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イーグルアイを隔世遺伝として受け継いだ彼は、高校生である今、バスケットボールという競技に一身に熱意を注いでいるが、小学校二年、ミニバスを始める際に、曽祖父、伊月空之助から強く反対された。
「あんなもん、毛唐の競技だ。」 そう、酷く悲しい声音で。 伊月の家には古い蔵があった。古い、といっても第二次世界大戦での空襲から焼け残った程度から少々のほど修補されてはあったが、誰も入るようのない、何が入っているかも伊月にとっては未知の蔵だった。 この度その蔵が取り壊されるに当たり、中身を確かめよう、と伊月の父が古めかしい鍵を持ったのだ。母は前持って祖母や曽祖母の形見になる着物や反物が保管されているのを知ってはいたが、作られた時代を考察するとあまり質の良いものでないとは知っていたし、子供等も興味本位色が強かった。 重たい音で南京錠が落ちる。南京錠は細かい装飾あったであろう痕跡と、またやはり空襲で焼かれた熱で歪んでいた。伊月の今住んでいる家は、戦の大火に焼けてしまって、それから大坪建設と高尾建設が担い受けて、見事な和装建築に仕上げた。何でも昔に何代前だか数えるのも莫迦らしい、その伊月の家を作ったのもその建築会社であったらしく、それぞれの会社の倉庫には、空襲時に倉庫の中で生き延びた設計図があったのだ。ある程度現代様式化されてあるが、この家は昔からの姿を変えず、見事な庭に見事な屋敷であるらしい。 蔵の壁は土で出来ており、コンクリートも使われた当時としては少々珍しい建築物で、しかし何物にも終わりはあるということらしい、土台は無事だが壁に罅が目立ち始めた。 今吉探偵と伊月助手の百年前のリグレット。前篇。 春休みの真昼間ではあったが、電気を繋げても薄暗い蔵の棚と棚の間、伊月はそこで一つの、埃を被った柳行李を見つけた。つるりと輝く漆に見事に設えられており、古い蔵の中に、見つけてくれ、と言わんばかりの存在感を放ったように彼の広い視野には見えたのだ。着物の類は曽祖母が縫ったり、反物のままであったり、こちらは母親を始め、姉と妹も驚きつつ喜んだ。 「何か、気になったか?」 父親の声に、うん、と伊月は曖昧に頷いた。目立つような場所にあったわけでなく、寧ろ奥のほうに隠されるように押し込まれてあって、何か目ぼしいものがあるなら持って出なさい、との家長の命に、はい、と返答した。 「俊、新しい浴衣いる?」 「成人式の着物にしてもらっちゃえば良いじゃない。」 「姉貴、気が早いって。」 「うーん、着物にしちゃえるほどの反物じゃ無いのよ。訪問着・・・綾ちゃんの訪問着でぎりぎりね。」 「訪問着ってほういうもん?キタコレ。」 うわぁなにこれ!と掛け軸のようなそれを開いた妹が声を上げるので、うん、と姉弟で視野を広げてみる。 「なにこれ!?」 「えっと、空之助は・・・ひいおじいさん、よね?」 ちょっと待って調べる、と姉は携帯電話を出して、入り婿である父親の名前は無かったが、その一番下には母の名前があった。全て空之助の文字であり、過去を語り未来を見据えた実に曽祖父らしい、と伊月は考えた。 「あった、高祖父。曽祖父の父親だから、高祖父だって。なにこれすごい。」 高祖父、に何故姉妹も親も過剰反応したのか、そこには名前の問題があった。伊月俊の高祖父、その世代の筆頭の名前は伊月俊。彼に様々な哲学を教えてくれた学ばせてくれた曽祖父ですら、この事を教えてくれなかった。 「伊月、俊・・・。」 しかしその名前は縦線が引いてあった。享年二十四、とも。 「徴兵、されたのかな。」 「・・・かもな。長男だったろうにな、この場所に名前があるって事は。」 きょうだいに、正確には養子として太一、そら、ときこ、陽子、学、とずらりと十人ほど並び、結婚したものは横線に繋がり配偶者の名前もある。随分多くの子供を抱えた時代があったのだな、というのは、戦時中の産め増やせだったんじゃない、と姉が自分と同じ名前を見つけて、へえ、保也ってひとと結婚したの、と少々感慨深そうだ。 