仄明るい室内には囲炉裏の火がちろちろと燃えていて、汁椀にどろっと注がれたのは猪の肉だと、言われたのに、随分と生臭くて硬かった。
「猿の肉だよ。」
さっきと言っていることが変わっている。
気付いた時には、福田はもう思考も何もかもを奪われていた。












続・伊月助手と誠凛籠球部の華麗なる活躍。後編。












「Scheiße!」
「Shit!」
「くそっ!」
独逸語と英語と日本語の同義異音が発されたのは崩れた水辺だった。梅雨の大雨で地盤が緩んでいたのだろう、激しくなった雨脚の中、二人ほどは自力で上がってきたのを伊月は呼吸を確認し、水を泥を吐き出させ、と背中を擦った。
「伊月!縄持ってきた!!」
「河原!そっち行くから!」
小金井が遅れ立って、力のある三年に声を掛け、教師にも事の次第を簡潔に伝えて様々な道具を持って来て、懐中電灯を近くの木々に縛って、対岸で水に飲まれかけていた河原は縄を伝って上田空手部主将に抱えられて助けられた。
「すい、すいませっ!」
河原は地面に膝をつくと、げほっ、と大きく咳き込んで詫びを述べようとするが、地盤を確認しなかった現場監督者の責任だな、と硬い声音で容赦なく宮地が言う。翻って、生徒たちに問題行為は無かったのだと。
「あと何人~?」
「七人っ!くっそ、雨が邪魔っ!」
「お天道さんに文句言ってもしゃーねーだろ。」
「上田!対岸渡れる?」
「流れが速いだけで深さは無かった。縄持っといてくれたら渡れる。」
「了解。俺が対岸から下流見に行きます。春日さんか宮地さん、馬車でどこまで来れるか、こっちの岸で試して下さい。」
伊月、と異口同音に呼ばれたが、そのままひとつ好戦的に笑って魅せると縄に体重を預けて身軽に滑り降り、先ほど伝わせた縄を手繰って対岸に上がる。
「しゃぁねぇ!春日の馬のが身軽か。」
「いや、俺の雷に弱いのいるから、森山の馬繋いで。伊月―気ィつけんしゃいよー!!」
わかってます、と微かに濁流に消されながらも声は飛んできて、そのまま足音は雨音に掻き消された。夕立は本降りになり始め、下流でまた二人、意識は無いが岩に凭れているのが小金井に見つかった。
「黒子、俺以外誰もいない。出ておいで。」
「い、づき・・・せんぱ、い。」
かさ、と微かな音に、鷲の目が見止めた痕跡に呼びかければ、懐中電灯の光も届かない茂みから、がさりと腕の中に転がり込んできた体躯を伊月は受け止める。
「大丈夫。大丈夫だ。もうお前が気を張らなくていい・・・。」
「伊月せんぱい・・・。」
そのままくったりと腕の中に沈んだ身体が、水で冷え切っているのにぎゅっと抱きしめる。
「たす、け・・・。」
「出てこれるか?助けに来た。」
ペンライトの灯りを翳してやれば、柔道部の二年だ。黒子が助けたは良いが、黒子はあらゆる意味で優秀過ぎた。怪我をした同輩を護ろうと動物的本能で物陰に息を潜めてしまった。
「脚、打ってて・・・すいませ・・・黒子は・・・。」
「大丈夫。三年の伊月だ。柔道部も主将が川の様子見に来てたから、叱られることは無いよ。」
肩を貸してやって、対岸にペンライトの光を送れば、数名の声と馬の蹄の音がする。何を言っているかまでは聞き取れないが、モールスを送ってみると、モールスで返された。雨足は弱くなっている。
あとさんにん、とモールス確認。了解、とモールス返信。どこへ行けばいい。きっと黒子がここにいたという事は、ここで助かるべき人間は助かった筈だ。連れ立って出かけたのは籠球部含めた運動部の数名。黒子の体力から察するに、あの茂みの中で限界。
