そうしておれはいなくなるから。
|
それはどこかの倉庫だったように思う。 決して弱くは無い筈の手足は簡単に自由を奪われた。一本一本に一人ずつ体重を掛けられれば当たり前だ。巧妙に逆光で隠された顔は、にやにやとただ、厭らしく笑っていた。睨み付ければ顔の横にガツリと鉄板の仕込まれた長靴が振り下ろされた。 その日はとにかく殴られて蹴られた、骨が折れた、と本能で理解したが、それくらいの痛みで気を失う事は無いのだなぁ、とぼんやり思った。下卑た笑い声が響く倉庫の中で、ぐったりと肢体を横たえたそのひとは、衣服を剥がれて目の前でそれらを全て焼かれた。痣だらけの身体は暫く動かない。 映像は一度そこで切れた。ハンディカムだろうか、音声は入っており、そのメモリは箱に入れられて部室の中にあったという。引っ越しにでも使うのかという大きな箱に、そのひとと一緒に箱の中で。 赤司征十郎の所に黒子テツヤから連絡があったのは丁度一週間前だ。 帰路を同輩と別れた所から、一切の連絡が途絶えた、とのことであった。黒子から連絡があったのは、中学の同輩で、更に赤司とそのひとの関係が友情に情愛を、情熱を傾ける、そんな関係だと知っていたからだ。当たり前のように赤司は持てる手段を尽くしてそのひとの行方を探ったが、結果は疲弊するだけで終わった。 落ち着いて聞いてください。 そんな前置きで電話があったのは今朝。朝のニュースでは東京での暴力事件が取り上げられてあった。 被害者は、伊月俊だった、と赤司は悟ってしまった。 学校も何もあるか、と新幹線の手配をして、教えられた病院の個室で伊月は昏々と眠り続けていた。 行方知れずになる最後に帰路を共にした日向は廊下の椅子で蹲るように座っていた。段ボールに入れられた無残な恰好を発見したもの主将職のある彼だった。 「赤司君!」 「テツヤ、俊さんは。」 「今は眠っています。大丈夫です。落ち着いてください。落ち着いて下さい。お願いします。」 縋るように黒子が肩を掴むので、若干伸びた爪が手のひらを破っているのに気が付いた。ぱたり、と赤い雫がリノリウムの床に、泥のようだと、赤司は思った。USBを渡された。 「コピーです。現物は警察に行きました。」 「・・・見たか?」 「・・・それ・・・な。」 掠れた声音が静かに呟いた。 「突っ込まれて、あった。バイブ・・・ての?それと、一緒に。」 ガァン、と骨を打った音は発生させた赤司のほうが驚いた顔をしていて、愕然と立ち尽くした黒子に、日向はそのままゆっくりと体を引きずるように立ち上がってまた椅子に蹲った。 「なんで、あの時間、俺、あいつ、一人にしたかな・・・。物騒だつって、あっちこっちゆって、やがったのに・・・っ、なぁ・・・。」 嗚咽の混じった言葉に、出来ることは何もない。後悔だけが日向には押し寄せてきていて、伊月が発見された時からずっとこんな様子で誠凛ではまともに部活は出来る状態ではないらしい。学校側も男子生徒が暴行されて警察沙汰になり、と対応にも追われている。休校のような状態だ、とは黒子の説明で、それからぽつりぽつりと廊下にはバスケ部員が集まって、まさかと黒子にはあちこちからのメールも増えた。 伊月家からは母親と姉が訪れ、家族だけが病室に入れた。前に顔を合わせた時はよく笑う綺麗なひとたちだったのに、と酷く憔悴している二人に頭を下げながら赤司は思った。 病室内は暫く泣き声と、廊下には聞こえない声量で医師からの説明があって、姉は一度入院の道具を揃えに家に帰る、と病室を出る。 「赤司くん、顔だけでも、みていく?」 