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数々の困難があったとして、この世の中は、ひとが作る世の中は、何事であっても思わなければ、成そうと思うこころがなければ、どんな事でも思いは実らない。
数々の困難があったとして、その強い思いがあるのなら、それはいつか実を結ぶだろう。 伊月助手と誠凛籠球部の最後の活躍。後篇。 河原と小金井が工具箱を出してきて、上等なソファに取り付けられた車輪をきぃきぃと回している。 「ここの留め緩んでるから、締め直して、あとはここですね。」 「すいません!はんだ鏝あります?はんだあるんで!」 どのような思惑かは知らぬが、警察への通報はされなかった。広間の質素でありながらも優しい寝椅子に陛下を座らせた怪力は火神のもので、水戸部と相田がクッションやら毛布の用意に侍従を顎で使っているのは何だか笑えた。 「ご覧になれますか。俺を含め、彼らが、彼女が、誠凛籠球部です。この度はお招きに預かることが出来て、皆で緊張もしましたけど、とんでもない僥倖ですよ。」 意識を混濁させない手伝いに話しかけた伊月の言葉に、ゆったりと頷いて貰えて、安堵っとこころが休まった。 侍従の中から霧崎第一の連中は姿を消していて、広間の掃除は伊月が視線で責めた木吉が預かった。暴露れる時は暴露れるさ、なんて逆に不安を煽って宥めた。 「一年!床の掃除終わったか!」 「終わりました、主将!」 床に散っていた硝子片や抉れた壁を部類しつつ纏め、日向と福田と火神で天球儀を起こす。 「福田くん、足元注意して。火神くんは頭上ね!額割れてるから!」 ホイッスルの合図に合わせて、ずん、と天球儀の土台が床に降りると、皆して息を呑んでいたのか、あちこちから溜息が聞こえた。 「黒子―!ちょっと乗ってみてー!」 「え、はい。失礼します。」 車椅子の修理、稼働試験に、割と強い力で動かされても大丈夫、と水戸部が頷いていたが、あくまで応急処置ですからちゃんと修理して下さい、と小金井は侍従長に頭を下げた。ぱたぱたと座面をハンカチで黒子が拭い、からからとソファの傍らに持ってきた。 「あの・・・。」 「大丈夫、意識はきちんとしておられるよ。」 もう、言葉を発することは難しいが、小さく顎を引いて、弱弱しく口の端が持ち上がるので、黒子は手を延べようとして、止めた。深く頭を下げて、落ちて来そうな額を手で押さえている火神の傍らに脚立が運ばれたのに、黒子が翻るのを合図に、伊月も跪いてあった腰を上げた。 「下から支えてて。裏の留め具外すから。」 「はいっす!」 「硝子で怪我しないのよ!」 脚立に上がった伊月が壁の留め具から額を支えている紐を外して、降ろして、と火神に合図。気を付けてくださいよ、と黒子がそっと床から受け止めて、すっかり曲がってしまった額装や破れた中身を哀しそうに見た。 「かたし・・・?」 「かたしとて 思ひたゆまば なにことも なることあらじ 人の世の中、ですよ。明治天皇の御製歌です。」 「ギョセーカ。」 「天皇陛下の詠まれた和歌を御製歌、といいます。」 行書で書かれた歌の印は《壽》。今上が若い頃に書いたそれを額装された御製歌は、頑丈な筈の裏板は割れていた。 「酷い有様ですね・・・。」 「いいお歌なのに。」 破片気を付けて、と和額の留め金を外して裏板を外し、入れ子と作品。作品を護るために張られていた硝子は本来と逆の役目をしている。こちらは侍従長がきちんと有様を確認して、その間に伊月が見たのは天球儀の台座の位置だ。 「少しずれてるけど、まあ許容範囲かな?」 「どんくらい?」 