考えろ。
下流は無い。この先を何人かが下って確認してくれるだろうし、もう鉄砲水は無い。地盤は緩んでいるだろうが、伊月が歩いてきた場所は自然が作った中州に近い。このまま峠を緩やかに下った水を追うのは聊か力不足と言える。
「だったら・・・。」
こっち、と視線を向けるのは真っ暗になった森の中、時折ぽたぽたと弱まった雨が葉を伝い、足元を濡らす。水を含んで重たくなった運動靴を一度絞って履き直す。
決めたらそのまま早かった。滑らないように踏みしめ、広い視野を保ちながら、ペンライトの灯りを落とす。花宮が作ったそれはボールペンの形によく似ていて、防水もしっかりしているが、電池の持ちはそろそろだと伊月は考えている。
山の歩き方は昼間に散々やった。あと、見つけていないのは。
「・・・福田・・・。」
ぽたん、と雫の落ちる音がした。
「伊月、先輩。」
服はシャツとスラックス姿で出かけた時のまま、生乾きに見えるが、腕が真っ黒だ。
「福田、腕どうした、怪我・・・。」
ごとん、と重みが落ちるのに、伊月は足を止めた。
血腥さが鼻腔を突く。手の甲で覆うが、その異臭は徐々に増している。
「福田、これ、どうした・・・?」
夜目に慣れた鷲の目が見たのは、血色に染まった鉈だった。真っ黒に見えた腕からは血に塗れているからで、そこからもぽたぽたと血色の雫が落ちる。
「伊月先輩ぃい・・・。」
「福田。答えろ。その鉈はどこから持ってきた。」
「伊月先輩、伊月先輩・・・伊月、さん・・・っ!」
「福田寛ッ!!」
鋭く呼ばれて、頭を殴られたような衝撃に福田は瞠目した。
「・・・福田?」
「い、伊月先輩、あ、たま、ずつ、・・・ど、・・・で・・・。」
徐々に弱くなる声音に伊月は駆け出し、前のめりに倒れてくる後輩の体を抱き留める。
「いづきさん・・・っ。」
「何があった。」
「そこ、いって、家・・・が。」
「家があった?ひとがいた?」
「いて・・・たべ、て・・・。」
食べたって何をだ、と一瞬伊月は背が冷える。がつりと肩を掴まれて、雨が止んだ、と意識の片隅で伊月が考えた所で景色が陰る。
くちびるに舌に残った感触に、指をやって、倒れ込んでしまった福田の頭を膝の上に、静かに静かに涙が落ちるのが、伊月には止められなかった。
「ふくだぁ・・・っ!」
そしてその硬質な髪が跳ねる頭を抱いて、伊月も蹲るようにしてそのままその場から動けなくなった。ただ、血腥さが頭の奥に渦巻いて。
「伊月ッ!」
「・・・宮地さん・・・。」
月明かりの中に、やっと見つけたそのひとを呼んで、宮地はその痩躯を強く抱き締めた。
「福田、無事、です・・・。」
「見りゃ解る。腕は切ったか・・・。」
「宮地さんっ。」
縋るように見上げてくる美貌が泣きそうに歪んで、口の端を赤く染めているのに、怪我か、と指摘してやったが、拭うと落ちた。
「後二人、もう時間が時間だ。明日に回せと森山陸軍中尉のお達しだ。」
「・・・ええ、それがいい。」
「伊月?」
「多分、もう水の中には、いないから・・・。」
あのまま水に攫われたのなら一刻は争うが、その最悪な事態は黒子の手によって防がれた。あの小柄な後輩は何でも無い実力者であったなぁ、と伊月は福田を抱えた宮地に肩を貸されて立ち上がる。ぺたりと座り込んでいたせいで雨に濡れた芝に尻まで水浸しだ。
「そうか。」
「森山さんに意見は可能ですか。」