京都からわざわざ来てくれたのを知っているので、憔悴しきった顔で微かにだが、確かに笑った。安心させるように、笑ってくれた。あのひとの家族はどこまでも優しい。 「いいん、ですか。」 「どうせ、まだ起きないもの。」 精神的なショックが大きいんですって、とちいさく呟き、バスケ部のほうからは相田が代表して、こちらは伊月くんが起きたらまたお邪魔します、と頭を下げた。特に日向はまともに見た姿が忘れられないのか、たった一日で随分と憔悴し、疲弊している。頬は赤司が叱られても問題ないくらいに腫れ上がっていた。 「失礼します。」 頭を下げて病室に入った赤司は、窓側に点滴を用意されて入院着の合間に覘く肌に、顔に、殴られた形跡が真新しく痛々しい伊月の姿を、黒髪の美しい女性の向こうに見た。 「あの・・・。」 「赤司くん、わざわざ京都から、ありがとう。」 遠かったでしょう、と笑った伊月の母親は痩せて目の下が真っ黒だ。 「あの、お母様もお休みになって下さい。失礼ですが隈が酷いです。俊さんが起きたら心配されますよ?」 「そうね、ありがとう。・・・綾が戻ってきたら一度休むわ。」 ぎゅっと息子の手を握った母親が俯き、綺麗に手入れされていた美しい黒髪がここ数日で艶を無くしてしまって、それでも綺麗に肩から滑り降りて顔を隠した。 「俊に、何があったか・・・。」 「大丈夫です。俊さんには絶対に聞きません。」 「ありがとう・・・。」 堰を切ったように泣き出した彼女の隣に椅子を貰って、痣が特に酷い左の頬を、赤司は撫ぜた。バスケ部員は姉と共に病院を出て、夕刻に着替えやアメニティをひと揃え持ってきた姉が顔を出すと、息子の傍を放れ難そうな母親に病院側が簡易ベッドを用意してくれた。 「征十郎くん、ごめんね。京都からわざわざ来てくれたのに。」 「いいえ。僕が勝手に来たんです。俊さんに会わせて頂けたのに、僕のほうこそお礼を。」 「弟には当然よ!」 だから私らには気遣いなさんな、と疲れた美貌は赤司に笑いかける。 「今夜どうするの?俊の部屋貸そうか?」 「あ、いいえ。僕も実家はこっちなんで。」 「そう?タクシー代は出すわ。」 「いえ、そんな。」 時折こちらで遠出する際には車を出してくれた姉がタクシーを利用しているという事はそういう事だ。 「バイトもしてない高校生が遠慮するんじゃないの。お姉さん面させてよ、少しくらい。」 「・・・はい。」 そうやって頭を下げた赤司はやはり一介の高校生に相違なく、先に広い敷地を持つ赤司の家の前にタクシーを運ばせ、それから帰った。彼女たちの口から駄洒落や笑い声が聞こえないのは違和感でしかなかった。 「さて。」 どれくらい前にただいまを告げた家だかは正確には覚えていないが、家人に帰宅を告げて、赤司が引っ張り出したのは少し型の古いラップトップ。起動に時間はかかるが映像系の処理は速い。USBを接続されたそこからの光景は、凄惨の一言に尽きた。 一日目はとにかく殴られ蹴られ、暴言を吐かれ、と繰り返している。 昔はこの顔のことで女男とかからかわれたりしたもんだよ。綺麗な顔をしていますよね、と容姿を誉めると何か面白くなさそうにそう返された思い出が蘇る。こんなにも鮮明でうつくしく憶えている。美貌は苦痛に歪められて、口の中を切っている。健康的な紅を刷かないうつくしいくちびるは血と傷で染まった。脇腹を蹴られてぐったりと動かなくなった身体からはシャツが脱がされスラックスも下着も剥がされて、倉庫の中で焚かれた火にくべられた。 ヘッドホンは、やめろ、と苦痛に染まった呻きが何度も零すが、その度また蹴られる。