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ぴょうぃ、とどこか間の抜けた笛の音に、あれはなに?と首を傾げた少年は、こんなに容易い公園の存在を知らないらしい。
「羅宇替えってゆってね。煙管って知ってる?」 「おとぅさまが、けむりぷかぷかってしてる。」 「そう。細長い管で出来ているから、その部分が痛んだらあのひとに直してもらうの。」 「・・・どうやって?」 「聞いてみる?」 「うん!」 嬉々と、上等なブラウスの少年は、ぼろを纏い修繕道具を背負った中年の男に駆けていくのに、伊月は、ゆっくり行こうね、なんて笑った。 今吉探偵と伊月助手と春のサーカス。前篇。 猫がにゃぁにゃぁと恋の季節は誠凛大学の敷地にある桜も満開で、季節をひとつ進めた。 たっ、と床を蹴る音に岩村が反応したのは、もう半分の瞬間を逃がせば危なかった。こめかみを掠った鋭い踵はそのまま重力に任せて袈裟に薙ぎ払われたのを身を伏せて交わし、襟を取ろうと伸ばされた手に伊月は飛び退った。 「声くらい掛けろ。」 「声掛けちゃったら奇襲の意味ありませんもん。」 にこやかにそう述べた伊月の手元は組まれてくいっと胴着の中で筋を伸ばす。すぅっと深く呼吸して。 「往きます。」 「来い。」 壁の様な男からの拳を掴みどころなくすり抜けた様相は猫科の動物を連想させ、ぐ、と力の掛かった帯に足で床を踏みしめれば、肩に脚を掛けられた。 「ぐっ!?」 気管を潰しに来た蹴りを腕で受け止め、掴む。それを待っていたかのように、今度は今度こそ襟を取られた。足音も無く降り立った爪先が、膝で鳩尾を狙ってくるのを腹筋に力を籠めれば、弾かれたのは脚だ。に、と吊り上ったのが嘗てのチームメイトの腹の中が読めないそれと少し重なった。 「はい、頭庇って下さい、よ!」 そのまま巴投げの要領で投げ飛ばされた。 「・・・あらぁ、伊月くん、岩村さん投げちゃったの・・・。」 兄に付いて来た伊月の妹の指導をしていた相田が呆れたように振り返る。岩村がここからが本番だ。 「本気出して貰わないとー・・・。」 今更になって肩を入念に解している伊月は、道場の壁際に倒れ込むかと思われた岩村に向かって好戦的に笑う。 「意味がない、っての!」 ぎらりと晃るその眼に、戦慄っと走る悪寒はどちらかといえば心地良い。ちょいっと指先で挑発して見れば、岩村は咆哮した。 「おお、やっとるやっとる。」 道場主が気安に入ってきて、弟子達が各々に挨拶を交わす中で岩村と伊月の空気は緊迫したままだ。がつ、と鍛えられた腕が強い力で腕を組みに来るのを伊月は伏せて逃げたが、乱暴なこと、背後から腹に腕が抱え上げるので身を捩って、岩村がしまった、と顔色を変えたのに、思いっきり額同士でぶつけた。 「・・・いったぁ・・・。」 「・・・こっちの科白だ・・・。」 「おう、岩村、お疲れさん。」 道場主、相田景虎の声に、慌てて二人で挨拶に頭を下げた。前髪を短く刈り上げた岩村の額は真っ赤で黒髪の狭間の伊月の額も真っ赤なのを相田リコが道場の片隅にある冷蔵庫の氷を砕いて手拭いで包みながら持ってきた。 「岩村はもうちっと冷静になるのを覚えろな。サラ男は相手挑発すんの悪い癖だぞ。」 「岩村さんにしかやりませんて。」 だってこうでもしないと本気出してくれませんから、と飄々と語った伊月は相田にハリセンで弾かれた。 「カントク、今ちょっと頭勘弁して。」 「伊月くん、幾ら春季休暇で校舎内点検で部活休みだからっていい加減にしないとある事一割無い事九割でなんか言いふらすから。」 「ひっでぇ!」 私もやりたい!なんてちゃっかり妹が参加してくるのを兄はでこぴんで封じた。 「赤いの引いた?」 「ん、引いた・・・かな?」 「伊月は色が白いから目立つぞ。」 「岩村さんでこ真っ赤っすね。」 「誰のせいだ。」 「俺のせいです。」 