痺れた片足を叱咤して宮地の肩に縋りながら着いていく。
「明日の明朝に捜索再開だ。」
「山狩りを。」
「山狩り?」
事情は後で話します、と宮地が伝って来た縄で川を渡りながら、馬車に揺られて宿泊所に帰ってきた。
「伊月!心配させやがって!」
「よく頑張ったなー!伊月、風呂入れるぞ!」
「ひゅーがごめん、心配かけた。木吉、ありがと。」
雨具や髪に絡んでいた枯葉を取っ払って貰って、雨に冷え切った体を風呂で温める。風邪でもひいたらカントクにどやされるな、その前に後輩連中、と風呂を上がって寝巻に代えると、ふわりと臙脂色の外套を羽織らされた。
「覗きですか?森山さん。」
「相変わらず綺麗な身体だね。」
「森山さんに褒められても素直に喜べないのは何故でしょうね。」
「そりゃ下心があるからだね。」
ふふん、とどこか満足そうに笑った森山の存在はどこか有難い。今吉にどこか似ているからだろう、最後まで決まらないところだとか、それでも最後は決めてくれるところだとか、腹の底が見えない感覚だとか。胡散臭くは無いが、笑顔を絶やさないところだとか。本当に愛されるひとと言うのはこういう存在なのだろう。
「はー、疲れました!」
「お疲れ様。」
「お疲れ様なサマー!キタコレ!」
「もうちょっと捻ろや捻るぞ。」
「捻くれ者におひねり!キタコレ!」
「春日―!現状纏まったかー?」
「おっけおっけー福田寝ちゃったかんねー纏めたー。現在一〇名中二名重症、五名軽傷。最長全治二ヶ月程度かな~って水戸部が~。皆部屋で眠ったよ~。んで、明日山狩りだっけー?どしたんー?」
「警察に話は通してみますが・・・。」
難しいかも、と伊月は腕を組む。
「あの川を境にこの辺埼玉じゃないですか。管轄も違ってくるんで、俺じゃ話が通らないんですよ。森山さん、どうです?」
「あー、だから俺ね。納得した。解った。明日は山狩りね。小隊一個くらいで大丈夫?」
「この辺の地図ってあります?民家が近いと思うんです。」
これ、と渡された地図は冊子状になっていて、一応軍事機密だからね、と指定された頁しか見ることが出来なかったが、十分すぎた。福田の言った方向に、確かに一軒の民家があった。
「方法、指定させて頂いていいです?」
「そのこころは?」
「本星は俺が叩きます。」
えっ、と三人揃って歪な声を上げる。
「地獄への道は正義で舗装されてあるって・・・教え込んでやる。」
地を這うような低い声を発した伊月は黒曜石色の瞳を怒りで揺らしている。地図の頁を脳に叩き込むと、外套を森山に返して部屋への廊下を静かに渡っていった。凛と伸びた背筋にうつくしい艶やかな黒髪。立ち上る怒気が見えなければ壮絶に美しい筈だが。はは、と思わず乾いて笑った宮地を責められる存在は果たして存在しない。
「あ、悪い、起こしたか?」
ふるふるっと首を横に振る事で伊月に応えた水戸部は、ランプの灯る室内に福田の様子を見ていたようで、ノートに脈拍や熱などの有無を書き込んでいる。
「魘されてた?」
暫し戸惑ってから、肯首。何か知っているのか、というような眼には、少しね、と微苦笑。毒の馨りを伊月は知っている。
「ごめんな、福田。」
脂汗の浮く額を撫ぜてやって、伊月は眉尻を下げる。その頭を水戸部が撫ぜて、手拭いを持ってくると生乾きだった美しい黒髪を綺麗に拭った。
「水戸部、兄貴ってより母親だよ、やっぱ。」
そうやって静かに笑うと、ベッドの二段に上がって、ランプを消してくれた水戸部に礼を述べて布団に潜った。
