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列車ががたごとと、規則正しくレールを踏む音が睡魔を誘う中、月ちゃん起きなさい、と耳元で囁かれて伊月は、うん、と呻いて目を開けた。
紅葉が見事に山々を彩った、秋の遠い真っ青な空が晴れ渡った、そんな場所だった。 今吉探偵と伊月助手の温泉旅行。前篇。 「すっご・・・!」 「まこっちゃんも来たら良かったんになぁ。」 今回は依頼も何も関係の無い、長閑な旅路だった。今吉は相変わらず掠れの目立つ単に羽織を羽織ってよれよれの袴に毛羽たちの目立つ足袋に下駄を引っ掛けている。伊月もインバネスコートをいつも通りきっちり着込んでいるが、学生服ではなく厚手のブラウスとスラックスに革靴といったいつもよりはリラックスした格好で、着替えや簡単なアメニティの入ったバックを肩に下げている。今吉のボストンバックだって随分と軽い。 事の始まりは、花宮だった。 曰く、 「暫く依頼とか無さそうだし慰安とかどうよ?」 と一枚のチラシを突きつけた事にある。 「慰安・・・?」 「温泉。」 「なにそれ。」 「古橋の実家が温泉宿やってんだよ。結構でっかいトコだし、本番は冬だからな。」 「シーズンオフ?」 「伊月にしちゃ物分りがいいじゃねぇか。」 「うっさい悪童。へえ、でも温泉いいな。三人でお邪魔してもいいの?」 「ええなぁ、温泉。」 「というわけでいってら。」 「はい?」 「馬に蹴られて死ぬのは御免なもんでー。」 そのまま花宮は事務所の電話で級友に連絡し、お二人さんごあんなーい、なんて相成った。 その実、先日生まれ日を迎えた伊月への見舞だと気付いて、まこちゃんええこ!花宮さんかわいい!なんて抱きつかれたのはご愛嬌である。本人は泣くほど嫌がった。 蒸気機関車に運ばれた温泉街は、あちらこちらに足湯があって温泉もあって、湯を捏ねる女性たちも元気に歌っていたり、温泉まんじゅうを無料で配って貰ったりと、うっかりしっかり満喫した。 「翔一さん翔一さん、ここの御饅頭美味しい!」 「元気やねー、月ちゃん。」 硫黄の匂いの中で甘味はいつもより甘くて、地元の子供たちが駆けていく様子を二人で楽しそうに見やって、ふふとどちらとも付かずに笑っていると、目の前で石畳に子供が顔から突っ込むように転んだ。 「あっ。」 「いたそーやなー。」 のろのろと起き上がった子供の肩が大きく震えたのに、伊月は暖簾の下の椅子から身軽に立ち上がって、鞄からちいさな白い箱を取り出すとその子供に近づいた。 「ありゃ、鼻の頭擦りむいてるなぁ。」 「ふえ・・・。」 「泣かない、男の子!」 ぴしっ、と伊月は言い放ち、子供の脇に腕を差し、立ち上がらせた。砂を払ってやって、箱から取り出したアルコールで湿した脱脂綿を鼻っ面、肘、膝にちょいちょいと擽る様に叩く。 「はい、もう大丈夫だ。痛いの痛いの飛んで行け。」 くるくるっと指先をそのくりくりした目の前に突き付け、笑いかけると、他の子供もやってきた。 「痛いの痛いの、あっちの眼鏡のおにーさんに飛んでけ!」 「月ちゃん。」 「どうです?」 「こころが痛いわ。」 「だって。痛いのは全部このおにーさんが貰ってくれたよ。ほら、大丈夫だ。」 「ありがとう、おねぇちゃん!」 始終、にこにこと受け答えしていた伊月はその言葉で凍った。子供達は気にした様子もなく伊月に手を振ると、そのまま山道のほうへ駆けて行った。 