あはは、とか笑っている伊月を見ているとなんだか今は空軍軍曹の嘗ての同輩を思い出す、と岩村は壁際に移動して座り込む。 「あ、伊月くん、明日なんだけど、やっぱ鉄平の家がいいかなって。」 「木吉んとこ桜見事だもんな。」 「何だ?花見かいリコたん。」 「ゆってたわよ、パパ。」 気分としては花より団子は否めないが、進級祝いに花見でもしよう、と言い出したのは木吉で、小金井が乗っかって、日の国の風物詩お花見初体験の火神に、と順当に面子は揃っていった。 「うん、今日に急用なかったらヘーキ。」 「やったっ。伊月くん、お稲荷作ってきて!上方風の!」 稲荷寿司は西と東でなかなか違う。帝都で主に作り売られるそれは四角い揚げに五目寿司を詰めるが、上方は名前の通りに狐の耳を模した三角の揚げに具が入っても胡麻である。しのだ、とも呼ばれる。歌舞伎の弁当に入っていたことから由来し、巻き寿司と一緒に弁当箱に詰めて、助六という呼び名もある。 「翔一さんに教わったのそのまま作っただけだよ。」 「無自覚惚気止めて。」 「惚気てない!」 何処の女子学生だ、と岩村はその遣り取りを見て、徐に立ち上がる。 「伊月、上がるか。」 「あ、一本お願いします。こっちで。」 伊月が懐から出して指先で回したのは短刀を模した木刀だ。剣道用の防具の面を用意して貰って、相田の合図で開始。岩村は極普通の木刀を持っている。これは構える暇しかなかった。気が付けば喉に短刀の切っ先がある。 ひゅ、っと短く息を吐いて伊月は三歩引いたが、どこか責める様な視線に岩村は嘆息してしまった。 「手を抜いた訳じゃないからな。」 「解りました。」 少しだけ困ったように手拭いを外すと、苦笑気味に笑って、お疲れ様でした、と頭を下げるのに岩村も面を外して応じた。 「じゃ、カントク、カゲトラさん、舞を頼みます。」 二人にも深々と頭を下げて、汗を流すためにとバケツに穴を開けて散水できる仕組みが木にぶら下がる裏庭に伊月は向かった。 「あれはもう、景虎さんに直々に頼むしかないな。」 「・・・かもしれませんね。心当たりは断られましたから。」 「そうか。」 心当たりが誰なのかは岩村は知らないし、実家の古武術道場を継ぐための武者修行に相田総合運動道場に顔を出している岩村を責めるのもお門違いだと、伊月は理解している。汗の染みた胴着を脱ぎ払って髪から滴る水滴を手拭いで乱暴に拭う。持って来てあった鞄から、ブラウスを出して羽織ると結びきりを軍袴に変えてサスペンダーで吊る。ネクタイを引っかけてベストを着込んで足元は半長靴。仕草は基本的に大きく粗野だが、端々は男の手にしては丁寧に扱われている。 「よし、っと。お疲れ様です。」 「おう、お疲れ。」 「カントク、失礼するね。カゲトラさん、ありがとうございました!舞、迷惑かけるなよ。」 「迷惑かけるわけ、めー!わくわく!」 「「キタコレ!」」 タイを整えながら安定の残念振りを披露して、他にも声を掛けると小脇に抱えてあったインバネスコートを羽織って、そのまま路面電車方面に歩いて行った。 帝都の一等地、エントランスの扉を開ける前に一呼吸。 「ちーっす!」 エントランスは問題なし。事務室の扉を開けて、風を切る音に首を庇う。細い、針金のような、そのくせ柔軟な糸が首筋に絡んで、手首を挟んだ頚に一気に体重が掛かって急な酸素濃度変化に意識が飛びそうになったが、ナイフを頭上に一閃。 「お見事。」 新聞から目を離さずの賛辞に軽く咳き込みながら、どーも、とぶっきら棒に伊月はデスクに鞄を置いた。 「あっち!こっち!罠!仕込んで!ちょ、暇!あんならっ!」 伊月のデスクのあちこちの、例えば机の端に仕込まれた刃物、引出の裏側の細い針、開けた途端に飛び出してきた何か、資料に仕込まれてあったやけに切れ味のいい紙は内容が縦読みすると《暇だったからチカラ入れ過ぎたごめんとでも言うと思ったかバカ》だった。処理しきる頃にはぜぇぜぇと肩で息をする羽目になっていて、紙に見せられた鉄板を今吉方面に放った。 