どこに行ったの、愛しいひと。
どこに行ったの、恋しいひと。
穢されないで笑っていられたあの頃の、笑顔は変わっていないと信じているから。
お願いよ、恋しいひと。
お願いよ、愛しいひと。
そのはらわたを私にくれると、一緒に眺めようと、そう約束したじゃない。












今吉探偵と伊月助手と処女達のぬいぐるみ。後編。











警察からの呼び出しは初めてではない。
それこそ今吉を頼って会議室に通されたり、事件に巻き込まれて取調室に入れられたり。それでも地下は初めて入る。
「そこで着替えてくれ。一本繋ぎに白衣だ。」
「バイオハザード対策は。」
「こっちに消毒室。」
早朝の連絡で、医学科の担当教授に相談すると、それは良い経験だ、と欠席の許可は下りたが論文提出が増えた。どこも味方が居ない、と伊月は項垂れながらも誠凛大学生の恰好でその扉の内側に入れられた。洗濯後の手入れがされていない繋ぎは地下空間の検死のために厚手のもので、白衣を羽織って消毒室に決められた時間、手を消毒。手袋をしてその無残な死体が横たわる台がある部屋に通された。
「深夜に見つかった。ナイフはこれだ。」
刃渡り一〇センチ程度の刃物が刺さっていたらしい首の後ろを死後硬直に固まっている体を起こして確かめる。専用の硝子棒を通して、傷の深さは約八センチ、頸椎を傷つけ気道を切った。死因は呼吸不全辺りが妥当だ。その女の体は臍辺りで下半身と分離し、また膝上から足が二本、在り合えない角度で揃って並んでいる。書面が求める事項を書きこみながら伊月は淡々と作業を進める。
問題の顔は、スケッチの、娼婦の仕事をしているなら、という顔だった。桜井の考察には舌を巻く。目は見開かれたまま、硬直はまだ解けない。首からの出血と右脚切断の出血が多いので、順序としては首を刺されて暫く生きてから足を折り取られての出血性ショック死、と伊月は分析。腹は一度横一文字に裂かれてから内臓を掻き回されて毟り取られたように皮膚が襤褸絹のように引き裂かれている。
「腹はこれ、ナイフと・・・そうですね、鉈や斧なんか見つかってませんか。背骨が綺麗に砕かれてます。」
「見つかっていない。」
「はい。足の切断ですが、これまで見せて頂いてた写真とちょっと違ってます。右脚はいつも通りですが、左脚はこれ、骨の切断、切断面に骨の細かい破片が付着してます。鋸かな、いや、糸鋸・・・。」
考え事の癖に口元に指をやる動作は一切禁止。生き物の死体は細菌の温床だ。腕を組んだまま伊月は淡々と検死報告を述べる。少し遅れてきた監察医に頭を下げると、その報告に専門家すら瞠目した。
「諏佐から聞いておるよ。誠凛の医学部はバケモノでも育てる気か?」
「え。」
確かに予科年齢のくせにここまでの分析と死体に怯まない根性は賞賛に値する。
「儂の定年までに進路を決めなさい。」
「・・・どうも。」
「また娼婦か。」
「近藤千恵子、三六歳ですね。客を取りに別れた、と仲間の証言があります。諏佐さん。」
じっと壁際に待機していた諏佐は、警察手帳を捲る。
「仕事に出るのは一七時前後。翌二時までは仕事。発見は通りがかった男だ。十二時三十八分に通報。死体は赤線と青線の丁度境目の草地に捨てられてあった。ワタシワキラデス、というアルファベットは壁に血文字で書かれてあった。」
「何がしたいのかね、犯人はまったく。」
「あの。」
伊月は諏佐の報告に頷いてから監察医に声を掛ける。
「足の切断面が左右で違うは、どう思います。」
「道具は何だと思う?」
「え・・・っと。皮膚や肉はナイフや包丁でもあれば。刃毀れでもあったのか、これ多分その欠片でしょう?」
「諏佐、鑑識。」
「はい。」
「で、骨は鋸や糸鋸、くらいかなと・・・背骨を割ってる鉈や斧のような刃物にしては骨の断面が綺麗ですし。」
「諏佐ぁ、この子儂の後任にしたい。」
