| パソコンルームにちらほらといるのは文芸部や演劇部の脚本部門と情報研究会だ。何故バスケ部の主将と懐刀が、と怪訝に目を向けられたが、二人は教師から使用許可を与えられた一台に、静かに向かった。起動を待ちエクスプローラを開くとメモしてきた住所を入力し、篩にかけ、また検索。 パソコンの授業なんて何の役に立つんだろうな、と日向はぼやいたことがある。デジタルを扱うのは人間という究極のアナログだからね、と伊月は言った。一昔前に比べると、様々なソーシャルサービスによって、北海道から沖縄まだしも、海外からでも遣り取りが出来るそれは酷く三次元化してきた。 人間と人間とを繋ぐ技術はデジタルシステムであるが、造るのは人間という極アナログな存在であり、また使うのも人間なのだ。未成年にとっての危険や便利さを教え、警告する授業は、ある意味人間の本質を探らせているようで、伊月にはなかなか面白い授業であった。 今吉探偵と伊月助手と百年前のリグレット。後篇。 「まっじかよ・・・。」 はは、と特定された住所に日向は乾いた声で笑った。 戦後の混乱、バブル期の区画整理、平成の合併でその住所は随分と様変わりした。航空写真を出してみたりして、現在地との直線距離でこころが折られそうだ。会えるんじゃないか、と期待をさせた日向は、ちらりと横目に伊月を見やった。 表示されているのは。 「もしもし、今大丈夫か?」 伊月は携帯電話を開き、アドレス帳の二番目に表示される番号に戸惑うことなくコールした。 「・・・伊月?」 「ん、解った。ところで聞きたいんだが、お前、自分と同姓同名の名前に心当たりはあるか?」 赤司だ、と日向は即座に理解し、対戦した際に感じたプレッシャーを思い出したか、戦慄っと背に走る悪寒を感じた。 『征十郎という名前は、昔、赤司家が爵位を持っていたころに跡継ぎにのみ許された成人の名前です。』 なるほど、と伊月は得心したように線の細い顎に指先を遣った。 「今は?」 『長男に名づける風習はあるようですね。僕の伯父にも征十郎はいますよ。』 「ありがとう。それからついでなんだがな、兵庫の地理には明るいか?」 折り返します、と通話は切られた。日向はこちらからの道行、夜行バスや新幹線を調べているが、どうにもこうにも交通費が痛い。 ピリリ、と電子音に、伊月は即座に対応した。 「はい、伊月。」 その声の温度はいつもと変わらず、どこか戦慄っとしない。 『兵庫県と言っても広いんですよ。一名確保しました。全くこの僕を部活からサボタージュさせ校舎内を走り回らせた責任はどうしてくれるんですか。』 「じゃあ、ちょっと・・・どこ?」 「あ、神戸からバス。明石から船はあるらしい。」 「神戸にまず。」 神戸から、バスで約一時間、北東から南西に細長く伸びる、周囲二〇三キロメートルの、面積としてはシンガポール島程度。世界最長の吊り橋と本州を結ぶその島の名前は、日本神話に登場する始まりの島、おのころ島。曾祖父に読み聞かされた古事記に出て来たその世界が、パソコンの画面には表示されている。 『神戸でしたら、新神戸まで新幹線が妥当でしょう。そこからバスが出ているそうです。そのルートが一番金は掛かるが近く迷う事が無い、との事です。他には?』 「いや、十分。ありがとう。またな。」 『あなたというひとは。』 「うん?カントクに打診はしとくけど、こっちは京都まで行く部費ないからな。」 会計の俺が言うんだから間違いない、そんじゃな、と伊月は呆気なく通話を切ってしまった。 「新神戸・・・夜行バスもあるけど・・・。」 「だな・・・。」 リリリ、と今度の電子音は日向の携帯電話だ。部活の練習が始まる時間にアラームを仕掛けておいてよかった。とりあえず相田に数日後に部活を休む旨を伝えて二人で抜けてしまう詫びも入れなければ。 「いいわよ。」 さらっ、と相田は頭を下げた二人に寄越した。 「日向くんは兎も角、伊月くんがそんな思い詰めた貌してるの、珍しいもの。練習で行き詰ってるってんならまた別だけど、そうじゃないんでしょ?」 