「ちょっと見せて!」 「え、どうしたの、俊。」 「なんで、この名前が・・・。」 蝶子、とある名前の隣、配偶者として記されている名前に、伊月は震える指先を握り込んだ。 《花宮真》と。 「気になったんなら、この辺のも、持ってく?」 この辺の、と姉が示した一角は、行李や包み、大きな木箱もあった。棺桶ほどの大きさの木箱には何かアルファベットが刻まれてあった。 「ちょっと嵩張るけど、いい?」 「いいわよ。伊月家のルーツ!すっごいわよこれ!」 大丈夫っすか、と声をかけてくれたのは、何の因果か高尾和成である。高尾建設が寄越した跡継ぎの一人で、俯瞰視野を持っているので活用出来やしないか、との事である。生憎本人は今はバスケに夢中であるようだが。 伊月家の縁側から広間に運んだその大量の物品と柳行李。家系図を凄い凄いと姉妹は見ていたが、伊月は招かれるようにその柳行李を開けた。黄ばんで朽ちかけた紙はメモ帳でも千切って書かれたのだろう、《頑張ってな、月ちゃん。》と記されたその紙は、なんだかやさしい気分になった。黒皮が縮んだ手帳に何冊もあるノートには、全く知らない名前があった。しかし名字は伊月。伊月自身、この家がそんなにもルーツを持つものだとは思っていなかった。春の風がふわふわと漂い、桜の儚い香りが散った。カコン、と水の入った庭では鹿威しが石を叩いている。 「すっげ、これ五代前まで名前あんじゃないっすか!」 「あ、高尾。」 「この度はお世話させていただきますっ!親父が!」 「そうだね、迷惑かけると思うよ、両親が。」 「あらまぁ俊!そんな迷惑かけるわけめーわ!」 「それイタダキ!」 「ちょっ、やっぱマジおもろい伊月さんち!」 遠慮なく爆笑してくれる高尾は、お茶が入ったのでどうぞ、と伊月の母に呼ばれて居間に移動した。 「・・・流石伊月俊。」 伊月は思わず絶句した。ノートには何が書かれているかさっぱりもって、今ではもう使われていない漢字や言い回しばかりで理解できなかったが、ネタ帳、と表紙にある手帳をめくれば、駄洒落の只管綴られた中身が出てきた。 「姉貴、舞、これ見て。」 《嫁だけにその切り返しは読めん》 「「わぁーお。」」 《難題なんだい?》 《走り込みに尻込み》 《しょうがないしょうぶん》 《女々しいおめめ》 《硫黄は効果的と言おう》 《マジなマジック》 《高尾の理想は高尾山くらい高い!》 それらが綴られた大凡八十冊、思わず三人で読んでしまった。真剣に。夕刻に高尾の社長とその息子が帰って、蔵は一度更地にして、売り地にするかまた蔵を建てるかは色々と考えたのち、今は保留だそうだ。おそらくは規模として一軒家を建てるくらいの広さはあるので、借家でも作るか、子供の自立を見越して近代住宅でも一軒作るか、の二択になるだろう。春休み中は蔵の中の整頓に伊月は時間を取られそうだなぁ、と苦笑気味に考えた。家族会議を兼ねた夕食を終えてまた伊月が向かうのは、宝箱のような柳行李。 柳行李の中には、正体不明のノートと駄洒落のネタ帳、そして皮が歪んだ手帳である。激励の書かれた紙は、流麗な、と表現するのが相応しい、本当に綺麗な文字だった。月ちゃん、というのはきっと伊月由来の綽名であろう。それを丁寧にまた柳行李に戻すと、黒革に包まれた手帳を出して見た。ナンバリングは無く、一番上のものを手に取るが、手帳の半ばで白紙の頁が続いている。不審に思って首を傾げる伊月の目に、真っ黒な染みが飛び込んできた。 「なっ、・・・!」 真っ黒に染まった頁はそのまま何枚か張り付き、ぼろりと落ちてしまった。 「なに、これ。」 さっきまでの浮ついた、自分のルーツを探る面白さに踊っていた胸に、戦慄っと氷水を垂らされたような、ドライアイスでも放り込まれたような気分で、伊月はその落ちた頁を拾った。どの頁が始まりであったのか、捲るに連れて徐々に文字が現れた頁に安堵っと息を吐いた。 《ごめんなさいしょういちさんゆひのほねくたかれました》 それは酷く頼りない文字で綴られた。がくがくに崩れる直線になるべき場所に、曲線となるべきは不自然にかくかくと直線が繋がっている。