もし政府と国民に、総てを棄てて掛るの覚悟があるならば、会議そのものは、必ず我に有利に導き得るに相違ない。 例えば満州を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、 その結果はどうなるか、また例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。 英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。 何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保つを得ぬに至るからである。 その時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我が国に向って信頼の頭を下ぐるであろう。
 ̄一九二一年、石橋湛山『一切を棄つるの覚悟』より抜粋。












伊月助手と誠凛籠球部の最後の活躍。前篇。












「結局人数としての削減は無理です。ウィルソン大統領の発表から何年無駄に会議躍らせてるんですか。」
まあまあ、シベリア撤兵からまだ片手で足りる年数ですよ、と大人の笑顔ににっこりと、美麗に笑ってやれば、子供を手玉にしている余裕でも見せつけるように嘆息されたが、彼は許さなかった。
「中学生から軍事訓練、教養結構。山梨宇垣の両陸相の軍縮策は主に人員削減でしたから?俺がここに呼ばれたのだって、予備役将校を狙えるかどうかでしょうね。ってかそもそも震災復興から立ち上がれてない時点で気付けと申し上げたいんですが、大戦景気とっくに終わってんだよ、日ソ基本条約調印終ったからって気を抜くなばか、と申し上げた所で叱られて終わるでしょうので。一言だけ申し上げておきますね。俺は軍人にならない。」
誰もが大人の仮面の胸の奥に隠してきた本音を鮮やかに言いやった青年は、ふと嘆息を零すと、凛と前を見据える黒曜石色の瞳に強い光を宿し、誠実に腰を折る。
「この度はお招きに預かり光栄に思います。」
そのまま離席すると、隣室に呼んであった連れに声を掛け、そのまま馬車に乗り込んだ。
「・・・。」
赤い髪の狭間にゆれる血腥さの感じられない鮮血色と夕日色の瞳がゆっくり細く、嘲笑う猫のように視線を流すことにも興味が無いのか、帰る、と一言発したのに、学生服にインバネスの青年に彼は付き従った。
「笑いたいなら笑えよ。」
「・・・失礼します・・・。」
むっつりと眉間に皺を寄せて腕を組んで、御者に向かってコンと車内をノックすれば、大人しい馬の?と共に発進してくれる。赤坂の高級料亭の一室に伊月俊を呼び出したのは間違いなく赤司征十郎で、現在馬が驚かないのが不思議なくらいに声を上げて爆笑しているのも赤司征十郎だ。
「伊月さん、も、さいっこー・・・!」
「不名誉だが光栄だと応えておく。」
「あの、あの狸共の顔見ました?最初はもー・・・。」
最初は本当に、物珍しげに、最高学府の制服とその頭脳の証明であるインバネスを興味深げに、或いは自分が見るのも値しないとでも言うように、また、伊月の曾祖父を知る者は、これが、と感嘆したりした。
「俺は珍獣なにかですか。」
隣室でその第一声を聞いた赤司は、立てて貰った茶を吹いた。
大戦終結からこちら、国際連盟、巴里講和条約、中華民国や大韓帝国における民族運動、ヴェルサイユ体制からの独逸国政対策、ワシントン会議に於けるまで、伊月を試すように横柄になった大人の会議と言う名の言葉遊びに伊月が焦れて、ぶっちゃけ切れて、これからの自分の進路もはっきり口にして、退室してきたわけだ。曾祖父にどんな武勲や勲功があったとして、本人は所詮ぬるま湯で育った坊主だった、というのは確かにあの場で証明された訳だが。
