一君。」
あの血の量に日向は驚いたのだろう、嘆息した花宮と、苦笑した今吉と、なんかあったら呼びつけろ、と医師が出て行ったのと交代に日向が部屋に帰ってきた。
「おおきにさん。日向クン、茶でも飲むか?」
「伊月は。」
「血は止まった、朝早いにでも緑間総合連れて行くわ。びびったやろ。」
「あー、はい、色々。」
「いい世話じゃねぇか、日向。」
ざまぁねぇな、なんて嘲笑われつつ安い銘柄も解らぬ茶を湯呑に貰う。今吉がからからと窓の桟を軋ませながら硝子を転がし、夜半の気温から護るように、清潔な手拭いを重ねた上に薄手の掛布団と、血で汚したスラックスのまま、更に腰まで上掛けを用意してやる献身を花宮は鼻であしらった。どういう関係でこうなってんだ、と日向が困惑する傍ら、指先に凝固した血液を花宮が濡らした手拭いで綺麗にしてやる。
「じゃ、俺一旦帰るから。」
「まこっちゃん、ワシに報告義務。」
「監視対象が偉そうに言ってんなよバァカ。」
「監視・・・?」
カーテンの無い窓の外、遠くの大通りの街燈が瞬いて消えた。
「日向クン、ここおったって。多分熱出すから。」
力無い白い手を渡される、元々体温の低い手が、親友の手が、日向には渡される。伊月が伏せたまま意識が戻らない背中には日向はインバネスを掛けてやって、枕元に座り込む。
「電気消すで?」
「あ、はい。」
読書と言う気分でも無い、とドアの向こうに消えた二人分の体温は、足音も気配も全く感じられなくて、思わず手の中の白い手を握る。親友の体温は、ここにある。
時刻も深夜、街燈すら消える時間に、下宿から離れた空き地はよく子供が遊ぶが、流石にこの時期の外で寝る子供はいない。上等な革靴が、足元に会った折れた木材を蹴った。
「伊月も伊月で気ィ抜きすぎだろっ!」
まるで子供の癇癪のように苛立った声音に、夜目の効く今吉は眉を顰めた。
「築地で音楽鑑賞、帝国ホテルで芸術鑑賞。ここまでは手に入ってた情報だ。そこからがどう転ぶか、まあ前もって日向と約束してたみてーだから、木吉に探らせたが尻尾を見せやがらねぇ。桜井が幸運にも帝国ホテルにいるってんで・・・。」
「既に足抜いとるヤツ使うか、ほんま。」
えげつな、と今吉に舌を出されたのを、一歩で距離を詰め、その首筋に、冷たく刃が押し当てられた。
「テメェに言われたくねぇよ、バァカ。お望みなら動脈掻き切ってやんよ。」
「そん時はまこっちゃんと一緒に地獄か。あかん、笑えらん。」
黒のブレザーの腹部に当てられている桜のステッキは、隠しで刃物が飛び出す。まるで根元に死体が埋まる桜の樹のような心中が出来そうだ。
「で、だ。その後は下町で蕎麦食って花街。ゆっとくけど違法風俗撤去させたあっこな。」
「赤線リッパーの場所か。」
「その後は御存じの通りだ。伊月侯護衛の職務怠慢だ。」
「月ちゃんが簡単に背後取らせる?」
「それだ。」
根元にMとHの彫刻が星明りを受けて無感動に煌めく。空き地の隅にある枝が目立ち始めた桜の樹の幹に、すとん、と軽い音で刺さったのを取りに、手遊びの如く足音無く、上等な革靴が歩く。高さは丁度今吉の頚だと、自分の成功を賛辞するようにくちびるを舐め、くはりと白い息に自嘲を重ねて抜き取る。手の中に翻してブレザーのポケットに仕舞った。
