午後になって降り始めた大雨に、慌てて洗濯物を取り込む女中の手伝いをして、出勤。
勤労学生も楽じゃないわね、とお八つに混ぜて貰って笑い合って。
運がいいわね、と何故か夜中に連れられた、使用人だけのダンスパーティ。
優しい主人と、上司と、仲間と。
不満は、あったの?












今吉探偵と伊月助手と双子の人形。後編。












「花子さんっ!」
廊下を小走りに駆けてきた月乃に、社は苦そうな顔をする。使用人はどんなに急いでいても廊下を走ってはいけない。
「月乃さん、廊下を走ってはいけないわ。」
「ごめんなさい!厨房で、あの!」
けほ、っと咳き込んだ月乃の様子にただ事で無い、と判断したのは勤務暦の差か、競歩の要領で素早く身を翻した。
「なんて、ねっ。」
管に害の生じない程度小細工させて貰ったが、あれではきっと電気会社を呼ばなければ夕食の準備が滞る。因みに半田鳥子の許可はある。時刻は少し、遡る。
「やっぱり、おかしいんです。人数。」
帝都への鉄道馬車には今朝は花宮の姿もあって、伊月は今吉に情報を整頓した手帳の中身を見せた。暗号化してあるが、今吉と花宮にとっては無いに等しい。
「増えよる?」
「減ってるんですよ。でも、古橋は変わらないって言う。変じゃないです?」
「名簿は。」
「だから余計におかしいの。」
路面電車に乗り換え、そこで広げる訳にはいかないが、脳内に展開させるのは簡単だ。
「因みに誰が?」
「社蝶子。月乃の教育係だからすぐわかった。あ、今日は教育係りの授業は教養キタコレ!」
「理解。」
そのまま花宮は霧崎第一大学方面への路面電車に乗り換えた。
「理解って・・・。」
伊月は呆然と見送る羽目になったが、今吉は中折れ帽をひらひらと、扇ぐようにやっている。親代わりだった過去はなんだかんだと今でも親のような存在なのだろう。
「まあまあ月ちゃん。ほんなら社蝶子ちゃんはどこにおんの?」
「それもまたおかしいんですよ。朝は見かけません。でも、昼間や夜間は度々見かけます。」
吊革に掴まったまま、もう片手に持った手帳を口元にやる。指先を線の細い顎に持って行くのは考え事をする際の伊月の癖だ。解りやすい。
「それは、ほんまに蝶子か?」
「え?」
「社蝶子と社花子は双子やん。」
こくん、と静かに頷いて。ピィ、と警笛が口を開こうとする今吉の声を遮った。
「あちゃ、ほんなら月ちゃん宿題な。あと。」
浮気はあかんよ。
耳元に囁かれる声に、いつもは甘いそれが、何故か冷ややかに、戦慄っと悪寒が容易い。古橋あのやろう、と超絶不機嫌な伊月の姿が誠凛大学校舎内では見受けられた。これで何日部活を休んだだろう、と考えつつも、女中の仕事というのは体力作りにいいらしい。適度に筋肉も使えるので、あとはボールでもあれば最適なのだが、などと考えつつ、伊月が向かったのは社姉妹が使う部屋だ。
鍵が落とされてはあったが、伊達に花宮のトラップだらけの事務所を掻い潜ってはいないし、花宮のデスクから菓子を盗んだりはしていない訳で。
カチン、と手応えに伊月は月乃の仮面を剥ぎ、背後に音も無く現れた古橋に背後を任せて入り込む。
ベッドは二つ。片方は乱され片方は整えてある。しかし乱れが無い訳でない。二つとも、蝶子も花子も使った形跡がある訳で。
「どうだ。」
「推論その一、仕事時間の誤魔化し。ハズレ。」
「そうか。」
そのまま素早く部屋を出て、閉じる間際に細工した鍵が落ちたのを確認して、黒煙が昇っている厨房へ。
「小橋さんは蝶子さんと花子さん、どう見分けていらっしゃる?」
「ほぼ勘だな。俺は他人の顔を覚えるのが苦手だ。」
「なら俺とは正反対だ。結構いいコンビだったりするかもな、俺ら。」
そして、厨房脇の使用人詰所。こちらも無人にしておいた。社姉妹の使う棚。二人の荷物はきちんとある。裏は取れた。合図のように、黒い煙が消えた。
「社花子、二二歳。出身は不明。孤児院で育ってる。」