誰にでも役目というのもはある。カントクのカントクたる所以、伊月が木吉に相田を紹介した理由は、第一、小金井に可愛いマネージャーを強請られたのではなく、スポーツにある程度詳しく、バスケに深い理解があったから。彼女が男であっても伊月は絶対に監督に推した。 「夜行バスは止めといて、出来れば。変な体勢で寝ちゃって眠りも浅いし、身体を痛めかねないわ。」 「あ、うん。」 速攻伊月は許可を取り、母親の携帯する電話に発信。はいはーい、どうしたの、と母親の声に、何故か安堵っと肩から力が抜けるのは、彼女が正しく彼の母親足る存在だからだ。母親は子供に育てられるのよ、と彼女は祖父から貰った言葉で語った事がある。長女が生まれて親類に囲まれ左右も解らず子育てをしたのは、違う、と。長男も次女もすくすくとその後に生まれて育ったのは、長女に母親として育てられたからだと。 「ちょっと、新幹線で出かけるの、大丈夫かな。」 『あらあら、どうしてそうなったの。まあ、いいわよ。来月のお小遣いからちょくちょく返してもらうのでいいかしら?』 「ありがとう、母さん。」 「サンキュ、おふくろ。」 隣で似たような声を上げた日向と、思わず顔を見合わせて笑った。相変わらず仲が良いですね、と黒子が通りかかったので、日向が反射的に振り返る。 「なあ、黒子の家って、他にもお前と同じ名前の人間、いたか?」 「え、っと。そうですね、僕が知らないだけでいたかもしれませんし、黒子、という名字はコクシやクロシとも読みまして、割と日本各地にあるんです。寧ろクロコ、という読みのほうが少ないです。」 そうだ、と日向は考える。伊月という名字を、伊月俊の家の他に彼は知らない。伊月も思い当たったらしく、腕を組み、顎を摘まんで考え込んだ。 「富士山見えないなー。」 あっという間に通り過ぎた景色は楽しめ無いものだな、と伊月は駅で買った弁当を堪能している。二人ともシャツにジャケットの春の軽装で、伊月は白のシャツに緩くサテン生地の黒いタイを巻いてあり、ジャケットの中にカーディガンにスキニーにハイカットブーツを合わせ、日向は黄土色の厚手のシャツにジャケットの袖を折ってあり、足元はカーゴパンツにスニーカーだ。 「いつかさぁ、ロードバイクとかで日本一周してみたいよね、景色愉しみながら。」 朝一で乗った新幹線は春曙の中を颯爽と走り、三時間程度で近畿に入って新神戸に停車した。本当に景色を楽しむ暇も無かった道中、駅構内では見たことの無いパッケージに、遠くに来たな、なんて考えた。 「バス乗り場、上か。」 「階段遠いな。」 新神戸駅は神戸山中に在る。あっ、と伊月が遠くにやった視線で声を上げた。 「異人館街!!」 「うお、まじで。」 「こっからだと鱗屋根しか見えないけど、あれ多分ドイツ館。うわああ行きたい!帰りに時間あったら寄ろう!!」 こいつ案外こういうとこミーハーだよなぁ、と生ぬるく日向は笑い、所々アクセントの違う話声に耳を傾ける。新幹線の切符は往復で買ったが、一週間以内使用であって、流石にそこまで部活をサボる訳にもいかずに、しかし会えるかどうかは微妙であるが、その足跡は知りたい。バスの停留所に並ぶ綺麗なビジネススーツに身を包んだ、ぱりっと伸びる背筋の素晴らしく格好の良い男は、携帯電話に着信を受け、まいど!と陽気に返答したのにずっこける。そうだ関西だ、と日向は思った。 「てか、こっち下ったら異人館街じゃね?」 「異人館街で時間外でキタコレな気がするー!」 「はいはい黙れ黙れ。」 淡路徳島方面へのバス乗り場は風通しが良く、バスは半時間に一本で、新神戸から乗車する客は彼ら二人だけだった。十分程度を只管住宅街ビジネス街、そしてトンネル。バスの揺れの少ない前方の座席を確保したが、突如開ける視界は神戸新聞社ビルの近く。一度停車すれば、そのターミナルで乗客がある。 「三ノ宮駅バスターミナル・・・。」 多くの乗り場札がそのターミナルには並び、広い待合室も案外過ごしやすそうだ。