明朝は言われたとおり、軍人が入っての山狩りが行われ始めた所で伊月は低血圧に唸りながら洗面台に頭を突っ込んだ。後頭部に山の冷えた井戸水を浴びて、やっと覚醒してきた。誠凛大学の制服のシャツとスラックス姿で一人、そうやっているのに宮地が手拭いを投げやれば、広い視野はきちんとそれを指先で捉え、歯ブラシを咥えたまま、少しだけ隈のある貌を見せた。
「宮地准尉は俺の監視員、って所です?」
「まあな。あの場所に発見したのも俺だし。」
「天候は。」
「夕立はあるかも知れねぇが、昨日ほど酷くはねぇだろうってよ。」
「了解です。」
嗽をして洗顔。手拭いで顔を拭いて水を含んで重たくなった髪を獣のように振り払う。まともにその飛沫を喰らった宮地は、切るぞ、とその頭を拭ってやりながら笑った。
「装備は?」
「いつも通り、ちょっとした怪我くらいなら対応できます。ナイフも持ってます。」
「ああ、花宮特製の。あれいいよなー片手で扱えて便利だわ。あいつの手も欲しいんだよなー。」
性格悪いから本人いらね、と辛辣に述べて宮地は笑い、おら、と拳を突きつける。
「俺の我儘にご協力感謝いたします、秀徳軍医学研究室室長、宮地清志殿。」
「おーお。使えるもんは何でも使え。」
「では。」
眼を閉じ、幾らか深くの呼吸を数度。
「往きます。」
「応よ。」
こつん、と拳を突き合わせ、二人で歩き出す。インバネスを羽織って馬車に暫し揺られ、対岸から、この場所か、と昨夜は酷く暗くて見えなかった森の中は昼間も薄暗い。
「宮地准尉、下流に橋がありますが?」
「じゃあ、橋まで。そこから歩きですね。」
地図はここにあるんで、と伊月は自身のこめかみを突いて片方の睫毛を降ろす。酷く美麗で蠱惑な仕草は妖しく不敵。
じっとりとした森の中を歩いていけば、踏み固められた土の道が出来て、広く晴れ渡る真っ青な空が綺麗に見える。真竹や孟宗竹が素肌を鋭利に切り裂こうとするのは宮地の軍服の長袖と白い手袋が薙ぎ払う。遠くで空砲の音がして、呼び合う声がして、また遠ざかる。森山の指示は的確に、鷲の獲物を閉じ込めている。急に視界が開けた。田植えの済んだ田圃は水黽が渡って、長閑に蛙が飛び込んで泳いでいく。夏野菜の実り始める畑に、青々しく瑞々しい林の背景が馬鹿らしいくらいに牧歌的で普遍で、その家屋は川から汲んだらしい流れで水車も回していた。
「・・・ここ、か?」
し、と人差し指を突きつけて、耳を澄ますが随分と静かだ。水車は清流に回り、野菜は瑞々しく朝露を跳ねている。
建てつけの悪そうな扉にゆっくりと手を掛けからりと静かに空かせば、途端に肉の臭いが鼻腔を突く。
「な、っ。」
宮地は口元を抑えて身体を折った。伊月はそのまま戸板を外すような勢いで家屋に押し入り、二人の襟首を掴んだ。
「宮地さんっ!」
「なん、なんだよ、これは!」
毒々しい臭いに血腥さとその家じゅうに飛び散っている赤黒い飛沫。口呼吸に切り替えて、伊月の捕まえている二人を担いで家から出した。幸いにして大きな傷は見当たらないが、不自然なことに腕や顔の切り傷から出血していない。
「胸糞っ、悪・・・!」
「けっほ・・・。」
今になって咳き込んだ伊月の背中を擦ってやりつつ、脳の隅からどろどろに溶けるような臭いが抜けない。
「みやじさ、これっ。」
伊月が小瓶の蓋を弾いて、宮地の鼻先に突き付ける。
「ぶわっ!?」
「あっも、きっつ・・・!」
突き付けられたそれから馨ったこちらも強烈なラベンダー匂にけほけほと二人仲よく咳き込んで、ふは、と胸を撫で下ろす。