馬車の中で遣り取りされた書類を今吉は受け取り、花宮は無線機を弄っている。若松はこれだけのために呼び出されたのかと若干不満そうだ。役所に勤める人間として、ギリギリアウトの行為をしてきた自覚はあるが、法律を握り込んで仕舞える人間が目の前にいるのに戦慄っとしない。
「社蝶子については?」
「社花子と蝶子は双子だって話でしたよね?社蝶子、という人間は、名前は、どこを探しても見つかりませんでした。因みに社花子が育ったのは・・・。」
「解った。裏出たぜ、今吉。若松もお疲れさんだなと言うとでも思ったか、バァカ。」
「こんのっ!ガキャ!!」
「落ち着きなさい若松、君ら同い年や。ほな、暴露たらウチで雇ったるさかいに、今日はおとなしぃに嫁さんとガキに孝行しといでや。」
はいどーも!なんて青筋を立てたまま若松は馬車を降り、街道を歩いて直帰の方向らしい。途中で耐え切れずに真っ赤なポストに当たっていた。
「で?孤児院か?」
「ああ。社子供支援館。だから社姓な。社花子がいたってな記録は出た。蝶子はやはりいない。」
ほう、と顎を擦った今吉はなかなかに楽しそうだ。
「花子の親は?」
「花子が二歳の折に失踪。その後親戚に預けられたが。」
庭師に託けられた手紙は月乃春宛。半田家に新しく入った女中は近所の噂の的でもあった。勤労学生というのも関係したかもしれない。
恋文じゃない、とからかってくる便宜上の同僚もいたが、月乃は苦笑するだけで留め、今夜のパーティ参加しないの、と澤田の声に、時間があれば、と遠回しに断った。事実、学校から出された課題や何やら、時間はあまりない。まして今回は潜入しきっている訳だ。今吉からは私事の手間を、と手当は約束されてある。
「虐待、ね。」
伊月の愛する流麗な文字が刻んだのは、社花子が三歳から六歳の折に掛けて、親類を盥回しにされて、虐待を受け、最終的に孤児院に入れられた記述があった。
「これが鍵なのか?」
机に向かっている伊月の背に凭れる古橋を追い払うのは大変に骨が折れた。当然のことだが今吉や花宮は伊月よりも鼻も耳も鋭い。古橋の移り香を今吉は見つけてしまった訳だ。それは背筋も寒くなる。
「精神科の分野だけどね。虐待にも色々あってさ、まず暴力。あと言葉。それから全く相手にしない、育児放棄っての?人格形成に最も重要だとされるのは、幼少期における五歳前後。面白い位に合致する。」
それから、とランプに手紙を翳す伊月の表情は、少しだけ苦い。
「その頃の子供は、現実逃避が巧みだけれど、下手だ。」
「巧み・・・?」
「そう、巧みに、これは自分では無い、と隠してしまう。けれど、そうすればどうなるか。自分で無いなら誰か。」
「それが、蝶子・・・?」
正解、とばかりにそのまま手紙は燃やされた。窓を開けて空気を入れ替え、下階から聞こえる無礼講の騒ぐ声に耳を傾ける。
「これなら古橋の数え間違いも、部屋が二人分使われていた事も、二人分の荷物があったことも、根拠は頼りないけれど説明は付く。」
どういうことだ、と顔を向ける古橋に、くすりと肩を竦めて笑う姿は、酷く、ランプの灯りの中では蠱惑的で困る。
「まず、屋敷の人間は全員、花子と蝶子の存在を知っている。新入りのお前や俺には、教えるかどうかの見極めが難しい、ってとこじゃないか?実際教えて貰ってない訳だし。」
二つのベッドが使われた形跡があったのは、二人の人格が使い分けたから。荷物もそう。紛らわしいので名簿を作れば、今度はそのくせ一人しかいないので、数え間違いが起こった。
「社花子の家はどこかな。育った家じゃなくて、実家。」
「それなら花宮が。」
「じゃあ明日だな。今日は寝る。小橋さんは早く自室にお戻りになって?」
「そこで春になるのは狡いだろう。」
古橋だって嫌がる女を無理矢理組み敷く趣味は無いので、女性に追い出されると弱いのだ。職業柄どうかと思うが、向き不向きがあるのだから勘弁願いたい。しかし翌朝はきっと盛大に迷惑を掛けられる事を承知で古橋は部屋を出た。