「それは今吉に言ってください。」
「あの胡散臭い元公安員か。」
知るひとは知るのだなぁ、なんて伊月は呑気に考えた。
「諏佐ぁー!月ちゃん返してー。」
「うるせぇよ今吉。こっちも仕事中だ。」
「近藤千恵子の情報持ってったんに。」
「会議室だ。」
「はいはい。」
伊月も着替えて来い、との事で頷いて消毒室に入った。
近藤千恵子。チエコの愛称で赤線と青線の境界線で働いていた娼婦。職業に貴賤を問うつもりはないが、連続殺人が続いている中でどうして真夜中の仕事をするかな、と伊月は考えながら着替えて監察医に見送られて地上二階の会議室に向かう。様々な議論が飛び交う中、黒板には被害者女性の顔写真とバラバラにされた身体の発見写真、検視結果等が書きこまれてある。会議室に入ったところで花宮から書類の束を渡された。句読点の位置が無茶苦茶なので、花宮がかなり急いで作成したものと思われる。
「阿須が探していたのは近藤で間違いなさそうだ。」
「・・・連絡してくる。俺が預かった依頼だ。」
自宅に電話機は無いとの事だったので、職場に連絡。出勤したばかりの彼女は工場の作業制服のまま、警察の入り口で待っていた伊月に駆け寄った。
「阿須さん、落ち着いて聞いてくれますか。」
彼女は必死に呼吸を宥めて何度も伊月に頷いた。痛々しい、と思った。阿須が探していた女は無残に死んだ。
「近藤千恵子さんが昨夜遅くに、亡くなりました。」
「なんで・・・。」
膝から崩れ、彼女は冷たい床に座り込む。
「誰が、どうしてっ!?」
「聞き込みの様子を少し俺も聞きました。娼婦仲間五人で同じ部屋に住んでいたようで、随分と傷んだうさぎのぬいぐるみが。」
花宮が手に入れてきた、雑多に着物や煙草が置かれる部屋の写真に、茶色のうさぎのぬいぐるみが置かれてあった。元は可愛らしいピンク色だった。仲間たちは顔に似合わず少女趣味だ、なんて笑ったらしいが、大事なものなのよ、と近藤は語ったらしい。
阿須マサ子の探し人も探し物も、随分と無残な恰好で発見された。
「一応、彼女の持ち物は警察が保管していますが、見ますか。」
「み、ます・・・。」
一部始終は花宮と青峰が並んで見ており、こっちだ、と青峰の案内で寒い廊下を行く。伊月は震える肩に小脇に抱えていたインバネスコートを羽織らせた。
ぬいぐるみ、煙草、着物、現場近くの塵捨て場にあった血だらけの着物は元は白かった筈の赤い菊の花が咲いていた。遺体を見せることは出来ない。彼女はぬいぐるみを掻き抱き、声を上げて泣いた。死んだ赤子を悼む母親に見えた。
「近藤さんとの関係をお聞きしても?」
「・・・幼馴染、でした。」
「幼馴染。」
「でも、私は尋常小学校を出てから親の都合で満州に渡ってしまったから・・・。」
「はい。」
「ずっと、親友で、と約束、していた・・・のにっ。」
彼女はそこで泣き崩れた。あれほど探したぬいぐるみは色も変わって所々綿が出て、親友だった少女は娼婦連続殺人の被害者として殺されてしまった。伊月は震えそうになった喉を宥めて深呼吸を繰り返す。
「伊月、俺ら会議室上がるから。」
「俺も・・・。」
「落ち着くまでそこにいろ。使いもんなんねぇよバァカ。」
落ち着くまで、とは何をだろう。泣いている彼女か、泣きそうな顔をしている自分か。花宮の厳しい言葉に伊月は椅子に腰かけ膝に拳を握る。階上では一刻ほど騒がしい声がしていたが、その後は各々が現場や聴取に駆けて行った。
「伊月さん。」
「・・・ん。」
青峰が顔を出し、顔を上げた伊月に顎をしゃくると監察医が立っていた。
「薬物の検出はなかったよ。強いて言うなら水銀だけれど、まあ職業柄仕方がない。凶器は伊月君が言った通りのもので間違いない。自分を信じなさい。」
「あ、ありがとうございます。」