おそらく神戸という街の主な起点はここにあるのだろう。 「ここのターミナルにバスを置けないから新神戸駅の車庫に入れてあるんだ。」 なるほど、とバス会社の思惑と、都会の不便なことな、なんて笑って、そこを出ると暫し高速道路の殺風景な壁がある。消音壁ばかりの景色に飽きてきて、伊月は日向の肩に少しだけ眠ったが、おい、とバスの停車と共に揺り起こされた。 「ん、降りる・・・?」 乗客ばかりの停車駅、終点までこのまま眠っていても良い筈だろう、と見上げると、ほら、と日向の指が招いた外の景色に伊月は言葉を無くした。海だ。青い、海の色。窓の外には神戸の住宅街と海と広い空。海には幾つもの船が白い足跡を残して、動くジオラマのような、高い高い海の景色に、酔うぞ、と日向は苦笑したのみ、伊月は大人しく視線をフロントガラスに向けた。 「世界一の、吊り橋・・・。」 何度かテレビで見た事はあっても、初めて渡るその感動に、伊月は瞬きを忘れた。鵜崎、夢舞台前、大磯、そして終点、東浦バスターミナル。広く整備された道路は二〇〇〇年の花博に際してらしく、ソテツがあちらこちらで植えられて、高くに育ったそれはフェニックスと称されているらしい。広いバスターミナルといっても田舎の規模だ。バスから降りた右手には海、左手には山の、ターミナルで彼らは一度途方に暮れる。ターミナル内には淡路島内部の観光案内地図がある。 「っと、多分この辺、なんだよ・・・。」 慶野松原、と書かれたその付近に、調べた住所の含まれたインターチェンジはあったのだ。高速に乗るには、と受付にも聞いてみて、国道から行く術も聞いてみる。500円で乗り放題のバスは市内ならどこでも行けるそうだが、残念ながら目指しているのは市街なのだ。 「なんだこの、運賃、おかしいだろ・・・。」 バスの一駅が150円という反則的高さに、月々の小遣いの遣り繰りも疲れてきた。百園さとという女性に心底尊敬の念を送る。 「日本で二番目に高いんよ。」 「えっ。」 「バス代。日本で二番目に高いんよ、淡路島。」 「あの・・・?」 「観光のおひとやろ?」 その女とも男とも付かぬ、子供とも大人ともつかぬ人物は黒いスリーピースというには遊びの入りまくったデザインを纏い、腰のポシェットから黒い尻尾が生えてある。近くのこちらも珍しい、茶色の外装であるコンビニから帰ってきたという。バスターミナルの駐車場には、二つの比較的大きな建物があった。へいちょやっとゲットや、と珈琲缶のパッケージを外し、春の風に赤茶けた髪を遊ばせ、スマートフォンのストラップホルダーが付いたケースに通した。 「どこ行かはるん?こっちの市内やったら若干案内出来ますよって。」 「あ、えっと、この住所・・・なんですけど。」 天辺から爪先まで観察されるような居心地の悪さに、伊月はジャケットの襟を正し、シャツの上に羽織っているカーディガンの裾の形を直す。 「すまんな、田舎の人間の悪い癖や。イケメンて君らの事言うねんなぁ。ん、ちょっと付いてきて。この住所心当たりあるわ。」 「本当ですか!?」 「うん、ちょっと付いてきて貰えるやろか。」 バスターミナル敷地の、猫の画が描かれている自動ドアを潜ったそのひとは、関係者以外立ち入り禁止、と書かれた黒い扉に、失礼しまーす、と入っていった。もりわきさんの住所―あこれ、やっぱ近いな、と思案する声に、ありがとうございましたー、とまた出て来た。 「よっしゃ、ウチに命預けるんと、財布に痛恨の一撃、どっちがええ?」 「はっ!?」 「え、どういう?」 「うん、せやから、バスで行くか、ウチの車で行くか、どっちか。ゆうても鮎原やから、そない地理明るい訳でもないけどな。最寄りのバス停までやったら少なくとも解る。姉弟子の家の近くやから。ただし、ウチ半分愛媛人やから、運転荒いで。」 っしゃ、と日向は拳を握ったのを、伊月は横目で呆れたように見やる。 「んな決まり?前もって連絡はしてある?」 「あ。してない・・・。」 しまった、と伊月は口元を抑え、そうだ、と一番の胆を忘れてしまっていた迂闊さに臍を噛む。 