翌日に今吉が通学途中に聞けた話を元に、緑間総合病院の精神科の医師を呼んだ。山下と名乗った色白でひょろりと頼りない印象の男だったが、その可能性は考えられますね、としっかりと裏付けと呼んで良さそうな回答は得られた。
花宮は三軒も四軒も個人宅を梯子した後、小さな子供が毬突きをして遊んでいる、古い木造建築に辿りついた。社花子の生家だと、それは表札にある、社花子が孤児院に引き取られる以前の名字が証明した。
「・・・なんで?」
ガキがいる。あちこち走り回った花宮が言うのだから間違いない筈だ。傍観者の距離で、その少女が遊ぶ様子を窺って、近所に来ていた貸本屋に適当な本を借りては読んで、借りては返して、を五冊程度繰り返した頃、けほん、と咳き込む声がした。火星人に本を返して、通りすがりを装って家の前に来る。
「とうちゃん、薬買ってくるね!」
少女はぱたぱたと縁側からその狭い敷地の中の箪笥から財布を出すと、そのまま駆けた。花宮も後を追う。薬局なんて上等なものは無い下町の煙草屋で、少女が告げた薬品名は、庶民には少々難しい価格で取引されている。こんな下町にあるのは訳有か期限切れだろう。毒にも薬にもならん、寧ろ毒になる、と花宮はその購入を止めさせた。
「おい、お前、名前は。」
「ちょっと、あんたこの辺じゃ見ない顔だけど・・・。」
「うっせぇよ。その薬、訳有か期限切れか何かだろ。でねーとこんな店で扱えるはずねぇしな。治安維持局にでも連絡してやろっか?」
にぃ、っと蛇のように笑った青年に、店主の初老の男は気圧されたように、ただ少女だけは紙幣を握りしめてきょとんとその遣り取りを見ている。
「お前、名前は?」
「ちょーこ。」
「ちょ、蝶子ちゃん!いかんよ!」
確かに下町の人脈というのはあるだろう。花宮は不本意ながら少女の視線に合うよう、屈みこむ。
「蝶子?」
「うん!ちょーちょ、のちょうこ!」
「・・・成程な。おい、じじい。」
「わ、儂かね!?」
「この、蝶子って娘、ちゃんと薬代あるみてーだから、俺が薬屋の手配する。そんでいいか?」
少々混乱気味に煙草屋の主人は蝶子と花宮を見比べたが、いつの間にか蝶子が立ち上がった花宮のシャツの裾を握っているのに嘆息した。
「蝶子、少し待ってろ。」
何かあったらここ、身分証明これな、と花宮は手際よくも事務的に自分の、霧崎第一大学に通う学生であると煙草屋の主人に伝え、電話借りるぜ、とそこで諏佐へのホットラインを作った。蝶子が帰ってこなければもしもの場合ここに連絡しろ、との事である。同時に期限切れの薬品を扱っている煙草屋があるとも通報した。勿論当事者には悟られない方法で。
「蝶子、金額見せろ。」
「これ!おかーちゃんが稼いできた!」
「こりゃ・・・。」
帳簿のあの数字を彷彿とさせる紙幣の額に、これか、と花宮は薄く笑う。連絡先は誠凛大学。この時間ならまだ、瀬戸際ではあるが伊月はいるだろう。現地集合の旨を伝えて、花宮は少女の手を引いた。
「俺は、花宮真。知り合いに医者がいる。親父さん、医者に診て貰ってるか?」
「はなみやさん?おとーちゃん、おかねないから。おかーちゃんも、あんましかえってこないから。」
花宮はそのまま少女の家に戻る。腹の奥から咳き込むような、嘔吐に似た気配もある。
「蝶子、ここにいろ。」
玄関にそのまま少女を置いて、花宮は乱暴に革靴を脱ぎ捨てると、軋む廊下を走って居間に敷きっぱなしになって縁側に臨む男の布団が真っ赤に染まる瞬間を見た。
「おい、意識、あるか。」
「ちょう、こ・・・。」
「蝶子は玄関に居る。今のお前を見せる訳にはいかねーかんな。」
「そ、うか・・・。」
痩せこけ、寝間着の中に骨が浮く男は二十台の中盤と言ったところだが、随分と老け込んでいるのは病理のせいだ。
「あーも!」
めんどくせぇ、と呟き花宮はポケットからちいさな木箱を取り出して、開ける。小指の半分も無い細さと長さの注射器の中身を静脈に押し込み、また咳き込み出す男に触れていない手で錠剤を二つ取り出して飲んだ。