「・・・翔一さん、月ちゃんって綽名、ぶっちゃけどうなんです?」 「お嬢ちゃんには似合うんちゃうの?」 痛いの飛んでけと的にされた今吉からの意趣返しに伊月はすっかりむくれたが、饅頭屋の暖簾の下でもう一つ饅頭を齧った。指先でひょいっと掴めるサイズのそれはここまで歩いてきた空腹感をいい加減に誤魔化してくれて、これまこっちゃんにお土産やな、こっちのお茶も美味しい、と二人で道行き、帰りの買い物の算段なんかもして、饅頭屋の暖簾の下から周囲を見渡す伊月は紅葉が綺麗な山々の中腹にちいさな鳥居を見た。 「地主神社ですかね。」 「んー?ああ、後で見に行こかいな。」 確か子供たちが駆けて行った山道はそちらへ続いていそうだ。饅頭屋に礼を述べて、古橋旅館に二泊三日滞在予定です、ではお帰りの際に包んでお持ちしましょうね、と店員の少女が笑った。 「なんだこれ。」 暫く角度のある石畳を歩いてきたが、急に石畳が途切れた。目の前にあるのは水飛沫を立てている滝と、断崖絶壁と、岩場と、遥か下のほうにある川と、絶壁同士を繋ぐ、少々古びた吊り橋だった。 「さすがまこっちゃんのオトモダチゆうかー・・・。」 ぎしぎしと軋むが、意外としっかりした作りの吊り橋は見かけに寄らず頑丈そうで、振り返れば結構な距離があったそれは簡単に渡れた。それを支えている杭を確かめたのは二人の職業病のようなもので、あれ慰安じゃなかったですっけ、なんて伊月は思わず笑った。探偵事務所所長とその助手という肩書は一端忘れて、大きな佇まいの少しだけ年季の入った木造建築の庭では、一人の青年が作務衣姿で頭に手拭いを巻いて黙々と箒を動かしていた。 「あ、古橋・・・?」 「今吉さんと伊月か。花宮から連絡は来ています。案内を呼びますね。」 相変わらず無表情で平坦な声で述べると、客商売らしく頭を深く下げて、おい、と仲居を呼ばう。箒を軒先に置いて、手拭いを解いた。 「へえ、意外。」 「どういう意味だ、伊月。」 「仕事してたら、すっごい男前。」 こうね、と伊月は自分の頭の後ろに手拭いを結ぶように動かすとにこやかに笑った。それはもう表裏なんて見当たらないで笑うので、古橋は嘆息した。 「男前といえば海常の笠松主将だろう。」 「まぁね。」 「そっちの眼鏡は。」 「翔一さんはどっちかってと腹黒とか変態とかそんな類。」 「月ちゃん、今晩覚悟しとき。」 うげっ、と呻いた伊月に目もくれず、用意された部屋は桐の間と称される六畳間だった。仲居がこまごまとお茶の容易と座布団を整えてくれて、どうぞごゆっくり、と仲居は退出。 「案内します。」 「おお、世話んなるわ。」 「花宮から言付かりまして。」 「なん?」 「最高の持て成しを。夕食は山の幸を部屋に運ばせて頂きます。牡丹鍋はどうですか。もうこの辺りは夕方から酷く冷えるので。」 伊月はインバネスコートを部屋に預け、二人の後ろを少しゆっくりとした歩調で歩いた。窓は綺麗に磨き上げてあって、廊下は鴬張りのようにちょっと軋んで音を立てるのが楽しい。季節の花が活けられた花器は、結構な額だと素人目にも解る。 「すご・・・。」 「こちらに電話、広間、宴会場もあります。夕飯はこちらにも変更出来ますよ。芸子も呼べます。ご希望なら。」 「ああ、そっちは部屋でゆっくりするわ。」 「では、こちらが温泉になります。」 長い廊下の奥に暖簾が下がり、奥には露天もあるという。 「効果は?」 