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さあ、高く梁を上げよ
新婚を祝おう さあ、梁を立てよ、大工よ 新婚を祝おう 花婿は巨人だ 新婚を祝おう 友よ、なんという男なのだ なんと大きいのか 新婚を祝おう ―――サッフォー 今吉探偵と伊月助手と映画の日曜日。前篇。 ばたん、と糸と厚紙で冊子状に纏まっているそれを乱暴に閉じて、伊月は肺の奥から絞り出すように息を吐いた。 日曜日、文化祭の追い込みに文化部は大わらわで、籠球部は勿論運動部からの生徒駆り出しから器用に逃げてきた伊月は、勤め先である私立今吉探偵事務所の二階で、この本を覚えろ、と命じられたそれをやっと昇華した。尤も、また新しく憶えるべき課題は出てくるだろうが。 「終わりましたぁ〜!」 てんてんと階段を下りて、事務室が妙に静かなことに首を傾げ、耳を欹てる。外から立冬に秋の雨音と面談室から微かに話声がする。 「・・・お客様ですか?」 静かに若木の扉をノックすれば、入っておいで、と今吉の軽い声がした。 「ども、お久しぶりッス!」 「あれ、黄瀬?」 この秋の大会を期に籠球を手放した役者、黄瀬涼太。舞台や娯楽冊子に肖像や写真でよく見かける華やかな美貌は母親譲り。中学の頃から役者をしており、この度晴れて本格的に役者の巷談に華々しくデビュウ。 デスクに今吉、面談ソファに花宮と向かい合いう形で座って、伊月の登場にぺっかりと、花丸印の笑顔を見せる。 「月ちゃん、読み終わった?ちゃんと覚えた?」 「はい。時間掛かりました、すいません。」 「三〇頁第二段落から。」 珈琲、と花宮からの注文を受け付け、伊月はカトラリーに向かいながら。 「《簡単に言うと、男は大きくて、力強く、醜かった。しかし、明らかにペニスは自信を持っていた。すべてが彼に似合っていた。サラのお世辞が男を喜ばせたのか、身体の全部が見えるように振り向いてくれと彼女が要求すると、男は言われた通りにした。それまでピンと立っていたペニスが元気を失った。男はサラのことではなく、自分のことを考えていたからだ。そんな状態でも男のペニスは一五センチくらいの長さを保ち、太さもそれなりにあった。》っと。黄瀬はミルクと砂糖でよかったね?」 「・・・伊月さん。」 「んー?確か薩摩芋デニッシュあったはず・・・。」 「向こうの水屋だ。取ってきてやる。」 笑いをかみ殺す花宮が席を立ち、事務室へ行って、戻ってくる。伊月が切り分けて、それぞれに配られる。 「黄瀬、どうした?」 「あかんあかん、黄瀬クン、月ちゃん今の絵本の朗読と同じような感じでゆうてるから。」 「一五〇頁新聞社の考察。」 「《少女たちは、マットレスとベッドとともに運び込まれたトランクの中で窒息死したと思われる。トランクは二人の子供の身体を入れるのに調度良い大きさだった。捜査当局の発表によれば、おそらくホームズはかくれんぼをして遊び、子供たちをトランクの中に誘導して蓋を閉め、穴からゴムチューブを差し込んでガスを注入したのではないかという》?」 「おめぇの見解は?」 「ホームズ、は下宿経営や保険金詐欺にも手を出していたしなぁ、悲劇的英雄を引き合いに出したり、結構繊細で、それでいて潔癖な印象。棺桶をセメントで固めたというからかなり臆病ではあったんじゃないかな。リアリストでペシミスト。しかし幼女を二人も、しかも全裸にして殺す、というのは・・・。」 どんなものかな、と腕を組んで線の細い顎を摘まむ動作に、あの、と黄瀬は居心地悪そうに手を挙げた。 「悪い、食ってる時の話題じゃないな。」 