深々と頭を下げた学生服の少年に、好々爺というには色々黒いものを腹の中に抱えていそうな監察医は皺だらけの目じりを下げた。おいで、と部屋の外に呼び出す。
「骨の轢断やナイフで他者を傷つけた連中はね、無傷じゃ済まないよ。こころも、身体も。」
切れ長の目が大きく見開かれた。
「月ちゃん。・・・あ、センセ、お久しゅうです。」
掠れた袷によれよれの袴、毛羽立った足袋に歯の擦れた下駄。中折れ帽を取って、今吉は頷くように頭を下げた。
「優秀な助手を持ったみたいだな?」
「そうでしょ、月ちゃん優秀でしょ。」
場違いに長閑に笑った今吉は、翔一さん、と低まった声音に呼ばれた。
「プロファイル情報、行きましたか。」
「ん、来てる。」
「じゃあ、説明いんないですね。連続娼婦殺人の主犯は警察がどうにかしてください。検挙率の高さを俺は信頼してます。」
青峰を横目で見やれば力強く頷かれ、彼も現場に合流のために監察医に頭を下げると廊下を去った。
「先生、ありがとうございました。」
「うん、儂の跡継ぎ、考えておいてくれると助かるよ。」
「考えてはおきますね。」
彼ももう少し遺体を調べて火葬できる形に整えなければいけない。死化粧は伊月も手伝わされるらしい。花宮がまとめた資料を伊月は一読。
「ねえ、さっき、誰が、って言ったの、どうしてです?」
書類の向こうには、ぬいぐるみを抱きしめて微動だに出来ない阿須マサ子がいる。
「・・・。」
「だんまりですか。どうしましょうね。」
その声音は、探偵事務所と対面した際の穏やかなそれと似ていたが、どこか鋭利な刃物でも起こさせる眼光が裏切る。
「貴女の経歴、一度、いや、正確には二度ですね。洗わせていただきました。小学校を出て満州へ渡った。お父様は職業軍人であったそうですね?慰安婦として貴方も雑用勤務をしていました。そしてお父様、阿須大佐は味方の誤射で殺され、お母様共々、追い出されるように日本本土に戻ってきて紡績会社に就職。お母様はこちらへ帰ってきた直後に病気で他界、ですか。」
ここまでは表向きの経歴。そして。
「貴女は一度流産をしてますね。それから子供が産めない。」
うさぎのしおれる耳の隙間から、昏い視線が伊月に持ち上がった。
「父という味方が居なくなって、母共々犯された私の気持ちなんて、男共には解らないでしょうよ。」
「解りません。でも、性犯罪の犯人に味方する下種には俺はならない。」
「ああ、そう。千恵子のことはどうしてくれるの。」
「どうして近藤千恵子という人物を探してくれと依頼なさらなかったんです。」
「穢された身体で会いに行こうだなんて、厭だわ。」
ふはっ、と吐き捨てるように花宮は嗤い、彼女の腕の中からぬいぐるみを奪う。
「欲しかったのは、コイツだろうがよ。尻尾は掴んでんだぜ、女狐。」
「どうやって声を掛けたか知りませんけどね?亡くなった、としか俺は言いませんでしたよ。殺された、とは一言も。彼女の脚を切り取ったのは貴女だ。それからぬいぐるみに対しての執着。この子、手足は取れかけて綿が出ているのに腹部が丁寧に何度も縫い直されています。」
ぶちりと糸が弾けて床に綿が飛び散る。それ証拠物件やからな、と言う今吉の声があったが、容赦なくそれは固い音で床に落ちた。
「指輪・・・男性ものですね。こっちのネックレスは盗難届が出てた筈です。・・・日比谷公園で落とした、と。」
娼婦に指輪盗られたなんて男のほうも後ろ暗いですからね、と確勝を握った鷲は笑った。
「証言は受け付けます。言い訳は聞きません。」
さいしょは、と彼女は指先に当たった白い石を荒れた指先で撫ぜた。
「ええ、最初はきっと、二人で何か綺麗なものを、とうさぎのぬいぐるみに入れたんでしょう?そういう意味ではぬいぐるみを探すという理由は成立してます。近藤千恵子は・・・。」
「体売って金稼いでる女が嫌いなんだろ、阿須サンはよぉ。」
