世間は俄かに騒がしくなった。
社会主義運動と積極的外交に、政府の転換が示されてきたからだ。伊月は花宮に渡された書面を見て愕然とした。
「来年にはそれ、可決させっから。」
治安維持法の改正がそこに、国家による合法的殺人が、なされるという。












今吉探偵と伊月助手と夜闇に光る眼。前篇。












ひゅ、と呼吸の音を聞いたまま、右手が伸びるのは反射だった。その反射を抑え込む一呼吸を岩村は見逃さず、襟を完全にとられたが、その強靭な腕を軸に、伊月は助走も溜めも作らず床を蹴り、右足がしなやかに伸び上がって、防がれてしまったが頚を狙い、その開いた脇腹に左足を蹴り込んだ。肋骨の隙間から内臓に来た振動に岩村は眉を寄せ、伊月はその一瞬に襟を奪い返して岩村の肩から飛び降り、今度こそ襟を取っての一本。
「殺し合う気かあの二人・・・。」
年嵩の塾生は最近通ってきていない相田道場は子供の姿もあったが、伊月と岩村と同世代であろう塾生が身を震わせた。
「伊月くん、岩村さん、そこまでー。」
ぴぴっ、とホイッスルが吠えて、伊月は条件反射のように緩やかにその鉤爪の動きを止めた。この程度じゃ岩村の壁は崩せない。
「も、パパ!見てないで止めて!怪我しちゃう!」
「いやー、すっかり元通りだな、サラ男君。岩村もお疲れさん。」
怪我に療養していた伊月の復帰は相田父娘待望ではあったが、すっかり元通りの動きを魅せるようになった今では、安全対策にどこまで慌てさせられるか、と伊月は世話を掛けている。
「もう及第点だぞ、サラ男よ。」
「ですかね?岩村さんの鉄壁を崩せないんですが。」
「それでいいんだって。崩されちゃ俺も堪ったもんじゃない。」
そんな岩村と学生時代、対等に渡り合ったのは春日であると言うからまた怖い。伊月の中でこの二人は本気にさせてはいけないひとという認識である。壁際で汗を拭い、小春日和に笑い合いながらも腹に一物。この関係は年齢の多少の誤差はあれど、随分と楽しい、と伊月は思う。
「少し腕と背中貸せ、サラ男。」
「はい?」
「うん、少し猫背の気味ね。」
ごっきん、と骨の位置や筋肉の歪みを直され、いってぇ!と伊月は叫ぶ羽目になった。
「なになに、兄貴どうしたの?」
「ちょっとパパの整体受けて貰ったのー。」
「うわ、あれ下手な怪我より痛いよねー。」
うぐぐと唸った伊月の隣で岩村は先ほど伊月に狙われた脇腹を診てもらってあり、反対側から内臓の位置を正されて、蹲って呻いた。
「あー、でもなんかすっきりした!ありがとうございます、景虎さん。」
「おーお、どうしたーサラ男にしちゃ姿勢が悪い。」
それは正月からこちらずっと書類と向き合っていたこともあり、やっと学生に解放された誠凛大学研究室にも原因はあると、伊月は語る。
「冬期休暇は書類整頓に追われてまして、休暇が明けてからは研究室に入り浸っちゃてるからですね。肩凝り酷いんすよ、最近。うわ。すっげ軽くなったー!」
快哉を叫んだ伊月に相田は頭を抱えたが、元気そうな様子に安堵っと息を吐く。秋に怪我をした折の情報は近所で話題になっており、母親から、伊月さんちの俊くん怪我して入院ですって、と聞いて、翌朝日向から事情を説明されて、思わずハリセンではなく平手でぶん殴った。
「こんにちはーっと、伊月。」
「や、ひゅーが。相手してよ。」
末路は伸されるだけのくせ、日向は好戦的に指先で招かれ、素直に挑発に乗った。絶対に伊月の背中に回り込まない戦略に苛々するが、まあ仕方がない。合気の要領で懐に入った伊月に、眼鏡を外し対峙した日向は顎を叩かれるのを見事に避けたが、鳩尾に一発食らって崩れた。