「疲労回復、美肌効果、傷にも、とまあ、何でもござれですかね。」 「古傷は?外傷。」 「ええ、効きますよ。」 しくり、白い靴下に包んだ足の裏が、今吉の言葉を受けて鳴き声を上げたのを伊月は聞いた。これくらい大したことないのに、男なんだから、と考えていると、背後からとんと衝撃があった。肩に置かれた手に振り返ると、やけにきらっきらした男が立っていた、 「黄瀬!?」 「やっぱり!黒子っちのセンパイの、えーと、伊月さん!」 「ありゃ、黄瀬クンやないかい。」 伊月の声に振り返った今吉は、その細い目をぱちぱちと瞬き、丈の合っていない浴衣の立ち姿を見た。 「偶然ッスね!」 「え?お前この間帝劇で・・・。」 「はい、それが終わったんで、役者の皆さんと打ち上げー!みたいな。今吉サンと伊月サンも一緒にどッスか?」 黄瀬涼太。日本人離れした綺麗なプロポーションで男女問わずに多くの人気を誇り、銀幕や舞台で活躍する芸能人である。伊月の後輩、黒子とは旧知であり、また赤司からのパイプも持っている。籠球をやっていた過去があるので、黒子のチームメイトに関してもそれなりの情報を持っているわけだ。 「いや、邪魔しちゃ悪いだろ。」 「流石ワシの月ちゃん、卒ないわぁ。」 「ええ〜。駄目ッスかあ・・・。」 へろっと情けないしょぼくれた姿は気心を許した仲間にだけ見せる格好だ。それだけはちょっと嬉しい。 「じゃ、今度は黒子誘ってよ。黒子の誘いならひゅーがもカントクも納得するだろうしさ。」 そんなフォローも伊月は忘れないで、きせくーん、と遠くに呼ぶ声に黄瀬が看板顔に戻り、古橋が頭を下げてその場を後にしたのに今吉と伊月が部屋に戻って旅館が貸し出す浴衣を取って温泉の暖簾をくぐった。 「硫黄は効果的と言おう!キタコレ!」 「古橋の説明聞いとった?月ちゃん。」 帯を解いてばさばさと棚に放り込んでいく今吉とは対照的に伊月は丁寧に着衣を畳んで白い肌を晒す。その鎖骨の下に薄くなった鬱血を見つけて今吉はくつりと喉を鳴らし、無自覚にそんな無防備な恰好を見せていた伊月はそんな今吉の肩甲骨と首筋に歪に走っている赤いラインにぎょっとした。 「他のお客さんって駄犬・・・ゴホン。黄瀬クンのお仲間くらいやんなぁ。」 「誤魔化すなら誤魔化しきって下さい。だと思いますよ。街も地元の方が多いようでしたし、そもそもシーズンオフですし。」 あっ今度の銀幕情報教えてもらおっ、と浴場に続く木製の引き戸に手を掛けた伊月の、現役で籠球をしているかも怪しい細腕を掬い上げるようにして今吉が引き剥がした。 「翔一さん?」 「月ちゃん、無防備やで?」 その深爪にならない程度に切り揃えられた桜色の爪の生えをちりちりと今吉の親指の腹が撫ぜる。指の関節まで辿られて、ぞくりと伊月は背を何かに齧られた。口元に運ばれていく指はそのまま今吉が咥え、唾液を擦り込むように舐めた。ちゅぶっ、と水音にびくりと肩を竦ませた伊月の瞳の奥には明らかな欲が炎のように揺らめいているのが眼鏡を外した距離でも確認できた。ここで犯してやるもの一興か、なんてサディスティックな今吉の一面が首を擡げるが、しょういちさん、と咎めるような声音に指は引き抜かれた。 「ここ、どこだと思ってんですか。」 温泉宿の、温泉の、脱衣場と浴場を繋ぐ一角で行われた淫行に、暖簾の向こうからの足音に今吉は、そりゃ堪忍、なんて笑った。 「あ、今吉サンと伊月サンじゃないッスか!」 