「せやけどあのくらいの話題はさらっと流せるくらいでないといかんよ。聖書でさえ獣姦やら食人について語ってんねで?」 「ユウェナリスしらねぇの。どんだけペニスがでかかろうと運がなけりゃ関係ねぇんだぜ?」 「あー。」 花宮の悪辣な言葉に、それは納得、と黄瀬は苦笑する羽目になる。このデニッシュうまいッス、紫原からの差し入れさ、等と雑談も交わしつつ。 「翔一さん、黄瀬から何か?」 随分と長居を許しているな、と所長デスクの向こうの窓を見れば、夕日が鮮やかだ。雨は止んだらしい。 「依頼、ゆーよりオモロイ話やと思うて。月ちゃんにも聞いて貰いや。」 「え、酷いッス!割と本気で俺ら怯えてんスけど!」 「うん?」 まあその前に紅茶お代わり、とポットを差し出せば、頂きます、と頭を下げた。デニッシュを齧りながらミルクティで優雅に寛ぐ様子はまるで一枚の絵画。美男子を画けと言うなら僕は真っ先に黄瀬君を画きますよ、と桜井が言っていたのを伊月は思い出した。因みに美女なら春らしい。解せぬ、と思ったのは伊月だけのようであったが。 「レモネイドって映画知ってます?」 「無声なら。」 未だ自分たちが子供の頃に作られた一人の女性を巡る物語である。伊月は詳しくは知らないが、この度黄瀬が脇役で新しく作られる、新しい時代にもう一度蘇る、少女の物語の粗筋だけは親に聞いてら教えてくれた。 「観たん?」 「流石に時間無かったんで、昔のを読んだだけですが。」 「俺も。」 徐々に最近の女性の地位が変わってきたことで、この度大幅に台本は改訂され、女性の内面を鮮やかに描いたものである、と脚本家はとある雑誌のインタビュウで述べている。 「どうなの?撮影楽しめた?」 「檸檬さん・・・役のエミさんも俺と同い年なのにすげぇかっこいいんスよね!他にも杉さん、梅さん、めっちゃめちゃ面白くって!」 これかいな、と特集雑誌の頁を捲って、テーブルに今吉が用意してやれば、そうそう、と黄瀬は随分とはしゃいだ。今吉は現役の頃に、社会的問題は無いか、と見せられてある。大層につまらない、好色女の物語であった、と個人的感想と当局にとって問題なし、と二つの事を記憶に起こした。 「人物が木か花の名前だね。」 「花は女やろ。主役の檸檬も然りや。あとは、あ、これネタバレ?」 「両親に聞いたんで大丈夫です。果実のあるひとの恋は実を結ぶんでしょ。檸檬、梅、柿原。あと、松屋、杉、桜木、等は片恋に終わる。」 「桜木なんかは一回報われるんすけどね、ほら、花が咲くから。」 「なるほどね。」 市民文化に関しては仕事以外に完全に興味をシャットアウトしている花宮も身を乗り出して特集記事を覗き込んでいる。 「黄瀬、役名が林だけど?」 「脇ッスもん。今年から本格的にゼロからやり直すんで、全部自力でやってんスよ。今までお世話になった付き人さんとかは母親の付き人やってたのから引き継いでたのを、新しく雇い直したり、事務所の登録もし直したり。日活にも新しく所属直したんス。」 「ほお、そら関心や。」 あちらこちらにおんぶにだっこも、パラサイトだって立派に一つの生き方ではあるけれど、自立して、少ない稼ぎでも、貧乏でも、きちんと自分の足でその場に立てるのが、人間として正しいとまでは言わなくとも、理想な生き方であると、少なくとも伊月は今吉と共にあって思う。花宮は予定調和。イイコちゃんめ、と口の端を吊り上げながらもどこかその記事を読み進めながら楽しそうだ。 「やっぱり浅草が足が速い?」 「そッス、けど、ね、そこが伊月さん・・・。」 「うん?」 「この映画、関わった人間が次々事故ってんスよ・・・。」 「は?それなんてディック女王の統治制度?」 