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世界は青いものだと伊月は思っていた。
この男は極々単純な思考経路をしており、自我を持つ頃には姉とは違う事をしたがった。小学校に上がる前に親戚から、女の子みたいに可愛い子、と誉められたことが今でも地味に尾が引いていて、群青色のマフラーに白い息を埋めながら、真冬には珍しい、真っ青な空を見た。 伊月助手と聖なる喪章。 「天皇陛下には、今二五日午前一時二五分、葉山御用邸において崩御あらせられる」。 その一報が駆け巡ったのは早朝とも呼べない、深夜二時四〇分。伊月家を訪ねてきた郵便配達員が持ってきた電報から今吉に呼び出しを食らって、事務所で花宮に聞かされた。 「・・・けっこう、もったほう・・・ですかね。」 観菊会の時既に、気管支炎を悪化させ、意識の混濁も多々あった。思い通りに動かない体を嘆いたのも、伊月は知っていた。今月中旬には御不例も発表されており、葉山御用邸は蜂の巣を突いたような騒ぎであろうな、と熱い珈琲を啜りながら窓の外を今吉が見ていたのが、伊月にはなんだか印象的だった。 まゆずみ色の袷に灰色の袴に黒いトンビを肩に引っ掛けた後姿が、なんだか寒そうだった。 手紙の中身を伊月は知らない。 ただ、今吉の体にある古傷の一番新しいものは八年前だと若い瞳が弾き出した歳月は聞けないまま、無為に日々は過ぎてしまった。 飼い主を待つ窓辺の猫は、飢え死にしそうで何だか怖い。 「翔一さん。」 「なぁに、月ちゃん。」 そんなにも切なそうに、優しく笑わないで、欲しかった。 「あ。」 薄暗い朝に街が俄かにひとの声が掛かるようになってきて、新聞や広告がポストに入ってくる。崩御の報せが行ったのか、高島呉服屋は奉悼の意で休業を選んだ。喪章は一本八銭から。混乱に乗じた詐欺や商売が出回らない事が、なんだかひとびとから愛されたこの国の平穏を安寧を発展を祈って笑んだ彼の方のようで、学校への道行、喪章が胸元に揺れる冬の風すらどこか優しいのに、伊月は静かに静かに、空を見上げた。涙が零れそうだった。 「東京日日新聞見たか?」 節度のある騒がしい教室に駆け込んできた一人が握りしめていた号外は、見事に実渕に掴まされた『特ダネ』を堂々と掲載していて少し笑えた。 崩御から二時間、葉山御用邸御座所では剣璽渡御の儀が行われ、各新聞社では新しい年号はどうなるか、軟派な声も今日は鳴りを潜めて、硬派連中もまんじりと腕を組み、教授の教鞭はその日は振るわれなかった。 「伊月先輩。」 「やあ、黒子。」 図書館に行けば自習を読書に潰している後輩を見つけた。てっきり欠席していると踏んだが、無駄にはならなかったようだ。建築の参考書を返す手続きを黒子に行って貰って、図書館の日当りのいい席に純文学を読む正面に伊月は腰かける。 「どんな最期だったかな。」 ぱち、と瞬きの音がした。伊月は憎らしいほど晴れた青空を見ている。黒子が彼のひとと初めて接見したのも良く晴れた夏の日だったと記憶している。 「静かな、ものでした。」 「だろうな。周りが、・・・特に大臣共が忙しないって親父がゆってた。」 挙句ガセ掴まされてやんの、なんて伊月は苦く笑う。はらはらと黒革の手帳の頁を捲り、暗号に組んだ言葉を胸に蘇らせる。 「改元、どれになる?」 「昭和です。」 「やっぱり。」 光文だとか天文だとか、あちらこちらの新聞社はこぞって号外を出したが、紙代も只では無かろうに、なごみあきらかに、だとは実に、『らしい』。 血腥い事件も災害も戦も、すべて持って、あの世へ行くから。 「伊月先輩、その手帳が僕には読めますか?」 「暗号の訓練、どうしてる?」 そうですね、と暫く思案しただろうか、抜けるように白い肌にはきらきらと耀く、白とも銀色とも付かぬ、強いているなら鮮やかな空の色をした髪と、睫毛は少しだけ色が濃いのだが、このまま空気の濃度を掻き混ぜれば黒子はあっという間に空気の中に蕩けて消えてしまいそうな、薄気味悪いほどの美しく儚い存在にも見えた。 「花宮さんを基準に考えるものではありませんね。」 「あ、じゃあだめかも。」 「駄目ですか。」 「駄目ですね。」 花宮のように意地の悪い暗号の組み方をしてやるか、と伊月は思っているし、かといって簡単に読み解けても困る、自己流の暗号はおそらくは幼馴染には読み解かれてしまうであろうが、今吉をして、上出来と言わしめてある。花宮の程ではないが、常人の域は超えていない。黒子とは二年と半年を同じ体育館の鍛練で共にした思考回路があるのでおそらくは。 