喜色を含んだ声音に振り返ると、きらきらした男が他の、仲間であろう、芸能に疎い伊月にも顔に覚えがあった。 「知り合い?涼太。」 「ああ、友達の先輩です。」 砕けた似非敬語ではなく普通に会話するように言い放った黄瀬に、ああこれが芸能人黄瀬涼太、と二人は認識を改めた。 「佐々木サン、知ってるッスか?」 「あ、曽根崎心中で主役張ってた・・・?弁士外れだったんだよね。」 「言ってくれたら即興やろうか?佐野いるし。」 「お初役の子ぉか。」 よく御存じで、なんて笑う黄瀬に、月ちゃんと一緒に観に行ってん、と今吉は笑った。さっきまでの色香は綺麗にスイッチオフにされている。伊月は安心したように浴場の椅子に腰かけ、ざばっと頭から湯を被った。 「伊月サン、髪洗わせて貰ってっていッスか!?」 「は?」 「さらさらしててキレーなんスもん!」 芸能人からの社交辞令として貰っておこう、と湯が滴る黒髪を黄瀬に任せた。頭皮に泡を揉み込むようにマッサージのように撫ぜる長い指先が心地よくて、撫ぜられる猫ってこんな気分かなぁ、なんて伊月はされるがままだ。耳の裏まで綺麗に洗って、泡を流せば椿油の香油を髪に馴染ませ、満足したように黄瀬はふいっと息を吐いた。我ながら上出来!なんて笑った傍から犬猫のように伊月がぷるぷると頭を振ったので、びゃあ、と情けない悲鳴を上げた。 「ちょっ、伊月サンひっど!」 「え、目に入ったりした?」 的外れにそんな風に言う伊月の頭を黄瀬は乱暴に撫ぜて、今度こそ満足、と言った風に笑い、ちょいとその脇腹を突いた。 「けっこ目立つッスよ、それ。」 小声でそう投下してやって、意味を把握して真っ赤になった伊月を今吉に返して、佐々木の呼びかけで彼は露天風呂のほうに小走りで駆けて行った。 「ころぶなやー。」 今吉の声に耳を貸したかどうだか、少々温度の高めの温泉に伊月は鼻まで沈んだ。 「浮気してきた気分はどない?」 かりっと指先になぞられた脇腹には先ほど黄瀬に指摘された鬱血の痕がある。ぶくぶくと不機嫌に水面を揺らしていた伊月は茹蛸のように真っ赤な顔をあまく馨る黒髪で隠した。 「翔一さんのばか。」 「俊の浮気もん。」 言いながらも今吉は上機嫌に、露天風呂から聞こえる、舞台人の大声に警戒しながらそのこめかみに優しく接吻をひとつ。 「翔一さん、おなかすいた。」 「露天風呂見に行かん?」 ふいっと顔を逸らした情人は、明らかに機嫌を損ねている。拗ねている、辺りが正しいか。 「ん、ほんならその辺ぶらついて夕食頂こか。」 浴衣だけでは外は随分冷えると古橋の助言を受けて、綿入りの羽織を借りて吊り橋を渡り、温泉街をぶらついて、時折足湯で体温を取り返し、夕飯前なので温泉まんじゅうはお断りして、今の明らかに不倫の男女でしたねぇ、そういう輩にも温泉は便利なんやで、なんてからころと、借り物の足袋が冷たく感じる頃にまた吊り橋を渡って帰ってくる。桐の間に戻ってくると、仲居の手によって用意された、くつくつと鍋に焚かれた猪が待っていて、頂きます、と手を合わせて二人で鍋をつついた。 「花宮さんも来れたらよかったのに・・・。」 「まーま、ワシらはワシらで楽しまんかさー。」 夕飯の片付けに来てくれた仲居に頭を下げて、さっき入り損ねた露天風呂は随分と寒かったが、こころなしか肌がつやつやになった。 「あ、今吉サン、伊月サン、一緒に花札どッスかー?」 途中で宴会場を通り過ぎる際に掛かった声に、今吉は伊月の腰に手を回し。 