日向の問いに、ほら、と屈みこんで、伊月が床に目立った凹みを示す。 「ちょっと後ろにずれた。レイアウトに問題は無いけど、まあ、その辺はこのお家でどうにかして貰おう。他には?」 「ああ、短剣だとか銀の匙だとか、硝子ケースに入れられてたやつな。散乱してたけど一応収めた。」 左手に黒革の手帳があるのを日向は確認し、これ、と枠のみになったケースの前へ。 「場所は?」 「侍従の方の手伝いをさせていただいただけですので、間違ってないとは思われます!」 「ん、ありがと。陛下に接見させて頂きな、折角だから。」 遠慮の色が濃かった一年に伊月が言って、日向が頷いてやれば、多少戸惑ったが、従医師に付き添われている寝椅子に向かってそろそろと歩いて行った。 「紛失はありませんね?」 「だから通報しなかったんだと。」 「ああ、なるほど。」 短剣の先端は曲がって、匙も先が平らに鞣されたようになっているが、熱を加えれば何とかなるだろう。問題は粉々になった勾玉だ。 「これ、翡翠でしょ?」 「ええ・・・。」 「うっわー・・・。」 「瑪瑙と水晶、と。うん、確認。天球儀の上のほう見たいんだけど大丈夫?」 「解った。火神―!」 はい!と威勢の良い返事に、日向が伊月の意図を伝えると、黒子と伴って脚立を組上げた。 「今の青年とあなたの得点はお見事でした。」 「まだ清掃が完了してないので危ないですよ、殿下。」 「ちょえっ、殿下!?」 「ひゅーが、籠球部の主将です。」 「背がお高いですね。」 「籠球は身長がモノ言いますから。火神は凄いですよ。伸び代がどこまでも見えなくて、相田監督曰く、将来が楽しみ、だそうです。」 「ちょっと伊月、何平然と会話してんの。」 「一周回って緊張すんのばからしくなった。クラッチタイム期待してるよ、主将。」 クラッチタイム?ししし勝負所をいいいい意味します、とどもりまくっている皇太子殿下と1on1状態の日向を置いて、伊月は天球儀の上に見下ろす形で脚立に上がる。 「こっちはほぼ無傷・・・なのかな。あ、ここ罅いってるのそうかな?あ、ここの装飾潰れてる。カントク!これに詳しい方に一度見て頂いて!」 解った、降りてらっしゃい、と手招かれたので、そのまま身軽に飛び降りれば、おお、と感嘆された。 「いっけね。」 「お里が知れるわよ、伊月くん。」 「面目ない。」 御製歌をしみじみ眺める小金井と水戸部に近付いて、どうした、と顔を出せば、水戸部が首を傾げながら裏打ちされている御製歌を見るので小金井も首を傾げている。 「どしたん、水戸部。」 当の水戸部すら解っていないようで、ふむと伊月は顎を摘まむ。 「んー、何年前の作品かはわからないけど、あ、ちょっと湿気強いかな。」 「どゆこと。」 「端のほう、裏打ち浮いてる。あと落款が不完全、かな。」 こくりと水戸部の肯定。 「あ、朱印がない。」 「そゆこと。筆跡からいって、今上のもので間違いないよ。お前らも接見させて頂いたら?」 「あー・・・。」 そのために呼ばれたんだもんね、と小金井が苦笑し、少々躊躇った水戸部と共に、寝椅子に深く沈む今上帝に頭を下げて歩いて行った。 「さて。」 ここで何があったか。 置き場所が少しずれた天球儀と荒らされたフロアを俯瞰で見やるに、この作品の他にも飾られている左右の額装や掛軸は酷く不自然なほどに綺麗なままだ。傷ついた匙や短剣といった小物は、きっと照合すれば天球儀の台座を傷つけたそれに間違いないだろう。 「どうするかなぁ。」 事の顛末は、きっと従医師が全てを知るだろう。闇に葬っても良い事件であるとは伊月は思う。ただ、自分の正義に反するだけで。 そう、正義に反する。 