「伊月先輩は、いつか悲惨に死んでしまいそうで怖いです。」 前触れの無い言葉を咀嚼するのに、瞬き三つ分要った。ぱたりと栞も挟まれずに閉じられた本の次には独逸語の本が現れた。国外情勢です、と思考を読んだように言われた。僕は海外進出視野ですので、とも。 「伊月先輩は、いつか。・・・思ったんです。あなたは、いつまであの狐の隣に居るのか。良家の長男であるのに身を固めようとせず、慈善事業に心血を注ぐ人生の先に、幸いで穏やかで、静かな死があると、僕には思えません。」 「黒子にまで狐って呼ばれるって半端ないなあのひと。」 「誑かした狐が悪いんですけど。」 「誑かされてて悪ぅございました。」 狐に誑かされた若い男は、涸れた野山に暖かい宿を夢見、肥溜めを温泉と錯覚した。子供に読み聞かせた童話は笑いで終わるが、その若者はその後に体を腐らせて凍えやしなかっただろうか。 カァン、と鐘の音はいつも部活が始まる合図であったが、伊月はあの日を最後に体育館へは一切にして足を運んでいない。 「いってらっしゃい。伊月先輩。」 「うん、行ってくる。ありがとう。」 先に家に帰って葉山御用邸で仲間と待機しているらしい父親に何とか繋げて貰った電話で、元号発表は明日の朝まで待て、と忠告しておいた。号外誤報の責任問題にでも巻き込まれては適わない。教室にいた時間が随分短く部活動にも参加しない、屋内に居れば小春日和と呼んでいい帝都の一等地まで、色々と噂は小耳に挟んだが、その度、ただの噂だから安心しろ、とばかりに喪章が揺れた。 奉悼の真似事なのか本気なのか、今吉は看板を出していなかった。エントランスの罠が発動したことに何故か安堵し、ナイフで一閃、斬り捨てればどこから見ていたのか口笛が聞こえる。 「・・・なんすかこれ。」 事務室側の扉を開けて、目の前に青々と現れた植木に、思わず面談室から回り込んだ。面談室はストーブが入っていて薬缶も湯気を立てているので、茶の問題は無い、と事務室側の若木は鉢が邪魔をして動かなかったのが、ずるずると引きずる音がしたので、床に傷入ったらどうすんですか、と怒鳴りつけた。 「貝塚伊吹や。樅ちゃうんが残念やけど。」 「ごめんなさい、訳わかんない。」 床には既に土や鉢を引き摺った痕が残っていて、伊月は眉間を揉むが、花宮は鮮やかな模様のある布で貝塚伊吹を巻いてしまった。 「あ、クラフトノート全訳上がったぜ。デスクに置いてある。」 「ほんと?」 「今度古橋に会ったらなんか奢っとけよ。無償残業だったかんな。」 「残業させたのお前だろ。」 クラフトノート。初夏に陰間茶屋を中心に起こった元海軍軍人の、己の自己正当化ノートである。数多のひとの殺し方や殺され方が勉強になった事件であったので、警察に保管された証拠品は同時に花宮の手の下で古橋が翻訳したという。死んだ魚のような眼が更に死んでいた、とは花宮の言。 「で、伊月、珈琲はよ。」 「待って、手洗ってくる!翔一さん、御茶請けあります?」 「宝生の嬢ちゃんと会わんかった?」 「えっ、宝生さん来たんです!?」 「福浦も来た。この端布に模様画いたそーだぞ。」 きゅ、と貝塚伊吹の枝葉に可愛らしく括りつけられていく様子は何だか華やかだ。同じ絹でさるぼぼも作ってあった。飛騨の厄除けや子宝の守りである。猿と掛けて厄が去る、家庭円満の呪いもある。色とりどりに作られると案外に可愛いものである。見慣れたと言う程でもないが、見た事のある袋に、作り過ぎました、貰って下さい、と便箋が入ってあった。 「仙人掌茶屋の菓子パンです?」 「たぶんな。袋ごと水屋に入れてある。」 こんにちは、失礼します、と声が掛かって、今吉がエントランスに出れば郵便だったらしい、封書が幾つか、見慣れた同業者や常連客からの手紙と一緒に、穏やかな色の封蝋は英語と仏蘭西語と瑞西語で日本を示し、漢字で今吉探偵事務所御中とあった。開けてみれば鮮やかなカードが滑り落ちた。 「Mizutani・・・?水谷の本家の坊主か!」 「うっそぉ!!水谷ですかってあ、康利君から手紙来てたの返事してない!」 しっかりしろよ慈善施設長、と花宮が新たにさるぼぼを飾って、声に出して読んでやっと、誰からの便りか理解できたとでもいう風に今吉が手を叩けば、伊月が小走りに走り寄ってきて、何だかカードに厚みがあるのに伊月は首を傾げた。 《Mary Christmas!and happy new year!》 「向こうの国やと新年よりキリストさんなんやなぁ。」 「この国も似たようなもんだがな。」 クリスマスの風習が日本に簡単に根付いたのは、日本太古からの木々に精霊が宿る思想があったからだ。