「伊月、なんかあったか?」
岩村が心配そうに尋ねて来るのに、水を飲みながら伊月は、少し、と躊躇った。養護施設運営に関して、金融関係を様々な華族の家々や融資者に聞くに、どうやら大銀行の動きが奇妙なのである。中小銀行の度重なる倒産で、詫び状が伊月の元にも多く届いてあった。
「あとは共産党か?」
「流石ですね、景虎さん。」
書類整頓の合間、伊月は今吉探偵事務所がどことどのような関わりを持つのか、年始の故ヨアヒム翁の一件から、調べた。その中には長く長く付き合いのある家、即ち相田家の存在を見つけた。汚れた関係では、伊月の調査結果無いので、時折はこういった情報の整頓活用にさせてもらった。
大きな世界のうねりは完全に近い距離にある。誰かが失言すれば一発であろう。その先を見越しての霧崎第一大学の草案、と伊月は先を見る。
「半田家が新しく開拓しようって台湾方面があるんだけど、もう少し考えるべきだったか・・・。」
「春日に頼むか?英吉利にパイプがあるぞ、あの家は。」
「それ最終手段にしようと思ってたんですけど、そうですね、岩村さんから根回し頂けると幸いです。」
よろしくお願いします、と伊月は深々と頭を下げる。その隣で日向はまだ復活できていない。珍しく相田家の女中が道場に居る息女に耳打ちすると、伊月くん、と。
「Asylからお電話ですって。」
「あっ、もうそんな時間!?俺失礼します!舞、迷惑かけんな!」
きっちりと道場と道場主に腰を折って挨拶すると、着替える時間も無く伊月は相田道場を出て、人通りの少ない街道は汗が冷えて寒かった。
Asylの両開きになっている玄関が閉ざされているのは単純に寒いからで、ただいま、と声を掛けると、そこには眼鏡を掛けた長身が立っていた。
「お、緑間、ありがとな!忙しいのに。」
「いいえ、伊月さんこそ・・・道着で?」
「今から着替えて消毒して、っと。針は人数分在るね?」
「ええ、そうご注文でしたから。全く、これくらい俺の家に言っていただければすぐだったのだよ・・・。」
「ちゃんと医療費払えるようになったら、お願いするよ。」
大きな黒い鞄に入っているのは注射器とその交換の針、そして予防接種の薬だ。一括でその場で支払い、金額を確認すると封筒に仕舞わせる。
「皆は?」
「高尾が遊んでしまっているのだよ。」
「それは助かる。緑間もいっといで。相棒の仕事、気になるだろ?」
少ない資材でも遊び道具が作れる、安く面白いものが手に入る、それを高尾はここで見つけることが出来たらしく、時折蚤市などに屋台主に頼み込んで売って貰っている。
伊月は緑間に手を振ってやると、そのまま職員室に入って、間宮と百園に挨拶し、着替えのために仮眠室に入れば、一人の男性職員が寝入っており、伊月の入室に起きた。元がルンペンだったので他人の気配に敏感なのだという。
「あ、所長、こんにちは・・・。」
「こんにちは、ノリさん。今日はお休みでしょう、のんびり寝ててくださいね。」
「ああ、のんびりごろ寝させてもらいまっさぁ。」
「ちょっとそれから騒がしくしますけどね・・・。」
鉄紺のスリーピースに背広は着ないで、伊月が羽織ったのは白衣だ。職員室には軽い消毒機材はあって、隣は救護室と言う名の空き部屋だ。
「っしゃ、ちゃっちゃと始めちゃいます、予防接種!」
緑間から受け取った鞄の中身を広げ、点滴台に薬を吊るして注射器を動かす。
「準備出来てます?」
「あ、間宮さん。実験台頼んでいいです?」
「実験台だなんて言い方が悪いわ、俊兄さん。一番乗りね。」