「いやぁ、でもあれ、絶対墓穴ですね。」
くつくつと笑いながら、赤司はそう評す。
「ふーん?無言であの場を去れと?そんなのあっちこっち縁談上がって終わるだけだろ、根っからの政治家やら成り上がりの軍人なんてそんなもんさ。」
「も、伊月さん、最高ですね。僕の家でご意見番して下さいよ。」
「やなこった。」
赤司の嫡男に果たしてこの笑い袋は相応しいのか、と伊月が胡乱に窓の外に目をやれば。
「それではまた明日。」
「ああ、学校のほうで集合かけてから行くから。」
「是非。」
そうやって手渡された封蝋には菊の紋。十六八重菊が使える家庭は日本には存在しない。これが最後の招待状である。伊月以外には全て送付は済んでおり、赤司が直々に賜ったものを、今日の面白おかしい招待の侘びともさせていただいた。
「服装は制服で問題ない?」
「誠凛の生徒としてお越し下さるのでしょう?」
「制服で行くから。他に何か?」
「皇太子殿下がお目に掛かりたいと。」
「はああ!?」
停止した馬車で、赤司は、ご自宅で良かったですよね、と今更笑った。
「ただいまー。」
《Asyl》に帰った時間は、秋の釣瓶にもう空が藍色になった時間だった。間宮と百園と、何より子供たちの顔を、寝顔でもいいから見たかった。
「おかえりなさい、俊兄さん。」
「まーちゃん、俊にいかえったー。」
「あやちゃん、しゅんにい、きたー!」
「姉貴いんの!?」
「いちゃ悪い?」
一階の遊戯室の隣は畳を敷いて、布団を並べて雑魚寝にしているそこは、念のため、と既にストーブが入っている。
「保也さんと喧嘩でもしなすったの?綾さん。」
「まーさんかーさんの観察眼怖い!!てゆか俊明日観菊会でしょ。とっとと休んで明日に備えなよ。」
「いや、俺一応ここの施設長だからさ。」
百園が抱いている赤ん坊はうとうとしているのを覗き込んで安堵っと息を吐き、そら、と名を呼んでやる。
「間宮さん、半田さんからの手紙なんですけど、なんとか折り合い付きそうです。いち、眠いなら無理すんな、寝なさい。」
「ああ、キャロルの?どうやったんですか俊兄さん・・・。」
「そこはほら、人脈。」
それぞれ子供を寝かしつけた頃、おうい、と玄関からの大声に、足音を控えめに速足で迎えに行って、うるさい、と小声で若松を叱った。
「どしたの。電話くれたらそっち行ったのに。」
「まじで。あー、やっぱ駄目だ。今吉サン名義だから。」
「翔一さん?」
ほらあいつら、と探るように視線を上にやり、なんつったか、と若松は首を傾げながら、伊月も首を傾げながら封筒に纏められた書類を受け取る。
「戸籍。」
「ああ、下町でお前ら食わせてるだろ、時々。震災の焼失から復元した。」
「若松!」
上目に目を輝かせながら手を包んできた相手に、不覚にも柄に無いほど歓喜するのは、きっと伊月と言う人柄に惚れているから。
「ありがとう!」
何の嫌味も無く押し付けられる礼と喜びに、若松は中学卒業の後にレールに乗せられるような人生であったが、甲斐ある物だ。この戸籍を《Asyl》での、伊月家の養子として書けば、少なくとも子供らが妙な事に巻き込まれる事も無く、いざとなれば伊月の家の特権を使ったっていい。どうせ飾りだけの肩書きなら、散々に耀いて貰う。
「おー、どういたしまして。そういえばだが、ここって親だけとかもいいのか?」
「うん?特に決めてない。そらの乳母の件もあるし、中学生が図書室で読書してるのもあるよ。」