「誰スかディック女王。」 「ありえねーバカらしいコトってこった。」 しかし、ふむ、と役者の写真をひとつひとつ、花宮は眺め、見下ろす。 「依頼ですか?翔一さん。」 「おもろかったら関わったってもええかなって。月ちゃんがお人よししたってええよ?」 「肉屋の犬にでもなりたいんですか、翔一さん?」 「まこっちゃん、ワシの嫁さん怖いな。」 「知るかよってんだ。」 人間は自分以外の物には極端に扱いが変わると言われてから数年、多感な時期に震災の惨劇を見てきた彼らの目は、いつも自分にとっての正義を胸の裡に置いてあり、彼らの哲学は今吉にとって信用足りえる。 「悪語は良語を駆逐すんねで、月ちゃん。」 「はいはい。それじゃ俺、そろそろお暇しますよ。」 「ええ!?」 声を上げたのは黄瀬で、てっきり身の回りの不審な出来事を解決してもらえるこころ積りであったらしいが、残念だったな、と花宮にあしらわれることになった。 「どこぞ出かけるん?」 「ひゅーがと築地のレイトに。」 「蜂蜜と糞んなるなよ。旦那が怒るから。」 「なるか!そんじゃな、黄瀬。また遊びにおいでよ。」 「死人が出る前に青峰辺りに相談しとけよ、そんくらいの権限あんだろ。」 「まー、そッスね・・・。」 ひらひらと手を振って事務室に消えた伊月がそのままエントランスを抜けたのに、からん、と下駄の音が聞こえて振り返る。 「月ちゃん、手。」 「はい。」 差し出された右手を、今吉は玩ぶように握って、伊月が肩を竦めたのは指の股をゆるく掻かれたからだ。万年筆を持つペン胼胝に、手のひらからは徐々に硬さが抜けつつある。 「木刀は止めとき。変な癖つくで。」 「竹刀のほうがいいです?」 「今度ええ銘の刀握らしたるわ。それまで長物は昆か薙刀。空手はやってええ。柔道はあかん。合気中心にしてもらい。景虎のおっちゃんには連絡しとく。岩村の坊主にも時々挑んでおいで。」 「わかりました。」 「左手。」 「はい。」 「すっかりやわなったなぁ。」 たった半月ボールに触れないだけで、硬くなった皮膚はあっという間に細胞の再生サイクルに生まれ変わった。こんな時間に事務所にいて半日読書に没頭するような生活をしていれば、筋肉の付きづらい体質から、一気に筋肉は鍛えていた分がすっきり落ちてしまった。薄くも良質の筋肉を、インバネスの布越し、ベストやブラウスの下に探りながら、ふ、と安堵のように今吉は息を零す。 「翔一さん。」 「うん?」 「この間、路面電車の赤襟さんに、噂されてましたよ。」 言外に、外であまり接触するな、と忠告してやって、はは、と笑いながら後ろ頭を掻いた今吉に、それでは、と伊月は丁寧に頭を下げる。 「あ!ときちゃん達の戸籍、《Asyl》に届きましたんで、いつでも連れてきてやってください。まーさん母さんもさとちゃん母さんも、どうぞって。翔一さんちでご飯も限界ありますから。年端もいかない子を赤線で働かせるのも如何と思いますし。それなら《Asyl》で働いたほうがよっぽど健全かなって思って。まあ、子供達次第ですね。今度様子見だけでいいから連れてきてください。」 「ん、頑張れな、俊兄ちゃん。」 「頑張ります!」 ポケットから出した百合彫刻の懐中時計に時刻を確認し、鞄から定期券を出すと、伊月はそのまま路面電車の停留所に向かった。赤襟の女性と挨拶を交わし乗り込んで、ひょあ、と冬の入り口の風に、今吉は脇腹にしくりと傷んだ古傷に素知らぬ振りで面談室に戻った。 五〇〇席に満たない劇場だが、小山内薫、土方与志らが築地に設立された常設劇場は、様々な設備に衝撃的な感動を与えてくれるというので、伊月にはひとつ、お気に入りの場所だった。