楽しそうに笑ったみんなのお母さんは、伊月の座る椅子の前に腕を出して座る。肘の内側、静脈に薬を入れて、消毒液を含ませたガーゼを当てる。
「今夜は風呂は止めておいてください。感染症が出ることがあります。」
「はい、了解しました。」
一番乗り貰っちゃった、と笑った間宮に、まーさんかーさんずるいっ、と百園が笑えば、何か楽しい事でもしているのか、と子供が集まる。ついでに高尾と緑間も。
「おー、伊月さんまじ先生みてぇー!」
「実習断っちゃってさ、緑間の御父上には指導感謝しなきゃな。」
「伝えておきます。」
実に手際よく静脈を捉えて、子供の細腕に力加減を細心の注意で針を入れるが、一瞬の早業に百園が感嘆した。
「すごい、俊兄さん今まで見て来たどのお医者さまより速い。」
「しゅんにいおいしゃさん?」
「お医者さんではないなぁ。」
正確に肩書を持つなら、医者よりも研究者だろうと伊月は思い、名簿に印を付けて、あとは職員連中、と頷くと、先ほどまでちいさな子供の腕の高さ調整を手伝ってくれた高尾があざとく見上げて来てあった。
「お前ら、宮地さんの予防接種受けてるだろ。」
「あっは☆ばれました!」
「宮地さんから聞いて予防接種思い出したんだもん、俺。じゃあ、緑間、また来年も頼むな。」
吊ってある袋に液漏れは無いか空気は入っていないか厳重に注意しながら、伊月は鞄を仕舞い込む。白衣を脱ぐと背広を羽織り、凛と背が伸びればいつもの彼だ。
「ここの医者雇う金が出来るまでは俺の仕事だな。」
「いえ、伊月さんがやるのが一番いいと思うのだよ。」
「そう?」
手捌きは速く、そして何より子供は泣かなかった。痛みはあるだろうが、伊月の手が安心するのだろう、子供達がどれだけこの兄を慕っているのか、だからこその速度と手際と注射に泣かない子供だ。
「月さんーお客さまですー!」
百園が、月さん、と呼ぶのはこの養護施設の仕事関係で無い呼び出しだ。つまり、半田鳥子は今吉探偵事務所の所長助手を訪ねてきたのだと。
最近はモダンな服装で出歩くことの多くなった半田は、玄関脇の洋風調度の来客室で紅茶を飲んでおり、因みにこちらでは紅茶が多いのは伊月の趣味で、茶請けの菓子は子供と一緒に作ったビスケットであるのが多い。
「半田さん、お会いするのは随分と御無沙汰しています。」
伊月は改めて姿勢を正すと、英吉利との交易の不渡りを詫びた。私の手腕にも不安はありました、と彼女はにっこりと笑ってくれて、キャロルと蝶子が、おやかたさま、と駆け寄ったのを百園が迎えに来た。
「あ、そういえば縁談が纏まられたとか、お祝い申し上げます。」
「ありがとう。湯浅の方ですから暫くは一家路頭に迷わせずに済みそうよ。」
頼みがあるのですけれど、と半田は膝の上に手を組んだ。
「眼に関して、御詳しいのよね?」
「はい。」
「眼が、暗闇で青く光る、というのは。」
「・・・場所を変えましょう。」
伊月は、行って来ます、と声を掛け、半田を伴って帝都の一等地、私立今吉探偵事務所に足を運んだ。
「翔一さん、俺の紹介でお仕事ですけどいいです?」
やっと書類の整理整頓が済んだ面談室は、薬缶の中身が随分減っていたので伊月は窘め、半田に着座を勧めて事務室に入った。ひらひらと手を振った花宮が完全にデスクに突っ伏しており、薬缶の湯を珈琲や紅茶に使うと水を足し、面談室に戻った。
「半田さん、どうも御無沙汰しとります。」
「ええ、こちらこそ。」
大人の挨拶の長い事、と伊月はアップルパイを切り分け、匂いに釣られたのか花宮が来た。
「えっと、まず、暗闇で眼が光る、とのことですが。・・・人間ですか?」