伊月が読めた手帳の頁には続く言葉があったようだが、生憎黒い染みが蝕んで読めなかった。ただ。 「インクじゃ、ない・・・。」 柳行李の中には、万年筆と数冊のノートと駄洒落のネタ帳、それと群青のマフラーが畳まれており、中でもノートと手帳が場所を取っている。万年筆は高校入学に伊月が父親から買い与えられたものとブランドが同じで、インク色が、そことなく判るのだ。時代を考えるとここに入っている万年筆はもう使い物にならないだろうが。 「なに、これ・・・ごめんなさい・・・しょういち、さん?誰だよ。ゆひって・・・。」 それまでの頁を捲ってみると、これもまた意味不明な文字列が並んでいる。そこで伊月は気が付いた。この手帳の持ち主であったひとは、きちんと日付を打っているのだ。 「昭和、七年・・・。」 太平洋戦争は昭和十六年開戦、日中戦争は昭和十二年だ。成る程、あの大戦を超えて自分の手に渡ってきたのだと思うと、何だか感慨深く、しかし。 「ごめんなさいって、なに・・・。」 酷く苦しそうで、悔しそうで、弱い文字は時折滲んでいる。黒い染みが蛞蝓がのたくる痕跡のように蛇行した頁で、その黒革の手帳は終わっている。取れてしまった部分をどうするか、仕方がないので元の場所に挟み直す。 「ゆひ、ゆひー、ゆひ?」 アクセントを色々と変えて口に出して見て、伊月は戦慄っとした。 「指の骨、砕かれました・・・?」 まるでその光景が見えた。駄洒落のネタ帳の中には時折バスケのフォーメーションのようなものが鉛筆で画かれてあって、籠球、という文字もあった。何人かで覗き込んで書き込んだものもあり、様々な筆跡が見開きに並んだものもあった。バスケバカだぁ、と思ったのも束の間、自分達と同じ程バスケを愛したのであろう、その姿が自分と重なってしまって、伊月は思わず首を振る。指の骨を砕かれ、それでもこの文字を綴ろうと、誰かに、この書面を正直に信じるなら、《しょういちさん》なるひとに、自分はもう二度とペンも持てずボールも触れない、その哀しさを伝えようとしたのだろう。詫びの言葉があるのはきっと、それは彼らにとって大事なことだったから。 急に、怖くなった。 戦争の悲劇は授業でやらされる。日本は特にその辺りの教育は客観的に、自分の国が起こした、そして起こった悲劇を、主観にも教えてくれる。 伊月は時刻を確認し、携帯電話を開いた。おう、どうした、と恋人の声に、思わず泣いた。言葉は言葉にならないで、ひっ、と嗚咽に喉が鳴る。 『どうした、家か?訪ねて大丈夫なんだな?』 嗚咽だけで何も言えない伊月を察したように、彼は夕餉の終わった伊月家を訪ねた。春の夕霞の中を走っていたのだろう、軽やかな足音で生垣を挟んだ伊月のいる部屋に顔を見せると、こんにちは、と呼び鈴を鳴らした後、あれ、こんばんは、どっちだ、と頭を抱えたのに、まだ日が出てるからこんにちわでいいわよー、と二階の窓から顔を出したらしい、伊月の姉から笑われた。 「ひゅう、が。」 「何があった。」 お菓子食べる、と気安く気遣いをくれた母親には、いや、そんな長居する予定じゃないんで、と断った彼は、俊ならそこの広間、と姉の案内に、柳行李や古着、木箱の片付いていないそこに日向は通された。圧倒された様子で一度入り口で立ち止まったが、そのまま襖を静かに閉めると伊月の隣に座った。いつでも若気の至りで済ませるように、この関係は誰も知らない。黒子辺りは気付いているかもしれないが。彼らはまだ若く、将来を約束出来る立場で無いのを伊月は知っていたから、日向に口止めさせたのだ。好きだからこそ、内緒にさせて、と伊月は頼み込み、日向も、俺より好きなやつ出来たら遠慮なく言いやがれ、と首を鳴らしながら喧嘩腰すれすれに言いやった。 「なんだこれ、伊月の・・・。」 「こ、こう、そふ。」 「こうそふ?」 「ひいじいさんの、お父さん。」 日向に肩を並べてもらって、恋しい香りに伊月は嗚咽が落ち着くと、そう短く説明して家系図を持ってきた。 伊月俊の名前から多く連なるきょうだいの名前の配偶者に憎らしいあの男と同じ名前を見つけた反応がよく似て、伊月は少し笑った。 「享年・・・そっか、早死にしたのか。」 