「住所と名前から番号出るやろ、確か。電話帳サービスみたいなん。」 「あっ!」 貸せ、と日向はその住所のメモをひったくると、早速検索した。なんやったら連絡に使い、とスマートフォンを渡される。番号出た、と日向が快哉を叫び、それを伊月はスマートフォンを遠慮なく借りて入力した。ほぼ反射の動きだったが、そこで、瞠目することになる。 「森脇、さと・・・。」 借りた電話に番号を打ち込むと、何故かその名前が表示されたのだ。ということは、初めからこの人物は、旧姓百園、森脇さとの連絡先を知っていた。 『はい、もしもし。』 ゆったりとした老女の声に、あ、と伊月は声を漏らしたまま、何も言えなかった。 「こんにちはぁ、森脇さーん!」 スマートフォンを奪ったそれは、悪戯に成功した子供のようだった。今から訪ねてええですか、と比較的ゆっくりした喋りで、はい、いいえ、あ、はい、そんならおねがいします、と受け答えして、通話を切った。 「申し遅れました。天野利子、いいます。借金の利子でリコ。なんて呼んだらええ?」 「天野、さん・・・?」 「あ、俺は日向。こいつは・・・伊月?」 「あの、伊月って家、御存じないですか!」 「イヅキ?どんな字?」 「伊勢の伊の空の月です。」 「イヅキは知らんな。イツキなら知っとる。看板やけど。」 「・・・え?」 「まあ、そんなら日向くんと伊月くん、やね。ちょっと煙草臭いけど我慢して乗ったって。」 案内されたのはオートマのコンパクトカーで、トランクにエナメルに詰めた着替えやアメニティを詰んで、通学鞄に伊月は手紙や手帳などの持ち歩ける規模の厚さや大きさのものは入れてある。後部座席に乗せられた助手席には大きな鞄が乗っていた。 「あの、仕事中とかじゃ・・・。」 「うん?ああ、平日はお客さんないさかい、ええんよ。森脇さんに裏打ち頼んだやつもあるし・・・。」 「裏打ち?」 スミ、と印字された駐車券が駐車場の出入りを管理している機械を抜けて、ゆっくりと車は動き出す。法定速度で国道を走る半時間、煙草臭いと言われてあった通り、気分が悪くなった二人に天野は窓を開け、信号で止まった折りに煙草に火をつけた。 「裏打ち。和物の額装に際してのちょっとした手間、やね。」 「和紙の裏に厚紙を張り付けるんだよ、確か。手帳にあった。」 「おう、読めたのか。」 「読めた読めた!あれ読み解ける達成感半端ない!」 「最近の若い子、本読まんの?」 いやそういう意味違くて、と日向は苦笑した。伊月は曾祖父の教えに則り、年齢にしては本を読んでいるほうだ。イーグルアイは速読も可能ゆえ、読む速度がとにかく速い。それまじで読めてんの、と小金井や土田がよく笑う。分厚い文庫の頁で聞いても内容を覚えているものなので相当である。 「こっからちょっと運転荒れるで。」 天野はそう前置き、細い道である癖、随分な速度で進んでいく。田舎もんやからなぁ、と天野は笑ったが、振り回される後部座席は堪ったもので無い。 「っしゃ、到着。大丈夫か?」 田舎の背の低い住宅に、時折不自然なほど新しい建物があるのに伊月が首を巡らせれば、震災の名残、と天野は煙草を揉み消しながら苦く笑った。 貴重品の入っているのだろう鞄を持ち、車の鍵をポケットに入れた軽装で、二人に荷物はどうするかを聞き、二人はそれぞれの貴重品と伊月の通学鞄のみ持つ旨、そのままその古めかしい離れのある家に向かった。 「こーんにちはー!」 「こっこんにちは!」 挨拶のイントネーションの違いに天野は笑う。呼び鈴無いからな、と呼ばっていれば、離れからひと影が出て来た。春の昼の暖かい中、その老女は、いらっしゃい、と笑った。 「森脇さん、法被どない?玄孫さんのやっけ?」 「もう、りこちゃん画いてぇやぁ。」 「おばあちゃんが画いたから嬉しい、ゆうもんやろー。んで、突然やけどお客さんやで。」 おやまあ、と老女は青年二人にゆっくりと体を向けると、頭を下げて、顔を上げた。深い年輪を顔に刻んだ、眼鏡を掛けた老女は、補聴器もしていたが、しゃんと自分の両足で立ち、そこにいる。 