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12年前に放火があったという、元は高級ホテルだった場所に花宮は来た。
煉瓦造りの壁は焦げ、火元となったらしい厨房外のゴミ置き場周りは殆ど焼け落ちて鉄筋が覗いている。 「・・・あった。」 焼かれた後に崩されたそこは、地下に続く階段があり、昼間にも関わらず、そこは真っ暗だった。 今吉探偵と伊月助手の深層心理。前篇。 鏡が盗まれたんです、と相談を持ち込んできたのは、若手新鋭画家の桜井良だった。 「あれか。デッサン確認用に使うてた馬鹿でかいあれか。」 「あれです。お忙しいのにスミマセン。」 半分以上がミルクと砂糖の珈琲は、どちらかというと唇を湿すよりも指先で暖を取るのに使われていて、伊月は、そろそろストーブ出すか、と思案しつつ、茶請けのタルトが乾いていくのを見つめていた。要点を纏めるメモ帳から視線は外さずに。器用な男である。 「これで五件目ですよ。」 「一応盗難届出しとこか。月ちゃん、書類どこ?」 「引出上から二番目の灰色のファイルです。」 「お手数おかけします、スミマセン。」 終始謝罪の言葉ばかりで今吉も伊月も苦笑しきりで、またきちっとお辞儀をして帰った桜井に、伊月は手を付けられなかったタルトを手土産に渡してやった。 「お、桜井。」 「あ、スミマセン、お邪魔しました・・・。」 「おかえりなさい、花宮さん。」 そうして入れ替わりに花宮が別件から帰ってきて、そろそろ秋の釣瓶と冷える風に伊月は肩を竦めた。 「こんにちはッス!」 ひょんっと視界に飛び込んできた黄色い頭の長身は、帽子を被って眼鏡を掛けていた。 「あれ、黄瀬?」 「ああ、黄色の駄犬か。」 「酷いッス花宮サン!!」 一声吠えてから、お邪魔します、と笑った黄瀬は、その色んな意味で派手な頭に帝都の一等地でも視線を集めている。どうしたの、お客さんかな、と笑った伊月に、正確には違うッスけどいッスか、と彼は懐っこく笑って、落ち着いたヴィクトリア調の来客用の部屋へ招いた。 「なんや、黄瀬クンやん?」 「ども、その節は。」 「その後大事無いか?」 今吉は新しい珈琲に口を付けながら黄瀬を迎え、珈琲に砂糖とミルクを添えた伊月には、お構いなく、と笑った。 「マジックショーとかお嫌いですか、二人とも。」 「マジックショー・・・マジなマジック!キタコレ!」 「月ちゃん、30秒ほど黙っときー。なんなん?黄瀬クン手品するん?」 「手品なら黒子っちのが面白いと思うんスけど、中国のほうから結構凄い、催眠術?とかそっち方面のひと来るらしくって、興味あるならご招待ってチケ預かってるッスよー。」 俺パス、と事務所のほうから壁を挟んで声が来た。 「だそうですよ、翔一さんどうします?」 「キッチリ30秒黙ったな。月ちゃんどない?」 「面白そうですよね、催眠術。」 「手品は?」 「黒子がよく見せてくれるんで。でも、ショーなら規模から変わって来るんじゃ。」 「ご明察。龍汪ホテルってあるじゃないッスか、最近出来た。そこってラウンジにステージがあるんスよ。そこの?落としってヤツッスね!」 まあ実際は古い建物を新しく増改築しただけなんで半分くらいはまだ昔の古いまんまなんスけども、とも笑って。 そんな訳で、日程に部活の練習が入らなかった伊月のスケジュールと、貰えるなら貰うとこかー、な二人は、そのショーから始まる波乱に気付けないでいた。 「デワ、心から念じて下サイ、アナタの希望、叶えまショウ。」 片言の日本語を話すマジシャンのアシスタントは劉偉だった。通訳も兼ねて雇われたのだとか、ショーが始まる前に、伊月は挨拶しておいた。次の籠球の大会で当たるかも知れないなと少しだけ会話して。 「空が、飛びたいです。」 「叶えまショウ。念ジテ。」 そう言った少年は、うわ、と悲鳴と感嘆を混ぜたように声を上げた。足が上等な絨毯から離れ、徐々に徐々に、高く作られた天井の、シャンデリアを見下ろすまでに高く上がった。不安そうに足をぱたぱた動かして、天井にぶつかる前に止まった。 「それ以上ノボルと危険ネ!」 