「ん、そーみたい。」 手帳の最後の頁を見せると、そうか、と日向は悼むように目を伏せた。 「こっちの箱は、なんだ?えーえすわいえる、か?」 「ひゅーが、読めるの?」 「え、読めねぇの?」 「なんか、手帳も全部、漢字の変な羅列ばっか。翻訳サイトにもかけてみたけど、駄洒落以外わかんなかった。」 駄洒落って、と。お前の家高祖父の時代から駄洒落やってんのか、と呆れたように日向は息を吐き、駄洒落は文化だっ、と慣れた口論じみた戯れ合いをやって、二人で改めて柳行李の中の一冊の黒革の手帳を取った。 「ん、ああ。読める。ジムショ、ゴゴヨリライキャク、イライ、ウケツケ・・・こりゃ担、か。ハナミヤ。おいおいここでもあいつかよ!」 すらりとその暗号時見た文書を読み解いた日向に伊月は飛びついて書面を覗き込む。 「ちょっ、どうやって読んだの!?」 「何と無く、こう、ヘンとツクリを拾ってく感じ。お前がよく悪戯にやってたろ、昔。」 つっても中学時代だけど、と日向は悪戯しく笑い、確かにそんな暗号じみた遊びをした気がする、と伊月は手帳を捲る。 「あ、アジイル、って何これ?意味不明なのまた出た!羊羽カズ?だからなにこれ!?」 「アジール、っての、さっきのこれだ。」 コン、とその大きな木箱は随分と澄んだ音がした。表面に刻まれたアルファベットは、確かに《ASYL》と彫ってある。 「これも不本意だがな、ちょっと紙とペンあるか。」 「取ってくる!」 一度階段を上がって自室でルーズリーフとシャーペンを持ってきた伊月に、こうな、と日向は書き記す。《翔一》と。 「こういう風に読んでくんだと・・・思う。」 ぱらぱらと日向は手帳を捲り、時折難しい顔をしてはルーズリーフに書き込み、得心に頷く。 「しょういちさん、これだ・・・。」 「うお?」 伊月は先程の手帳を注意深く開き、《ごめんなさいしょういちさんゆひのほねくたかれました》から引き摺り出した、しょういちさん、という名詞に漢字を充てた。確か桐皇の主将がこんな名前であったと記憶している。 「なんか、変な仕事してたっぽいな、お前の高祖父・・・てか、伊月俊さん。」 「そう?」 「アオソコヒ、って何だ?」 「緑内障の事だよ。ひいじいさんがゆってた。」 時折日向の読み解きに伊月の知識、伊月の哲学を知って、中学からの浅くない付き合いのある日向は、何故かさらさらと読み解けてしまって伊月は面白くない。なんでも見透かされているような気分が、切なく心地いい。延々とアルファベットが並んでいた物は翻訳に掛けるとワインの銘柄として検索結果や写真が出た。 「それに関しての研究記述、つかメモだなこりゃ。あ、日付があんのな。・・・やっぱりだ。長野にて児童連続行方不明。」 えっ、と振り返った伊月に、他にもあるぞ、と日向は読み上げる。 「岡村家遺産相続連続殺傷事件、誠凛の校舎内幽霊目撃談、温泉にて事件に巻き込まれて不運、日本軍隠し財産をめぐる連続殺人事件、緑間家の悲劇、女学校での怪奇事件、谷画伯麻薬騒動、亜麻家遺産相続問題・・・これが大正十四年のまとめ記述から出た情報な。翔一さんとやらが上司、花宮ってのが、まあ本当に花宮かは知らんが、同僚で、この伊月ってひとは働いてた。」 「緑間・・・?」 「亜麻家は亜麻美羽って書いてあらぁ。教科書でしかお目にかかれねぇ名前だぜ、どうなってんだ。」 知り合いの名前や芸術家、学校の名前も知っているのに知らない、奇妙な感覚に伊月は、手の中の紙切れを握り潰しそうになって、慌てて視線を下ろす。 「・・・月ちゃん・・・。」 ぽつ、と声を落とした伊月は、《頑張ってな、月ちゃん》と記された紙切れを大事に大事に抱きしめた。 「月ちゃんって、呼ばれたんだね。俺の高祖父、さすが。頑張って生きたんだ・・・。」 「ま、俺の知ってるどっかの伊月俊は頑固すぎるきらいもあるがな。」 美しい黒髪をくしゃくしゃに混ぜ返し、にかりと日向は子供のように笑ってやった。美麗な笑みを返した伊月は、反論の余地は無いなぁ、なんて考えながら、よく懐いた猫のように、もっと撫ぜて、と硬い手のひらに滑らかな、柔らかくも線の細い頬を摺り寄せた。 