蛇のように笑った花宮は、自分から求めて犯される女が許せなかったんだろ、なんて把握した情報から一部を暴露した。
ゆっくりと阿須は立ち上がり、近藤が護身用に持っていたナイフを立てると花宮に向かったが、伊月の爪先に転ばされた。
「はい、傷害未遂です、諏佐さん。」
部屋の外で待機させていた警官を呼んで、阿須は拘束された。
「死ねばいい。死んでしまえばいいのよ!千恵子も!売女なんて生きる価値も・・・っ。」
首筋に、すうっと掠ったのは刃物ではなく切り揃えられた爪だった。戦慄っと身を震わせ、彼女は死を覚悟した。
「職業の貴賤なんて、考えるだけばからしいってなもんですよ。貴女の侮辱を彼女たちは忘れないでしょう。・・・あ、貴賤の言い飽きせん!キタコレ!」
「黙れ伊月。」
「黙ろうか月ちゃん。」
二人の酷評にくちびるを尖らせた伊月だが、諏佐に頭を下げてそのまま廊下を二人と共に速足で抜けて行った。
「近藤千恵子の部屋には新聞もあった。同居人の話だと探し人の欄を泣きながら見たそうだ。」
「これは殆ど決まりですね。問題は殺人の共犯、というか殺人に関しては主犯ですね。引っ張れるでしょうか。」
「ガイジンさんやったら基地の敷地に入られたら終わりや。」
「翔一さんそれ頂き!」
「もー伊月まじ黙れ!で、どっから行くよ。」
事務所方面へ石畳を三人は蹴りながら進む。舌を噛まないのはある意味見事だと言える。
「一種の賭けやけどな。」
「乗る。」
「俺も乗ります。」
「ほんなら支度しておいで。桃井呼ぶから。」
「「え。」」
事務所から洛山高等女学校に連絡した所、彼女は事情を聴くまでも無く早退してきてその手には既に化粧箱があった。
「どこまで弄っちゃいます?どこまで弄っていいですか!?」
桃色の髪を高い位置でリボンで纏めた彼女は鬘に隠された襟を抜いた。
「眞子はちょぉ、男向けに。春は素人に毛が生えるくらいでええ。」
なんで乗るってゆっちゃったの俺ら、なんて助手二人は項垂れた。派手な着物を着せられて襟を抜かれて前帯を飾ればあっという間に春売りの出来上がりだ。
「花宮さん、胸の詰め物もう少し多めで。伊月さん、髪結い上げます。襟はこっちの刺繍使って下さい。紅の色は・・・。」
「眞子はこっち。春はこれ。」
「はい。」
例えるなら眞子は一端の玄人。春は身売りに憂いた少女。上背は歩き方や座り方で誤魔化せる。原が車を持って来て、前髪に隠した目を輝かせたが、にぃっこりと眞子の美しすぎる笑顔に口を自分で縫ったらしい。花街の賑わう時間に車から降りた。赤線。政府が管理しない花街。もう三つ路地を超えれば合法の花街だが、赤線は特殊の環境故にそちらを好む輩のほうが多い。女の値段も安いし手間も無い。代わりに病気は蔓延するが。最初に向かったのは近藤千恵子の住んでいた家だ。警察関係、と部屋に残って準備していた女に告げると、部屋の中も見せてくれた。六畳一間で布団を敷けば畳の見えなくなる部屋は日の指さない場所に在り、数か所に近藤の痕跡を見つけ、化粧を済ませた女が部屋を出るのと同じくして二人も部屋を出た。暗い路地は華やかな声とヒトの気配にどこか仄明るい。
「さて、どうしましょうかね、眞子さん?」
「どうすっかな。」
小さな寺に続く階段に二人で腰を下ろす。時折異人の姿も見るが、それらしい人間は見つからない。
「・・・え。」
「あ、おみねっ!?」
私服でうろついた警官に発見されて花宮は玩んでいた煙管を取り落し、伊月は声が引き攣った。
「なにやってんだ、その恰好。つーか胸でか・・・。」
「オメーの幼馴染の仕業だバカ野郎ッ!」
潜めた声で花宮は怒鳴り、うわぁあああ、と伊月は頭を抱える。
「まあ、一種の囮捜査ってやつだ。お前も不審者調査みたいなもんだろ?」
「そうだが・・・。」
「年齢的にはアウトだと思うなぁ。」
「人手不足なんだよ。」