「くっそ、なんだありゃぁ。」
「なんかもう、肉の腐った臭いとか、血とか、アンモニアとか、あと阿片ですあれ・・・。」
「阿片ってあんな悪臭したか!?」
「だからも、色々混ざって酷かった、んですって!」
けほけほと、パフュームで脳内をリセット出来たのはありがたいが、そこに一晩放置されていた人間の神経はどうだろうか、考えた所で宮地は反射的に伊月の腕を引いて、転がるように身を捩った。
「み、宮地さ・・・っ!よけっ。」
「舐めんなScheiße!」
そのまま金色の残像を描くかに身の熟しで更に降ってきた刃物を避けた。
「ってめー、ここの家主か・・・!」
胸元に伊月の頭を庇いながらサーベルを抜く。戦慄っとするほどに磨き上げられた曇りの無い刃に、若いまま老いたそれは鎌を振りかざす。瞳孔は開き切って、着物から見える身体は骨が浮いているのに、どこからそんな力が出ているのかと言うほどの力で喉元に減り込もうとするサーベルの切っ先を鎌の柄で防ぐ。ぼろぼろと散った髪を結った痕跡がある事から女性か、と伊月は腕の中に庇われながら推測し、指先で宮地に合図するとそのまま腕の中から抜け、頭の位置を低くに回り込み、宮地のサーベルが鎌を弾き飛ばしたタイミングでその膝裏を蹴り飛ばした。
獣のような呻きを上げて倒れ込み、飛んで行った鎌を宮地は回収。その背に伊月は容赦なく体重を乗せた。寝技で肺の奥を強く締め上げられ、おそらくは、と枕詞が着くであろう彼女は失神した。
「宮地さん、確保、ですー・・・。」
「俺が確保されたみてーじゃねぇかー。」
刺すぞまじに、とサーベルを鞘に仕舞い、胸ポケットから出した警笛を三度、宮地は放った。
二日目の昼はそのまま恙なく、しかし起きてこなかった二年生に見舞がてら、粥を差し入れれば、福田に伊月は泣かれた。木吉の言う事であると降旗も泣いたらしい。蛍を見に行こうと発案したのは俺なんです、なんて懺悔のように。そこは木吉と言えばいいのか、なんで俺たちも誘ってくれなかったんだ、と彼も泣いた。そして日向に殴られた。
「始めから話せるか?」
はい、と福田は静かに頷いて、会話は森山も傍らで聞いている。
「あの時、足元が急に割れて、俺ら三人はそのまま対岸に飛び移れたんです。黒子達が流されて、俺らも恐慌状態で、火神がフリを助けてくれたから、俺らはあっちのほうへひとを呼びに、って。もう随分暗かったから、すげぇ走って・・。」
だろうな、とその腕の浅い切り傷に伊月は抗生物質を薄く塗っていく。笹の林を駆け回って付いた傷だ。いて、と顔を顰めたのは傷に遠慮なく沁みる成分で作られているものを伊月がわざと選んだからだ。
「いお、かなんか、ってあのひと名乗ったんです。」
「いお?名前?」
「いを売り、かもな。」
「あの、俺ら結構雨に濡れちゃって、で、暗いし雷も、ってんで、家に入れられてから、なんか、気付いたら鉈持ってて、腕切ってて・・・なんか、逃げなきゃって・・・。」
「そうか、よく頑張った。」
頑張ったな、と繰り返せばじわじわと涙が頬を撫ぜてくれた伊月の手を濡らして、包帯の巻かれた腕で拭おうとして、だめ、と制される。代わりに白く骨の細い、それでも指の腹が硬い指先が拭ってくれる。
「よし、これで森山さんお仕事終わりー。」
「いおってひと、どうなるんです?」
「結構精神的にキちゃってっからなー。阿片だけじゃなくって麻薬の類すげかった。まあ半分以上は盗難届出てたけど。」
