結構慣れてるんだ、とはどちらの行為を指しての言葉だったのだろう。
ゆるゆると呼吸を逃して、シーツにくたりと無防備に四肢を投げ出し、白い肌にブランケットを投げてやれば、そのままくるんと猫のように丸くなって、淡いグリーンのブランケットが、この間の春に先輩から教わり見せられた蓬餅のようだった。
「氷室、そこ正座。」
「コーヒー要らない?」
「俺は残念ながら紅茶派だ。」
「セイザ、苦手なんだけど。」
その艶目かしい美貌に微苦笑を揺蕩え、氷室は言われた通りにフローリングに坐した。ものの二秒でその長い脚は持て余されたが。優しい笑顔から反転したように、夜中の彼はまさに熱に侵された獣だった。
「怪我は無かった?」
「シュンのお陰で。」
「あっそ。」
気怠げに起き上がった伊月は、その端正な鼻梁に翳りを落とし、嘲るように笑う。少しの疲れが見えるのは、一晩中を夜の獣に貪られたからで、奇妙な色香をその麗しい黒髪から編まれるように部屋の空気が薫る。
「服、は。」
「シャツは血がついてたから、洗って置いた。乾燥機にいれたから。制服はそこにハンガーで。ちょっとくらいの皺は許してくれよ?」
誠凛の男子制服は案外に柔らかい素材で作られているので、皺にも汚れにも強い。伊月としてはフローリングに放りっぱなしのブレザーのほうが心配だ。
「それにしても、なかなか喧嘩に慣れてるね。」
「水貰う。」
ブランケットを肩に、そのまま伊月は粗野な仕草で冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのキャップを指先で弾き、乱暴に足で蹴り閉めた。
「壊さないでくれよ?週間とはいえ賃貸なんだ。」
「お前みたいのに、俺なら部屋貸さないね。」
壁薄いの気付いてねーの、と釣り上げられた口の端に、こくりと氷室は喉を上下させる。昨夜から今朝にかけてのあの悲鳴に似た嗚咽に似た声は、演技だったとでも。
「怪我の手当と嘯いて、男連れ込んでヤり放題とか?神経疑うし。」
ぱらっ、とフローリングにブランケットが広がって、昨夜から今朝にかけて散々愛したその白い肌にはちゃくちゃくと衣服を絡め、勝手に水場の扉を開けると、生乾きのシャツに眉を寄せた。タイマー音まで待てなかったらしいが、そこは氷室の落ち度でない。
「今日は何か用事でも?」
「正座ってゆったよね。朝飯になりそうなのはー、と。インスタントで我慢してやるよ。」
スイッチを一つで湯を沸かし、カトラリーは二人分。湯が沸くまでの一分間に、スラックスに足を通して、学ランの胸元を軽く弾けば昨日の名残の砂埃が掃除されたフローリングに落ちる。袖だけ通して、ぱちんとスイッチの跳ね上がったポットから片手鍋に湯を移して乾燥麺を放り込む。ラーメン鉢にそれぞれスープを流し込み、硬めの解れたばかりの麺を適当に二分して用意する。
「食べるだろ。」
「普通、こういう朝は二人で長閑にコーヒーでも愉しもうと思うのだけれど?ほら、How do you measure, measure a year?In
daylights, in sunsets, in midnights In cups of coffee In inches, in miles…ってね。」
「帰国子女いい加減にしやがれ。」
麺硬くないかい、俺は猫舌だからこんくらいが丁度いいんだ。そんな中身の無い遣り取りをして、ご馳走様でした、と伊月が手を合わせてちいさく頭も下げるので、綺麗な子だなぁ、なんて頭の中にジョナサン・ローランを聴きながら氷室は思った。痺れた足には感覚が無い。
「あし、解いていいかな。」
「痺れ切れた?」
ははっ、と軽やかにしかし馬鹿にするように笑った伊月の、爪先が悪戯にその脚を蹴った。うあ、とそのまま氷室がフローリングに崩れた様子が随分と楽しそうだ。小悪魔と評すには些か悪さが過ぎる。
「あれ、腕章どこ行った。」
カトラリーをシンクに置いた伊月がポケットを探るが、白地に水色のラインと明朝体で《風紀》と凛々しく綴られるそれがない。
「探し物は、これ?」
「返せよ、とっとと。」
「指導されるかな?陽泉は自由度が高くてね。」
「そうだな、氷室の場合は誠凛では髪型から既に指導対象だから。前髪は目の邪魔にならない長さ、若しくは位置で纏める。」
「あとは。」
ひゅおと風を切った音に、氷室の垂れ目勝ちの眼窩が見開かれ、ぎらりと劍を孕んだ。にこり、口元だけで大変に美しく笑う伊月の冷涼な切れ長の眼には戦慄の容易な煌めきがある。
ナイフではない。落ち着け。ただの箸の、一本の、先端。
反射的に腕が伸び、その手首を黒い袖の中に骨を軋ませる。眼光は怯まず、しかし引き倒される力には敵わなかった。
「銃刀法っての、日本にはあるんだなぁ。」
ぱきん、とその木製の箸は伊月の手の中でただの木片と化し、欠片はフローリングにころころと転がった。強く掴まれた手首と、反対側の手にある腕章と、さて大事なのはどちらか、伊月が身を捩れば、すまない、と慌てて氷室が体を起こす。
「どこか打った?」
「背中と腰。腕章返せ。」
「そんなに大事?」
「命の次に。」
「いのち・・・。」
それは些か極端であろう、と氷室は思い、くしゃとその腕章を手の中に握り締めると、安全ピンの針が擦れる音がした。
「それがあったら、合法的にあいつらを護れるだろう?」
黒曜石色の瞳を揺する事なく、に、っと強く笑う頬に、腕章の布地を寄せれば愛おしそうに擦り寄る。かし、と白い歯が白い生地を噛み、そのまま氷室の手から抜き取る。
「退いて。」
「シュン。」
「退け、氷室。」
「ねえ、聞いて。」
「るっせぇな。」
地を這うような低い声が耳元に甘く、氷室は本能の命令に従って、今朝までどろどろに溶かして抉って啼かせた痩躯を掻き抱く。
「・・・っ。」
「その、無事な眼まで、抉られたい?」
猟奇を囁く声音、鋭く燦めく安全ピンの切っ先、直後に鳩尾に衝撃。脚は未だ痺れたまま、フローリングに藻掻いた氷室の身体を見下した伊月はずるずると起き上がって、ふぅ、と嘲笑った。
「演技、下手。」
フローリングに蹲って嘔吐き、痙攣した身体はその冷ややかな声を合図のように、ゆっくりと起き上がった。
「足が痺れただけさ。」
そこだけは嘘では無いらしい、どかりと胡座を掻いて、はっ、と氷室の吐息にも嘲りは含まれた。
「なんか困ったら誠凛風紀の俺の名前出しな。そうすりゃ易い不良なら引いてくから。」
「魔法の呪文のようだ。」
「それ、褒めてないね。」
「ああ、魔法使いなんて存在しないから。」
「氷室、お前最高。」
それはどうも、と氷室は笑ってやって、ああもう生乾き気持ちわりーけど感謝、と伊月が部屋を出て行ったのを見送った。
君が彼等を護ると言うなら。
俺の背中を預けて良いよ。
20141009masai