日に焼けないらしい真っ白な肌は靴跡と痣と埃まみれになった。一頻り笑いながらそれを行った連中は、全裸に転がされた伊月の身体にまた暴力を振るう。悲鳴と、笑い声。悲鳴が止んだことに気付いたのか、映像が一度安定する。額を切って頬に痣のある、くちびるを血で汚した貌が大写しになってから離れた。一度ブラックアウト。 また、聞き苦しい豚のような笑い声で映像は始まる。見る前に確認したUSBの情報だと、5つほどの映像がぶつ切りに入っている。 蹴り起こされて、かはりと咳をした口に大量の錠剤が放り込まれた。画像は不鮮明ではあるが、錠剤の色からそれは精神作用の強いものだと一瞬で赤司は理解した。これ以上見てはいけない事も、見なければいけない事も。 凌辱の限り。 決して抵抗しない訳では無い。ただ、薬が動きを鈍らせている。口の中に黒いディルドを押し込まれて苦しむ様子をその連中は笑いながら見ている。オーバードーズに焦点の合わない瞳で、やだ、と泣いた顔には精液が飛んだ。悲鳴を無視して後孔に指を挿れられた裸体は身をくねらせた。高い悲鳴は前立腺を掴まれた時に上げる嬌声と似ていた。あの甘さが無いのが赤司には救いだった。 無理矢理の刺激に勃起させられた性器は荒縄が食い込んだ。開きっ放しになった口に男が跨って腰を振る。開かれた足の間をしゃぶる頭と、そこに挿入した具合の良さに嵌った男が高く笑って中に射精する。びくりと大きく揺れた痩躯を男たちは嘲笑い、根元を締められた性器に女が跨った。唾液と精液に塗れた口を女は掬って嗤った。荒縄が解かれて女が跳ね回ると、ばちっ、と睫毛が雫を弾く。いやだ、と上がった悲鳴に口に性器を押し込まれ、飲まされた。後孔には太いバイブが挿し込まれ、がくがくと痙攣した身体から女が退くと映像は切れた。 三度目。再び飲まされた薬に朦朧とする体に、精液がこびりついた体を引きずって逃げる尻から映像が始まった。腫れ上がって傷ついた後孔から垂れるのは精液にしては色が無い。荒い呼吸が人間のものではない。映像がやけに揺れる。画面の端々に黒い草陰のような影が映り込む。芝生のような、その合間から見えたのは人間にしては長い赤い舌が痣の酷い腿を舐めた様子だ。 まさか、と赤司は口元を覆った。 下卑た笑いは遠い。喉が引き攣る声と嗚咽と、悲鳴。背中に食い込む獣の爪。揺れる映像に合わせて四足の毛並と悲鳴が揺れる。皮膚が裂かれて血が滲む。いたい、いやだ、やめて。そしてちいさく、ゆるして、と訴えた。何を許せと言うのか。彼が何か連中にしたとでもいうのか。獣に犯される屈辱を身体に与えられた伊月は、そのまま傷だらけで倒れ伏し、綺麗な黒髪は獣の唾液で汚され首筋は幾重にもヒトのものでない歯形が残っている。肩を震わせた伊月から視線が持ち上がった。大型の犬だろうか、性器を露出させた腹が映る。カメラは首輪に着いていたらしい。 また犬が跨って腰を振る様子が映し出された。悲鳴を上げる体力も無くなった身体はそのままヒトの体を獣に犯され、獣が汚した孔と尻を冷水で乱暴に洗い流され、次はヒトに犯された。抵抗する体力も気力の無く、美しく天使の輪色に耀く黒髪は砂や埃や獣の唾液や精液で汚れ、白い肌は痣や擦り傷、爪痕に、ただ痛々しい。その映像は撮影者が満足するまで続いた。 四度目。血を吐くような声音から始まった。放してくれ、帰してくれ、と幾度も訴え、力なく腕を振るって抵抗を抑える人数に強い眼光が睨むが、卑猥な罵倒と無理矢理開かれた足の間にディルドを押し込まれて、痛みと屈辱に泣きながら、呼んだ。 『せいじゅうろう・・・っ!』 