「馬に蹴られて死ぬ気か自分。」 なんて、笑っていない笑顔で笑った。 六畳間には布団が並べて伸べられ、その布団と布団の間に見える畳に今吉は顎を摘まんだ。 「なあ、くっつけたらあかん?」 「いいんじゃないですか?」 あっさりと寄越された誘い文句に今吉は口の端を吊り上げ、ほなら遠慮なく、と一つの布団に伊月をそのまま組み敷いた。 「えっ、あの、え?」 「ええんやろ?」 浴衣の上から強く擦られた胸元に、ふっ、と息を詰めた伊月の耳元に、かわええ、と今吉は囁いた。ぴくんとちいさく震えた肩からしなやかに伸びる腕は、そのまま今吉の首に回され、ぐっと力を寄せるとそのまま今吉の唇を伊月が奪った。電気を消した中でも、そのつやつやと耀く黒髪はあまく馨った。 ちゅ、っと可愛らしい音で紅を刷いていない赤いくちびるは、そのまま男に喰われた。 翌日の昼頃に目を覚ました伊月は、低血圧と戦いながら温泉に浸かって、昼飯どうすっかなー、とぼんやり考えた。温泉街には饅頭だけでなくちょっとした食事処もあった。今吉は伊月が逆上せないように脱衣場に待機だ。ちょっと羽目を外した情の交わし方もしたが、今回はあくまで温泉宿で二泊三日の休暇である。黄瀬達ご一行も同じ日程で宿泊しているようで、今日の午後は折角なので一緒に遊ぼうか、なんて提案も上がっている。 そんなこんなで昼食は温泉街の大衆食堂で。黄瀬まで顔が売れてしまえば、田舎のこういった場所でもないと寛げない。佐々木や佐野といった芸能仲間もそんなようで、遊ぶ姿は年相応だ。 湯を捏ねる体験をさせてもらったり、饅頭を買い食いしたり、随分とはしゃいでいる。因みに皆一様に浴衣に綿入りの羽織を古橋旅館からの借り物だ。羽織は背中に大きく古橋家の家紋が入っており、それだけで宣伝になるとは古橋旅館跡継ぎ談。 随分早くなってきた夕焼けに雲が真っ赤に、紫色に輝くのを伊月は、きれいだ、と一言、眩しそうに見て、そんな貌を今吉は指で作ったファインダーで脳裏に焼き付ける。俊のほうがきれいや、なんて歯の浮くような科白をこころの中に呟いて。 傾斜のある石畳をからころと帰ってきて、吊り橋に足を掛けた時、なんだか違和感に眉を寄せたのは今吉だった。しかし皆は普通に渡って、最後尾に今吉、半歩後ろに伊月は着いていく。あれ、と微かに呟いたので、どうやら間違いではなさそうだ。 「走るで。」 「え、でも・・・!」 「ええから!」 じしりっ、と吊り橋の縄が歪に唸るのだ。走るのは、と伊月は逡巡する。これは、凄く、物凄く嫌な予感しか、 「伊月サン!」 がらん、と土が崩れる音と共に伸びてきたのは黄瀬の腕で、伊月の左手をしっかり掴んでいる。右腕は今吉が半身を乗り出して地面に這いつくばる様にして掴んでいる。 するりと下駄の鼻緒が足袋を滑って落ちて行った。断崖絶壁の下にある、深い谷底に流れる川の中に。滝壺に沈んで見えなくなった。滝がばら撒く水飛沫が、風に煽られ乱れた浴衣の裾を濡らした。 「な、に、これ。」 「俊、はよう!」 「伊月サン!?」 呆然とするも束の間、男手二つで軽々と伊月は奈落への沈没を免れ、古橋旅館の庭に続く地面にぺたんと座り込まされた。 「な・・・っ!?」 途端、どくどくと心臓が早鐘を打ち、今更ながら危機を伊月に知らせたそれは、自分の心臓の音だと自覚して、はっはっと水揚げに喘ぐ魚のように口が開いては閉じ、すうっと青褪めていく貌を形作る切れ長の目は見開かれ、鷲の目は視野を広げた。