「伊月が簡単に背後を取らせた。そこだよ、今吉サン?」
「つまり、月ちゃんは。」
伊月は学生服で無く、煉瓦色のスラックスとベストで合わせてあった。
「暗闇で、狙いやすいのは、似たような背格好なら。」
「目立つほう、か。」
「朝から事務所にいたのも全部計算ってか?イイコちゃんが反吐出るぜ。」
「犯人、挙がった?」
「挙がったら青峰来るだろ。」
空き地から見上げれば今吉の暮らす下宿の扉は確認出来る。そこから注意は逸らしていないし、一度大家が様子を見に行ったようだがそれだけだ。
「ほな、一回日向クン帰さないかんな。」
「何言ってんだ今吉。」
「ワシの宝モンはいつでも月ちゃんやで?」
「成程ね。もーなんも驚かんわ。華宵から情報提供な。あの花街から春売り女は追い出されてる。」
「うん?」
ぴくんと片眉を跳ね上げた今吉の反応に、花宮はくつくつと、しとやかに、妖しく笑んだが、すぐに花宮真に戻る。
「あんな町、誠凛のインバネスなんかでうろつきゃどうなるかなんて、俺にでも想像つくぜ?」
「真は俊に思惑があったと思うか。」
「思うね。」
両家の子息でありつつも裏社会に詳しく、また聡明な頭脳と特殊な眼。
「狙いは日向であったかどうだか、現時点では明言材料は不足しているが、仮に通り魔的犯行だとして、その凶刃から日向を護るために、という可能性もあるが、正面から受け止めなかった、って事はだ、下手すりゃぞっとしねぇぜ?」
「まあ、可能性は三百考え、て教えたんワシやしな、合格にしといたるよ、まこっちゃん。」
ふざけろ、と吐き捨て、じゃぁなとそのまま花宮は夜闇に姿を消す。
「まこっちゃん。」
「なんだよ。」
声だけ返ってきたが、まあええわ、とそのまま今吉も下宿に向かってからり、下駄を鳴らした。帰ってきた部屋には日向が伊月の手を確かめるように握ったまま、壁際に蹲るように寝入っており、今吉は一つ息を吐く。
「眼鏡したまま寝る奴おるかい。」
器用に眼鏡を引き抜いてやって、インバネスの上に置く。インバネスの裾に血痕を見つけて、なんとなくお人よしをしてやろう、という気にさせられて、眼鏡は卓袱台に、インバネスを持って流し台に向かう。水で早々に洗い流してやらなければ、合皮素材でも痛むだろう。
「・・・なんで。」
誠凛大学のインバネスは学生証明でもあって、前釦は飾り布も使える。身ごろや裾や袖が学生服のファスナーと同じ素材で着脱が可能だ。その構造故、背中の切り返し位置に裏返すと名前の刺繍がある。
《伊月》と。
今吉はそのまま血痕を払ってやって、伊月の肩にあるインバネスを取った。《日向》と刺繍を見とめ、裏地は血に染まって、こちらも洗ってやろうと思わなければならないのに。
「どういう、こと。」
衣架に《伊月》と刺繍のあるインバネスを預け、その場に胡坐を崩して座れば、弱いがしっかりと呼吸する横貌があって、その美しい髪が少し短く頬に滑ったのを見た。
「月ちゃん・・・?」
名前の違ったインバネス。似通った背格好。日向のように短く刈り込んではいないが、おそらくでもって、二人は私服を同じように選んでいる事だろうと想像はつく。
どこで、なにから、二人は命運を分けた?