ぱちんっとマジシャンの指先の合図ですいっと少年は横に滑り、わああ、と悲鳴に客席から笑い声が上がった。サン、アル、イー、と合図に手を叩けば、ゆっくりゆっくり少年は元いた場所に降り立った。客席は拍手で満ちて、マジシャンはステージ上で頭を下げた。他にも王道的に、箱に入って消えたり、幾ら剣に刺されても平気だったりと忙しない。 「そこの・・・眼鏡のヒト。」 「翔一さん?」 最後に、と指名されたのは今吉だった。おっ、と黄瀬が笑って、伊月もわくわくは隠せないようで、愉しそうにステージと今吉を交互に観た。 「いややわー、オニーサン、ワシ目立つん得意やないでー。」 「深く、念ジテ。」 「催眠術かいな。」 「いいじゃないですか、掛かってきて下さいよ。空飛べるかも知れませんよ?」 「あんなぁ・・・。」 くすくすと笑う伊月に、今吉は呆れたように笑って。 「アナタ、頭いいネ。」 「おお、ええよー。催眠術の常套手段や。褒めちぎって心酔させて、催眠状態に陥りやすくする。手順踏んどるやん?」 挑戦的に笑った今吉に、マジシャンも薄く笑って、劉も笑いを堪えるのに必死そうだった。 「心カラ、念ジテ・・・。」 サン、アル、イー。 からん、と下駄が蹈鞴を踏んだ。真っ先に反応したのは伊月で、心配そうに今吉を見やり、それと目がかち合って、一直線に走ってきた。 「やっぱ月ちゃんかわええなぁ〜!」 「ぎゃあ―――――――――――――――!!!!」 でれっでれに蕩けた貌で伊月に抱きついて、水色のラインが入った学生服の上からつつぅっと背筋を撫で上げた。 「大変アル。」 思わず呟いた劉の一言で会場は爆笑の渦に巻き込まれ、ぱちんっ、と合図に今吉は戻ってきた。あのひとまじで名探偵ッスよね?自信無くなって来たッス!!なんて黄瀬が噴出して、あちこち撫でたり揉んだりしてくる手から伊月はやっと解放された伊月はとりあえず今吉の鳩尾に掌底を叩き込んだ。迷いの無い無駄も無い素晴らしい動きだった。 「なななななにこのひとちょうきもちらるい!!」 「伊月サン、言えてないッス。」 そんな黄瀬も未だ笑い続けており、謝謝、再見、との挨拶で今回のマジックショーはお開きになった。このあと一泊して、またいつもの生活、という訳だ。 「・・・翔一さん。」 じとっと睨み上げてくる切れ長の目に住む黒曜石は、明らかに侮蔑を告げたいらしい。 「いや、やってあっこで催眠に掛からんかったら白けてまうやろ。」 白ワインをくいっと煽った今吉は言外に、あれは演技だ、と言い、笑った。伊月は不機嫌そうにラウンジのスイーツをフォークで崩している。 「え、素だったんですか。」 「ワシ悪ないもーん。催眠術に掛かりやすい奴、掛かりにくい奴あんねん。ちゅーか、催眠術はおまけかいな、これは。空飛ぶクンおったやろ。あれサクラやで。」 「へ、まじッスか。」 「まじや。従業員やで。途中まで給仕でおったやろ。」 「気付かなかったッス。」 「コーヒーゼリーあるか聞いてこよ。」 基本的にマジックショーのチケットがあればラウンジでは飲み放題食べ放題だ。夕食は各自済ませてきたが、軽食程度なら、と黄瀬もチーズを摘まんでいる。伊月は甘いものは別腹を地で行く。 「そろそろ部屋戻って寝よか。月ちゃん、明日は午後?」 「翔一さん飲み過ぎ。足元ふらついてますよ。」 いつもの単は少し小奇麗で、袴はきちんと襟目正しく捌かれているが、足袋はやはり毛羽立って、下駄も歯が磨れている。絨毯が音を吸うが、のったらのったら歩くのを伊月は手を貸して部屋に放り込んだ。ベッドに倒れ込むと、そのまま素直に寝てしまった。 「こうしてれば可愛いのに。」 伊月はそうやって少しだけ笑い、おやすみなさい、とその耳元に囁きかけて部屋を出た。シングルを二つ貰ってあるので、腹ごなし感覚で少しだけ歩く。やっぱ服装考えてくるべきだったかなぁ、なんて冠婚葬祭何でもござれの学生服は、豪奢な廊下に浮きはしないが多少の身分不相応に目立つ。しゃらん、と金属音に振り返ると、赤いパンツスーツの女性が生花の生かされた花器の前で男性と話し込んでいた。そろっと会話を聞いてみた所、どうやら宝石商と美術関係者のようで、男のほうは見覚えがあった。