「花宮!?」
「伊月!今吉は!」
「翔一さんは宿の始末して、社さん連れて来るって!」
「賢明っ!」
生け垣を飛び越えた身軽さを賞賛するかに指を鳴らし、苦い顔をされたが投げつけられた消毒液を手に腕に顔にまぶす。
「意識薄弱、呼吸・・・辛うじてか。瞳孔の動きは正常・・・何注射した?」
「強心剤。」
「把握。」
鞄から出てくる医療器具の数々と、ネタメモ帳には必要な薬が書き出される。余裕は全くもってない、という事だ。
「飛沫感染怖いから、家中消毒したい・・・っ。」
「潔癖か。娘は消毒すんぞ。」
「娘さん?あ、やば。胸元と肩が異常に下がってる・・・。」
「消毒しとくぞ!」
「念のため診察させて!緑間総合の野村先生っ。」
胸元や肩が下がるのは結核患者の特徴だ。今の医学では決定的な治療法が無い。早期発見ならばなんとかなるが、と伊月は軍医学研究所特殊開発のゴム手袋越しに男の体を触診。あらまぁ、と庭先の呑気な声音には気付かず、部屋に駆け込んできて男に縋った女に鋭い指示。
「布団、新しく出して下さい、蝶子さんで合ってますね?」
「ええ、私は蝶子。お布団と、他は?」
「俺の連れが薬買ってくるまで、油断できません。貯金などはありますか。」
「幾ら・・・?」
「解りません。旦那様に延命が必要かどうか、それも、俺には!」
用意された新しい布団に今吉と伊月の腕で、男を横向きに寝かせる。縁側に日光消毒の名目で出された布団の様子から、男の寝間着の様子から吐血は明らか。喉に血溜りを作って窒息しないとも限らない。
「ねえ、幾ら。幾らなの。」
「解りませんってば!」
縋る女に、思わず伊月は怒鳴った。月ちゃん、と宥めるような声に、はっ、と我に返ったように顔を上げる。そこには般若のような、能面のような女がいた。
「幾らでも、小細工して盗んできてやるわ・・・蝶子にも、花子にも、それがいいの・・・!」
「蝶子さん!?」
一定量の酸素を送り込んでいた手元が止まりそうになる。
「蝶子さん、それは駄目だ。駄目です。」
金が無いと、そんな理由で他人のそれを奪ったのだとすれば。
「花子さんの為にも、それは、駄目です。」
しゅう、しゅ、と呼吸が一定に安定し、心音を診る。なんとか、死地は脱したか、と呼吸器を扱う手元もこころも落ち着いて、伊月は肺の奥から息を吐いた。今吉の温かい手が背中を撫ぜてくれて、邪魔になるであろうと鞄やインバネスを持ってくれている。
しゅう、しゅ、しゅう、しゅ・・・。
「蝶子さん、このひとを呼んで下さい。」
「・・・たかし・・・隆・・・っ!」
「起きますよ、大丈夫。誰ももう、花子さんを一人きりになんて、しません。」
「花子、を。」
手袋を外した、指の腹が硬い、白い指先が女の頬を拭う。
「社蝶子さん、貴女は優しすぎるほど、優しいですね。花子さんが内緒で護っていた家族を、一緒に護っていこうとするほど。花子さんが、彼らを忘れてしまっても、貴女がいようって、ずっとずっと、頑張ってきましたね?蝶子さん、隆さんは暫くの間、俺たちが預かりますよ。眠っていいんです。少しの間、休んでいいんです。」
黒いワンピースに白いエプロン。髪は綺麗に纏めて布で覆う。清廉な印象の、社蝶子から溢れたそれは、ただ、慈愛。
暫くの後、緑間総合病院から来てくれた医師は呼吸器官専門医師。重度の結核症だと、伊月の見当は不幸ながら、当たってしまった。
「清水隆、二六歳。結婚の記録なし。社花子も同様だ。」
「じゃあ、蝶子の扱いは私生児か。」
男の葬儀はとてもとても暑い日で、社花子もその娘と思われる蝶子も、涙を流しては気温に攫われていた。まるで、あの日以来姿を現さない、もう一人の蝶子が拭うかのように。
「確か結婚してないと養子は無理・・・だよね?」
「ああ。」
結核という病気の性質上、葬儀は密葬に。しかし、火葬の後に遺影に線香を上げたり果物を持って来たりする近所の人間はあった。どうやら煙草屋の主人伝いに話は広まったらしい。