善悪の区別がつくなら、善行は躊躇いなく行うべきだ。親から授かった言葉に、知らず、眉根に力が入る。 「伊月、顔が怖いぞ。」 「木吉。」 「お前さん美人だからなぁ。怒ったら滅茶苦茶怖い。」 「美人とか、そゆのは相田に言って上げなよ。」 「殴られてもか?」 「言って殴られたか。ちょっと外の空気吸うわ。はぐらかしといて。」 「解った。」 ぽんぽん、と穏やかに大きな手が肩を叩く。その声音に体温に、盟友の存在に、怖い位に安堵する。 西洋庭園の片隅の西洋薔薇は、日本の土にも気候にも安定して花を咲かせる多年草だ。ぱちん、と扇を閉じる音に、伊月は瞠目した。 赤茶けた潤いの無い毛先と、色素の薄い、赤い光彩。 「天野・・・さん。」 羽織袴に家紋は無かった。舞踊のそれを連想させる扇の動きに、懐に仕舞われる。結っていない、中途半端に長い髪が、ゆらゆらと風に毛先が遊んだ。 「久しいなぁ、伊月。」 「・・・ええ、全く。何の御用で?」 「部下の働き見に来ただけや。あと仕事。」 とん、と左胸を示した指先に菊の生花は無く、伊月はインバネスの胸元にゆれた生花が若干歪んでいるのに気が付いた。 「なんや行き詰まり?お話したってええよ?」 「今上のご容体、聞かせて頂きました。」 「うん、自立歩行も無理やね。年内持つやろか。」 「不敬罪ですよ。」 「冗談や。今上はええひとやし、自分も長生きしてもらいたい、て思う。」 さく、さく、と芝生を踏みしめる下駄の後ろを伊月は従うように追った。いつもは手負いの獣のように獰猛な光を宿す瞳は、今日は奇妙に穏やかだ。どちらが本当の姿なのだろう。 「遠眼鏡事件、知ってる?」 「勅使の読み上げの後に遠眼鏡を模して議事堂を見渡した、と。」 「どない思う?」 「天皇陛下も人間なのだと。」 人間、なのだ。神の子孫と言われる天皇家。様々な陰謀と、平安より昔から闘ってきた軌跡と記録。歴史を国家を背負う双肩。人間なのに。 「ほか、安心した。あれはちょっとした陛下のお茶目や。一夫一妻も、ぜぇんぶ、今上は人間であろうとして、人間として生涯を終えようて、思うてはる。」 「解ります。」 するりと晩夏の風が頬を切るようだった。ご老体にこの風はお辛いだろうな、とぼんやりと、伊月は思う。 「平民と同じ目線で、世界を見て、それを受け入れられない切なさに、苦しんでおられる。」 「・・・自分が出て来たん、無駄やったみたいやね。」 「でもね、解らないんです。どうしてあの御製歌を壊したのか。」 ふん、と鼻であしらうような笑みに、射抜かれる視線に、戦慄くりと伊月の背に悪寒が駆けた。 「人間やから。困難があっても思いがあれば世の中は、なんてな!所詮綺麗事やろ!?伊月は!お前はまだ若いからそない言える!あの狐に聞いたらええわ、いつぞやの観菊会での刃傷沙汰!ほんっまに綺麗な世の中しか知らん伊月に反吐が出る!その年で困難潜り抜けてきた!?ふざけんな!泥水啜って飢えてからはら食うて生きた事もないくせに!」 せやからお前は嫌いや、と絞り出す、泣きそうな声音が痛々しい、小柄な、少年とも少女とも、大人とも付かぬ生き物の本質を、伊月は垣間見た。 生き方なんて人の数だけあって、人の数しかなくて、そのひとを、何人伊月は見ただろう。 「所詮俺は、ぬるま湯の若造、だと。」 「ちゃう。搾取する側や、ゆうてんの。」 「っ。」 全身が熱くなるような衝動に、左手に携える手帳を取り落し、拳にきつく力が籠る。目の奥が熱く、鼻先がきんと痛む。 「だったら!数ある困難とやらを、俺に寄越せ!全部全部拾ってやる、潜り抜けて助けて、同じ目線まで降りてやる!」 