「・・・夫の使用人の子供、です。」
「湯浅やったか?」
「使用人は極普通の、平民です。」
さらりと手帳の中に情報整頓し、花宮がアップルパイを食べながら依頼報告書を作成していくのを、行儀が悪い、と伊月が窘める。今吉はふむふむと頷き、時折視線を伊月にやる。この依頼は今吉探偵事務所で無く、伊月個人への相談事であったのではなかろうか。
「子供・・・年齢は?」
「中学生、一年生です。」
ここからだ、と黒曜石色の瞳が煌めいた。半田の態度を見るに、ただの相談で無い。今吉のいる場所で、花宮の手を借りることが出来る場所で聞くのが相応しいと、思った事はここにある。半田の怯え方が尋常でない。
「その子がいると、部屋が荒れるんです。」
「部屋、が?」
「テーブルの位置、カーテンの開閉、扉が勝手に開いたり、文箱が落ちたり・・・。この間はそう・・・チェストが。」
「勝手に・・・。」
からん、と花宮はフォークを置いた。食べ終わったからなのか話が気になったのか、どちらであろうか。
「勝手に、動くんです、その子がいると。些細なことばかりなので放っておいたと親も主人も言うのです。でも、この間・・・。」
「脚、やられたか。」
話す内に顔を伏せて行った半田は、花宮の声に顔を上げた。伊月も気付いてあった違和感は、モダンなドレスであるのに足元がまるで飾り気のない、寧ろ野暮ったいほどの革靴である事。
「チェストが倒れた折り・・・その子供と一緒に、下敷きに・・・。」
「その子供は今は?」
「松葉杖での生活で、学校は休ませました・・・。」
「ここに、その子供の名前、生年月日、所属学校名、血液型、解るもん全部書いてくれ。性格は内向型か?」
完全に花宮に渡った話に、半田は頷き、島村力、と記したそこに言われたとおり、半田家の情報網を駆使したそれらを記した。
「内向的、といえばそうです。趣味が合えば明るくなるのですけれど、普段は・・・そう。」
そうだわ、と思い出したように、備考、と彼女は記す。
「学校では苛められるから、と言っていたわ。趣味は読書なものだから、なんていうのかしら。」
「まあ、中学生ってそうですよね、自分より弱そうな人間を見つけては縄張り争い、みたいな。俺も覚えがありますよ。」
「ええ、それで学校には行きたくない、と言って。」
そうね、私もあったわ、と自分の学生時代を思い出したのか、半田は微苦笑し、万年筆を置いた。
「趣味っての、何だかご存知ですか?」
「ええ、なんというの?SF?宇宙だとか、近未来だとか、そんなおとぎ話が好きね。」
「そら恰好の獲物だ事。」
ふはりと吐き棄て嗤った花宮の脇腹を、伊月は肘で打つも、綺麗に衝撃を逃した蛇のような男は、受け取った島村少年の情報を眺める。
「月ちゃん、その子と一遍お話しておいで。」
「島村力君、ですね。半田さん、お願いできますか?」
「あ、はい。えっと、日は・・・。」
「御主人と相談なさって、いつでもいいです。俺の名刺使っていいんで、場所は、翔一さん?」
「まこっちゃん、どないや。」
「ここの二階。」
「申し訳ありませんが、またこちらの事務所に御足労頂いても?」
今吉と花宮の一を聞いて百を知る如くの会話を伊月は完全理解出来た訳では無いが、お客様に相応しい言葉で苦笑気味に説明する羽目になる。
「はい、解りました。」
本当に助かります、と半田は頭を下げ、電話をお借りしても、と今吉に使用許可を求め、夫に相談したようだ。伊月の名前に渋っていた声は聞こえなくなった。
「明後日、いいかしら。」
「明後日か。ほなお待ちしとります。」