「・・・っ!」 また薬を飲まされる。譫言のように赤司の名前を呼びながら、伊月は凌辱を受け続けた。見ていられなくて広い部屋の片隅で赤司は膝に顔を埋めるが、いたい、と絶叫に弾かれたように顔を上げる。前と後ろから男に挟まれて後孔を拡張されたそこはコードも垂れ下がっていた。リモコンは撮影する人物の手にある。目の前にそれをちらつかされる伊月の目は、どこを見ているのか解らない。ただ、止め処なく涙が溢れ続けた。赤司の名前を繰り返した。たすけて、と。その四文字がこころの一番柔い場所を容赦なく抉る。悲鳴が埃っぽい倉庫内を劈いた。床に放られた伊月の身体は玩具が入ったまま、映像は切れた。 五度目。ひゅうひゅうと声を涸らして涙も枯渇した伊月は声も無く犯され続けている。ぐちゃぐちゃと嬲る音は只管不快だ。美しく強い眼光も無く、眼は虚ろだ。壊れた、と思った。そのまま眠るように伊月は身体から一切の力を抜いて、カメラが近づいたそこで、色の無いくちびるがひっそりと動いた。ごめん、と。 「・・・くっそ!」 ガシャン、とラップトップは蹴り飛ばされて、ヘッドホンは衝撃に飛んだ。癇癪を起した子供のようだとどこか冷静な部分で思いながら、そのまま機械を踏みつけ、蹴り潰し、基盤が捲れたのを割って、気付けば右脚の靴下が真っ赤に染まっていた。USBを抜こうと思ったが、それは既に割れていた。 「消えろ下種!死んでしまえ!殺してやる!!」 手の尽くしようが無い。見つからない。そうやって腹の中に溜まった黒い感情を吐き出すにも足りない。全く足りない。壊れたそれらを壁に投げつけ、ぜいぜいと肩が上下するのを止められない。耳の奥に助けを求める声が残って離れない。放してくれない。助けられなかった自分を恨む。 「・・・っ、俊さん・・・っ!」 その場に膝から崩れて蹲る。譫言のように愛しく美しい名前と謝罪が紡がれた。 「たすけられなくて、ごめんなさい・・・っ。」 ぼろぼろと涙が止まらない。 翌日から赤司の面会は続いた。伊月は目を覚まさない。 その日を待つまで、ずっと献身的に痩せ細ってコルセットの巻かれた身体を母親が拭いてやって赤子にするように寝返りも打たせた。 「・・・うあ・・・。」 その呻き声は、赤司が通い続けて半月後だった。学校には暫く行けない連絡を届けると、成績は問題が無い故に、定期のレポートと連絡で出席日数を許して貰っていた。 「しゅんさん・・・?」 病院に来る前に誠凛には立ち寄るようにして、その日は丁度、相田から見舞いの花束を受け取ってあった。母親はそれを花瓶に移し替えると病室を出ていた。 「俊さんっ!?」 起きた、ナースコール、と手を伸ばそうとすると、白い病室の中に真っ赤な絶叫が迸った。いやだ、と。 あの美しい声は戻っている。それでも叫ばれる声は喉が破れてもおかしくないような悲鳴と拒絶。コールを押すまでも無く、医師と看護師と母親が駆けてきた。後ろにはおそらくは警察であろうの姿もあった。 「いやだ!やめろ!はなせ!」 愕然と見る母親の前で鎮静剤が打たれた。点滴の中身も入れ代えられた。くたりとベッドに沈んだ身体を医師と看護師に任せ、赤司と母親は病室から出て、警察手帳を見せられた。そして数枚の写真。 「見覚えはありますか?」 「・・・ありま、せん・・・が。」 薄暗いあの映像の中から抜き出されたと思われる顔写真だろう、どれもが口元を歪めて嗤っている。犯人だ、と母親も赤司も即座に理解した。 「・・・僕、知ってます。関係者のほうに・・・。」 「それは警察の仕事です。」 「知っていると言っている!」 