「あ、の。」 百園さとさん、と伊月は呼ぼうとして、淀んだ。本人である確証は、果たしてどこにある。さと、という名前はあるが、Asylの記録簿を見る限り、その推測された人物は、百も近い筈だ。幾ら平均寿命が長いといっても、限度がある。 「つきさん・・・。」 彼女は、確かにそう言った。 「月さん。」 その場で、立ち尽くすように呼んだ後、じゃり、と庭の土を踏み鳴らし、杖も使わず伊月の前に、背骨は曲がっているが、年齢から血の巡りの悪い、指先も曲がったその冷たくも柔らかい手は、暖かい手のひらが、そっと壊れ物のように伊月の頬を抱く。 「月さん・・・っ!」 まるでそれしか知らぬ幼子のように、呼び、縋り、そして彼女は泣いた。 「月さん、月さん、月さん。ああ、だめ、月さんはもうしんで、おそうしきにも、ああ、でも、つきさん・・・!私は死んでしまうの?お迎えに来たの?」 「しっ、失礼っすけど!!」 森脇さとと伊月の間に入って声を荒げたのは日向だ。 「すんませんけど!こいつ、月さんって名前、違うんで!伊月俊ってんだけど!」 「あああこらばかひゅーが!相手お年寄り!!」 「あらー、お客さまー?おばーちゃーん?」 「あ、すんません、邪魔しとりますー!天野ですー!」 遠く他人の土地でカオスも良いところ、さとの玄孫の嫁が帰ってきて、お茶を淹れてくれるのを受け取り、伊月はまんじりと、離れは彼女のアトリエであるらしい、墨や絵具や花の馨るその場所で、森脇さとと対峙させられた。 「イツキさん、森脇さんとは初対面なんやんね?」 「伊月です。」 「ああ、ごめん。イツキやねん、こっちのほう。本家は徳島やったかな、イツキって読むんよ、伊月って書いて。」 森脇さとの文机を天野は一言断り、こうやろ、と御世辞にも綺麗とは言い難い《伊月》の文字を見せた。 「病院とか老人ホームとかつくっとってな。規模がでかいよって、どっかのジャニーズが一遍取材に来とった。で、伊月さんは何しに来はった?」 途端に鋭くなった天野の語気と視線に、凛と伊月は背筋を正す。誠に真っ直ぐなまなざしに、ああ、と森脇は、さとは、泣きそうに喘いだ。 「百園さとさんに、お渡ししたいもの、お見せしたいもの、そして聞かせて頂きたいものがあって、来ました。」 深々と綺麗に頭を下げた様子に、慌てて隣で正座を崩しかけた日向も頭を下げた。眼鏡がずれて、慌てて直したのに、さとは笑った。 「月さんと、そのお友達の方に、そっくりだわぁ。」 「月さん、というのは・・・えっと、探偵の助手や養護施設の施設長をしていた伊月俊、で間違いは無いでしょうか?」 「ええ、本当に、懐かしい・・・。」 「えっと、これ、見憶え、ないですか!?」 彼の鞄から出て来たのは、厚紙で表紙を拵え紐で結い上げた、《業務日誌》と書かれたノートと黒革の手帳と駄洒落ネタ帳。黒革の手帳は黒い染みの広がった一冊と、もう一冊はまともに全頁埋められた二冊を持ってきた。古びたそれらと間宮昌美の手紙。骨はあの翌朝に近所の寺で弔って貰った。無縁仏となったが、放置されるよりマシで、また死んでいった様子は業務日誌に間宮の手で克明に記されている。 「アジイルの日記・・・。懐かしい・・・まーさんかーさんに、俊兄さん・・・。」 「俊兄さんと月さんって、違うんです?」 「あのね、わたしの勝手な我儘だったの。私はね、親が無いの。」 「えっ。」 親が無く育った彼女は大正元年生まれと戸籍にあるが、それは後々伊月施設長に作られた年齢で、それに従うと彼女は百歳を優に超える。当時の東京で孤児院に育ち、また子供も育てたが、その孤児院はある日強盗に入られ、百園は上海に売られてしまったのを、月さんに助けられた。その後に月さんはAsylという養護施設を作り、百園さとを雇った。 「月さんは、私の雇い主で、同僚なの。俊兄さんは、私のお兄さんだったの。月さんのこと、伊月さんはどこまでご存知?」 試される、気がした。 「伊月俊、という名前を見つけたのはつい先日です。」 