それは主に薬品店からのものであり、やはり本来にしての麻薬は裏の道なのだろう。
「裁判掛けて、何人殺してるかわかんねぇからなぁ・・・。」
宮地の血液型鑑定一番役立つぜ、なんて苦笑気味に、森山は離席した。
「そんじゃ、福田君の鉈、まあ鉈だから銃刀法違反とか治安維持法には引っ掛かんないと思うけど、意識喪失、って事でいいのかな?」
「そうなりますね。後で翔一さんにも確認しとこ。」
そうして少しずつで良いから食べろな、と粥を置いて伊月は午後の講義に部屋を出て、同じようなタイミングで部屋を出た日向と木吉の二人と全く同じタイミングで溜息を吐いた。
「火神は午後から講義出るってきかねーわ。今着替えてる。」
「まあ、一番軽傷だったしね。あ、工業の講義に抗議、キタコレ。」
「伊月黙れ。」
「降旗は食べるの辛そうだったな、腹打ってたからか。」
「帰ったら一回病院行かせないとね。黒子まだ寝てる。河原は?」
「あいつ寒気するつって。伊月に貰った葛根湯飲ませといたけど。」
幼い頃から病弱の気味で、というのは聞いてあるし、火神は元来メンタルもフィジカルも頑丈だ。黒子は精神的に追い込まれたところが多く、降旗に至っては臆病を人間にしたらこれだ、と揶揄されたり、と後輩たちもバラエティ事欠かない。
「水戸部もコガもつっちー心配性だし。」
「一番心配させてるお前が言うな。」
「そうだな、伊月には心配させられるな!」
「うっせー!」
そう来られると一番の問題児はくちびるを尖らせ、同輩の大きな背中を押して、午後からどこでどんな授業、とその真ん中に入る。昨年度はこの三人をして誠凛大学籠球部三本柱、なんて呼ばれたりもして。相田リコを入れると一年目は割かし面白い恋愛戦争を繰り広げたりなんかもして。
「あー、リコになんて言い訳しとく?」
「する必要ねぇんじゃねー?」
「だよね。真相話しても言い訳しても、あんたたちが居ながら!って結局説教されるほうに駄菓子屋できな粉棒。」
「あ、水飴が良い、俺。」
「どら焼き・・・。」
「「高いわ!!」」
ダアホ、とツッコミの手が入ればいつも通り、結局この日のこの遣り取りが数日後に具現化することを三人は未だ知らぬ。
若人とはそれで構わない。
「ってことなんですけど。」
午後の講義が終わって夕飯が終わって、試験の補講受講決定者は補講の時刻、伊月は管理室から電話を借りれた。
「なんもされなかったですよ?名前呼んだら我に返ったみたいに鉈落としましたし、持ってただけで、そもそも。・・・はい。構えたりとか無くって。でもあれ自傷したんじゃないかなーとは・・・あー、あります?やっぱ。」
はい、と二つ三つ遣り取りして、きちんと専門家を通してから森山に確認の連絡をすると言ってくれるので、素直に甘えることにする。
「兄さん、ちょっと席外していいかい?」
「あ、すいません!お戻りになるまで俺がいますね。」
「よろしくなぁー。」
煙草を出して外に出向いていく管理人は、この度の事故でひょっとしたら何かあるかもと、戦々恐々としていたとは春日の言。おそらくは今回の責任は学校側に行くだろう、とは宮地の見解。ひょっとしたら最初で最後の誠凛大学生の遠足合宿になったのかもしれない。来年度にあったとしても伊月の学年では参加出来ないので。
「え?はい、管理人さん煙草吸いに。・・・へあっ!?」
思わず奇声を上げてしまって伊月は口を塞ぐ。自分のくちびるに触れた指先に、残る感触に、あ、と。
「いえ、あのね、もー!なんでそういうこと言うんすか!」