「月ちゃんお疲れさん。」 「お昼どうします?」 「チャーハン食いたい。」 「作れと。なら肉と野菜買ってこい。」 花宮の言い様は毎度の事なので、しかし放っておくと寝食を忘れて仕事に没頭するのは目に見えているので、伊月イコール昼飯程度の条件反射は付けさせたい。因みに半分ほど成功している。 花宮が近くの食品店で買ってきた豚肉とレタスを解しながら、今日って暇なんです?と首を傾げる羽目になる。 今吉は先日出版された本を読みながら悠々と珈琲を飲んでいて、花宮も新聞のスクラップを始めている。 「お客さんありませんね。」 「あるにはあったが。」 「浮気調査でしたか。」 「正解や。」 痴情の縺れに他人巻き込むもんちゃうで、なんて今吉は肘を突いて行儀悪く珈琲を啜る。 「昔はやってたけどな。」 「やってたんだ?」 「おう、ここ開ける前な。あの頃は探偵ってより何でも屋だった。」 「・・・へえ。」 その昔話に、うっかり米を焦がしかけたが、手際よく塩と胡椒で味を調える。 「で、適当に諏佐辺りにくっついて事件に首突っ込んで、ってな寸法?今でも馴染客には浮気調査でもなんでも受けるぜ。いねーけど。」 「まこっちゃん、喋り過ぎやで。まあ、あの頃は下町の探偵ゆーより万屋さんやったしなぁ。あ、ええ匂い。」 皿に三つよそわれた炒飯は豚肉とレタスと人参で彩られてある。伊月は豌豆で飾ったりもするが、花宮は豆の類は好まない。 「出来ましたよ。」 ことことこと。デスクに並べて匙も添えれば本を仕舞って新聞を片付けて、いただきます、と相成った。 「で、暇なんですね。」 「まぁな。」 「否定はせん。」 割と二人してがつがつと旨そうに食べてくれるので、伊月はここで好んで食事を作っている自覚はある。男子厨房に入らず、とは男性は凝り性であるが故に料理をさせると本来は女性の領域である厨房を冒してしまう危険性を示唆するわけだ。セクシムではなく、脳構造として向き不向きがある。 「あ、月ちゃん、サーカス行かん?」 「circus?」 「流暢!」 「火神がはしゃぐから覚えちゃった。良いですよ。明日は先約あるんで、明後日でも?」 「ええよー。まこっちゃん、やった!月ちゃんとデート!」 「報告いんねーし。」 「月ちゃんご馳走さん。旨かった。」 「それはお粗末様です。流し置いといて下さい。二階借りますよ。花宮、ゆってた本手に入った?」 「ああ、三番目の二段目の五十二冊目。」 「ん、平井の隣ね。了解。」 「君らの記憶力怖い。」 そんな今吉が読んでいるのは《like》である。本当に暇らしい。そんな暇があったら家の掃除なんてどうですか、なんてあんまりな提案をして伊月は二階に上がって、本を読み切る夕方まで降りてこなかった。 「それじゃ失礼しますね。」 食器の洗浄を終えるとそのまま伊月は服装を整えて鞄を持つ。 「お疲れさん。」 「せや、申告書。」 「え、不備でもありました!?」 「いいや、無かったからおおきにゆうとこ思て。おおきになぁ。」 今吉の言葉に一瞬胆を冷やした伊月だったが、くしゃくしゃと通りの良い髪を撫でられながらの言葉に、紅梅のように色付き、雪柳のように綻んだ。枝花の伝播のように今吉も笑った。 「それじゃあ。」 改めて失礼します、と伊月は振り返ることなくトラップも踏まずにエントランスからも出たらしい。 「ほな、話聞こか、天野屋。」 「伊月が整理整頓してるつっても、掃除用具入れに一日ゴクローさんだな、なんて言うとでも。」 「真、給料カットされたなかったら黙りぃ?」 赤茶けた髪を肩口で纏めたそれは、掃除用具入れの扉を開けると、バケツを履いたまま一歩踏み出した。 「あのこ、ちょぉ貸して。」 測ったように一人分の炒飯が炒め鍋に残されているのに眉を顰めた。 「誰や、伊月は鈍いゆうたん。」 「ワシかな。実際月ちゃん鈍い。ここまでやっといて気づかれてへん思うてるんちゃう?」 「ワザと俺らの昔話聞きだしたりとか?」 