先日、蔵を整頓するにあたって、妹が家系図を見つけた。曾祖父によって書かれたと思わしきその家系図に、自分と全く同じ名前があった事。 「俺の曾祖父は、伊月空之助、というんですが、高祖父にあたる人物は、伊月そら、と言います。そら、という男性は伊月家の養子から、婿養子になった、と。」 「そらが!」 あらぁ、とそのまま彼女は笑いだした。 「えっ。」 「あらまぁ、あの女の子に悪戯をしては苛め返されて泣いていたあのそらが!まーさんかーさんから聞いた時、何の冗談かと思っていたけれど、もう、やだ、本当に?」 「えと、戸籍上もそうなので、嘘じゃないとは。」 まるで年頃の娘のようにころころと笑ったさとは、あのそらちゃんが舞さんとだなんて勿体ない、とまだ笑う。 「あの・・・。」 遠慮がちに伊月は、黒革の手帳とネタ帳とを開く。黒革の手帳の最後の頁。 「翔一さん、ってどなた、です?」 「翔一さんは、月さんの旦那さま。」 「はい?」 「旦那さま。」 「いやいや・・・。」 「最初はね、探偵さんとその助手さんなのね、って。でもね、いいなぁって思ったの。あんな二人のような、笑い合える伴侶が欲しい、って。そういうことよ。」 「・・・はぁ・・・。」 「特高、は御存じ?」 「特別高等警察、でしょうか。百園さとさんが、月さんが連れて行かれた、とそれだけ。」 ええ、と彼女は顎を引く。急に老け込んだ気がして、戦慄っとした。 「あのアジィルというお家はね、月さんが作ったんだもの、そりゃそうよ。イギリスもドイツも、国籍なんて関係なく、育てて、月さんのお姉さんや女学校のご学友が教えに来て下さったり、月さんが授業をしたことだってあったり、つんぼにもおしにも、本当に分け隔てなく、大人も子供もみんながみんなで面倒を見ていたのね。」 キャロルという少女がいた。徐々に旗色の悪くなった日本での不景気に解雇された家の娘で、Asylに住まわせた。今で言う連合国の国籍を持つ人々が訪ねて来たり、遊びに来たり、ハーフやクォーターでものんびりと楽しめる家だった。その家の安らぎを護るために。 「月さん、連れて行かれちゃった・・・。」 はらはらと声も無く彼女は哭く。手拭いに涙を吸わせ、当時もそうして泣いたのだろう、彼女たちは。 「月さん、あなたとよく似ていたの。」 りこちゃん、ちょっといい、と彼女は文机の脇に居た天野に声を掛け、抽斗から写真を出した。 「月さんのお家も、探偵さんの所も、毎年お正月に全員で写真を撮ったのね。これ、アジィルのもの。焼けたら嫌だからって、昌美さんが送って持たせてくれたの。」 間宮昌美はあのまま空襲で、どこかで息絶えたのか、消息は一介の高校生には知ることは出来なかったが。 「これが、私、昌美さん、それから、俊兄さん。」 あの時代の写真は皆で身分や年齢で整列してある事が多いが、こちらは全くそういった形跡が見られなかった。真ん中で抱き着かれているかと思えば、隅に子供を抱いて静かに佇む年もある伊月俊は、本当に今ここで、森脇さとの話を聞いて頷いた伊月俊にそっくりだった。小柄で今にも子供に埋もれそうな可愛らしい少女がさと、すっきりと整った鼻梁に淡く微笑む美女が昌美。 「本当に、あなたにそっくりな、美男子だったの。籠球も上手でね、ばすけっと、と今は言うのよね。」 密談は無い。あったとしても俺が許す筈がない。俺の存在が証明する。 紅い外套の数人の集団に、彼は怯む事無く向かったという。そしてその三日後、棺桶に入れられて帰ってきた。 「探偵さんが、見んほうがええ、ってゆったの。」 「見んほがええ?」 今まで無言を貫いてきた天野が片眉を跳ねた。伊月は革の縮んだ黒革の手帳を開く。 《ごめんなさいしょういちさんゆひのほねくたかれました》 うわ、と呻いたようだった。拷問紛いに脅迫を促し暴行し、そのやり方は近代でも資料として残っている。運よく生き延びた元共産主義者や思想運動家、小説家などがよくそれを手記に残してもいる。 「そうやな、これ、血やろ。」 