「今吉さん、花宮さん、それから月乃。お久しぶりです。」
社花子との間に密かに子供をもうけていた男の戸籍の写しを持って来ていた若松が帰り、依頼報告書の筆が進まずに唸っていると、半田鳥子と澤田をりえの訪問があった。締め切り前の作家宛ら、伊月は面談室から逃げそうになった。
「半田様っ、もう半日お待ちくださるってお約束でしたよね!?」
「そうなのだけれど、月乃の淹れた紅茶が飲みたくなって。小橋も花子もいなくなって、お屋敷は少し寂しいですし。」
「あ、それは・・・。」
色々あって、結局給金の問題については曖昧な結論のみで帰ってきてしまった罪悪感はある。結果を報告し、原因を突き止め、今度の対策、までが私立今吉探偵事務所の仕事であって、今回は結果と中途半端な原因報告のみで強制的に幕が下りてしまった感が否めない。
「つっても、花子がいなくなったんなら、もう盗みはねーだろ。ああ、正確には蝶子?」
「せやね。ほんであとは使用人の身元調査しっかりしてやね。あ、その場合はこちらご贔屓にしてもろうて構いませんので。」
ぺこ、と大変折り目正しく今吉は頭を下げて、滅多に出さない名詞を半田に渡す。
「では、早速頼んでしまいましょうかしら。清水蝶子の身元調査。」
「えっ。」
「あ。」
「ああ!」
何それ、というニュアンスも、その手があったか、というニュアンスも。全て把握した、というニュアンスも、全てが同時。全く仲の良い三人もあったもので。
紅茶を丁寧に大理石に置いて、ありがとう月乃、と言われる青年はシャツにスラックス姿だが、最早違和感が無い。
「えっとつまりひょっとしまして?」
「ええ、清水蝶子は、旧姓澤田、町田をりえの娘として、戸籍上は。社花子が結婚した際にはそちらに。本当は私が結婚できればよいのだけれど、お見合いは蹴られてしまいましたし。」
夏のフルーツをふんだんに盛り込んで包んだタルトを切り分けていた、凛と伸びた背筋が凍る。
「月ちゃん、弁明なら五分ほど待ったるよ。」
「け、蹴られたってっ、半田さんおっしゃいましたよね!?つまりっ!」
「ええ、私は伊月俊さんにはきっちりと振られておりましてよ。ご安心くださいな、今吉探偵さん。」
なんやトゲあるなぁー、と今吉はタルトを突くが、伊月はちょっと居た堪れない。いつの間にだか事務室と面談室の往復をしてきた花宮が、数枚の書類を半田と澤田に渡した。
「カルテの複写になりなす。父親の近くに長くいたため、と俺は検査を受けさせましたが、今のところ陰性。つまり結核症の発症確率は低い。社さんにも受けて頂きました。勿論陰性。血液型鑑定結果、十中八九清水隆と社花子の娘である、と緑間総合病院、担当野村医師。さて質問はおありですか?」
「お仕事速いわね。流石だわ。」
「まあ、結核症の子供一人くらい、私が面倒見ますけれど。」
さらりと凄い事を述べた半田だが、爆弾発言の多さに、もう気にしたら負けだと伊月は思う。
「あ、さらっと聞き流してしまいましたが、町田ご夫妻の御式は・・・?」
「式は挙げません。私達二人とも仕事人間なの、月乃さんが一番ご存知でしょう?どうして無愛想だったと思います?プロポーズの言葉を考えていたからなんですって。馬鹿よねぇ。」
「私に相談までしていたもの。男のひとって馬鹿よね。」
ここまで言われて強く出れる男はこの事務所にはいなかった。三人とも侘しくタルトをフォークで突き、ころころと笑い合う二人に、一七時の鐘が鳴る頃、やっと報告書と請求書が作成され、小切手で支払いを済ませると、さっくりと出て行った。
清水蝶子が引越しをする、と情報を掴んだ花宮は、数日後にそのちいさな家を訪ねた。引っ越しも済ませてがらんどうになり、元の家主の死因が死因だけに、一度更地にしてしまうそうだ。
人間は結局死ねばそれまでで、丁寧に運ばれた仏壇は女一人が両手で持てるようなそれだった。忘れられたら、そこで終わるのだろう。
「はなみゃおにーちゃん?」