気付けば白み始めた早朝、電話の交換手が夜番と明番で入れ替わる忙しない時間に電話機を持ち上げた。
「朝早うからすんません、今吉です。ああ、お願いします。」
こんな朝早くに、と罪悪感は焦りで掻き消えた。
「日向順平の近辺で、なんや不審なことありませんか、景虎さん。」
答えは否。ひとつ、可能性が消えた事に、強くなった別の結論に、今吉は頭痛がする。
「いや、ほんならええんですわ。今日はちょっと面倒みたってくれませんか。昨夜の深夜に・・・ああ、耳早いんご健在ですなぁ、ほな、そういうことで。」
そのまま呆気なく通話は終えて、部屋に戻る。伊月を緑間総合の救急に連れて行くこころ積りであったし、大家が階段の下にいた。
「婆ちゃん、ほな、月ちゃん病院に連れて行くから・・・。」
「はいなぁ、もう一人のお坊ちゃんは?」
「悪いんやけど、婆ちゃんの朝飯ご馳走したってくれん?材料ワシの部屋漁ってええから。」
それは碌なものを作ってやれない、こちらの部屋で作っておくので教えておきなさい、と手厳しく有難い言葉を貰い、部屋に戻って綺麗な浴衣や綿入りを出して、秀でた額をつんと突いてやると、苦しそうに呻きながら、薄い瞼が持ち上がった。
「月ちゃん、病院いくで?」
「・・・いたい、です。しょういちさん。」
「そんだけザックリいっとったら痛いわ。起き上がれる?」
「おきま、す。くび、いたいんで・・・。」
日向の手を優しくすり抜け、布団に置いた両腕でゆっくりと体を持ち上げる。手拭いやら上掛けやら取っ払った所々に血が渇いて赤黒く目立つそれが、ばらりと布団に落ちる。
「いってぇ・・・やべ、痛い・・・。」
「自業自得や。これ着てこれ羽織り。」
「ありがとうござ、いったぁ・・・!」
浴衣に袖を通す際、腕を持ち上げた事で傷に障ったらしく、秀麗な美貌を顰めた。
「緑間総合の救急で?」
「せや。」
痛みで脳の覚醒が速い。血の気が足りない分は今吉が支えてやって、そろそろと着込み、抱き上げるから来い、と広げた腕の中に大人しく収まった。
「ちょぉ待ってな。」
伊月は病院へ連れて行く旨、日向は大家に朝食を用意されてあるから食べる事、と反故紙の裏に流麗な文字が書き記すのを、うっとりと眺めた黒曜石色の瞳は、酸素が足りないのか、そのまま、また、ゆったりと今吉の肩口に額を埋めた。
始発はまだ動いていない時間帯、深夜の仕事から帰ったり出勤にひとの疎らな路地に、からりからりと下駄の音が妙に重い。
「月ちゃん、否定するなら今やで。」
「・・・は、い?」
耳に馴染む声は今は苦痛に揺れている。
「自業自得や、って。何で否定せんの。」
首筋を整った睫毛が撫ぜた。
「月ちゃん、君、何に動いたん。」
何をして、何をしようとした。あの部屋は常に監視されている。両隣は遅くでないと帰ってこない安い下宿の大家は別として、通りすがる住人、郵便や新聞配達に紛れて、時折蜘蛛の子が混じっている。
「日向クンを、どないしたん?」
「っ。」
抱き上げた腕の中に腕を突っ張って距離を取ろうとしたが、今吉の手は正確に傷の位置を捕えた。
「痛みには日頃から耐性つけとかな、毒もいつ盛られるか分かったもんちゃうし。まあ、分かったら怖いわな。そんなん出来る人間限られてくるわ。のう、俊?」
ゆっくりゆっくり圧迫されていく傷が自然と開いていくのが、重くなった晒と痛みで解る。伊達に今まで生傷が絶えなかった事はある。経験は正しく語るのだ。
「ひゅ、う、がを、おれに、したてあげ、ました。」
今吉にとっては拷問とも呼べない痛みに、伊月は白状した。白状してしまった。体温が上がって汗が噴き出た体に、ゆっくりと腕を回し直した。
「月ちゃんの御人好し。」
涙に潤んだような声音で喉を震わせ、酷く優しい笑みを向けてくれた愛人に、何故だか伊月は背筋に悪寒を感じる。
「安心しなさい。あの下宿は今、まこっちゃんの手の中や。」