決まり悪そうに青峰も頭を掻いて、気を付けろよ、と似合わない気遣いの言葉を二人に掛けて去った。
「幾ら?」
「・・・あ、え。」
最初に声をかけられたのは春だった。どこかまだ幼気な雰囲気を残している少女に男は声を掛けたらしい。
「御幾らほどお持ち?」
高いわよ、この子、なんて眞子が艶やかに笑って、少々の雑談をして去った。隣に腰かけられて割った裾から膝を撫ぜられてとにかく伊月は気持ち悪かった。
「顔に出てるわよ、春。」
「眞子さんの順応が怖いです私は。」
前帯もうっとおしいし、襟を抜かれてあるので首筋も寒い。
「・・・場所、移りましょう、眞子さん。」
「あ?」
「さっき、軍用のジープが向こうに停まりました。」
「なぁるほど?」
吸わない煙管から白い煙が揺蕩って、ぽっくりの様な高さのある草履を穿かされてあるのは身長を誤魔化すためでもある。鷲の目は人の流れを追って、明らかに外国籍の数人が花街に笑い合って別れたのに照準を引き絞る。
「いるか?」
「五人、三時方向に三人、他二人が八時方向と九時方向。時刻は・・・。」
懐中時計の針は未だ、深夜と言うには早いが死亡推定時刻を探れば時刻としてはそろそろ。
「八時方向は黒人ですね、どうします。」
「あら、一度黒人の方のお相手してみたいのよねぇ。」
「・・・今の誰だ。」
「眞子だろ。」
何だか微妙な空気を漂わせ、眞子は言った通りに黒人のほうを追う。ころころと草履が可愛らしく男の背中を追っていった。じゃあ春はあちらを追うべき、と伊月は踵を返そうとして、にこにこと笑う中年の男に肩を掴まれた。
「いいかな?」
「あ、えっと・・・。」
「いいよね?」
腰に腕を回され、看板の影、強引に口を塞がれた。
「・・・っ!」
くちびるを捲った舌は歯列を舐めて口内を刺激し、湧いた唾液を啜って飲んだ。
「病気は無いようだね。ここにきてそんなに時間も経っていないみたいで初々しい・・・生娘という事はなさそうだけれど。」
強引な接吻から解放されて、酸欠に涙が浮いて赤く染まった頬を男は撫ぜた。
「あ、の・・・っ、ん、ぐっ。」
何度も何度も確かめるように男は唾液を飲む。そのスーツの胸元を縋るように握った指を男は解いて撫ぜた。
「指先や末端の大きな女は、陰核も大きくてね。末端肥大症と言うんだ。俺は好きだな。陰核を舐められるのが好きだろう?男の場合もそうだよ。」
卑猥に上げ連ね、厭らしく笑った男は女を物陰に連れ込み、スラックスの前を寛げる。その物陰には既に女の尻を嬲って悦っている男や金の受け渡しを気怠く行う男女や男の腰に細い足を巻きつけて喘ぐ女の姿があり、伊月は顔色を変えた。これからの行為に緊張したとでも思われたか、ぎゅうと手を握り込まれた。かさついた指先は闇に目が慣れると絆創膏だと気付けた。
ひとを傷つければ自分も傷つく。
監察医に言われた言葉が蘇る。
「ねぇ、あにさん?」
その婀娜っぽさを演じる少女の震えた声に男は振り返って笑った。ひとの声が遠い。脳裏が警告に赤く点滅を繰り返した。かちゃりと金属が擦れた音を、確かに伊月はその耳に入れた。
「お医者さまか、なにか?」
「よく解ったねぇ。」
うつくしい黒髪を男は撫ぜて、ぐいと女の肩を下した。
「花宮ァ!!」
「ふはっ。」
物陰に入った、という事は隠れる場所も多いのだ。ハイネックにスラックスの恰好で飛び出した青年は、綺麗に男の頚を狙って足を振り下ろしたが、ナイフを持った腕に防がれた。
「美人局の積りだったのかな。」
「バァカ。んなわけねーだろ。リッパーさんよぉ。」
伊月のプロファイルに寄れば、アルファベット、それも独逸語に慣れた人物。だとしたら医学部で独逸語論文も書かされる事のある自分はそこに当て嵌らないだろうか、と着替え途中で花宮に相談した。詰まり、医師志望、若しくは医師。
「共犯の女は捕まったぜ。とっととソイツ放して出頭しろよ。自首とか司法取引とかって言葉、知ってんだろ?見つかってねーけど、あと五人は殺ってる筈だな、お前は。」