本当に様々な使われ方をしている施設は、本質としては子供の寝床なのだが、切る者拒まずの思想は濃い。事実、授業の終わった筈の伊月綾は未だに残っているのだし、宿直当番も間宮や百園を始め、職員の間で回してある。尤も百園の自宅はここでもあるのだが。因みに、変なところに家賃を取られるならここに住んで仕舞え、と伊月が唆した。
「うちの女房が最近なぁ・・・。」
「うん?育児ノイローゼ?職探し?」
「いや、あのな・・・。」
耳貸せ、と指で招かれ、若松との身長差では屈んでもらうことになる。二人目、と聞こえた直後に照れくさそうな横顔を見せられ、伊月はその大きな背を力いっぱい叩いた。
「やったじゃんか!おめでとう!今度はちゃんと翔一さんだけじゃなく、俺にもお祝いさせろ?何がいいかな!」
「いや、ある程度は前のあっから!」
「あら、若松くんおめでた?子供用のお洋服ぬったげて良い?」
弟の帰りに従うこころ積りであった姉が顔を出し、予行演習にやっときなよ、と弟にしてやられて教本の角が見事に命中することになる。
「さて、俊が帰るなら帰りますか。」
「保也義兄さんとちゃんと話し合いしてよ?」
「馬に蹴られますよ、俊兄さん。」
挨拶や手続き依頼もそこそこにして、こっからは役所管轄な、と若松が頼りある父親の笑みを見せるので期待しておく。帰宅してから、母親と姉が少々の程話して、姉が大人しく電話機に、夜分遅くに、と詫びた事を確認し、伊月は風呂を貰って居間に入る。父親が時計に油を点していたのでエレキテルの下に挨拶ついでだと思った。
「俊、螺子をくれ。」
「あ、はい。」
「明日か、観菊会。しっかり挨拶しておいで。」
「あ、それが・・・。」
ぱたん、と柱時計の扉が閉まり、懐中時計の針と歩みが揃っているのを父は確認して、妻に用意された茶を湯呑に、座卓へ。
「何かあったか?」
「何かと言うか・・・どう、思います?」
「陛下の体調は思わしくないぞ。宮内庁の伝手で聞いたが。おそらくは明日は皇太子殿下が代行して下さるようだが。まあ、なるようにしかならん。」
思わず座卓に突っ伏した息子の頭に、青い湯呑が翳されれば、ありがとぉ、と若干弱い返答があった。
「俊がどこで何しようが、私たちは一向に構わないわよ。悪い事じゃなければね。」
「わるいこと・・・。」
ず、と含んだお茶は、猫舌に優しい温度に調整されてあった。
「善悪の判断は付く年だろう。お前が善行だと思うなら、何でもやればいい。」
何気なく言い放たれた父親の声に、はい、としっかり頷いて、母親から血の譲りを受けて耀く黒髪を、さらりと美しく揺らして微笑った。《Asyl》の子供、特に親の無い子供の姓は伊月である。あの施設の総責任者は伊月俊だが、結婚歴が無いため養子が認められず、戸籍上は伊月の両親の子供になる。俊兄、と呼び名に違わず、彼らは血の繋がらないきょうだいなのだ。
「あと、おじいさんから下がった柳行李、きちんと整頓しておきなさいよ。」
「そうだった!」
昨夜作業しながら寝落ちしたんだった、と母親の忠告で思い出し、御馳走様でした、と湯呑を返して、おやすみなさい、と両親に頭を下げると、そのまま私室に帰って、畳の上に散乱している昔の文献から覚書から、柳行李へ仕舞い込み、この夏で軽く数冊を超えた探偵助手として使った黒革の手帳も一緒に入れる。押入れに柳行李と交換に布団を出せば、どうやら日中干されたらしく、太陽の香りがした。
今日は一度も開くことの無かった黒革の手帳の一頁目、革部分に挟み込まれた一枚には、強請って書いて貰った一文がある。
『頑張ってな、月ちゃん。』
「おやすみなさい。」
学生服のポケットに滑らせ、電気のスイッチに繋がる紐を引き、睡魔に会うため、布団に潜った。
「ひゅーが、カオ酷いよ・・・。」