エントランスまで送りに出た今吉に深々と頭を下げ、伊月にエスコートされる形で路面電車に彼女は乗せられる。
「おい医学部生。」
「はいはい。半田さん、暗闇で眼が光る、と仰ってましたよね?」
花宮は次の駅で降りる予定らしい、伊月に説明を促した。
「青底翳だと思います。」
「あおそこひ・・・嘘、まだ中学生よ!?」
「緑内障とも言うんですが、実は原因ははっきりしていません。疲れ目、視界の霞、眼が痛い、充血する、吐き気や頭痛辺りが自覚症状ですね。」
「疲れ目なんて、そんなの、私だってあるわ。」
「眼圧という眼球液、眼球の中に液体が入っているんですが、その液圧に異常が起こると青底翳になるとも言われます。原因は不明です。先天性である場合もあります。」
落ち着いてください、と座席にいる彼女を宥めた伊月は、花宮が頷いたのに頷き返す。
「他の奇妙な現象については、こいつの分野です。」
「花宮さん、の?」
「ああ。粗方の見当はあっけどな、まだフォーカスがはっきりしねぇ。まあ三徹位やってやるよ。常連の好だ。」
「あら、すいません・・・。」
謝らなくっていいんですよ、そうそう依頼料さえあれば、ばかはなみや!と口論を聞きながら、ふっ、と小さく噴き出すと、あっ、と伊月が貌を真っ赤にして俯いた。赤襟が微笑ましそうに見ており、そんじゃな、と降りる花宮に、またな、と手を振ってやって、路面電車を降りると半田家から馬車が来た。
「脚、大事になさって下さいね。」
「ええ、ありがとう。」
馬車が走り去り、伊月は一度Asylに帰ると子供たちに異変が無く、寧ろ元気に遊んでいる様子に、予防接種した夜くらいは大人しく寝なさいよ、と額を抑えて日誌をチェック。
「俊兄さん、半田さまどうなさったの?」
「んー、守秘義務ってことでー。」
「はいはい。紅茶いります?」
「昌美さんの紅茶欲しいです!」
「あら光栄。」
帰ってからまだ仕事が残っている、と早めの本家への帰宅で、夕飯の呼び声までは教科書に在った緑内障の症状や原因、検査や治療方法を熟読した。最近伊月保也という義兄が新しく家族の入った伊月家は、夕飯時が少し楽しみになった。尤も、食卓では静かに、の家訓があるので賑やかしくなるのは食後の茶の時間だ。
「あら、湯浅さまから結婚のお知らせだわ。」
「ああ、半田さんだ?」
「俊知ってんの。」
「今日直接Asylに訪ねて下さって。」
「有志で融資して下さったものね!」
「「「それイタダキ!!」」」
「出席なさるんですか、義父さん。」
「保也君、綾、代わりに行ってきてくれないか。」
「社交界の作法なんて教えてくれてないじゃないの、母さん。」
「あら綾ちゃん、そんな情けない娘に育てた覚えは無くってよ。俊は?」
「ごめん、社交界とかぶっちゃけ参加してる暇無い。」
言いながらこの家の中で最も人脈が広いのはまことの長男である伊月俊だ。保也に全てを任せるつもりであるが、時折羨望を向けてくるのはどうにかしてほしい。
「あ、青底翳についてちょっと調べてんだけど。」
「おい医学部。」
「だって罹った事ないから・・・俯瞰は出来ても視野を狭めることは無理。」
視神経、脳科学の勉強は出来ても実地はまだまだ。喫煙習慣やアルコール摂取、カフェイン摂取が原因とも言われるが、根源的原因ではないと伊月は考え、曾祖父が遺したノートには青底翳患者の寿命と死亡率比較があった。別段にして青底翳は短命の原因ではないらしい。しかしカフェイン摂取後は眼圧が僅かに上がる事はサンイチサンサン部隊が人体実験に於いて調べてあって、と情報は伊月の頭の中で錯綜している。
「とりあえず眼圧検査かな。」