血がこびり付いて乾き、取れてしまった頁を持つ手が震えた。 「月さん、死んだの。私たちを庇って、死んだの。」 「違います!」 気付けば伊月は叫んであった。 「違います。殉じたんじゃない、絶対に違う。断言します。伊月俊の血を同じくする者として!伊月俊は、そんな強かでお人よしじゃない。自分の正義を、疑いながらも生きた彼は、それでも、自分の中の護るべきものを信じた筈だ。自分では無く、貴女たちを、信じた筈だ!」 その場所で死を覚悟、したのかもしれない、二十台も前半の男は、きっとそこまで強くない。籠球や勉学を続けられなくなる暴力に、折れた証はきっとこの一文。それでも詫びたのは《翔一さん》に関してのみ。彼女たちに詫びが無いのは、彼女たちを信じたからだ。子供たちをきちんと育てて未来を見せて、そうして活かしてくれると、自分が押し付けると言っていい哲学を学んで育んでくれた彼女に、彼は期待した。遺すことを悔いたかどうか、それは彼にしか解らない。ただ、伊月に解るのは。 「さとさんと昌美さん。あなたたち二人は、きっと伊月俊の存在に助けられてきたんでしょう?それは彼を助ける存在であったからだ。ひととひととはいつの時代も対等で、金が在っても無くても身分差が作られてあったとしても、対等でなきゃいけない。だって、・・・っ!」 「無償の愛は、在りえない、かしら?」 「−っ。」 言葉を、無くした。 無償の愛、という言葉がある。見返りを期待せずに愛を注ぐこと。ただ本能のまま、愛を注ぎ与える事。与えられた人間は、耐え忍ぶ。そしてまた与える人間となり、味わう人生を、死ぬ直前に一瞬だけ振り返って。間違いなく、伊月の曾祖父、空之助はそうやって間際に一粒だけ涙を遺し、逝ったのだから。 「ああ、本当にあなたは、月さんのこどもたちの、一人だわ。」 百園さとはそれからのことを少し、教えてくれた。《今吉さん》が疎開先としてこの島を紹介してくれて、百園さとはこちらに移り住み、どうやら《今吉さん》の旧知がこちらに在ったようであり、森脇の男と彼女は結婚した。間宮の最期の手紙を彼女は読み、静かに仕舞って、伊月さんがお持ちなさい、と手を握ってくれた。戦時下の徴兵からは逃れられず、何通かの弔電も彼女は大事に残してあり、間宮の手紙に合わせてやって、学徒動員に引っ張られた子供はあったが、終戦の後、徳島方面に出稼ぎに出た際に伊月の名字で生きてきたが、いつの間にか濁点が無くなった事。 「あの、今吉さんっていうのは・・・。」 しょいまよしさん、なんて呼んでしまったこともあったわね、と少し笑った彼女は。 「あの方は、何を考えているのか、ずっと解らなくって・・・。」 伊月俊の一周忌が終わった後、野良猫のように姿を消したらしい。花宮真に関しては、特高の人間になったので、その後はAsylを護る事に尽力してくれたとも。 「ねえ、伊月さん。」 いい加減日没が近くなると、そろそろお暇しますか、と天野が声を掛け、どっか泊まるの、との声に絶句した二人に、知り合いのペンション紹介したろ、と笑ってあって、日向が頭を下げた後ろ、背後に落下してきた花を伊月は受け止めた。森脇さとのアトリエに飾ってあった喇叭水仙は花だけがふわりと彼の肩の上に落ちたのだ。 「あなたも、後ろが見えるのね。」 月さんと一緒だわ、と彼女は思い出に浸るように、悲しそうだが、確かに微笑んだ。 「魚食える?アレルギーとか。」 「ねぇっす。」 「おっけ。今の時期なら桜鯛だな。そのエナメル部活?運動部?」 「あ、はい。」 「じゃぁ一番安いプランで申し込んどくけど漁師飯だから腹いっぱいにはなるな。まあまあゆっくり休んで。チェックアウトの時間に明日迎えに行ってやるから。これ番号。敷居かったらラインでも可。」 「「お世話なります!」」 森脇さんはウチの姉弟子でもあるからさ、と苦笑気味に天野は対応し、そのコンパクトカーは惜しまれながら森脇家の敷地を出た。 「森脇さん今な、玄孫さんに法被に龍画いてやってはんねんか。祭りの本番は夏やって。」 「え、はい。」 