「うっせぇ。」
翌朝、頼まれていた日向家への朝で、おはよう前の二人はこうだった。明らかに緊張仕切りの寝不足顔と、いつもと然程変わらぬ同輩の顔が恨めしくて、肩を少し強めに叩いた。路面電車の停留所に相田が待っていて、学生帽の形を整えながら、いつもの朝のように路面電車に乗り込んだ。
「日向くん、ちゃんと寝た?」
「眠れなかった・・・。」
「だろうねー。」
「・・・でしょうね・・・。」
「なんでお前らが緊張せずにいられるんか逆に心配だダアホ・・・!」
「緊張はしてるけど。」
「俺も。」
「顔に出せや黒子じゃあるまいし!」
「「うるさい。」」
誠凛大学最寄で下車すれば、三年は揃ってあって、一年は緊張仕切り、人の字を飲むものもあったが、二年はと言えば、ちゃっかり朝早くに集合して休日だと言うのに朝練の紛い事をしてきたらしい。河原の顔の利く銭湯で汗も流して服装も整ってあった。
「黒子、ヘバってない?」
「大丈夫です。」
「だからそこ、何の事無く会話してんじゃねェよ・・・!」
一周回って緊張ほぐれたよな、というのは小金井の言で、同意する声もちらほら。本当に本番に強い連中である。
「はいはい、武田先生は後で合流予定ね。新宿御苑まで歩くわよー!」
たし、と手を打って纏め上げるのは流石監督者としての実力か、突然のご招待に驚いていない筈もないが、仲間と笑う事で緊張も解れるだろう。
「観菊会ってgarden partyだよな?」
「そうですね、皇室、emperorのご家族もいらっしゃいますよ、例外はありますが。あとは政治家、軍上層部、それから・・・。」
「俺らみたいな特例とかな。」
「特例、すか?」
火神の疑問に黒子の解説。伊月が軽く口を挟んであって。
「うん、大会優勝だったり、武勲持ってたり。だから・・・そっか。」
相田が思いの外緊張していなかったのは、父親、相田景虎の経験を知っているからかもしれない。配偶者、近親者は付き添いに招かれることもある。
「あの、伊月先輩?」
「どうした、福田。」
「その胸章・・・。」
「あ、これ?目印みたいなもんだ。気にすんな。」
インバネスが揺れた際に学生服の胸に着けた小さなピンの飾りを見つけた後輩に微苦笑し、新宿御苑前、赤司征十郎が実淵玲央と根武谷栄吉を率いて立っているのに、日向は声を掛ける。
「お前も呼ばれてたか。」
「ああ、日向さん、お久しぶりです。」
「よう、誠凛!」
「相田さん!お久しぶりね、俊ちゃん、黒子ちゃん!」
「実淵、その俊ちゃんってどーにかなんね?」
後輩の手前さ、と嘆息すれば、あらやだごめんなさいね、と若干頬を赤らめて美麗に笑まれた。
「鉄平!膝は大丈夫?」
「まー、雨の日痛む痛む。全力疾走出来ないからなー。」
「そのガタイで免除は勿体ねーな。」
「仕方ないさ。元々運が良くなかったんだ。あ、でも大学卒業したら嫁娶るぞ!」
「きゃぁー!鉄平ったらかっこいい!」
「おお、結婚報告待ってるぞ!」
「栄吉、しんがりを頼む。玲央と僕に着いてきてください。」
「頼むわ・・・。」
「主将、しっかりして下さ・・・。」
「そうですよ、しゅしょ・・・。」
「確りね、日向くん、っぷ。」
「笑うなら笑えや!」
やっと一回転して笑えるようになって、旧知や知人を見つけ、そのガーデンパーティ場に招かれる。
「食事は立食のビュッフェです。陛下はやはり体調が優れませんので、皇太子殿下の接見が午後から。案内はこのくらいで。」
「ありがとう、赤司くん。」
幾つかひとなみを挟んだところに葉山がいて、あっちにも挨拶してくる、と木吉は手を掲げたのを日向は頷く。
「探検・・・出来る雰囲気じゃない・・・。」