伊月からの連絡は、電話やメールや様々な媒体を介している。お母様はここで、と赤司は警官を引っ張った。それほどの迫力と威圧感に、大の男が二人して息を呑む。病院のロビーの片隅、携帯電話の使用が許される場所で赤司はタッチパネルを開いた。実家の企業が抱える弁護士の末端の腕を少し借りた。そして、花宮真。あの男のキャパシティは恐ろしく広い。顔写真を添付して送信したメールからすぐに確証が出た。 「裏が取れました。彼らは過去に伊月俊さんのゲームメイクで惨敗した高校生です。」 「・・・裏・・・。」 憮然と警官が呟く。学校名と、所属する部活動、そしてそれぞれのフルネーム。 「場所は判りましたか?」 聴取をしに来たはずがどうしてか尋問されている。判明している、との回答に赤司は薄く笑った。 「未成年だからと言って、甘い取り調べをして簡単に野放しするようであれば。」 どうするか、なんて赤司は一言も言わなかった。それでも警察側は一介の高校生の言葉に半ば脅されるように、頷いて礼を述べて病院を去った。伊月俊の様子はまた確認しに来る、とは言い置いたが、多分それは無理だ、と赤司は確信のように思っていた。 それからは、地獄のような日々だった。男も女も伊月は拒絶した。そして記憶も。 伊月が起きたと見舞いに向かったチームメイトはその様変わりに戸惑いを隠せず、落ち着くまでは止めておきなさい、と拒絶の引っ掻き傷を絆創膏の下に隠して姉が笑った。そんな無理をする彼女たちから赤司は離れることが出来なかった。特に父親への反応が酷かった。暴行の主犯は男だ。気を失うまで彼は拒否と拒絶との言葉を吐いた。 「俊さん。」 いつもベッドの脇に座る赤司の存在すら、伊月にとっては恐怖でしかなかった。赤司を見る瞳には拒絶と恐怖。赤司が何もしないと解ってからは存在だけは許したらしかった。ただ、赤司が誰か、それはきっと知らない、知ろうともしない様子だった。 「着替えさせるから・・・赤司くん。」 「あ、はい。」 罅の入っていた肋骨も安定して、コルセットは外されたが暴れては危ない。肌を晒すのも母親か姉以外には伊月は蹲って拒否をする。医師も看護師も女性に代わった。犯人たちは捕まった、と警察が報告に来たのはその三日後。あちこちからの圧力でバスケ部は潰れたらしい。尤も、真剣にバスケをやって勝ちたいなら別の学校に移るだろう。それでも噂の影は一生付き纏うが。 「ああ、玲央。皆の様子は?」 時折病院のロビーの隅でこうやってチームメイトの世話を任せた彼と連絡を取るが、主将としての責任は殆ど放置していることに変わりない。 『征ちゃん、随分疲れているわね?俊ちゃんは大丈夫?』 「大丈夫じゃない、彼は。僕はまだ倒れないから、平気だ。変わったことは無いか。」 『そうね、小太郎は煩いし永吉は食べてるし、こっちはいつも通りも戻ってるわ。早く俊ちゃんを取り戻して征ちゃんも帰って来なさい。バスケ、楽しいわよ。』 「ありがとう。世話を掛けるね。」 『困ったときはお互い様よ。』 ね、と優しい声音で実淵は諭すように述べ、毎日の夕方の通話を終える。 食事は最低限、母親の持ってくるものは食べるようになった。着替えも母親か姉の手を借りる。自力で立ち上がる事は出来るが、下手に行動を許すとどうするか解らないので常に看護師が詰所から監視している。看護師の目の前を通らなければエレベーターも階段も使えない。 洗顔や手洗いのルーチンはこなせるようになったが、病院内の風呂場は人目があるので使いたがらない。母親や姉にどうしても手が外せない用事が入ると赤司が病室に泊まり込んだ。