「保也義兄さんありがとうございます。ついでに社交界行ってきてください。」
「俊君んん!?」
「半田鳥子さんへのお祝いは今吉探偵事務所名義で送るから、湯浅は俺はあんまり関わりないんで。」
「三井の子会社じゃないか・・・。」
「湯浅電池への個人パイプは欲しいですねぇ。」
「おいおい。」
だって電池や電機会社はもっと発展してくれないと困ります、と案外にして電力会社には噛んでいない財閥にも思うところはある。
リン、と電話機の音に母親が立ち上がり、廊下に出た。いつもお世話になっております、と姿も見えないのにお辞儀したかと思えば、俊に声が掛かった。
「今吉さん。」
「ありがとう。」
「・・・ほんと浮いた話のひとつないね、兄貴。」
「うるさいよ。」
浮いた話が聞きたいなら今吉に直接聞けばいい。
「どうもこんばんは、お電話代わりました。」
『おお月ちゃん、Asyl電話したら、帰ったゆわれてな。』
「そりゃ帰りますよ。教科書こっちですもん。」
『心理学の本はあるか?』
心理学、と伊月は首を傾げる羽目になるが。
「フロイトやユング辺りなら。」
『ほな宿題。マックス・デソワール。』
「で、でそわる・・・独逸人・・・?」
『英吉利に専門家未満はおんねんけど、まあ、その道具はまこっちゃんが持っとる。何が出ても驚かん覚悟で明日は事務所来て。』
「驚くとは思いますけど驚く準備が出来ました。ありがとうございます。」
ほなおやすみ、と優しく囁かれて、戦慄っと体温が上がる。おやすみなさい、と意趣返しのように甘く声を作ってやった。
「俊、耳真っ赤。」
綾の指摘に、慌てて、調べもの出来たので一足先に部屋戻る、と自室に上がった。父、俊、保也、の順で風呂に入る暗黙の了解で、父親が風呂が空いたと教えてくれたのに、風呂の静かな空間で少し頭の中を整頓する。
マックス・デソワールとは神秘思想結社に所属する独逸の心理学者である。超心理学の研究者の一人、と心理学の本に記されてあった。論文は図書館で読めるだろうか、今吉の所のほうが早い気がする。哲学博士号を持ち、心理学の教授職にある。
「いや待て。」
国家社会主義独逸労働者党は指導者ヒトラーが釈放、幹部も帰国している筈だ。
「え、待て待て待て?」
宮地はそんな独逸に近いうちに留学すると言っていなかったか。英吉利との外交失敗、欧州の騒動は今も止まない。学校では国外情勢を口にしない者が増えた。不安を隠すように夜に騒ぐ連中もある。
「これ、やばく、ないか・・・。」
ぽたん、と背中に落ちた水滴に、ぎゃぁ、と思わず悲鳴を上げて、どうしたの、と母の声が聞こえたがそんな気分で無く。
一度肩まで浸かって体を暖めたが、十数えると、ざばりと湯船から立ち上がり、必死に教科書を読み込む作業に没頭した。
マックス・デソワールの論文は、結果から言えば今吉の探偵事務所の二階で読めた。超心理学に関する論文は和訳されておらず、読破に丸一日かかった。本棚の上に何を置いているのか、脚立や、またトランプでもかるたでも無いカードを花宮が持ち込み、統計学や半田家の女中、湯浅家の使用人、島村にも聞いてきたらしい話を纏めていた。
「島村力、十二歳。伊月。」
「なに。」
「全力で慣れ和え。」
「はっ!?」
「な!れ!あ!え!!」
「ちょっとまって花宮説明!」
ち、と舌打ちした安定の花宮に、ゴツ、っと辞書の角が降った。
「すまん、すっぽ抜けたわ。」
「伊月てめぇ。」
「いやいや、今の翔一さん!」
「いんや?案外お前の仕業かもよ?」
にんまりと悪意で作った笑顔で覗き込まれ、びくりと伊月は肩を跳ねた。