黄瀬の仕事仲間が取り囲み、左手を黄瀬が、体温を取り戻させるように摩り、右手を今吉は指を絡ませ、ぎゅっと力を込めていく。 「い、今の・・・っ!」 「誰か、女将さんに!」 「い、行ってくる!橋が落ちたのよね!?」 「佐野さん頼みます!」 「志村さんは確か宿待機だった!」 点呼は黄瀬の同僚の中で最年長の佐々木が行い、体温を無くしている伊月の頬を黄瀬が撫ぜ、まるで壊れ物でも扱うように今吉が抱き寄せ抱きしめる。 「無事やな、俊。信じてええか。」 「しょ、いちさっ・・・き、せ・・・。」 過呼吸気味になっているその華奢な背を何度も何度も一定のリズムで今吉が優しく叩いてやって、大丈夫ッスよ、大丈夫ッス、と黄瀬が何度も繰り返す。 「立てるか、月ちゃん。」 やっと呼吸が整ったところで今吉は問うが、黒曜石の瞳は不安げに頷いたので、そのまま抱き上げた。 「ちょお、風呂行くわ。黄瀬、頼んでええか。」 「了解ッス。現場保存ッスね。」 台本在りッスけど刑事もやったことあるんスよ、なんておどけた調子が今ばかりは助かる。 「あ、あるけま、す、翔一さん。」 「あかん。ワシが歩かせたない。危ないわ。」 そのままお姫様だっこで浴場まで連れて行かれて浴衣やらなんやら剥がれて、汚れたものは古橋が新しいものと取り換えてくれた。 「寒ないか。」 今吉の腕に抱き込まれて湯船で体を暖めて、ふ、と伊月は吐息を漏らした。 「翔一さん、翔一さん、俺、落ちなかった?落ちる前に、翔一さんと黄瀬が、助けてくれ・・・これ、夢じゃない?大丈夫、ですよ、ね?」 「大丈夫や。不安になったらワシのほっぺたでも抓ってみたらええ。黄瀬の顔でも引っ叩いたらええ。」 冷え切った指先を擦って握って、やっと戻ってきた体温に伊月は眉を下げて笑った。 「黄瀬の顔は商売道具ですよ。殴るなら腹ですね。」 「うん、月ちゃん。」 「翔一さん?」 「月ちゃんが、俊が、無事でよかった・・・!」 温泉街と一口で言っても、そこは観光地であり田舎でもある。古橋旅館に繋がる吊り橋が落ちた、という話は一晩で温泉街中に広がった。結構な長さのあった吊り橋は対岸にぶらりと所在無げにぶら下がっており、古橋の女将は直ぐに温泉街という名の村の役所に連絡をしようと電話を取ったが、一向に交換手の声がしない。それを知らされたのは伊月が体温を取り戻した直後だった。 「あかんな、もう夜もええとこや。日ぃも完全に暮れた。下手に動くんは危ない。」 それが今吉の判断で、古橋旅館の近所、すなわち吊り橋よりこちら側にある数件の旅館や民家を訪ねたのは翌朝だった。 途轍もなく長い夜だった。 客が一人きりになるのを防ぐために従業員は右往左往し、黄瀬は打ち上げムードもへったくれもなく伊月に付いて回って、空元気で励ましてくれた。 発端が誰かは解らない。 ただ、皆が橋の様子を確認して近所の民家や旅館に走り回っている頃、伊月は意を決して昨夜落ちそうになった断崖絶壁の、吊り橋までやってきて、幾つか発見したくないものを発見してしまった。橋が吊られてあった縄には、鋭利な刃物で切り付けられた痕跡が発見され、支柱にも不自然な切れ込みがあって、そこから千切れてそこから折れて、吊り橋は人為的に落とされたという結論が、伊月の頭に弾きだされ、彼は鉄の味が口の中に広がるのを感じながら唇を噛んだ。 「月ちゃん。」 「誰の仕業だと、思いますか。」 「月ちゃん、落ち着き?」 