肩を掴んでいた手がぎゅっと着物を握り込んだ隙に伊月は帯を解いた。ばさりと男は一瞬相手を見失い、左頬に踵が飛んできたのを辛うじて受け止め、流した。そのまま流された左脚が地面を踏むと、身体の回転はそのまま、伊月の右の爪先が首を狙うが足袋では威力は期待できない。後ろに一歩飛び退って、ナイフを持つ手をどうしようかと逡巡。着物の下に着込んでいたのはタンクトップのみで随分と冷えるが背は腹に変わらない。
「いたぞ!」
青峰の声が路地の入口に聞こえ、男は反射的にそれを振り返った。伊月の指先はバックチップの要領で刃物の先を捕まえた。花宮が踵を振り落して、刃物は奪えた。手首の痛みに背を丸めた男の頚根っこを捕まえたのは、路地裏の林を掻き分けてきた今吉の手だ。ぎちぎちと皮膚を血管を気道を骨を、軋みそうに力を込めて男の意識を落とした。
「青峰、監察のおっちゃんでもええ。医者に連絡!」
「あー・・・。」
倒れ込んだ男を伊月は着物を羽織りながら覗き込む。男は白目を剥いて泡を吹いていた。
「ちゃうて。月ちゃん頚。ナイフになんぞあったら怖い。」
「え、まじすか。」
首に手を当ててみると、じわと液体が滲む感触があり、切り付けられた、と悟った瞬間にその場所が燃えるような痛みに襲われた。傷の自覚と言うのは、するのとしないのとどちらがマシだろうか。花宮は色々塗りたくられた顔を手拭いで乱暴に拭っている。着物は物陰に畳んであったが、中身は途中で着替えながら捨てたのだろう。犯人確保に駆けてきた青峰が、花宮の恰好を見て少し残念そうに眉を寄せたのには容赦なく蹴り飛ばしていた。
「花宮、紅落ち切ってないよ。」
「お前も早く顔洗え。もしくはちゃんと着物着ろ。男か女かわかんなくてキモイ。」
「きもいゆーなばか!」
「素直な感想だろうがバァカ!」
子供の様な口喧嘩の間に今吉がちゃっかり伊月の着物を綺麗に着せてやって、拳骨を食らった。何故だ。
「伊月さん、病院。緑間総合。」
「あ、わかった。救急窓口?」
「いや、夜間。」
後に判明した事だが、捕まった男は緑間総合病院の小児科医だった。子供が好きで、保護者からの人望も厚かったらしい。人間の二面性ゆーんは残酷なもんやなぁ、と今吉は言った。
「検査結果、異状なし!」
化膿止めの内服薬を三日分貰ってしまったが、傷口は小指の爪ほどの大きさも無く自然治癒に任せるが一番。血液検査結果も数値は正常、炎症反応も無かった。診察結果を認められたカルテの写しを、翌日、伊月は今吉探偵事務所所長のデスクに叩きつけた。
「検査代が警察から出て安心しましたー。」
「何で?今月黒字なんだろ?」
「黒字でも。無駄に変な費用は出ないに限るの。で、ぬいぐるみの中身、どうなった?」
うさぎの腹の中身は換金すれば小さな家が買えるくらいはあったが、それは無知ゆえの結果か、そもそも近藤千恵子は阿須マサ子とそれを共有したかったのか、それはいつになってもきっと不明だ。後者であればいい、と伊月は少し切なく考えた。ひとは死んだらそれまでだ。
「近藤千恵子の検死報告来てる?」
「ああ。何度か堕胎して、子供が産めない体だったって証言が出てな。調べてみたら子宮が半分無かった。」
それは、と伊月は言葉を無くす。娼婦を殺して回った男も、取り調べの結果、勃起不全で妻は勿論、ゆく先々で女に馬鹿にされてきたので女を、特に性行為を売り物にする女を狙って殺していったのだ。そして、奇妙な符号だとも。
「子供が産めない女と、子供を作れない男、か。」
「うん?」
「今回の犯人。痴情の縺れとか、そういうのでも無いじゃないですか。ただ、本当に何も残らなかったな、って、思って。」
「何か残って欲しかった?」
「・・・せめて、パンドラの箱のように。」
「ふはっ。イイコちゃんの理論だな、バァカ。」