「アジールって何だろう・・・。」 「それなんだが、手帳に時折、翔一さん宅にて子供と食事、って記述がある。」 「子供・・・。」 長年放置されてきた反動で女の力で開けることの出来なかった木箱は、せぇのっ、と合図で開けることが出来た。軋んだり割れそうにもなったが、その中に収められていたものに、伊月は口を押さえた。臭いはもう無いそれは朽ちた巾着の中で白骨になっていた。精々骨格標本でしか見たことのなかった人骨が、おそらくは指先だけの骨なのだが、日向は、すまん、と洗面所に走った。込み上げる吐き気を飲み込み奥歯を噛み締めるとカチカチと震えてしまう。 「なに、これ。なにこれ、なにこれぇ・・・っ!」 《伊月俊さま》と書かれた封書は黄ばんで朽ちかけ、伊月は震える手を伸ばす。 差出人は間宮昌美という女性の名前。 《俊兄さんが亡くなってからどれほど経ったでしょう》と優しい文字が綴られた。《これは私たちが、子供達が、間違いなく存在した証です。俊兄さんと彼岸で逢えるのを楽しみにしてます。空襲警報が鳴りましたので一度筆を置きます》 空襲警報のサイレンでも幻聴しそうで、伊月は目をきつく閉じて耳を塞ぐ。そこで文章は途切れ、いつ書かれたものなのかもわからぬまま、間宮という女性の言葉は終わっている。戦火の飢餓や空襲に耐えきれずに死んだ子供の指の骨がひとつひとつ、手縫いの巾着に入れられて朽ちて、底にはこちらもノートが敷き詰められてあった。耳に当てた手をゆっくりと剥がされ振り返る。日向は朽ちた巾着に縫われている名前を確かめ、一つ一つ、丁寧に新聞紙で包み、筆ペンで名前を書き記し、今度寺で供養してもらおうな、と伊月の手を握った。うん、と涙を拭って伊月は息を吐く。 会計報告書、と書かれた表紙には、配給が厳しくなりました、と冊数を重ねる毎にあり、最初のノートには、経理事務なら月さんが本業のくせに、と女の文字で、月ちゃんの文字が、文句言わない、とあって、間宮の文字で、忍耐です、さと、と書いてあった。さとお母さん今月遣り繰りした。お見事。もうこれ任せていいです?いいです!大丈夫ですよ。微笑ましい遣り取りの備考欄。業務日誌は何があった、月さんの予防接種です、と書かれた頁に、ほんと月ちゃんって何者、と伊月は苦笑してしまった。 「誠凛・・・大学・・・?」 行くなら誠凛がいい、と曽祖父は伊月に言っていた。曽祖父の存命中に誠凛高校はまだ更地だった。預言者かよ、なんて思っていたのが、今日になってようやく紐解けた。あの場所は元々は学校施設があったのだ。戦前の事なのでどんな体制で運営されていたのかは調べて見なければ解らぬが、誠凛という学校は、間違いなく月ちゃんの成長過程において重要な役割を果たしてあった。医学科で学んだ彼は、Asylの経営体制が整うに連れて、施設長兼専属医師でもあったのだ。 子供のための養護施設でなく、勉学のための金がないなら図書館の使用許可、働く場所のない大人にも住処が見つかるまで、下宿代が纏まるまでは宿泊も許可していたようで、現代でもそこまで万人に向けて開かれた施設も少ないだろう。大人が導き子供が引継ぎ、新たな世を刻み。Asylとは神聖な領域という意味で、しかしここで神聖な、と言葉の意味は、月ちゃんによって訂正されている。 《ここには、どんな悪人の存在も、善人の存在もない。ただ、そういう人柄があるだけ。受け入れる少数派と多数派の意味を知り、自分を知り、そして活きろ。生きるだけなら犬猫でも出来る。人間だけが、自分を、そして周りを活かすのだから。自由に、自分の信じる道を、疑いながらも進んで、一生悩んで生きていけ。伊月俊はその手段の一つとなろう。》 これは施設記録簿の一番最初の頁に、万年筆で強い文字で刻まれた、おそらくは特定の誰かではなく、施設の有り様と、そしてきっと自分自身への戒めだったのだろう。 何時間でも遊んでいい。そこで学んで生きていけ。彼は大層に大きなものを、この家に、そして家族にきょうだいに、遺して逝ったのだ。 この覚悟を刻んでから、しかしどうやら最初のうちは経営不振露わであったらしいAsylの初期記録簿は、職員の中の交換日記のようにもなっていて、少し可愛らしかった。