「せやね。」 「ええ加減にナメとったら殺すで。癪やけどな、これはお前向きの話や、今吉翔一。」 延命処置やなぁ、なんて獣のように嗤った、女でも男でも、大人でも子供でもないそれは、伊月よりも低い身長で今吉を見下すように、その血に飢えた色の光彩を向けた。 「俊、国際郵便。」 仏蘭西語と日本語で封書に名前があるそれは、英吉利の郵便局から瑞西の万国郵便連合を通して無事に伊月家の門扉を潜ってきた。 「誰?」 とつと叩かれた自室の襖から顔を出せば、姉がそれを差し出してくれて、伊月はそれをひっくり返す。リターンアドレスは、幾度か交流のあってから一切の連絡が滞った古い知人、水谷文貴の名前だった。 「懐かしい子ねぇ。」 「最後に会ったのいつだか覚えてないや。姉貴、ありがと。お休み。」 「はい、お休み。明日は朝から事務所?」 「うん。」 「頑張ってらっしゃいね?」 「蟻が十でありがとう。」 「胴を痛めてどういたしまして!」 相変わらずの遣り取りを交わして、伊月は学校の図書館から借りて来た純文学を一度閉じ、ペーパーナイフで封書を切った。 《伊月俊様》と始まった日本語の文書は丁寧だが、どこか馴れ馴れしい様子は本当に変わっていない。《選抜はどうなっている頃かな》《桜は咲いたかな》。 「姉貴、桜の押し花って作れるー?」 「何、贈るの?作っといてあげよっか。」 「やった!頼んだ!次の手紙で送る。」 「はい了解。何枚作る?本人とご婦人で二枚でいい?」 「じゃないか?」 廊下にひょこっと頭だけ出して姉弟はそう会話して、妹が不思議そうな顔で見上げて来るので、おやすみ、と部屋に見送る。階段側から俊、綾、舞、の並びである。姉妹に手を出したければとりあえず長男が相手になるという図式が見事に完成している。 そういえば、折角ラジオでの選抜中等学校野球大会の実況中継が始まっているのに時間の関係で一度としてきっちり聞けていない。何かの片手間に聞きながら、はある。東京からは早稲田実業が出ていたはずだ。彼は籠球より野球の人間だったので、そこだけは伊月と合わなかったが、家同士の集まりで何度か顔を合わせた際は、よく遊んだ。あまり笑う印象のある少年ではなかったが、震災前に爵位を天皇家に還して家も売り払って英吉利で実業家になった今は随分とのびのびと暮らしているようだ。 「広陵が結構良い線行ってんだよなぁ・・・。」 初戦を10点差で相手を下し、点差で片付けるなら、あと三校ほど有力候補がある。日々の何気ない生活を綴って、共通の友人である人物も時折顔を出す。 「・・・治水工事て・・・。」 仕事の相談されてもなぁ、なんて苦笑しつつも、こちらも仕事の話がちょいちょい役に立つ。こんなものかと書き終えて、まあどうせ二人で見るのであろうけど、とその妻宛の手紙も書いておく。美人ではない、しかし人好きする可愛らしい女性であった旧姓栄口勇人は現在妊娠中らしい。人間の成長には驚かされる。 「俊、起きているか。」 「あ、はい、父さん。」 呼ばれて慌てて背筋を正すと、文通相手からの荷物と封書を渡される。 「玉筋魚の釘煮だそうだよ。家の分にしては多いがどうした。」 「ああ、花宮さんが楽しみにしてらっしゃったんで、うっかり書いちゃったんですよ。余分に贈って下さったんですね。あ、強請った訳じゃないですよ。」 「そうか?まあ、今吉さんの所に持って行くのなら器を別けておくから。あとは部活動仲間はどうなんだ?明日は木吉君の家だろう。」 何か持って行くか、と言われても、相田リコに強請られて作った稲荷寿司は既に重箱に入っている。あとは切干の煮つけや薩摩芋の含め煮なんかも作った。やっぱり弁当箱の中身が茶色い、と作りながら思ったが。 「花宮さんに持って行って、余るかな・・・あいつ結構食うからな食いたいものなら・・・。」 ぶつぶつと算段している様子に父は少しだけ笑って。 「最近は景虎さんにもお世話になっているし、俊、立ったまましか眠れなくなるぞ?」 