「大数の法則・・・。」
「それがお前の逃げ道か?」
花宮は実に楽しそうに笑い、読ませた論文を弾く。今吉は落下した辞書を広い、覆いを被せると本棚に戻した。作業台にあるメスを綿に包んで、硝子製の機器は新聞紙に包んで木箱に収める。
「超心理学に関する論文は覚えたな?」
「ら、ラインがまだ・・・!」
それでも辞書で単語単語を調べながら読んでいたのである程度頭に入っている筈だ、と今吉はほくそ笑みながら、壁際に畳んであったテーブルセットを持ってくる。ベッドとチェアは二つ。一応整頓したとして、ここまでの広さしか無いのは本が多すぎるからだ。この建物が崩れるとしたら本の重さではないか、と伊月は若干本気に考えている。
「賽子の出目を望んだことは無いか?」
「・・・あります。」
「あれも大数の法則あるけどな、まあ未発達分野の学問やから許したって。そんでも、ピラミッド効果やら不思議なもん、うん、超科学やな。科学を超えた何か、があるっちゅー学問やで、月ちゃん?」
「解りますけど・・・。」
解るのだ、言い分としては解るし、脳も語学として理解している。それでも本当にそれが起こった、あった、と聞けば現実主義者としては頭を捻る事になるのだ。柔軟に柔軟に物事を考えようとする脳にも許容範囲と言うものがある。
「月ちゃん、学校行きたないな、って考えた事はある?」
「・・・中学の時、少し。」
部活動で日向の事があってから、あまり楽しくは無かった卒業間際、きっと大学受験の事が無ければ行かなかった。
「世の中にな、おんねん。学校行きたないって考えるだけで腹痛いなって、って。」
「自己催眠の一種と解釈します。」
「自己催眠にも限界はあるがな。」
カードをくるくると指先に回した花宮は、ぴっ、とそれを裏面にして伊月に突き付けた。
「どのマークだと思う?」
「・・・四角。」
「ふはっ、素晴らしいな。」
「ばか。そこのメスに映ってた。」
「そうなるように仕組んだからな。」
ぺたりと富士額に貼られたカードは四角の模様を画いてあり、それは花宮に玩ばれて何度も伊月の広い視野の中を舞ってきた。ふざけた男だと伊月は思う。
「お前が視神経やら脳神経を研究したいのは何故だ。」
「仕組みが解んなくて気持ち悪いから。」
「そんな連中は世界中に腐るほどいる。問題があるとするなら。」
キンコロン、と今日のために昨日取り付けたエントランスのベルが鳴る。俺が出る、と花宮は階段を下り、カードを伊月に押し付けたまま、足音を立てずに階段を降りる。
「問題があるなら、それを知ろうとする人間と、淘汰してまおうと思う人間と、二種類あるってことやね。」
花宮の言葉を継いだ今吉に、むっつりと黙った伊月は、何故だか酷く寂しい気持ちで、手の中のカードを少しだけ折り曲げ、机に並ぶそれらに並べてみた。
「それはあかんよ、月ちゃん。」
それはどれだけ研究したとして、その親指の弱い力一つで、全てが台無しになると言う、奇妙にデリケートで、奇妙に奇怪奇天烈な学問の、それそのものを表している気がした。
「ほな月ちゃん、力クンの懐柔と、あとこれ、チョッキの中着とき。」
まさかの防弾仕様に、伊月は頭痛がした。
スポットを当て、フォーカスを引き絞り、さあ、引き金を引こう。

続く。

初出:2014年1月27日 19:47

今月百科おめでとうございます!!!!!

このタイトルを込み、3タイトルほどで完結の後、番外編と白い猫に移行しようと思います!もう暫くだけお付き合い頂ければ幸いです。

***
百科まで長かったですね・・・。

20140421masai