「は、なみや、の。」
「ワシが育ててワシが教えた。ワシが拾って学ばせた、月ちゃんの同僚のまこっちゃん。信用出来へん?」
「・・・むしろ、ひゅーがからきょひ、しそーです。」
救急窓口には電話連絡を貰ったという野村医師が待機してあって、今度はどんな大怪我だ、と苦笑された。少々輸血は迷ったが、意識がはっきりしているのと、今吉が良く世話になる医者から聞いた通り、若いからいいか、との結論で、内臓も筋肉も傷つけなかった傷は、縫合されて終わった。
「随分綺麗な切り傷だから、痕もそんなに残ら無さそうだ。」
麻酔で若干ふらふらしている患者をベッドに寝かせ、カルテの写しを今吉は受け取る。抗生物質は飲み薬と塗り薬。全治一ヶ月。本当に、綺麗に切らせた傷だった。
「おっす、ばあさん、水飴もらうぜー。」
「おやぁ、まこっちゃん、おはよう。」
「日向起きた?」
「朝ご飯食べよるよ、会うていく?」
「お願いしまっす。」
まるで子供のように弾んだ足の運びで奥の間に上がり込めば、麦飯に納豆と味噌汁と焼き魚を食わされている日向の姿があって、ふはり、花宮はいつものように、悪役のようなスタンスで嗤うのだ。
「よーぉ、ひっでぇ顔だなぁ。」
割り箸にくるくると水飴を巻き込み、空気を混ぜれば順調に白く色付いて膨らむ水飴を玩び、その食卓が用意される卓袱台に肘を置く。
「なんだ、花宮。」
「別に?伊月に頼まれたから見に来ただけだし。」
嘘も方便、莫迦と鋏は使いよう。
「っ、伊月は!」
「焦ると朝飯不味くなるだけじゃね?朝飯漁る、とか言いそうだよな、あいつ。」
「朝はあっさりあさりのスープ、だそうだ。」
はぁ、と呆れたように日向はもそもそと下町の朝食を食らう。
「あさりの味噌汁って二日酔いにいいんだぜ?」
「知るか。って、花宮お前まさか。」
「イイコちゃんには知れないオトナノ付き合い方、ってのはあるんでね。」
真っ赤な舌を出して反省の色も見せないで。日向に対する同情の余地はある。まるで伊月の身代わりをさせられたようなものだ。人死にを、それも親友の死に体など、見せられたほうは堪ったもので無い。伊月は日向が傷付けられることを、どこかで感じて、どこかで仕草や態度を日向に一気に似せたのだ。理論だけなら完璧な成り変わりをしてみせた残酷な親友を、今朝も疑うことなく、いっそ愚かしいほどまで盲信とも呼べそうなほどの信頼で、怪我の心配をしてやるほどの。
「良い事、教えてやろうか。」
「あ?」
くるりくるり、割り箸が白い甘ったるい物体を延々と練りながら。
「木吉がいて、誠凛は勝った。」
「・・・何が言いたい。」
「木吉がいなくなって、誠凛は更に強くなった。」
「花宮。」
「全部、仕組まれてたとしたら?」
からん、と箸が落とされ、ばし、とその上に勢いよく手のひらが振り下ろされる。
「何だよそれは!」
おおこわ、なんて思ってもいない事を花宮は目を見開いて、わざとらしく驚くような真似をして見せる。道化じみた仕草に、ぎちりと日向の奥歯が噛みしめられた。
「考えた事なかったか。目出てぇな。」
ふ、と肩を竦めた花宮を放って、日向はそのまま飯を掻き込む。学生服にインバネスを取ると、羽織る際に瞠目したのを、花宮は盗み見る。
「これ、伊月の・・・。今吉さんか?」
目出度い頭をしていると、花宮は思う。幼馴染と言う地位がどんなに価値ある物として、親友と言う立場がどんなに、呼び合える間柄がどんなに素晴らしいのか、きっと失うまで気付けない男なのだ、この日向順平というのは。
「婆さん、月ちゃんの洋服どこ?」
「ああ、ああ、ちょいとお待ち、やっとアイロンが温まったから・・・。」
「いーよ。破れてんの繕ったらアイロン頼むからさ。」
「そうかい?お裁縫道具は・・・。」
「持ってる。」
「じゃあ頼むねぇ。」