「その内逆立ちして寝るようになりますよ。」 かなり鍛えてんですよ、なんて寝巻の袖を捲って力を込めると浮き出る筋に、おお、と父はどこか微笑ましそうだ。父親と母親の身長から考えるに、これ以上の身長は望めないと考えている伊月俊は、がっちりと肉を付けるよりもしなやかに俊敏な動作のためにと相田景虎には修練方法を組んでもらった。 「・・・そういえば。」 「はい。」 静かな父の気配に、部屋へと通し、扉を閉めた。 「最近、子供が多く消えているそうだよ。」 「あ、新聞の呼びかけ増えてますね。」 「気を付けなさい。」 「舞ですね。景虎師範にも相談しておきます。」 「頼んだ。」 そうして共有した情報に父は頷いて、いつもの父親に戻ると、それじゃあ釘煮は母さんに頼んで別けて貰っておくから、と笑って部屋を出た。 「おやすみ。」 「はい、おやすみなさい。」 時折上等な調度がされている長男の部屋はそのまま電気が消された。 翌朝はのんびりと起き出そうと思ったら、低血圧の布団にどさっと重みが加わった。 「・・・まい・・・?」 「起きてるじゃん!道場行くから送ってって!」 「・・・用意するから待ってなさい・・・。」 起き抜けの気怠い頭で妹を部屋から追い出し、別段上等な場所へ行くでもないので服装は特に選ぶでもなく、そういえば最後に洋装礼装したのいつだっけ、なんて見当違いの思考で着替えて階段を下りると朝食を終えるのを妹がそわそわと待っていた。弁当を下げて、インバネスコートを羽織って妹に引っ張られる形で相田道場前。相田リコが赤と黄色が鮮やかな交差模様の着物を小粋に立っていた。半幅を蝶々に結んで、巾着を持っている。 「あ、リコさん可愛い!」 「ほんと?おはよう。」 「おはようございます!」 「うち交差模様とかないからね。」 「そう。古臭いのばっか。」 「古臭い言わない。」 「伊月くんのおうち、辻が花あるでしょ?綾さんの成人式綺麗だったぁ・・・。」 「カゲトラさんに頼んだらそのくらい軽いんじゃない?」 「私、成人式は洋装にしたいの!」 「カントクらしーわ。舞、行きな。」 「はーい!行ってきます!景虎師範、おはようございます!!」 おはようさん、と景虎の声が道場から聞こえて、ひゅーが未だ、と言った傍から、呼んだか、と道場から出てきた。朝の掃除を手伝わされていたらしい。 「なんだよ、いたのか。」 「悪ぃかよ。」 「あ!カントク、玉筋魚の釘煮今渡す。」 「ええっ!?悪いわよ!高そうなのに。」 「いや、文通相手が送ってくれただけだから。結構量あって。花見の分もあるから、こっちは相田道場にって。」 「あらー、ありがとう。」 ちょっと置いてくるわ、と相田が言い置いて家の勝手口に走った。可愛らしい格好でも、カントクはカントクだった。 「ちょっと寄り道いいかな。」 「事務所?」 「そう。花宮に。」 「ああ、賄賂な。」 「賄賂?」 「何でも無いよ。あっちも世話になってるからね。」 件の花宮の事情はあの場所にいた者のみの秘匿とされている。一度反対方向の路面電車に乗る遠回りを、すまんな、と伊月は詫びて、今吉探偵事務所のエントランスの扉を開けた。他のヒトがいる場合は罠が発動しない。 「おはようございますー。花宮生きてるー?」 「残念ながら生きとる。お、相田ちゃん小粋な恰好してるやん。」 「え、あ、どうも!」 花宮に遠慮なく眼光鋭くしている日向には悪いが世話になったのは本当なので、ほら、と両手で包めるくらいの弁当箱が差し出されて、いつもじっとりと眇められている目が子供のように瞬いて、瞳がきらきらと耀いた。 「な、ちょろいだろ?」 「確かに・・・。」 「ちょっと月ちゃん悪いんやけど。」 「え、仕事入りました?」 花見の約束反故か、と日向と相田は今吉に向かう伊月の後ろで顔を見合わせる。 「子守出来る?」 「何歳くらいの。」 「ああ、ワシんとこの近所に住んどるあの子らと変わらん。