「コガ、そういう場所じゃないからな?」
招かれた印の菊の生花で作られた飾りをインバネスの胸元に着けながら土田は苦笑しつつ小金井を窘める。
「俺もちょっと探検というか・・・。」
「伊月もゆってんじゃん!」
「短剣持って探検へ!キタコレ!」
「伊月黙れ。」
「だってアンリー・マルチネー!!」
「ああっ!マルチネー気になりますよね!!」
「あ、それ水戸部も気になるって!洋蘭!?なにそれ!」
新宿御苑は現在の形になるまでは様々に変遷がある。元は内藤清成の江戸屋敷であったそこを、明治五年に上納され隣接地を買収し、内藤新宿試験場が設置されたのを皮切りに、欧米の技術や品種改良など含め、果樹や野菜の栽培から養蚕、牧畜と幅広い研究場であったが、明治七年、内務省管轄に移ると、新たに教育の場として、東京大学農学部の前身となる農事修学所が設立された。
明治十二年には新宿植物御苑と名を変えて。この場所の確率は近代農業技術躍進に於いて欠かせない場所であり、新宿御苑となった今も、日本庭園の池は鴨や魚を養ってあった形跡であるし、先日まで上野動物園にやっと下賜の終えた動物達の生活の痕跡も見つけられそうな広い芝生とこの国で初めて作られた温室には、洋蘭や多くの果樹や野菜が育てられており、民間への園芸、農業の技術研究、普及の場所である。
「あの木、どう思う?」
「へ?綺麗だなーと、なに?伊月。」
「プラタナスはまだここにしか日本じゃ存在しない。」
「はえっ!?」
ちょいちょい、と水戸部が示してやって。
「あっちも!?」
満足気に笑った水戸部の表情全てが物語る、とでもいうふうに、遠目に見えるユリノキに、大きな目を開けたまま、ぽかんと口を開けて立ち尽くした。
「で、あっちが御休所。ここの設計が仏蘭西、ベルサイユ園芸学校教授のアンリー・マルチネーなんだよ。」
「随分ご存知なんですね・・・。」
「医学目指す前は建築目指してたもん、俺。」
そうなんですか、ほんとうですか、と現建築学部の後輩が思わず、と言った風に振り返る。
「あの、カントク。」
でかい図体で遠慮がちに手を挙げた火神の様子に、相田は呆れたように息を吐く。
「そうね、あんたら万年欠食児童、頂いてらっしゃい。朝一で変に運動するからよ。こっちが恥ずかしくならない程度に抑えてね!」
はい、と声を揃えた二年生連中に、社交界の奥様方が振り返って、地味に恥ずかしい。流石にここでホイッスルは活用されず、諦めたように相田は伊月に勧められた椅子に座った。
「俺、少し用事出来たから。」
「どした、伊月。」
「木吉あそこにいるし、葉山と一緒だろ?」
「あー、解った。」
じゃぁね、と一拍おいて手を振って、木吉の長身を目指して鷲の目はひとなみをすり抜ける前に、鳶色の瞳がこちらを見た後に逸らされた。流されるような視線の動きに、ぱち、と葉山の瞬きとぶつかり、八重歯を見せてにっかりと笑った後、うるみ色の頭髪が風に揺れ、温室に視線は流れた。
「・・・木吉。」
「どうした、伊月?」
「お前等の生き方、すげーな。」
「そうか?伊月のほうが凄いと、俺は思う。」
穏やかに帰ってくる声は木々の葉擦れに似ている。どっしりと構え、風のあるまま、嵐に晒される傷を見せない位に。
「行ってこい。適当にはぐらかすさ。」
「そーゆーの、上手いよな。」
「上手くもなっちまうさ。」
「あ、やっぱ職業病なんだ?」
見事な誘導に引っ掛かったと気付いた木吉鉄平という強い男は、まいった、と笑った。
温室の扉は施錠されておらず、鶯色の着物に濡れ羽色を兵庫に結い上げた女性が伊月を招き入れた。然程狭くない温室の中央ほどにコジーを被った紅茶のセットと、デッキチェア。
「お待ちしておりました。」