「所詮上から目線やね。」 「俺はその上に立っている。」 御尤も、と肩を優雅に竦める仕草に、先ほどの取り乱しは風にでも攫われたように跡形もない。挑発されたか、と眉を寄せれば、くは、と雄叫びが嗤うように発された。 「達観した積りで、痛い目会うても知らんで。」 「達観なんてした積りも覚えもありません。」 「あ、そう。」 はらりと首筋をなぞったそれに気付けるまで、瞬き二つ分掛かった。 大きな目の中の赤い光彩に移る白い肌と黒い髪が自分の物だと気付くのに、頬にぴりりと走った痛みに、顎に流れ伝って白い生花を汚した水滴が、血液だと。 交差させた手首に羽織の中の腕を拘束し、首筋を、動脈を正確に狙ってくる扇の中の隠し刃に、ぎ、っと奥歯を噛めば、けた、と壊れた笑い声がその口から発された。けたけたけたけたけた・・・。 「よぉ鍛えたやんけ。それでこそ自分の好きな伊月や。遠慮なしに殺れる・・・。」 うっとりと愛でも囁くような声が遠ざかり、捕まえてあった腕は巧みにすり抜けた。 「さて、そのきれぇなインバネス、汚してまう前に聞いたろか。」 「何を・・・。」 「あの広間、荒らした犯人、知ってんねんやろ?伊月。それはウチの管轄や。教え。」 全く、と取り落した手帳を一瞥するが、拾いに行く必要は無い。書き留めていないからだ。必要が無いと思った。 「動機が繋がったので、ほぼ確定です。」 「ふうん?」 「匙や短剣など、天球儀の台座と床の間に差し込む。粉々になった勾玉はその際に割れたんでしょう。天球儀の台座の裏に、翡翠と思わしき破片が減り込んでいました。男三人の手際で無いと動かせない重量でしたが、車椅子を使えば梃子の原理で簡単に動かせる。天球儀は意外と大きさがあったので、その重さも利用出来た。」 矢立てを使って扇に伊月の言葉を記す横貌に表情は無い。 「あの御製歌は明治天皇のそれを今上が若い頃、自身の戒めにお書きなさった、というのは推測ですが。」 「うん。」 「老齢で、過去の自分に責められるようなお気持ちを覚えられ、従医師と共に破砕。主犯は従医師殿かと存じます。今上にもう、そんな体力はありません。どうでしょう。俺の見立てはそんなところです。」 上出来、と獣のように嗤う貌は、全てを知っているかのように、何も知らない子供のようにも見えた。 「伊月、札の使い方、間違うたらあかんよ。」 「こんな話、どこに出せるかなんて決まり切ってます。」 「下手したら死ぬで。」 「解ってるつもりです。これは俺が墓場まで持って行きますよ。あいつらも、適当にはぐらかされてくれるだろうし。」 俄かに騒ぎ出した邸内に、伊月が視野を広げれば、同輩後輩が屋敷から出て来た。 「ああ、そろそろ昼か。」 「あっ、まじだ!」 百合の彫刻は公正を意味して今吉が手ずから彫り込んだ。懐中時計の針は真摯に時を刻み、くっ、と耐え切れずにそれは笑いを零した。 「頬っぺた、言い訳せんと叱られるんちゃう?ほなね。今度がないとあらへんとええね。」 「あなたが与えてくれる困難とやらも、お待ちしてますよ、天野さん。」 「こんなんが困難?」 「キタソレ。」 に、とその美貌に強気な笑みを浮かべて、伊月は踵を返す。 「伊月君、今上がどうしてもとおっしゃって。」 「はい。」 殿下の言葉に、盟友が玄関口で待つそちら、伊月は凛と背筋を伸ばし、誠実な正義の灯る眼差しに、寝椅子に近寄る。 「陛下。」 「・・・いま・・・。」 震える手が、封蝋に力の無い封書を伊月に差出、その場に跪くと、その美しい黒髪をさらりと目元に滑らせ、賜ります、と静かに、穏やかに、微笑った。 ちりちりとハンカチの下に痛んだ穢れを拭うように優しく手が伸びる。 