「誰がはなみゃーだ、誰が。」
幼さに発音できないと、理解する頭はあるが納得するこころは生憎持ち合わせていない。血圧が上がりそうになる所を花宮は堪え、振り返れば、あの日から少し髪は伸びたか、服も上等になった気がする、一人の少女が立っていて。
「おとーちゃん、しんじゃったんだって。」
「らしいな。」
子供の相手は慣れていない。特に何も知らずに育つ、普通の子供は。
「やかれて、ほねになって、の、のぼ・・・?」
「喉仏。」
「それ!のどぼとけ、だけ、なっちゃって、うめたの。」
「墓にか?」
「おはかに。もうね、おとーちゃんいないのねって、おかーちゃんがゆったの。おとーちゃん、いないね。」
「何だよ、知ってんじゃねーか。」
ふは、といつものように吐き捨てるように嗤う。嘲笑。誰に向けての嘲りなのか、もう花宮には思い出せない。親代わりであった、時に恋人のようでもあったあの男でも、それが連れる健気な情人でも、その隣に佇む自分でも、あの食えない上司でも、人生でも、青空でも、大雨でも、夕日でも、星空でも、満月にも、もう。
もう、自分でも解らない。花宮は自分を多く持ちすぎる。
霧崎第一大学の優等生花宮真。私立今吉探偵事務所のまこっちゃん。男の体で男を誑かす花宵。女のカタチを真似た眞子。友人たちだけに晒す花たん。数え出せばきりがない。それほどに、もう。
「はなみゃーおにーちゃん、あのね、あたしね、しみずじゃなくなるの。」
「あ?」
「しみずちょーこ。あたしのなまえ。しみずじゃなくなるの。まち・・・?になるの!」
何が言いたい、と目を眇めるも、子供には生憎効果は見えない。スラックスに縋る小さな手を、折るのは容易い。指の一本一本を折って、裂いて、ここで死体にしてやるのも面白い。
「ねえ、おかーちゃんはかわらないって、ゆった!けど、あたしのおなまえ、かわるの!」
ふっはっ。
思わず笑いが堪えきれなくなった。
「名前だけでテメーが変われるなら、やっすいもんだぜ。」
「かわ、るる?や、やすい?おかねいらない?」
やばい、子供の語彙力に思考が踊る。名字が変わるだけで、この少女の存在が変わる訳がない。蝶子、と愛された子供はこれからも蝶子と呼ばれて愛されて、何年も何年もかかって人格は出来ていく。人間というのは簡単に作れるものではないし、同じくらいに消えることも難しい。
「よ。」
やってみたら意外と軽くて驚いた、子供を抱き上げるという行為。脇の下に手を差し入れ、落ちないように手のひらと指先と腕に力を入れて、自分が倒れないように脚から腹から背中から。
「蝶子、大人んなったら、俺の事見つけてみな。いい女になってたら嫁にしてやる。」
「およめさんー!?」
その言葉だけで、舞い上がるような子供に。
「いい女になってたら、だがな。」
抱えた時と同じく地面に下してやれば、もういっかい、とスラックスを引っ張られたが、これ以上は将来に取っとけ、なんてらしくなく笑ってやった。
「じゃーな、蝶子。」
お前は愛されているんだから。
「またね、はなみゃーおにいちゃん!」
俺なんかが、お前の前に存在してはいけない。
真っ青な空は、もうすぐ橙色に染まるだろう。
「あ、お帰り花宮。ちょっとデスクに置いといたから、チェックよろしく!」
「まこっちゃん帰ったん?おお、お帰り。冷や水冷蔵庫にあるから食べやー。」
愛されているのだから。
「ふはっ。こんな誰でも解読できるアナグラム作ってんじゃねーよバカか!晩飯は麻婆豆腐でも食わせろよカネ入ったんだからよ。」

今吉探偵事務所、明日も平常業務の予定。
人形がどちらも一緒なら、一緒にどちらも愛せばいいのです。

初出:2013年7月16日 22:15

別名、まこっちゃん進化編。

***
何が困るって薬品の扱いだったりしてます。
今では毒だって言われてる薬が逆、そのまた逆も然り。
月ちゃんのお勉強方法というか誠凛大学はどうなっているのか。ね、なぞ。(さちんぼいす。

20140109masai