白いタイにモーニング。勲章などの飾りっ気を一切に取っ払った彼は、そこにいた。
「植物の研究がお好きなんですね。」
「父は漢詩がお好きなようだけれど、私は理系と言うのかな?」
「そうですね・・・、あ、やば、キタ、」
「言わすかよ。」
バァカ、と小さく聞こえて、思わず伊月は笑った。
「言葉が乱れておいでですね、等々力さん?」
「伊月さまこそ、駄洒落はほどほどになさるといいわ。よいひとに愛想を尽かされてしまってよ。」
「残念ながら翔一さんはそこまで狭い了見の方でなかったようだけど?」
ふ、と笑う気配に、等々力と呼ばれた女性は深く頭を下げ、伊月の紅茶を用意すると、温室の出入り口に下がった。
「温室と言うだけありますね。年中この気温で?」
「ええ、南国の物もありますから。」
インバネスを外せばその左胸に、凛と輝る侯爵の印。皇太子の着座を待ってから、伊月も向かい合う席に腰を下ろした。
「赤司君からこの間の会合の話を聞いて、私も笑ってしまいましたよ。」
「ああ、なんといいますか・・・ああいう内容が無いような席は嫌いなんですよ、俺。」
「存じてます。だから単刀直入にお願いしたい。」
整った鼻梁がしかめつらしく寄った。
「木吉鉄平の脚になってやって頂きたい。」
「それは無理です。」
凝視っと射抜かれるような視線を、その黒曜石色の瞳は真摯に受け止める。出来る事は出来る。出来ない事は出来ない。
「したくない、ではありません。あんな強さを、俺は持てない。おのが身は、とはお応えしました。ただ、俺の身では、あの強い男にはなれません。有難いお話ではあると・・・。」
謝罪と言う名の言い訳をしている、と視野が無意識に広くなれば、すと手が述べられた。
「解りました、引き下がります。」
噂はかねがね、赤司からも、木吉は勿論、後ろに控える花宮からも、聞いているのだ。
「父から聞いてあるので、君はあのひとの翼と眼になりなさい。こちらは命令だそうです。」
「あー、はい、賜りました。」
室温のせいか、あつい、と呟けば、戦慄っと耳元が熱くなった。失礼します、と前髪で顔を隠し、耳元に手をやれば酷く熱い。ばぁか、と悪辣に楽しげに笑う声が微かにだけ聞こえた。
「午後からの接見なのですが、陛下も体調が良ければ出ると聞かず、こちらの奥の間でお休みなので、もし会えそうなら顔を見せて差し上げて下さい。」
「あ、はい。俺も曾祖父がお世話になったようで、是非お会い、したいです・・・。」
我儘ですいません、と立ち上がって深々と頭を下げ、胸にある勲章に視線を落とす。まだ、足りない。力なんて到底。
ぴくん、と花宮が何かに反応して振り返ったのを伊月は見た。
例えば、子を亡くした母親を見る直前だとか。
例えば、死体に泣き縋る少女だとか。
例えば、恋情に焦がれて他人を傷つけるだとか。
戦慄っと、背を駆ける寒さは、本能だとでもいうのだろうか、暖かい部屋に暖かいお茶を頂いて、指先が、震える。
「ここにいろ。」
花宮の声が低まった。
「何か、邸内で騒ぎのようです。見てまいります。」
その足元は一切の足音を立てずに女物の着物の裾だと言うのが信じられないほど素早く姿を消した仮初の女性は温室を出た。
「御休所って陛下や殿下の別荘ですよね?中ってどうなってるんです?」
すいません、好奇心です、と言いながら手元には黒革の手帳がある。
「ここは私がよく遊びに来ますから、そうですね、御製歌やあとは伊太利、仏蘭西からの輸入品といったほどですか、ほら、ここの建築は。」
「マルチネーですね。俯瞰図見せて頂きました。素敵ですよね。」