確か古美術商で成り上がった、二ノ瀬満彦という。女性のほうは宝石商らしく、華美にならない程度、それでも華やかに自分を貴金属で飾っていた。 「青峰っちじゃないっすかー!」 廊下を曲がればエレベーターホールがあって、そこで伊月は瞬いた。 「本当だ。青峰どうしたの。」 スーツを気怠そうに着崩した色黒の男は、黄瀬から視線を外してその精悍な顔を伊月に向けた。 「なんで、伊月サン?」 「俺と連れッスわー。」 「あいっかーらず巻き込んでやがるな、黄瀬。伊月サンがいるってこた、今吉サンもいんんのか?」 「部屋で寝てるけどね。寝てると静か。」 そりゃ違いねぇ、と青峰は伊月の言葉に賛同し、さらさらの黒髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。 「ちょっとこらー。」 身長差で遊ばれた髪の毛を整えて、やり返そうと伸ばした手は、複数の声に遮られた。 「配備、完了しました。」 「解った。」 「え、仕事ッスか。」 「何に見える。」 「伊月サン愛でてる。」 「お前ら削れろ。」 そんじゃ、と黄瀬は身を翻し、頑張ってね、と伊月は手を振って元来た道を戻る。廊下に人気は無く、通路の一番端に飾られた生花の向こうに、折れて廊下が続くのを伊月は見つけた。 「そっちは関係者以外立ち入り禁止ッス。」 「ああ、改装中の?」 現在地は三階。改装中のそちらは旧館とも呼ばれており、そこへはこの廊下と一階の外から中庭を通ってしか行けないらしい。壁と廊下の改装はなんとかなっているが、二階への道のりがどうにも不便で手間取っているらしい。へえ、と伊月は粗方の分析を終えると、部屋の鍵を手のひらに躍らせて廊下を戻ろうとして、吹き飛ばされた。 「った!」 「えっ、ちょっ、何何!?」 壁に強か肩を打ち、呻いた伊月の目の前を疾走したのは青い風だ。 「青峰ッ!?」 「えっ青峰っち!?」 その後ろからも地鳴りの如くひとが駆けてくるので、慌てて黄瀬も壁に張りついた。 「なに?何事?ッてアレっ!?伊月サン!?」 ガチャバン、ガッシャンガチ、と金属音を忙しなく黄瀬の耳に送り届けた彼は、インバネスコートを着込んで、ポケットからペンライトを出すと、そのまま警官の一団が駆けて行った廊下を駆けた。 「伊月さぁん!!」 黄瀬は結局置いてけぼりより追いかける事を選び、渡り廊下を抜け、先ほどまでの、こちらを旧館と呼ぶなら、新館と呼べる、向こうの廊下と同じ造りだが窓がまだ嵌っていない夜風に首を竦めた。 「なん、で・・・!」 階段の下から聞こえた声に、びくりと黄瀬は硬直した。青峰のここまで狼狽した声音は珍しい。というか聞いたことが無い。 「翔一さん!」 え、と思わず聞こえた声に気付けば駆け出して、駆け下りて、足元が明るい、と視線をやれば、伊月が取り落したらしいペンライトが落ちていた。 「翔一さん!聞こえてますか!?」 「どういう事だ!今吉サン!?」 「青峰警部!こちらに!!」 「ッ!」 頼む、と単一枚でこの寒い廊下に突っ立っている今吉を伊月に託し、青峰は部下に呼ばれた部屋を見た。赤いパンツスーツの女が倒れており、体温を喪い始めていた。 「一ノ宮小枝子。宝石商だ。」 今吉の部屋に来て、青峰は口を開いた。 「一ノ宮・・・さん・・・。」 廊下で何か、誰かと話をしていた、と伊月は思い出す。そうだ、二ノ瀬、と今吉をベッドに寝かせてブランケットを掛けてやりながら、その記憶されたページを弾き出した。 「ここのオーナーが実はな、数日前から行方不明で、今朝、時間指定で身代金要求が来てなァ。」 がしがしと青い髪を掻きながら彼は説明をくれる。ルームサービスのホットココアで指先を暖めながら伊月はソファにいる黄瀬にも目をやったが、肩を竦められた。 「二十時に赤い服の女がエレベーターに乗るから、それに渡せと。で、約束通り赤い服の女はいた。受け渡しは三階の筈だったが、一緒に乗っていた従業員によると、二階で降りた、と言われた。マジ訳わかんね・・・。」 ぐう、と唸った青峰に、伊月が挙手。 「待って。