ええとこの子ぉやから大人しいし。明日からや。今日は安心してお花見行っておいで。」 「ああ、それはどうも・・・。つまり明日から。」 「ほぼ一日拘束で家庭教師も込みで実働八時間休憩なし。」 「労基法って知ってっか所長。」 わはは、と笑って誤魔化した今吉には手元にあった新聞でべしっと顔面を。一面には良家の子供が連続して行方不明になった事件の概要がある。 「じゃあ、明日の約束反故です?」 「・・・そないなるね。」 「この世の終わりみたいな顔してんぞ。ざまぁ。」 安定した花宮の反応はミニキッチンからだ。早速米を研いで一人用のちいさな土鍋で米を焚いている。詰まる所面倒くさがりな上で好き嫌いが激しいのである。 「明日?」 「ああ、火神がサーカス騒いでただろ?ここも例に漏れなかったの。それじゃ、俺は今日有給ってことで。」 「はいはい、楽しんでらっしゃい。明日朝一でここ顔出してな。紹介状書いとくから。」 「解りました。行ってきます。」 エントランスを出て、五段の階段を下って路面電車に乗ろうかと思ったが、木吉家を訪ねる約束の時間にはまだ間があるということで、大通りに面した見世の出し物なんかを楽しんで、ここでカントクのホイッスル買ったよね、なんて笑いながら、雑貨の店で伊月と相田がヘアピンを選ぶ会話に日向が入っていけなかったりした。 「そういえば、中学校も小学校も春季休暇だろ?」 「子供少ないわよね。日向くん、新聞くらい読んだらどう?」 「読んでるよ!選抜の結果気になるし!」 「ひゅーが・・・。」 「日向くん・・・。」 「可哀想なもん見るみたいに見んなっ。」 流石に自覚はあったのか、インバネスコートを羽織った肩が怒り上がる。鉄道馬車や路面電車から相田を遠ざけるように歩いていた三人から飛び出したのは相田だ。 「最近、子供の行方知れず、増えてるのよ。」 くるりと振り返って、口元に指先を持って行って、声を潜めて。すぐに、あぶない、と伊月が定位置に戻したが。 「三越、帝劇、場所は問わない。下町の子供くらいだね、危機感持ってないの。」 「危なくねぇか。」 「それが、一人きりを狙われてんの。下町の子は上手に群れてるから、犯人は単独で一人きりの子供を狙ってる。三越で親とはぐれた子供、帝劇でこちらも暗がりに一人になる。共通点は?」 「三越も帝劇も、出入りできるのはそれなりにいい御家、ってとこかしら?」 「さっすが日本一のカントク。」 昔はサーカスに攫われる、茶屋に売られる、なんて言われたものだが、近代になってその悪い風習は消えつつある。ただ、貧富の格差は目に余る所はあり、未だに家を持てない被災者だって多い。 「部活、出来るようになるのいつ?」 「武田先生にも聞いてみたんだけど、新しい校舎じゃない。だから早めに終わるだろって思ってたんだけど、バ火神が・・・。」 「あー、篭いっちゃってた?」 「部費が飛ぶよ新学期早々・・・。」 「あ、そっちの修繕費用は学校側が出してくれるって!よかったわね!」 相田の声に思わず会計は胸を撫で下ろし、おうい、と遠くから掛かった声に顔を上げる。 「鉄平!」 「着物可愛いなぁ、リコ!」 臆面も無く意中の女性を褒める木吉の家の背景にある軍事基地は少々邪魔だが、こちらには見事な染井吉野が満開だ。 「おー、こら見事だこと。」 「出席率どう?」 「ツッチーはゆってたとおり、彼女さんとサーカス。水戸部は少し遅れるって。」 「はいはい。皆揃ったらまず乾杯するから、負けたら飲み物買って来てねー!じゃーんけん!」 あ、一抜け、あいこでしょ、あっちむいてほいっ!それ違う、フリ行け負けるなっ!あああ負けた!負けましたね、なんでお前嬉しそうだよ、リコは動体視力いいからなぁ、またあいこ!じゃんけんっぽんっ!負けたっ!?行ってらっしゃい!あ、水戸部きたー!一緒に行くってー。ありがとうございます! 桜の木の下に何が埋まっている、なんて、桜の木が綺麗なのだから、今は忘れて良いじゃないか。 