「俺じゃなかったら、死んでたっ。」 そう、今吉が手を伸ばしてくれて、黄瀬が異変に気付かなかったら、伊月は落ちただろう、底の見えないこの滝壺の下にある深い深い谷底の、川に流されて、岩にぶつかり魚に食まれ、きっと原型を留めない形で何処かの見知らぬひととして葬られていただろう。 「落ち着き、月ちゃん。」 「落ち着いてます。」 その切れ長の目に住む黒曜石のような瞳は、怒りに静かに揺れている。あまり良くない兆候かもしれない。 「電話な、線が全部切られとった。こっから向こうに渡るんは至難の業や。山のぐるり回って来んと向こうには行かれへん。この意味、解るか。」 「解りたくもない。」 伊月がそう、吐き捨てた瞬間、聞き苦しい悲鳴が古橋旅館別館方面から上がった。 「翔一さん!」 「わぁっとる!」 別館方面は、特別客やVIPのための部屋だ。今は使われていない。二人は下駄を蹴り上げるように脱ぎ捨て、そのまま別館方面に駆けた。 「・・・どないした・」 伊月が一度足を止めた。季節の花々が活けられた花器が並ぶ廊下、その向こうには温泉の入り口があって、更に奥へ進むと渡り廊下があって。 古橋康次郎が、頭部から夥しい出血を垂れ流しながら、壁際に座り込み、その体を半狂乱で揺すって呼ぶ女将の姿があった。 「あっ、頭!女将さん、揺らしちゃ駄目です!頭打ってる!翔一さん、俺の荷物お願いしますっ!あとお酒!」 古橋聞こえる、と呼びかけながら脈拍と血圧を測りながら床にそのまま横たえた頭部からの出血は止まっていない。 「脈拍、血圧、共に微弱・・・っ!輸血の道具なんて持ってねぇぞばかが!古橋!聞こえてたら合図しろ!」 「ゆ、指先・・・っ!」 「動きましたか!?」 女将が握り込んだ手が軽く握り返されたようで、声に反応があることを伊月は確認すると、従業員に用意させた担架で別館に運ばせた。 「翔一さん遅い!」 「すまん!途中で佐野ちゃんに捕まった。道具はこれでええんか。」 簡易の救急セットしか入っていないそれだが無いよりマシだ。 「シーツ千切っちゃっていいですね?」 疑問形の形を取りながらも拒絶を許さない声音でそのまま、真新しいシーツを持ってこさせて端に鋏を入れるとそこから引き裂く。度数の高い酒を消毒液代わりに裂傷箇所にぶち撒けば、古橋は呻き、薄く目を開けた。相変わらず生気の薄い黒々とした、死んだ魚と揶揄されるような目だが、しっかりと伊月を見た。裂傷箇所は後頭部の右。後ろから殴られたな、と伊月は分析し、ガーゼを当てて、ぐるぐると引き裂いたシーツで固定していく。 「古橋、聞こえるな!?眠いなら寝ちゃっていいけど、出来れば起きてろ!」 幸い、裂傷だけで骨が砕けた様子は見れなかった。罅くらいは入っているかもしれないが、今の設備ではここまでだ。頭部に強い衝撃を受けると記憶が飛んだり極端に眠たくなったりするのはヒトとしての一種防衛本能なので、止めようが無い。 「とんだ慰安旅行やなあ。」 「とんだ慰安旅行ですね。」 ぶっ壊してくれた輩には、それ相応の報復を。 続く。 |
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伊月先輩誕生日おめでとうございました!!結局間に合わなかったちくしょう!!
2012年10月24日 05:05初出。
どうやら伊月誕生日作品の一環だったようです。年を取ると物忘れが酷くていかん。
20121114masai