「夏までは、私の妹弟子の根性で、元気にさしとくから!」 二度と会えない存在では無い。そう、天野は不器用ながらに言った。そこから半時間、随分と空いた国道に、大丈夫か、と顔を見合わせた都会育ちは、ちょっと酔った。山の上のペンションでは春霞の中でも対岸の夜景が綺麗に見えて、星は見たことの無い位に大量に光っていた。大量の海の幸山の幸を堪能させて貰い、天野は知り合いの顔と、客が学生である旨、少し色を付けて貰ったらしい。 「ただいまー、すんませんおばさん、風呂入れますかー?」 「はいはい、一番風呂になりますよー。」 風呂は十九時からなので、その客人はペンションのリビングに荷物を置いて、歩いて来たのだろう、タオルで汗を拭った。 「・・・今吉!?」 「ひゅうが、今吉さん、な。」 「んお?」 毛先の捌けた黒髪をしんなりと汗に濡らし、眼鏡を拭って掛け直した男は、この春桐皇学園高校を卒業した、今吉翔一の名前を持つ者で、伊月は少なからず、メールでも送ってみようかと気にしてはあった。 「誠凛のツートップやんけ。どないした、こんな辺鄙なとこで。」 「辺鄙で悪かったな。」 ペンションの台所から出て来た輩にも、少なからず二人は驚かされた。悪名き悪童、花宮真である。 「あ、ワシはこっちの親戚に十年ぶりの挨拶で帰って来たん。花宮は元々神戸や。」 「え、そうなん、すか。」 「なんでも、早良親王の末裔どうのーゆうて酔っ払いは言いよるがな、怪しいもんやで、人間のルーツっちゅーんは。」 「なんで俺のバイト日狙ったみてーに帰って来てんだよ、センパイよぉ。」 「花宮も酷いわぁ。昔は同門やったらしいんにー。」 どうもん、と首を傾げた伊月には。 「六波羅探題。授業で習わんか?ワシの家も花宮の家も、大昔はそこからの出自がどうこうらしいねん。まあ、もう関係ないけどな。」 二十一世紀も何年来たんよ、と今吉は飄々と、ペンションの女将の声で風呂に入って、花宮は日向と伊月、天野の鍋に火を入れると、ごゆっくり、と無愛想に台所に引っ込んだ。 「なんやあのこ、かわええな。」 「うっそ。」 「ないでしょ。」 《月ちゃん》と《翔一さん》が生きた時代から、大凡百年。彼らのルーツは、まだまだ始まったばかり。 後悔せぇへん? 後に悔む事を後悔というのなら、きっとしません。 月ちゃんの強さに吃驚やわぁ、ほんま。 翔一さんの狡賢さに流石に頭を抱えました今回は。 流石ワシやろ? 自画自賛って絵画用語だったんですってね。 しゃーない、ワシ絵心あらへん。まこっちゃんに取られたもん。 全く可愛くない。 かわいないて結構。 浮気、しないでね。 そんな器用な男ちゃうから、安心せぇ。 そうでした。さよなら、俺の愛しいひと。 ああ、さいなら、ワシの最期の嫁さん。 ・・・殴りますよ。 終わり。 この物語は二次創作を基にした完全なるフィクションです。 登場した人物、時代背景、集団、淡路島などは全て架空のものであり、 実在するものとは何の関わりもありません。 お話をこころから楽しんでくださったあなたに、こころから深く感謝申し上げます。 masai |
初出:2014年2月13日 23:33
過去と現在の交錯する最終話、後篇。
折角なんでシリーズ100まで短編で、その後の色々なひとの視線でお話を描いてみようと思います。後このお話に書くにあたっての課題は「百科に今月が載る事」だったので、無事に今月が百科になり、シリーズ完結まで持って行けて幸いです。今月探偵百科は深く愛して下さった方へのプレゼントにしたいなぁと思っていますので、愛してくださった皆様でお好きに編集、三次創作してください!
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これで本編は終了となりました。長い間本当にありがとうございました。
因みにこの話にも伏線要素はあったんですが、このまますっきり終わらせるには、ということで花宮のあのお話が挿入されました。
20140421masai