「ええ、伝えておきます。陛下も、お元気であらせられますよう。」 そこでどの遣り取りがなされたのか、仲間は特に探ろうとはせず、日本庭園に戻れば、ビュッフェで昼食。 「頬っぺたどうしたんですか!」 黒子の剣幕には、鎌鼬にやられたよ、と苦笑すれば、憮然と、お大事に、と返された。どういたしまして、と笑ってやれば、ぷくうと子供のように頬が膨らんだ。途中で擦れ違った侍従の一向に絆創膏を貰って、さわりとひとなみが動くのに、花道を築く。 政治家、軍人、勲章授与者、殿下が語り掛け、緊張しつつも返答し、深くお辞儀をして、徐々に大きくなる鼓動を、呼吸で落ち着ける。 「素晴らしい仕合を見ることが出来ました。」 「お、恐れ入ります!」 「最後の連携が、まだ目に焼きついたままです。素晴らしかったですね。どのように練習を?」 「私に籠球の知識が一切に無いものですから、生徒が全て自主的に行ってくれております。今日のこの場へのご招待は、不相応にも、生徒を誇らしく思います。」 「いいえっ、もう、勝つぞって一心で。」 「あの練習が結果に繋がった事が何より幸いでした。後輩にも伝統引き継がせます。」 「凄いしんどかったんですけどね。皆で勝ったんで!」 「皆で、ですか。」 「仕合に出れるのは五人と交代選手だけです。ベンチから声を出すのも勝負の後押しでした。」 「応援で名前呼んでもらって、練習の成果出た事もあったし。」 「独りじゃ出来ませんからね、籠球!」 侍従長の合図に、部員全員で頭を下げて、姿勢を正す。 「緊張、しったぁ〜!」 「したした!さっきお屋敷のほうで話させていただいたけど、ここですると違うね。あ、水戸部も同意見?」 荒れ放題だった広間に、伊月の存在と木吉の闖入で、何だこれ、片付け手伝います、と安定の順応性を見せ、殿下とも会話を成立させたが、社交界中から注目される一介の学生の固まりは、座り込みそうに緊張の中で立っている。 あの試合での度胸はどうした、と木吉は場違いに笑う。赤司と何をか語り合う殿下を広い視野に認めた伊月は、赤司の鮮血色の瞳に視線を流され、列から離れる不躾を相田に告げて、白いクロスの掛かったテーブルに凭れるように、空を見た。穏やかに遠い空の下に、微かなひとのざわめきと、しくしくと痛む頬の傷。 《かたしとて 思ひたゆまば なにことも なることあらじ 人の世の中》 数ある明治天皇の御製歌の中に、どうしてかのひとはあの一首を選んだか。 《おのが身は かへりみずして 人のため 尽くすぞ人の つとめなりけり》 数ある明治天皇の御製歌の中に、どうして伊月はこの一首を選んだか。 思惑なんてひとの数だけあって、志だってひとの数だけあって、数多の思惑で世界は出来ている。労働農民党などの無産政党がこの春台頭し、労働争論が調停、公布された。 伊月の叔父はこの春で多くの小作人を使用人として雇い直したというし、伊月の父親の友人が立ち上げた水平社は問題を多く抱えながら、難航しつつも目的に、目標に向かって櫂を漕いでいる。 「お疲れ。」 「お疲れ様、ひゅーが。」 「こんでやっと主将業解放かぁ。」 「あ、じゃあ俺も副主将共に会計から解放だな。来年度からは風紀の腕章が回ってくることもないし。」 指を組んで肩を上げ、猫のように清々しく伸びをして見せた幼馴染に、日向は思わず笑ってしまった。 「そろそろ悪い事でも覚えよっか。」 悪戯でも思いついたかに笑った伊月に、おい、と日向が笑い、何の話、と相田が来た。 「女の子は慎み深く、って話。」 「ちょっとーぉ?もう女が家庭を守って大人しく、なんて時代じゃないのよー?」 「あ、婦人会?」 