はいよ、と白いブラウスと煉瓦色のベストを受け取り、裁縫箱、と日向が顔を引き攣らせたのに嗤ってやる。
「御馳走様でした。食器どこに。」
「お粗末さま。翔一くんにゆうておくから。いいよ。」
そのままにしておいて、と言葉に頭を下げると、裏口からちらほらと、ばーちゃんおはよう、と下宿人が入ってきて、適当に持ち寄ったおかずなどでそこは食卓と化した。
「貴重品、放置しねーほうがいいぜ?揺すったら鍵外れるから。」
「まじで。」
これやる、と渡されたのは、買ってから好き放題に花宮の気が済むまで練られた水飴で、なんも仕込んでねェし寧ろ一口として甘すぎて食わないから、と半ば口に突っ込まれるようにして食わされた。このまま喉破ってやろっか、と述べた花宮は正しく悪童の顔をしていた。
「裁縫出来んの。」
「切ったり縫ったりは基本的に。」
主に人体に於いて、とは流石に可哀想なので言ってやらない。卓袱台にあった反故紙に、頂きました、ありがとうございました、と書き記した日向は花宮にとって正しくイイコちゃんで、手際よく白く戻ったブラウスを繕い縫ってやる。流石に女の仕事だと綺麗に血が落ちる。ベストも表は目立たぬよう、裏地もしっかりと繕えば、このまま伊月に持って行ってやれる。スラックスとおそらくは背広もあるスリーピースタイプなのだろうが、今回の怪我に於いてはその綺麗な切り傷が全てだ。傷の中に異物も無かったし、現場を調べた所、女の靴跡が残ってあった。おそらくは肉切り包丁の類で、と見当はあるが、また情報は表に開示されるときでない。
事務所の二階を花宮が探ったところ、警察から内々に調査依頼があった通り魔事件の頁に花宮と今吉以外が触った形跡が見つかってあった。若い、眼鏡を掛けた男を主に標的とした事件。
「ちったぁ痛い目みりゃ懲りるだろ。」
「何だよさっきから一人で。」
何か待っているような日向に目をやれば、手を差し出された。握手するような間柄でもあるまいし、と花宮らしくない逡巡の後、服、と催促された。預かって持って帰ってくれるらしい。
「おめー、バカじゃね?これ持ってどこ行くよ。」
「伊月んち返しに。」
「肝心の伊月俊本人は病院だろが。」
「あ。」
「本人に着せて、家への責任報告も取らせるから、日向、お前は学校行って、大人しく勉強してろ。イイコちゃんらしく。」
やっぱり一言多いのは花宮の花宮たる所以か、日向は聞こえよがしに舌打ち。そのまま今吉の部屋から出て行った。
「可哀想になぁ。」
或る日ふらりと家を出た今吉の背中と重なったのは気のせいだろう。花宮は上品なブレザーに獣のように伸びをして、外には山崎が配備されていた筈だ、とその場で一時だけ微睡んだ。
医療用のモルヒネを打って、伊月は病院で絶対安静の一週間を過ごした。鉄分重視の味気ない食事も飽きる頃、迎えに来たのはやはり今吉で、自宅まで円タクに乗せられて送られる間、終始無言の拷問のような時間だった。何せ空気が重い。今吉は話しかける気が無いのか伊月相手にはずっと沈黙を行使しており、伊月は伊月でそんな今吉の様子に尋常でなく恐怖した。
「・・・翔一さん。」
玄関先に、やっと伊月は口を開いて、眼が勝手に潤むのを隠すように俯いた。平日の住宅街は酷く静かで、絞り出すような声に、情けなくて口を覆った。
「今回は、ご迷惑、おかけしました・・・。」
深く頭を下げて、私用の事故に怪我の治療費負担が、先に警察や病院で無く今吉の所に電話した事で、仕事中の怪我、と方便が行使されて伊月家の財政は一切にして痛んでいない。
「ほんと、ごめんなさい。」
「・・・頭上げ。みっともない。」
「すいません。」
「ま、しゃーないわ。あんなもん勝手に見るもんちゃうやろ。月ちゃんただでさえ頑固で正義感強いんやもん。」
「すいません・・・。」
全く持って顔を見せずに謝罪だけ。これなら桜井のほうが余程にしてマシだ、と今吉は中折れ帽ごと頭を掻く。