明治後期の新劇の流れを汲んだ自由劇場から、つい二年前に設立された小劇場は。 「小劇場の衝撃、キタコレ。」 「黙れ伊月。」 様々な舞台構成は歌舞伎を革新したり、海外の脚本もあれば今回は東雲管弦楽団からの招待券が送られて来たので伊月は日向を誘ったわけである。 「伊月さん。」 「こんばんは、篠野さん。ご招待ありがとうございます。素敵でした。」 少し遅い時間に裏口を訪ねて花束を贈って、何事ぞ、と瞬きを繰り返す日向に笑って、管弦楽団員地方所属の宿泊する帝国ホテルまで鉄道馬車で乗り合った。 「あれ。また雨だ。」 楽器を濡らさないように躍起になって駅舎から駆けるひとなみの後ろ、軒下で暫し待ったが、止まないな、と日向がぼやき、走るか、と言ってやれば帝国ホテルまで見事にインバネスは水浸しになった。 「あ、ひゅーが、学生服ずっるい!」 「学生の第一礼装だ、ダアホ。」 昼間の仕事から直に来たので伊月はブラウスにベストとスラックスの軽装で、豪奢な彫刻に飾られるホテルの玄関口にポケットからタイを出した。こちらもこちらで用意周到である。ホテルマンに身分証明を渡す際、濡れたインバネスを目ざとく、乾かしておきましょう、と言われて預けておく。 「どこ行くんだ?」 「展示室。横山大観の生生流転が来てる。」 「水墨か。」 「はいこれ、招待券。」 「こっちも!?」 なんだその人脈、と唸る日向に、まあまあ、と宥めた伊月が広く静かな展示室に入ると、絵画や彫刻、様々に視界に溢れるひとの手だ。 「亜麻さん、こんばんは。」 「伊月さん!」 立体造形のそこにいた和服姿の女性に伊月は声を掛け、こっち友達、と気安く挨拶を終える。 「えっと。」 「亜麻泰寛の玄孫さん。美羽さん。あの陶芸そうだよね?」 「はいっ!」 繊細な生花を作ったそれは、彫刻とも焼き物とも、一瞬判断がつかぬ。焼き物の色をした生花、生花に色を付けた、と聞いても嘘とは思えないだろうが、受ける印象は高村幸太郎の手に似ている。 「どうやって作ってんだ、これ。」 「凄いだろ。こっちの砥部焼・・・春山家か。凄いな。」 そのままクロークが閉まる前にインバネスを受け取って、途中で声を掛けられて振り返れば桜井良だ。 「こんばんは!スイマセン、招待券送ろうと思ってたんですけど、スイマセン!」 「亜麻美羽さんから招待券は貰ってた。桜井、これ俺の幼馴染。」 「日向さん、ですね。御噂はかねがね。」 「おい、かねがねってなんだ、かねがねって。」 「良くも悪くも俺の口の端?」 「よーし、伊月、歯ァ食い縛れー。」 「帝国ホテルで暴力沙汰はご遠慮願います!スイマセン!」 「・・・こいつ、素?」 何度も壊れた蓄音器のように繰り返される謝罪と張子の虎のように上下する頭に、こんなところで本当に殴る訳がないだろう、と日向は思わず心配になった。 「割と。キレたら強いけどね。さて、俺の用事で振り回して悪かったね。良い時間だから、そろそろひゅーがも夜の街に繰り出してみよっか!」 「なんか邪っぽい言い方やめろ。」 あはは、と軽やかに笑った伊月に、桜井は遠慮がちに、同行しましょうか、と小声で問うてみた。 「どうこうして同行する!キt」 「言わすかよもー、伊月まじ黙れ。」 桜井は仰々しい部屋を与えられて少し居心地が悪いのは本当のようで、よかったら一緒に、と伊月と日向と同行する運びになって、桜井の準備が整う間、ホテルのラウンジで珈琲と紅茶を頂いた。幸い雨は止み、するすると解けた雲の合間に月が昇った。 ホテル側に用意された馬車は借りないで、そのまま街燈が灯る街道を歩く。