「婦選獲得同盟!学校経由でお話貰っちゃった!」 「勝てる気がしない。」 「いかん、負ける。」 頭を抱えた幼馴染二人に、相田は得意気に笑い、何の話だ、と寄ってきた木吉に、私が最強って話、なんて茶目っ気たっぷりに笑う。 「ま、未来の旦那さん大事にしながら頑張りなよ、相田先生。」 「伊月くん、明日のパパの稽古五倍にしてもらっちゃう?」 「ごめんなさい!!」 「俺も明日くらいから顔出すわ、カントク。体動かし足りねー。」 「進級試験に無理のない範囲でな。」 「「黙れ学年主席。」」 ぽやぽやと相変わらずの木吉に元主将副主将コンビが噛み付き、進級試験かぁ、とぱらぱらと同輩が集まる。春が来れば所属学部で本格的に道は違ってくる。部活に顔を出す時間はおそらく取れない。寒い冬が来て、桜の綻ぶ頃には。 「よし、そんじゃ武田先生は迎えの車待ちという事で?」 にこにこと教え子らの勇士を見守ってきた三年間と、これからの。武田教諭はゆっくりゆっくり頷いて、生徒の背中をいつも押してくれたのだ。 「一年、二年、明日から部内大勢整えとけよ。春までは時々顔出すけどな、次の大会負けんなよ。ってことで、帰るか。」 二年半、色々なことがあった学び舎に、新宿御苑から、今度は路面電車に乗って、それぞれが最寄駅で降りる中、三年生だけは誠凛大学の最寄で仲良く下車した。公欠席扱いとなった今日は授業も終わって、部活に道場や、文化祭の準備に大学、師範女学関係なく入り混じって、看板やオブジェを作っている。 「相田さん、どうだった!?」 「いやもう、緊張しっぱなしよー。」 「体育館開いてる?」 「舞台弄ってるから籠球出来ないよ?」 「別にいいよ?」 籠球はしたいが、別段そんな風に集まった訳でなく。 使い古したゴムの匂いに反射的に手首を捏ねる。舞台装置は演劇だと言う。 「最初は、鉄平だっけ。」 そうそう、と小金井が頷いた。 「伊月が真っ先に賛同したっけ。」 日向とほぼニコイチで行動していた一年時、計算高く動いた木吉の誘いに伊月は軽い気持ちで乗っかって。 「籠球、すんげー楽しかった。」 同意と、それは良かった、とでも言うように水戸部が笑う。 「練習、キツかったなー。」 「彼女さん応援来てくれてたね。」 「伊月知ってんの!?」 「俺のイーグルアイから逃すかよ。」 「やだかっこいい!!」 「カントクのメニュー、まじ吐いたよなぁ。」 「一年くらいで順応したじゃない。もう五輪に出したって恥ずかしく無いわよ、あんたたち。」 次の開催地はアムステルダム。 「もっとさ、こう、日本中が籠球に湧く、っての、あってもいいよな。」 「徐々に画策してるみたいだけどね。」 「誰が?」 「赤司。」 なーるほどー、とちょっと戦慄としない反応は予定調和であって。 「よし、今日はお疲れさん。」 舞台装置周りが少々作業に慌ただしい体育館で、貰った菊の生花は帰り際に頂いた木箱に入れて鞄に既にあり、伊月の胸章も外された。 二年と半年間の盟友は。 「明日から誠凛総合文化祭の準備で本格的な籠球は無理だ。三年は自由練習。主将からの言葉はこんで終わりな。あざっした!」 胸を張って声を張って、礼の言葉に潔く頭を下げた日向の、眼鏡のレンズが僅かに曇ったのを伊月は見逃さないで。 「ありがとうございました!」 伊月を筆頭に皆で頭を下げて、相田は宝物のピンクのホイッスルを両手に包んで頭上のリングを見上げた。 「相田はカントク続けてやってくれるんだろ?」 「そうね。女学は・・・まあ、時間縫って見に行ける。あんたたちほど忙しくなんないし、河原くんと福田くんで粗方の練習メニュー回してけるでしょう。」 