「本当にお手数かけました。暫く養生します。」
「ん。」
そんな間にまた筋肉が痩せ衰えるのだろうか。もしくは無理をして鍛え直してどこか痛めそうで。
「心配、や。」
玄関に顔を向けていた伊月が、その口を突いて出た言葉に振り返って瞠目した。戦慄っとした。噛みしめられるくちびるに、顰めつらしく、今にも泣きそうに寄る眉根と、手の震えを堪えるような腕の組み方に、気付けば伊月は門扉に踵を返してきた。入院の際に要った私物の入った鞄を足元に降ろし、籠球から離れて皮膚の柔らかくなった手のひらに、頬を当てる。
「なんて貌、するんですか・・・。」
ぺたりと両の頬を包む体温に、今吉は瞠目する。
「なんて、情けないツラさらしてんですか、翔一さんのくせに。」
やだ、と子供の我儘のような声で訴えられて、美しい黒髪がさらさらと流れた。
「そんな顔するくらいなら、言えばいいでしょう?なんでも言ってくださいよ。約束したでしょう?」
奪えと、攫えと、言ったのは伊月のほうだ。年初めに暴いた仮面を、取り払って、築いてきた絆に、強く結ぶように。
「言えよ!」
ただの怒鳴り声で無く、悲痛に訴えるように、甘く囁くように、強い語気で紡がれた言葉に。
「心配、した!」
組んでいた腕が解かれ、伊月の肩と腰に回った。強く抱き寄せられて傷に障ったが、そんな些細なことに、その声から目から全身で訴えてくる強さに、伊月は視界が溺れた。
「なんでなん、なんであんなことしたん。心配するやろ、月ちゃんの阿呆。目の前で気ィ失われたこっちの身にもなれや!ほんっまに、お前は・・・っ!」
乱暴な呼び方に万感が詰まっているような錯覚に、伊月は傷の痛みも忘れて粗末な単に縋る。まだ袷に代えていないのか、と呆れたように考えた。
「翔一さんって、なんか最近不安定ですね。」
「秋はひと肌恋しなる。」
「ばーか。」
まだ消毒液の香る痩躯を開放すれば、二人で持って目元を擦ったので何だか笑えた。
「あら、俊お帰り。今吉さん、お迎えしてもらってすいません。お茶でもどうぞ?」
玄関先での出来事に気付いて、伊月は耳元が熱い。いやいやすんません、と今吉は慌てたが。
「翔一さん、鞄頼んでいい?」
微かに赤く染まる目元であざとく上目に覗き込んでやれば、う、と喉を詰まらせ、ほな御馳走なります、と今吉は鞄を下げて、微笑った。
「俊、お医者さんなんですって?」
「傷の事?お金の事?」
「お金は事務経理であんたの仕事でしょう。傷。」
「ああ、癒着もないし、感染症は抗生物質塗ったくって、清潔な風呂と包帯。運動は一週間は様子見。痛く無かったら大丈夫だけど痛み止め打ってまでは駄目。こんなとこかな。」
「はいはい、じゃあ暫くは俊が一番風呂ね。」
「あ、温度上げ過ぎると血圧上がって、だから。」
「あらそうなの?亀の御湯加減はお湯掛けて確かめなさいね。」
「母さんそれ!」
「頂いても良いわよ!」
子供のようにこんな風に笑う家族が、欲しい。
今吉はそう思う。下町で子供が遊ぶ風景が好きだ。花宮と伊月の子供のような遣り取りの喧嘩も好きだ。
「翔一さん、羊羹食べます?洋館で!キタコレ!」
「月ちゃんの家、見事な日本邸宅やん。」
駄洒落を思いついた瞬間の子供のような瞳の煌めきと、さらっと流された時に子供のように膨らむ頬を突いてやれば、その美貌は戦慄っとするほど美しく、覚醒っとさせられるほど大人びる。
「翔一さん、あのね。」
今度デートしましょうね。
くちびるだけで鮮やかに告げ、人差し指にくちづける仕草は、酷く艶やかだ。

今吉探偵事務所、本日は助手のみ常駐しております。
あの野郎ピッブとピッグと選ばせてやる、とはどうぞお気になさらず。

初出:2013年11月9日 01:22

参考文献、リチャード・ザックス。はい、フラグ立ったー。

***
月ちゃんにね。

20140109masai