先ほどはタイをきっちりと結んで黒のスリーピース姿であったが、今はドレスコードには引っ掛からない程度であるがシャツに袷と袴、足袋に下駄と言う誰かを彷彿とさせる出で立ちに、日向は珈琲を噴いた。 「桜井はこの辺詳しい?」 「あまり・・・スイマセン。」 「そっか。ひゅーが、下町入るけどいいー?」 「いや、桜井に聞いてやれよ。」 「いやいや、桜井あんなナリでこんなナリで普段住んでるの下町の安い下宿だよ?」 「まじで!?」 「スイマセン!まじです、スイマセン!!」 「そこまで謝るこたねーだろ。」 「そーそ、逆にうざいよね。」 「スイマセンうざくて!!」 伊月にとっては予定調和も良いところであるが、日向は流石に、言い過ぎじゃないか、と頭を掠めた。 「あった、立ち食いでいい?蕎麦。」 「おおう・・・。」 「はい!」 立ち食いの蕎麦屋は下町に多くあるが、大概にして仕事の合間に食べるもので、あまり中流以上の家庭になると利用しないし忌避する者もある。日向は少々怯んだようだが、伊月は遠慮なく暖簾を潜り、逆に店主を困惑させていた。 「スイマセン、一味下さい。」 「はいよ。」 「葱少な目で。あっ、月見いいなぁ!納豆あります?」 「あるよー。」 「じゃあこいつに。ひゅーが、他になんかある?」 「いや、初めて来たから要領が・・・すまん。」 「そういうことだから、お勧めでお願いします、店長さん。」 テンチョウたぁ照れる、おっちゃんでいい、と店主は笑い、ラジオの局番を聞いてくれた。はくはくと小動物のように湯気と闘いながら桜井は蕎麦を掻き込むようにして食べるのを、他に客もいないし、と店主は宥めてくれて、伊月もゆっくりと猫舌に怪我の無いよう蕎麦を含む。案外早くに馴染んだ日向は、この歌謡曲いいっすよね、なんて長閑に店主と語り、納豆の出汁の味に開眼したのか、さっぱり店主と慣れ合った。 「今度私用で来るか。」 「昼時は混雑するからな、来てくれるならお八つ時がいい。」 「学校終わりにでも来たら?」 「あ、それだ。」 「御馳走様でした!」 「お粗末さん。」 「あ、待って待ってっ。」 猫舌が慌てて器に指を掛けて、御馳走様でした。 「これからどうする?」 「んー、花街見て回る?」 「はなっ!?」 「あ、いいですね。」 「オイイ!?」 誰も女遊びするとまではゆってねーぞ!と思わず慌てたヘタレには。 「ひゅーが、それ偏見じゃね?綺麗な飾り櫛とか着物とか、今の時期なら汁粉もあるよ。出店で。」 「僕も着物見たいです。スイマセン。美人画の参考になるので。」 じゃあ、と近所の華やいだ町まで少し足を延ばす。女を売る店は探せばあるが、客引きは地下劇場の演劇のビラ配りや映画館の物もある。影芝居の前で足を止める桜井の肩を伊月がぽんと叩き、細見を売りつけられそうになっていた日向を助ける。女性向けの飾り物を耳元に翳され、歯ァ食い縛れ、と実に綺麗な笑顔を日向に向けたり、汁粉を貰ったり、花街の終わりには大抵小さな社がある。 「あ、桜井そろそろ時間やばいかも。馬車呼ぶかなんか、そこの煙草屋で電話借りる?」 「スイマセン!そうします!」 おそらく桜井の気遣いは伊月と日向を本格的な危険から遠ざけるためではなかったか、と少々ばかり邪推し、帝国ホテルが寄越してくれた馬車に桜井が交渉し、二人も大通りまで送ってくれるとなったが、それは丁重に断った。 「でも・・・。」 「だーいじょうぶ、なんかあったら翔一さんに電話するし。な。」 その言葉でやっと引き下がった若手新鋭画家は、ぺこんと頭を下げて、馬車道を去った。 「そんじゃそろそろ帰ろうか、ひゅーが。」 「おう。」 