出来ることは限られるが、いないよりマシだ。暴れて針を折った点滴の場所は赤黒く、バスケの試合中に伸びやかにしなやかにボールを操った腕は筋肉が削げ落ちて痛々しいとしか表現のしようが無い。 「俊さん、またバスケしようよ。僕だって最近はバスケが楽しくて仕方ないんだよ?テツヤや大我、俊さん達のお蔭だよ?」 眠る細い腕に縋るように指を絡めると、ぴく、と指先が振れる。ごめん、と動いたくちびるが許せない。助けられなかった自分を赤司は許せない。名前を苦しそうに呼んだ声音だとか、助けを乞う涙だとか、悔しくて憎らしくてそれでも愛しくて恋しくて触れたくて触った頬の痣は最近になってやっと生来の白い肌に戻ってきた。痩せた頬は瑞々しいと表現するには足りないが、それでもちゃんと、ここに生きて存在するのだ。 「・・・やめ、て・・・っ。」 かふ、と弱く白い喉が仰け反る。 「たすけ・・・っ!」 「俊さん?」 「いや・・・いや、だぁ・・・っもう、しにた・・・っおねがぃ、ころして・・・。」 気付けばその首を絞めていた。点滴の器具が脈拍の異常にアラームを鳴らせる。弱弱しく呼吸を取り戻した白い喉は咳き込んで、看護師が静かに扉を開けた。どくどくと煩い鼓動に座り込んだ赤司は、何をしようとした、と看護師が部屋を出る際に、悪夢でも見たのでしょうね、と言葉を濁して何を言われたのか理解が追い付かないまま、じっとその手を見つめた。 「俊さん・・・。」 しにたいと、ころしてくれと、伊月は言った。ああそうか、と赤司は夕日色の瞳が濡れて頬を雫が伝ったのに、膝に手を握り込む。このまま伊月を殺して自分もこの屋上から飛び降りてでも後追いをすればいい、と。そんな思考に血の巡りが逆になったような、そんな感覚にぎゅっと目を閉じた。 どれだけ壊れても狂ったとしても、この身体の中にある魂は伊月俊そのひと。 「しゅんさん・・・っ!」 「・・・だれ?」 「え。」 弱いがはっきりした声で、その色を無くしているくちびるは言葉を紡いだ。今までは拒否の言葉や拒絶、唸り声や叫び声しか発されなかったそこから、意味を持つ言葉が。 「俊さん?」 「しゅん?」 「あか・・・っ、赤司、赤司征十郎です。解りますか。」 「わ、か・・・?だぁれ?」 ガチ、とナースコールを押す。意識が戻った、会話は成立しないが言葉を発する、と不明瞭だが即座に担当医と看護師が来て、赤司は伊月の家に連絡と病室を出た。遅い時間にも拘らず妹が家の電話を取り次いだ。姉は大学のレポート、母親は洗濯ものの交換に帰宅したため、母親が即座に動けた。新しいパジャマを用意して病室に駆け込んだ彼女は息子を抱きしめて泣いた。 そして問題が発生した。 「俊!俊っ!」 「・・・だれ?」 母親の顔を見ても、発された言葉はそれだった。え、と愕然とした声音が漂って消えた。 「ここ、びょういん?」 随分と幼い発音に、首を傾げる仕草が、まるで。 「だぁれ?ねえ、ここどこ?」 眉を下げて泣きそうな顔をした伊月に赤司は一歩、やけに靴音が響いた。びくっ、とすっかり華奢になった肩が震えた。 「残酷なことを言いますが、いいですか。」 母親に、一度そう確認した。彼女は唖然と息子の顔を見詰めたままだ。 「この女性はあなたのお母様です、伊月俊。伊月俊があなたの名前です。」 「おかー、さん。」 「俊・・・。」 「おかぁさん?」 「うん、そうよ。俊の前でシュンとなんてしてらんないわね!私が俊の、お前の母親!」 自分に言い聞かせるように、いつもの調子を組み込んで彼女は笑った。泣きながら。 「だれ?」 