翌日、その名前を聞いて、伊月ははたと栞が完成するまで投函出来ない手紙を思い出した。縁は切ったと英吉利に渡る直前に朗らかに報告されたが、こんな形でまた関わりになるとは思ってもみなかった。 「今吉探偵事務所、所長助手の伊月俊です。」 女中に通された女主人の部屋は洋風の調度に真っ赤なヴェルベットに彼女は座っていた。 「い、づき・・・?」 「今吉所長に言いつかりまして。こちら、紹介状です。今朝がたに連絡済みだと所長には聞いておりますが。」 「伊月の、長男・・・?」 呆然とそれしか呟かない水谷姓の女主人に、伊月は深々と頭を下げる。やめてください、と悲鳴に似た声で女はそれを止めさせ、立ち上がって深く頭を下げた。 「ま、まさかっ、・・・それなら今回のお話は無かったことに・・・!」 「あの、・・・あー。どうしましょう。お、じゃない。僕はご依頼お受けしましてこちらにお伺いしましたので・・・。」 どうしようどうしよう、なんて口の中でもごもごやっていると、き、っと扉の蝶番が鳴った。 「おかぁさまぁ?」 「康利、部屋に戻っていなさい。この方は。」 「このひとが、ゆってたひと!?」 どうやら叔父そっくりの習性でも持っているのか、垂れ目勝ちの眼窩に住む色素の薄い光彩を煌めかせ、茶色いねこっ毛をふわふわと遊ばせた、ブラウスにサスペンダーとスラックスとリボンタイの少年は、毛足の長い絨毯の上を跳ねるように駆けてきて、伊月の顔を凝視っと見上げてきた。 「どう聞いてるかな?」 「おかぁさまが、一緒にいられない時間がふえるから、あそんだりお勉強したり、って!」 「そっか。息子さんのほうは準備万端だそうですよ、奥様。」 「そんな、伊月さんにそんな風に言われるなんて・・・。うちの文貴の事・・・。」 伊月は微苦笑を浮かべ、少年の目線まで降りると、ちょっと待っていて下さいね、と笑いかけると背筋を伸ばして立ち上がった。凛と前を見据える姿は大変に美しい。 「弟さんの断罪がしたい、というのであれば、お受けしてもいいですよ、その依頼。伊月家としましては。ただ、貴女は今吉所長に電話したんですよね、息子さんを護って欲しいと。だったら俺は、その依頼を完遂するまでです。今吉所長の助手ですから。」 「あ、文貴、は・・・。」 「時々手紙を頂きます。相変わらず野球がお好きなようで。日本の桜が恋しいと。」 そう、と女主人は椅子に、崩れるように座り込んでしまった。 「伊月家の人間じゃないんですよ、今の俺は。翔一さん・・・所長はね、俺の事、月ちゃんって呼ぶんです。」 子供に振り返って、月ちゃんって呼んでいただけると助かります、と笑えば、つきちゃん、と幼い発音で繰り返される。 「では、実働八時間休憩なしですっけ。お受けします。」 御用がありましたら遠慮なくお呼びつけください、と伊月は丁寧に頭を下げた。 続く。 |
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いつも閲覧評価ブクマブクマコメコメありがとうございます!一旦煮詰めて吹き零れてのわあああああ!な一作。楽しんで頂けるとこれ幸い★我が家の俊ちゃん暫く夜勤だってよ。これちょっと他の作品とクロスしてるとこあるんで解りにくいかもですが。伊月家の長男であっても月ちゃんでいたい伊月先輩。さらっと進級します。誠凛面子でお花見つったらあっこだよなぁて思ってたんですけど、当時のあの公園は軍工場基地でした・・・!!!図録助けて。どうでもいいえど表紙の画がそろそろ古くなってきてちょっとアレで・・・。
2013年3月31日 22:27初出。
むかーし、ほんまに昔に書いた御主人水谷メイド栄口(野球部にあります。)のその後がちょっと気になって、あれから三年、だったかな?彼らはどうしているのだろうなぁ、というところからの着想でした。
20130516ひゅーがおめ!!masai