築地小劇場で管弦楽団の演奏を、帝国ホテルで美術鑑賞を、下町や花街で遊んだ帰り道に、一度伊月は時計を確認して煙草屋に立ち寄った。漢方を多く取り扱う店でもあって、そこでどのような会話が成されたかは日向は知らぬが、見たことない位に上機嫌の幼馴染に、穏やかに嘆息した。 「ごめん、時間取らせた。お婆さん、ありがとう。ひゅーが、帰るか。」 ぽん、と肩を叩いて、並んで行く道行、そういえばこの辺でさ、と伊月が口を開いて、閉ざした。 「どした?」 「ううん?忘れた。」 「今から健忘とか勘弁しろ。」 忘れたのではない。日向にしていい話でなかったからだ。本当に、幼馴染は幼馴染のまま、いい意味でも悪い意味でも、成長して、成長しないで、生きてきてしまった実感に、知らず、拳が振れる。 「なんか、ひゅーがと一緒だと、安心しすぎて困る。」 「あ?」 「自分を取り繕う必要が無いって、いいな!」 かつかつ、と上質の革靴が踏み固められた路地に街燈の下に足音高く、日向の前に立ち、インバネスをくるりと翻し、人工の光と月の光が混ざった光源に、黒髪が綺麗な天使の輪を描く、凛々しくも美しく育った親友の、歯を見せて笑う、それでも子供っぽさが残る笑顔に。 体が、不自然に揺れた。 「・・・伊月?」 切れ長の目が見開かれ、ひゅ、っと息が零れた。 「ひゅが!だめ!」 鋭く叫ばれた声に、不自然な呼吸の音に、先ほどの颯爽とした足の運びで無く、ふらり、踏み出された脚が、腕が掴まれ、来た道を戻る。下宿が立ち並ぶ下町の細い路地で、店の灯りが消された煙草屋の硝子戸を叩けば、なんじゃい、と胡乱気な声で老婆が店の裏手から出て来た。 「ひゅーが、ごめん、でんわ・・・!」 煙草屋のエレキテルの下、雨は止んだというのにいやに湿っぽい学生服の、見慣れた水色のラインに歪に、黒のような茶色のような、擦れた痕跡が。 「伊月!!」 ぐらりと傾いだ痩躯を肩に受け、受け止め、そのままずるりと力無く座り込んだ伊月の貌を日向は覗き込んで息を呑む。 陶器のような白い肌が、今は紙のように白い。一切の血が抜けるような白さに、不自然に長く吐き出される呼吸に、ごめん、と紡いだ吐息に、真っ赤に染まった日向の手に。 「あ、あぁ・・・!伊月!伊月!?」 老婆が振り向き電話を取ったのも確認出来ず、日向は呼ぶ。幼馴染で親友の名前を。 「おい、大丈夫か!伊月、嘘だろ・・・っ!」 「医者呼ぶぞ!」 「伊月!」 ぐう、と呻いた声に、は、と日向は息を呑む。 「病院、まって・・・。」 「あっ、婆さん!医者待ってくれって!」 どうする、と喚き散らした老婆に頭を下げ、肩貸して、と伊月は日向に縋った。 「おい、いづき、いづき・・・!」 「泣きそうな、声、出すんじゃねぇよ、みっともないっ!」 男だろ、と鳩尾を弱く叩かれ、ひ、と喉が引き攣る。どうして、どうやって、伊月は。 「痛い、だいじょ、ぶ、痛い、から。」 「う、うごかないほう、が!」 「黙れ日向!」 血を吐きそうな声で、血に汚れた手が日向の胸倉を掴み、いっそ獰猛なほど、普段穏やかな黒曜石色の瞳が輝く。 「しょーいち、さんとこ、ばんごう。」 「あ、えっと。」 生徒手帳のアドレス帳に、何かあったら、と伊月から教えられてある電話番号。こんな状況に使いたくなかった。 「私立今吉探偵事務所の番号でいいんだな?頼んでみるぞ?」 「せ、ついめい、すっから、・・・やべ、くらくらする・・・!」 伊月が座り込んだ土間は真っ赤に真っ黒に染まって、悲鳴を上げた老婆が大量に晒しを運んできて、だいじょうぶです、と弱く血塗れの手を翳されて飛び退った。 『はい、今吉探偵事務所。』 呼び出し音の後に繋がった声に、日向は喉が震えた。 