享年から逆算して、同い年の男だというのに、伊月も日向も少しだけその感想に笑ってしまった。 最初の頃は子供の数も不安定で、少々不機嫌そうな月ちゃんの文字が綴られてあったが、秋に一変、翔一さんの家の孤児を迎え入れた、と一文は、ここに繋がったか、と手帳の日付を確認した。《翔一さん》は日向は読み解いた情報によれば、下町の安い下宿に住んでおり、《月ちゃん》はそこによく飯を作って一緒に食べて、大正十五年の春には貴族の嫡男に社会勉強と称して下町に連れ出した。そこで叱られなかったのは《月ちゃん》の人望なのかそれを利用しての遣り口なのか、ご先祖ながら強かなひとである、と伊月は少し呆れてしまった。他にも赤司、黒子の名前も花宮や翔一程でないが手帳には登場しており、一回この苗字で集めて見ても面白いかもね、なんて伊月は笑って日向に苦い顔をされた。 《月ちゃん》による手記はあちらこちらに見られ、また伊月の曽祖父空之助が曽孫に授けたものと全く同じ哲学や世界の仕組みを子供に教えたりしていた。また、医師としても、黒革の手帳には依頼人の緑内障症状緩和に関する記述や、誠凛大学医学科研究室での研究進行、病状緩和。こちらは一冊のノートにもまとめた上、怪我人の治療に当たっての注意事項も、こちらは暗号ではなく黒革の手帳の最初の頁に記されてあった。 「誠凛って学校、あったんだな。」 「うん、ほんっと最近の名前だと思ってた。」 一度自分が通う学校に関しても調べておきたいね、と伊月は笑い、だな、なんかおもしろそうだ、と自分達のルーツを探る作業はまだまだ続きそうである。 打って変わって、風邪が流行した年や、子供等が今で言う麻疹に罹った時はまるで曽祖父と同じような対処をしていたのは、きっとここからだ。流行病で一気に子供は減ったが、今度は出産ラッシュに産婆の手伝いとして月ちゃんは駆り出されたようでもあって、少し慌てた文字が何だか可愛らしかった。そして、昭和七年、晩冬。 《月さんが特高に連れて行かれました。》 記録係は百園さと。その一文だけで、日誌は数日間の白紙になっている。 《いつまでも悲しんでいられません。たくさん泣きました。月さんが便りをくれることはもうありません。あゝまた泣けてきました。いけません。百園さんは笑顔が似合 今吉さんが疎開の段取りをつけてくださいました。愛着あるこの場所を離れるのは大変こころぐるしい。天野さんから遺品が届きました。間宮は帝都に残ります。さと、任せました。》 そこからの日誌は子供が一人減り、また一人減り、元気で、病気をせぬように、と間宮の記述がある。 《そらが伊月のお家に婿養子となりました。舞さんと仲良く、幸せになりなさい。》 「そら・・・。」 《空之助、良い名前です。伊月さんに取り上げて貰たら、などわがまゝを言ってはいけませんね、私も存外、伊月さんの事を》 《さとから便りがありました。》 その頁には封書が挟まってあった。疎開先からの手紙であったが、ああ、と伊月は万感を込めて喘いだ。 「よか、った。」 月ちゃん、と呼ばれた魂そのもののように、彼は泣いた。文字でしか知らぬひとびとの生き様を、伊月はそのこころに刻んで、涙で日誌を汚してしまわぬよう、丁寧にそれを箱に戻そうとして、日向に止められた。 「ひゅ、が。」 「ちょっと、貸せ。」 「・・・ん。」 百園さと、と差出人の名前を確認し、封は切られてあるその封書から出てきた便箋は戦時中の物不足を表すように粗末なもので、そこにはきちんと当時の現住所が書かれてあった。 「ひゅうが、どうした?」 「ひょっとしたら・・・。」 会えるんじゃないか。 その言葉に、戦慄っと伊月のこころに、駆け上がる高揚感があった。 続く。 |
初出:2014年2月12日 21:51
過去と現在が交錯する、最終話、前篇。
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ここで通称語る先輩と邂逅したんです。
こういう物語の作り方を最近なさる方って少ないからか、随分と驚かれた気がします。
20140421masai