「時間縫って観にってやるほど、あいつらヤワじゃないって。」 「そうだぞ。リコだって自分のしなきゃいけない事、あるんだろ?」 最初から、彼らは決めてあった。引退式はしない。後を濁さずに、すっきりと飛び立とうと、決めていた。 引退しても残り、最長四年間はこの学び舎にいるのであるし、顔を合わせることもある。学部が同じ後輩なら、進級してからも同じ教室で学ぶことはある。 「そんじゃ、あいつらに見つかる前に、部室の荷物持って、撤収!」 「ひゅーが、ジオラマどうしたの?」 「ああ、美術部の展示に出した。」 「伊月―、ネタ帳はー?107巻結局どこー!?」 「おしえなーい。駄洒落が聞きたかったらいつでも会いに来いよ。」 「「「いや、それはいらない。」」」 「ちょっ、ヒドイ!」 まるで夜逃げみたい、と小金井が笑いだして、違いない、と木吉が同意して、頑なにロッカーを見せてくれなかった水戸部のロッカーは、気が付けば中身が無くなっていた。 「あ、そうだ、伊月くん。」 「うん?」 「これ、誕生日のお祝い。」 ごたごたしてて渡せなかったの、と相田に貰ったラッピングは、例年ならネタ帳用の小さなノートが入っているのだが。 「うん?」 開けて、と急かされ、中身は黒革の手帳だった。 「えっと。ありがとう。」 「うん、どういたしまして。最近結構な速度で消費してるでしょ、助手用の手帳。市販品だから使い勝手どうかわからないけど、大丈夫なら使って。」 水戸部から伊月の進路を聞いてあるのか、相田の声音には必死に訴えかける何かがあった。大切に使わせてもらう、と伊月はラッピングを包むと鞄に仕舞い込む。宝物が増えてしまった。 「今なら、誰にだって勝てそう。」 そんな幻想に胸が熱い。 「よし、忘れもんねーか?ねーな?退散っ!」 退散、と言う文句に思わず噴き出した面々は、まるで鬼ごとの子役の如く、体育館から駆け出し、笑って帰路に別れた。 「ひゅーが、髪切ってもらっていい?」 「おう、どうした。」 「昼に鎌鼬喰らって、横髪が少し乱れた。長さ整えるんでいいや。横だけ。」 「おう。」 カツン、と上質の革靴が、日向理髪店へと続く道で嫌に響いた。霧崎第一のブレザーに緋色のネクタイ。ざんばらに赤茶けた毛先を風に遊ばせながら、馬車道の車道側にいた日向が半歩遅らせて、何気なく擦れ違った。 「伊月。」 「うん?」 「今日の会場、花宮、いたよな?」 ぐ、と拳を作る事で、伊月は衝撃を耐えた。 「そうなの?俺にはみつけらんなかった。」 疑問形の形を取りながらも、レンズの向こうの強い瞳は、断定的に問う。 「てゆーか、仕事以外でも花宮と一緒って、それひゅーがと同じくらいで腐れ縁じゃないか。やだよ。」 秋の釣瓶にもう陽は沈みかけている。淡く微笑む友人の、帽子を取って前髪を跳ね、秀でた富士額の下、整った鼻梁に切れ長の目と黒曜石色の瞳と白い頬。初めて見たときは、人形のようだと思った少年は、凛々しい青年に羽化した。 「折角だからちょっと夜通し遊ぶか。次の週末、1on1しよ。《Asyl》の高尾部屋貸すから。」 「おお、まだ《Asyl》入った事ねーんだよな。」 なんだったら青空理容室やってよ、金は出す、と彼らはその日、極普通の、最高学府に通う幼馴染に、一度立ち戻った。 今吉探偵事務所、明日も通常運転。 どなたさまもお気軽にご依頼にお越しください。 |
初出:2013年11月1日 20:00
伏線回収と同時にばら撒きすぎた。
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回収できる気がしない。
20140109masai