「い、づきが・・・。」 『あ?何?お前か、熱血メガネ。どうした、つって説明できる精神状況じゃねーみてーだな。』 「伊月が倒れた!」 受話器を持たない手に血が滑った。 「花宮っ、ここ、あかせんリッパーの、つかった、・・・とこ。」 「赤線リッパー?」 『ああ、あっこか、了解。メガネ、伊月はどこまで意識明確だ?』 「りょっ、了解じゃ、ねーだろ!お前、伊月、伊月が!」 『・・・。』 すう、と呼吸音に、日向は気付ける精神状態で無かった。 『バカが!黙ってゆう通りせぇっちゅーんが聞こえんのか、こんダボ!!』 内容はどうだっていい。日々の鬱憤散しには丁度いい、大音量の声で怒鳴れればそれでいい。きん、と突如の耳鳴りに日向は軽く三半規管を狂わせ、瞼の裏に星が散る、というのを聴覚から引き起こした。 「ば、っか!はなみやっ、ひゅーが、め、よわいの、しってん、でしょ!」 『テメェはテメェで何だよ!聞こえねー!』 とりあえず怒鳴っているのだけは解る。血で滑る手のひらで日向の学生服を汚すのは申し訳ないが、とその手首に出る骨を、思い切り軽い力で握り込んだ。 「いっ!?」 「おばーさ、ごめ、なさ、さらし、ください・・・。」 自力でここまで痛みに抗えるほどと言うのは、余程危ない状態か、そうでないか。痛覚が麻痺していないのが有難い。気絶するほどの痛みで無いのが、大丈夫だ、と伊月はインバネスを解いてベストを脱ぎ捨て、傷の場所を確かめる。背中の脇腹近く、高さは臍の程。 「いっ、伊月!!」 「ひゅーが、いいから、じょうきょう、せつめい!」 腹筋に力が入らず声が弱い。痛い、痛い、と訴える脳神経に、黙れ、と何度も訴えて。 「花宮!伊月怪我した!」 「せなか、さされた。」 「背中刺されたつって、はぁ!?刺された!?」 土間に広げられた背が血まみれのベスト。ブラウスを脱いでまだ白く清潔な部分で肌を拭う。 『日向クン、そこ月ちゃんとおって!警察向かわせとる。ワシもすぐ行く。君は真と話しながら落ち着きなさい。』 「へっ!?」 『今吉、今出てったかんな。日向、伊月どうしてる。』 電話口に一瞬今吉が顔を出し、警察、という単語に瞠目。花宮の声で座り込んでいる伊月の痩躯から血が滴るのを見る。 「血、拭いて・・・。」 『どこの。』 「はら・・・?脇腹・・・っ、伊月!」 『どうした。てか近くに箱あんだろが、おっせぇよ!』 苛立ちを顕わに花宮は電話口で焦れていて、ガンガンガン、と乱暴に硝子戸が叩かれる。 「あ、お、みね・・・!」 「お前、確か黒子の・・・!」 「話は後だ日向サン、花宮、こっち到着。今吉サンは・・・。」 駆け込んできた後輩経由で見知った顔に、日向は電話を取り落しそうになって、それを青峰が奪い取る。日向は解放されたように伊月に駆け寄って、只管名前を呼ぶ。 「おまえ、こどもじゃ、ないんだから・・・。」 呆れたように伊月が笑う。痛みに汗が浮いて、だのに体温が下がる気配がして。 「俊!」 そうして呼ばれた声を、声の主を確認して、ふ、と意識の急降下を体感した。 立冬の、寒い夜半の出来事だった。 続く。 |
初出:2013年11月8日 00:57
こういう話もありっちゃありかなと。いつも閲覧評価ブクマコメントありがとうございます!!ツッコミを全力で待機しております。今月っていつ百科載るんですかね。載るまでが目標なんで載らないと終われない((((;゚Д゚)))))))
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題はただの駄洒落だって何人気付いてくださいました・・・?
20140109masai