一寸先は闇って知らねぇの、と花宮はいつものように嘲笑う。ふむ、と今吉はデスクで背凭れをぎしりと鳴らす。
「月ちゃん、ワシが死んだら泣くゆうたやん、前に。」
「あ、はい。」
そういえばそんなことも、と伊月は少しだけ、学舎校庭の片隅に佇む石膏像を思い出した。
「少なくとも、阿須マサ子は近藤千恵子が死んで泣いたやん?殺されたけど、泣いたやんか。千恵子の同居人も泣いた。千恵子はぬいぐるみ捜索記事を見て泣いた。どっかに涙の痕でも残ったんちゃう?警察の遺留品保管庫とか、古新聞とか、そうゆうとこに。」
「涙の痕、ですか。」
「残らんでええんよ、ほんまは。ワシはそう思う。立つ鳥後を濁さずや。ほんまは月ちゃんにも泣いて欲しないねん、ワシ。ワシがおらんなったら、ここは売り払うなりして、普通にお医者さん目指しなさい。まこっちゃんもそうや。ワシの事は忘れて仕事して、適当に生きて、喜んで悲しんで、ほんで適当に死んだらええねん。」
「適当にって・・・。」
ああちゃうちゃう、と今吉はひらひらと手を泳がせた。
「料理とか、あるやん。適量て。適当ゆうのはその要領な。自分で出来る事はしっかりやる。緑間クンちゃうけど、ほんまに人事尽くして天命待って、そんで次に進む。天命は命やないよ?それなりに結果遺して、生きた印なんて大層なもんはいらんねん。どうせ百年もない命やろ?目も見えんなるし耳も遠なる。そんでも力いっぱい生きて、死ぬまで力いっぱい生きて、そんで静かに死んで。」
「・・・恨んでも、いいですか。」
静まり返った部屋の中、ぽつりと伊月が呟いた。
「なんぞ不満でもある?」
「翔一さんと関わった人生を、恨んで生きてもいいですか。」
「ええけど、苦しいで?それ。」
恨み辛みと言う負の感情はこころを蝕む。
「ここで過ごす時間を、愛おしく想いながら、忘れて生きる人生は、辛いです。」
そんなもんかね、なんて花宮は呟いたが、手元は止まっている。
「ここで、お二人と珈琲や紅茶を飲んで、怒ったり笑ったり、お菓子を食べて、いろんなひとと関わった時間を、忘れることはきっと俺は出来ません。そこまで器用に人間の脳は出来てません。」
「まあ、不正解ではないけんども。」
「俺は生来不器用なんで、いきなり翔一さんや花宮が居なくなったら、多分恨むし、ひょっとしたら泣く。」
バァカ、とちいさく花宮がくちびるを動かし、ぬるくなった珈琲を含んだ。
「手紙でも書くか?何年後かの自分によ。・・・ふはっ。バカらしい。笑い過ぎで涙が出んぞ、バァカ。」
「それ、ちょっと面白いかもね。」
今の積み重ねで過去は出来ている。今を積み重ねて未来になる。過去にどんな悲劇があったとして、それから逃げられることなんて無い。過去を恨んで他者を傷つけた彼女は彼は、牢屋の中で何を思うだろう。きっと死ぬまで牢屋の中で過ごすだろうそのひとを、未来はどんな瞳で眺めやるのだろう。


今吉探偵事務所、本日も通常運転中。
何故か反故紙が山積みされておりますが、どうかお手を触れられませんよう。

***

後編です。女装注意。セリフ回し的な意味でR指定入れたい感じ。あとは灰色くん出せたら帝光制覇出来るかな!!でもこのシリーズ出来た後のキャラだからバックボーンとか一切決まってないやw喧嘩屋とかやってたら個人的に美味しいwwwそうじゃなかったら多分職人系かなーと思ったらそっちは紫原がいたなぁと。てゆか誠凛編やってみたい。タネはあるんですけど育たないんですよねー。因みに私はKIRAという事件は2007年にベルギーで実際にあった未解決事件(2013年現在)でございます。プロファイル系本読みながら自分も考察したんですが、その辺のじみーな作業が一番楽しくて好きです。

2013年01月18日 20:58初出。

20130205リコたんおめでとう!!masai