アニミズムに寄り、八百万の神の中に西洋の神が一柱混じっても気にしないとは、なんと寛容な国だろう。 薄汚れた人形はどこで手に入れたのかは知らないが、髪の毛を模してある毛糸で首を括るようにして吊った花宮に、さすがにちょっと、と伊月が取り上げ、髪の毛を解して鞄から出した針と糸で背中に引っ掛けるようにしてやれば、その手があったか、と花宮が手を打ったのに、こいつは時々本気でばかなんじゃなかろうか、と伊月は若干心配になった。 きろん、ころん、と小さく金属の弾かれるような音に、二人して弾かれたように今吉を見ると、カードの裏に《PUSH!》と悪戯気に書き込まれた文字を見つけた。 「え、オルゴールですかこれ。」 「すげぇな。」 ききん、きこん、ころん、きろん、と中途半端に聞き慣れないメロディは静かにゆったりと収まって、今吉が封筒を元に戻してしまえばその音の残響すら残らない。 「月ちゃん、Asylは?」 「ああ、クリスマスですか?ノエルおじいさんは呼べませんでしたけど、ケーキは、って紫原には頼んであったんですよね。大丈夫かな。」 「紫原クンなら大丈夫やろ。」 「いやいや、結構騒がしいですよ、街中。喪章売りや新聞の号外に混じってここぞとばかりの細見とか。」 「ほんま?ちょっと見てくる。」 「行かせると思います?」 しっかり旦那が尻に引かれている様子に花宮が口元を手の甲に隠して噴いた。 「もう一度くらい、お会いしたかったな。」 「月ちゃん、職権乱用はあかん。」 「解ってますー。」 インバネスに喪章は引っ掛けたまま、衣架にある。公爵の印も大事に部屋にある。鉛の棺に大喪儀まで保管され今は宮城であろうが、宮内庁の決定待ちだろう。参列はするだろうか。ひとたろうと、ひとであることを、ひととしてうまれたことを全うした彼のひとは、どんな死に顔であったのか。安らかく逝けたであろうか。 「あ。伊月。」 ぽかんと花宮が思案顔の伊月に向かって口を開いた。 「うん?花宮どうした?」 「礼ゆってた。」 「仰ってた、でしょ不敬。」 「いや、ゆってた。伊月候じゃなくって、伊月に。」 言葉は選ばず、真っ直ぐなまなざしに伊月が息を呑む。花宮はいつものように口角が下がったまま、目元も眠そうに眇められたままだ。ある意味誰からとか聞かんで特定する月ちゃんも不敬やなぁ、と今吉は考えた。 「そっか。」 「よかったなぁ。」 「翔一さん、・・・。」 「うん?」 手紙は読んだだろうか、読んで、何を思っただろうか。古傷が痛む事は無いだろうか。癒して、やれるだろうか。癒しの手を拒みそうな男ではありそうであるが、と伊月は考える。今吉は与えられるままの男で無い。特に伊月に施されることを躊躇する節がある。 貝塚伊吹には香港で買った膏薬の蓋がメダル型にぶら下がった。西洋ではクリスマスオーナメントはその年の観光土産を飾ったりもするという。年の初めで無く、神が生まれた日に一年の区切りを置くのだと。 うん、と伊月は首を振る。 「あのね、翔一さんも花宮も、今夜Asyl来るかなって。」 「ケーキあんだろ。昨日まで働き通しだった連中も連れてってやっていいか。」 「それはその辺の居酒屋のほうが良くないか。」 「よし、成年組は伊月候の奢りで居酒屋!」 「こらぁ!」 「まこっちゃん、それワシどっち?」 「働いてから言え下さい。」 年の瀬の、日の光が暖かい冬の日だった。 彼らの思い出が一つ死んだ日。また新たに思い出を刻む日。明日には違う日が来るのだと、恐怖と共に期待の入り混じる今日を、伊月は大事に珈琲を紅茶を注ぐ。 「さて、床引き摺らないで、上ぶつけないで運べますかそれ。」 「三人でやればなんとかなるやろ。」 「伊月そっち持てー。」 「あーはいはいっ!」 今日の世界は、木に彩られた飾りで何だかカラフルだ、と伊月はふと思う。 今吉探偵事務所、今日明日クリスマスツリーが出没。 皆さま、是非良いお年をお迎えください。 |
初出:2013年12月24日 22:52
二回目の年末の話。
いつも本当に閲覧や評価、ブクマに励みを頂いております。また来年もよろしくお願いします。白い猫は時間見つけてぽちぽち打っています。
因みにこのお話は割と史実に基づいて描かせて頂きました。政治思考も左右派も関係なく、この国に産まれた幸いを込めて。
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大正天皇崩御のお話でした。
めっちゃ勉強したんですけどほぼ反映されてないですね、これ。
20140109masai