「お医者さん。ここは病院。」 「だれ?」 「僕は赤司征十郎。」 「せーじゅろー?」 「征十郎、ですよ。」 ふわりと花のように笑った伊月の様子に、医師からも看護師からも安堵に似た息が漏れた。 数日は様子を見て、一週間後に誠凛のバスケ部員は集合した。 「日向。」 「ひゅーが。」 「木吉だ!このー木なんの木気になる木、の木に、大吉の吉な。」 「き・・・きち?」 「木吉お前黙ろうぜ。」 「俺、小金井!コガでいいよ!」 「こが?」 「こっちは水戸部!」 「み、とべ。」 「土田だ。」 「つち・・・だ。」 「呼びにくかったら、つっちー。」 「つっち?」 「相田リコ。カントクって呼ばれてるわ。好きに呼んで?」 「かんとく。」 まるで坂口安吾の作品ですね、と黒子が赤司に言った。 生活のルーチン、起きて着替えて洗顔して、最近は最低限の筋肉だけでもと通い始めたリハビリは赤司が付き添う。食事は箸もきちりと構えられるが腕の筋力が着いていかないで、匙で食べる。医師の分析であるなら、失った分を本能が取り戻そうとしている、との事だが量は増えそうで増えない。肌は見せたがらないが、赤司とはよく幼い口調で会話する。鷲の目がどうなったかはわからないが、会話のテンポから察するに、脳回線の一部は閉じているが生活する分には支障はない。ただ、幾度か自傷の未遂があったために下手な筆記用具は渡せない。 赤司と姉が見守る中で書き始めた日記は小学校低学年レベルの漢字なら使えているが、時折ひらがなを忘れる。 「ね、てどうかくの?」 「縦線を書いて、上のほうに短い横線。そこから、こうやってぐるってするの。」 小さい頃によく私の真似して出鱈目な文字を書いたものよこの子、なんて彼女は笑ったが、その後に見せた寂しそうな、悲しそうな表情が赤司は忘れられない。日記にはその日にあったこと、たのしかった、何を食べたか、おしかった、病院から借りたテレビにセットしたDVDの内容、おもしろかった、等が幼くそれでも丁寧な文字で綴られている。駄洒落を言うようになって、あ、大丈夫だ、と思わず安堵した。 退院に当たって、赤司は伊月俊と共に暮らしたい旨を伊月家の人間に打ち明けた。 学校も家も心配ない、このままきちんと日常生活を暮らしていければ普通に生きることが出来る、と判断してからだ。上背がある分、リハビリに時間はかかったが、赤司の家ならその辺りは用意できるし、もともと庭にはバスケのコートなんてあるのだ。ボールを触っていればきっと必然的に彼はバスケを始める。妙な確信が赤司にはあった。伊月家はそれを受け入れた。元々赤司は学業修了後の起業入りに伊月を側近に置くつもりだった。必要なのは知識や学では無く知力と頭脳、なんて言いくるめた過去がある。天帝の眼は洞察眼だが鷲の眼は一種の頭脳の回転だという解釈が赤司にはあったから。 「しゅんさん。」 「せーじゅろー、わんおーわんー!」 「コーヒーゼリーを買ってきたけど?」 「たべるー!」 赤司の庭でボールを持っていた伊月は名店の紙袋にそのまま駆けてきた。 「先に手を洗って。」 「わかってる。」 ぽいと靴を脱ぎ散らす癖は元々だ。神経質なのか大雑把なのか解らないのはずっと変わらない。 「俊さん?」 「せーじゅろー、すき。」 ぱたぱたと軽い足音で駆けてきて、ぽふっと背中に抱きつく仕草は子供のそれと変わらない。昔の、顔を真っ赤にしながら必死で言葉を絞り出す彼と、出会ったことはあれ以来一度も無い。 「すき。」 「うん、僕も好き。俊さん、愛してる。」 「・・・したいの?」 