よかったら洋蘭を贈りましょうか、と殿下が言うのに被さる様に、扉が開く。侍従の制服をタイを首に引っ掛けた、急いで着替えた風体で、花宮が伊月の手を引いた。
「失礼します、殿下!瀬戸、古橋、交代!伊月、来い!」
「ちょっと!?失礼します!また後程!」
「侍医はいるが、邸内が混乱してる。手が足らん。」
「手伝えって!?何を!!」
温室を出て、静かにざわめきのある日本庭園から見て裏口、西洋庭園に面した扉は開け放たれて、ジャリ、と足元に踏んだ破片に伊月は足を止めた。
邸内を駆け回る人手だとか、花宮が連れて行こうと強く引く手の力に、エントランスに横倒しで放置されている車椅子に、先ほどの戦慄が蘇る。
凶兆、とでも表せばいいのだろうか。
嫌な予感がした。
「あ・・・。」
「伊月!」
《かたしとて 思ひたゆまば なにことも なることあらじ 人の世の中》
裏打ちされ、額装は地味なその言葉。硝子に罅が入って和紙に大きく皺が入ったそれに、減り込むようにして倒れる巨大な天球儀。
「陛下!」
「今上様!」
寝台に伏して細く老い痩せた体の、冷たさに、伊月は呼吸を忘れそうになる。
「コイツ誠凛の医学部予科!」
「手を貸してくれぇ!」
「どうして、花宮、陛下が・・・。」
ちいさく呻いた声に、皆の視線が寝台に集中する。
「陛下!しっかりなさって!!」
「ぁ、・・・強心剤!駄目なら気つけにアンモニア!どっちも俺の鞄入ってる!」
「勝手に探んぞ!」
へいか、と冷たい手を握れば、弱く握り返す力がある。
「やだ、ねえ、聞きたいこと、あったんですよ?陛下・・・っ。」
「・・・そっくり、です、ね・・・。」
「意識戻りました!」
弱く、白濁した黒目は伊月を見た。さらさらと美しく流れる髪を、見て、手をゆっくりと、関節を動かして。
「陛下、無理しないで、いいです!無茶に喋らないで!」
「・・・う・・・ぃ・・・。」
「・・・え?」
「・・・たいへんな、むりを、させました、ね・・・。」
誰に、何を、言っている?伊月に誰を重ねて何を述べようとしている?
すっと血の気が落ち着く音がする。冷静に、脳髄が冷える。
「従医師殿、広間の荒れは何ですか。」
「申し上げにくく・・・。」
「何だって、聞いてる!!」
伊月の、怒声のような血を吐くような叫びに、従医師は泣きそうになった。ぶるぶると手元を震わせて床に這いつくばるのを冷徹に見下ろす美貌は、酷く美しいのに。
「おい、強心剤は化学調合か?」
花宮が伊月の鞄を投げやったのは、死地は脱したと侍従長から報告があったからだ。
「いや、漢方から俺が調合して作ってる。お前もよく世話になるあれだ。」
「解った。成分薄めて・・・俺の百分の一くらい。」
「それだったらもう水で薄めたのを経口摂取して頂くのが一番いいよ。一種の栄養剤だから。」
りょーかい、と花宮はその救急箱から出した針に繋いでいない注射器を一本取って返した。
「それから、広間のあれ、通報するかどうか、侍従長が判断すっから。」
びくり、と老齢の従医師の肩が震えたのを、伊月は黙って視野から逸らした。扉一枚隔て、広間は随分と荒れた様相で、特に一枚の額には伊太利製の天球儀が減り込んであった。何があったんだ、と木吉が入ってきて、目を丸くして、あっばか、と伊月は思わず口を抑えた。
「どーしたん木吉―?」
「こんなとこまで入っていいもんじゃねだろ、ダアホ。」
振り返って彼は肩越しの友人知人の姿を見とめ、びきりと動きを止め、今度は真っ青な顔で伊月を見た。
「知るかぁ!ばかぁ!!」

続く。

初出:2013年11月1日 03:21

始まった当初、誰が思ったであろう。こんなにも物語が壮大になるなんて―――――・・・!!!!!

***
思わなかった。

20140109masai