いつもの軽口に文句を言いながら軽く笑って。
「愛してます、翔一さん。」
閨ごとの最中でもないと絶対に相手が返して来れない言葉でそうやり返す。
「おやすみなさい。」
お疲れ様です、も、失礼します、も言うような仲で無い。ただ、距離があってもこころは共にあるように。
「あの、伊月先輩・・・。」
「お、福田起きれたか。」
電話機の通話を切ったところででおずおずと声を掛けられ、伊月は管理室と玄関方面に繋がる窓口に顔を出す。その正面に食堂の入り口があるので粥の食器を返しに来たと言う。
「あの、ご迷惑おかけしました。」
「だーいじょぶ、寧ろお前だろうが、怪我したの。自主練付き合ってくれるつったのに。」
からかうように前髪を跳ねてある額を弾いてやれば、すんません、と項垂れてしまった。別の切り口を伊月は探る。
「水戸部の見立てだと二ヶ月以内に傷は塞がるさ。鉈で切ってるから痕は残るし、感染症も気を付けて抗生剤ちゃんと飲んどけ?」
「・・・はい。」
「俺もしょっちゅう怪我してるから言える義理じゃないんだけどさ、やっぱ怪我はしないに限る訳。俺は未だいいよ。怪我も浅いのばっかで傷跡・・・足の裏ぐらいかな。残ったの。木吉みたいに靭帯切ったとかさ、そういうの、絶対じゃないだろ?一生もんの傷。一生見続けて、苦しまなきゃなんないかもしんないの。福田が、傷つかないで、怪我しないで、これからな?ずっと、俺の後輩でいてくれたら、それは好ましい。」
「好ましい・・・ですか?」
「端的に言おう、好きだ。」
管理室と廊下を隔てる窓枠に肘を突いて、小首を傾げるように顎を乗せて上目にその怜悧な切れ長の目に住む黒曜石の瞳で見上げてくるのは、いっそあざといとも評せた。
「福田、俺はお前が好きだよ。」
例えその言葉に裏表なんて存在しなくて、友愛の情でしか、無くても。
「俺も、好きです。伊月さん。」
彼は彼なりに、裏表のある言葉で、恋慕を隠して、必死に告げた。
先ほどまで全然別の、情愛の交わしもある相手に愛していると告げるのを聞いたそのくちびるの薄さが情の薄さだと言うのなら、なんと人相学とは当てにならない学物だろうか、友愛でもいい、欲を言うなら欲しい情愛を、告げても。
「ありがとう。」
ほ、と花が綻ぶように笑うこのひとを、清廉でいて強く鋭く優秀で、茶目っ気がありも気遣いを忘れないこのひとの。
伊月はその桜色の親指の爪でうすいくちびるをなぞって、拳を作るとふにっと福田のくちびるに押し付けた。
「その気になったら、ちゃんと貰うから。」
ぱちりと扇形の睫毛を片方だけ降ろし、返却、とばかりに一瞬で離れて行ったその親指の爪に、福田は耳から真っ赤になって、硬直してしまった。
恋せよ少年、夏は短く青春とは字の如く青いもの。
人生の春がいつか訪れるまで、その蒙古斑は消しておくべきだ。
少年老い易く恋成り難し。
愛するひとが目の前にいる奇跡に歓喜せよ。


今吉探偵事務所、明日も平和に運営予定。
所長、助手が足りなくても仕事サボらないでくださいよ。

初出:2013年6月27日 02:03
くだづき下さい増えてください。どうやら月ちゃんは翔一さんの嫁になったら余裕が出てきた模様。あざといづき描きたいです先生・・・!!!そして亜麻美羽さん福浦空子さん同様で今回はなんと犯人のお名前にフォロワさんのお名前お借りしています。ちゃんとご本人に「犯人でもいい?」って許可頂きましたからね!?

***
いおりさんありがとうでした!!

20140109masai