コーヒーゼリーのカップを開けた、縁側の座敷は伊月の私室として与えた部屋だが、物は少ない。調度の一部は万が一を避けるために撤去させ、座卓と寝具と着替えくらいしか置いていない部屋の、押入れの奥には誠凛の5番のユニフォームとバッシュもあるが、伊月が触れた形跡はない。時折赤司は掃除がてら確認してみる。きっと深層が避けているのかもしれないな、と自嘲して、どーしたの、とやっぱり後ろから抱きつかれた。あれから初めての接触に、思わず触れた。あ、と嬉しそうに笑った伊月を、そのまま抱いた。 壊れた彼は、あの時間から狂った彼は、赤司征十郎を知る彼では無く、また伊月俊でもなかった。随分と時間のかかった行為に泣いた彼を、赤司は侵してしまった。罪悪感に苛まれる日々は続いた。 愛していると述べるとそれが合図のように彼は赤司を押し倒した。キスはしない。赤司が教えなかったから。ただ、身体を繋げるだけの、処理に近い行為に、彼は一切の抵抗をしない。ただ、快楽に愉悦に妖艶に蠢く。 あの時、ごめん、と動いたくちびるに、指を這わせれば性器に見立てて舐められた。蠢く白い肌と揺れる腰を、結局犯してしまう短絡さに、その度に絶望を感じながら、過去の自分を、今の自分を呪う。 「ねえ、俊さん?」 「せぇ、じゅろ、きもち、い?」 「俊さん。」 「きもちよくない?」 「お願い・・・だから。」 ぎゅっと抱きしめても細い腕は抱き返してくることは無い。 「許して。」 「なんでなくの?いたい?」 頬を拭う指先は、冷たいだけだった。
ごめん、征十郎、苦しんで。 きっと、いなくなる俺の分も、苦しんであげて。 |
***
初出:2013年1月7日 20:49
千歳彷徨さまのからリクいただきました〜。「モブ月からの赤月でR指定」(抜粋。)プロット頂いちゃったんでもう描くしかねぇ!!ってなったwこんな感じでよかったですか?凄く心配です。黒バスでは描かないかなーという描写が結構あるんで、閲覧は本気で注意です。G付ける程ではなかったけどつけるべきか半ば悩んでますなう!精神崩壊というか退行系?いやまあやってみたいネタではありました狂いづきくん。そして伊月オフでまさかの伊月先輩発狂させたい同士さまがおられまして歓喜しました下さい!!伊月先輩下さい!!!因みに飽食とかナチとかのアレやってみたいなーってなってるんですが半分以上のネタはタイバニのイワン@ミミで結構やっていたという私ェ・・・あとタイトルもちょっと悩んだwもともと「るなてぃっく」って月と狂人掛けた感じが伊月先輩ぽいかなーと思ったんですが本編アレでタイトルまでアレってどうよというねw要するに永久の厨二病は治る気配が無いわけで。エイキュウではなくトワみたいな?wヒトが壊れていく過程は結構悩みものですが楽しく描ける私ェもうこの脳みそ交換時期よねー伊月先輩下さい!!!狂ってても壊れててもあざとくてもいやらしくてもいんらんでも伊月先輩なら大丈夫だ問題無い!!!!伊月先輩下さいよ誰か!!オフでは信じらんないくらい豊作でしたよありがとうございますもうちくしょう大好きです!!!!と、ここで言ってもねw■ブクマコメありがとうございます!これ実はキセキが裏で犯人共をはっきょうさせて(not赤司の指示。)みたいな後日談も考えててましたwwwテーマからずれるので描きませんでしたが。(1/8■8日付けR18デイリー63位頂けましたようわあありがとうございます!!(1/9
***
これはプロットいただいたとはいえ個人的になかなかの出来だと思います。まあ内容アレですけど。
20141203masai