一ノ宮さん、青峰たちが配備終わる前までは、えっと、二十時の十五分くらい前だったと思う。廊下にいたよ。俺見た。」 「検死の結果、死後一時間程度だ。」 「じゃあ、同一時刻に二人存在したことになるよ、赤い服の女。どっちが身代金受取人?」 「それが、一階でエレベーターに乗っていたのを見た格好と、一ノ宮の服装は完全に一致した。後姿だったが。」 厄介だな、と伊月は顎を摘まむ。そして死体の近くに今吉がいたのも気にかかる。 「さい、みん・・・。」 「え・・・。」 「催眠術に掛かってた、んじゃ・・・?」 黄瀬の言葉に伊月の眉が跳ねた。 「冗談じゃない!催眠術どうのこうのであんな場所まで行くか!?コート来てないと危ないくらい寒かったぞ!翔一さん、単一枚であんなところ・・・!!」 「すすすす、すませ!!ちょっと言ってみただけっす!!」 「・・・願望。」 「え・・・。」 「あの催眠術は、願望を現実にするんだ。翔一さんは誰よりも騙されない。」 「だよな。」 よし、と青峰は頷き、そんじゃァな、と部屋を出て行こうとする。少なからず疑われていたと言う事だ。 「あ、少し話聞かせて。オーナーが行方不明って、今は誰が取り仕切ってるの?」 「普段は秘書業務の三佳亜子。なんか情報あったらくれ。」 「解ってる。」 そうやって青峰は部屋を後にし、黄瀬も立ち上がる。 「伊月サン、そのー・・・。」 「うん、大丈夫。部屋戻る。」 ふ、と伊月が微笑んで、背後の呻き声に振り返る。 「・・・どない、した・・・?」 「翔一さん?」 「なんや、月ちゃん。・・・しんどそうやけど大丈夫か?」 おぼえてない、と黄瀬が呟いたのを伊月は視線で制した。 「いいえ、そろそろ日付も変わっちゃいますから眠いなって。それじゃぁおやすみなさい。」 「ん。よう休みやー。」 そのまま、ぽてん、と今吉はベッドに沈み、伊月は鍵をどうしようか戸惑ったが、そのまま自分の部屋に帰って、寝た。 寝たが、眠れなかった。 翌朝の朝食の席では淡く黄色に光るふわふわの卵が乗っかったオムライスに、まさかのケチャップが足りないと今吉は嘆き、ボーイを呼び寄せた。他人の振りしてぇ、と伊月は思ったが、ばしゃっ、とテーブルにぶち撒けられたケチャップにそれどころではなくなった。 「すいません、申し訳ありません、御召し物は大丈夫ですか!」 ボーイは真っ白なハンカチで今吉の顔から袴からしっかり汚れを拭い、クリーニングの費用はホテル持ち、という事に落ち着いた。 「あ、自分あれやん。サクラの。」 「えっ、あ。」 本当は内緒なんですけどね、と素直に笑う様子は随分と幼く見えた。確かに従業員の制服でもなければ中学生でも通じそうな若者だった。 食事が終わればエントランスにて、部屋で食事をしていた黄瀬と合流。途中で劉も見かけたので挨拶をしておき、レセプションに部屋の鍵を返して帰宅だ。今吉が覚えていない以上、昨夜の話を持ち出すのは憚られた。それでもからからと会話の歯車が回る黄瀬に伊月は若干安堵しつつ、先ずは家路、講義の無い今日は午後から部活があるので一旦自宅へ帰り、練習着などが入った鞄を下げると伊月はいつも通り、行ってきます、と帝都の一等地にある探偵事務所に向かった。 「まこっちゃんそれ徹夜?」 「うわ、隈出来てる。」 タイプライターで仕上がった報告書は、中身が只管陰鬱だ。廃墟となったホテルの壁が崩れているとの報告で花宮が単身調査に向かったそこで、死蝋となった遺体を見つけた。どうやらそこは旧日本軍が使用した備蓄基地のようで、幾つかの空になった缶詰や食器、遺体は繊維だけになった毛布に包まれていたという。 これに指定捺印を捺して、公安経由で警察に提出する手順だ。 「へえ。死蝋とか珍しい。」 「なんでそこに喰いつく・・・。」 伊月の反応にげんなりと花宮は言い放ち、今吉が判を捺したのを全て確認し、封筒に仕舞った。 「じゃ、俺上がる。」 「え、珈琲要らない?」 「いらん。眠い。」 若干上方訛りが出てきたので、ああ限界なんだ、と伊月は苦笑し、お疲れ様でした、と笑って、彼が事務室を出るのを見送った。 伊月が事務所を出る昼前、事務所に電話があった。青峰からだった。 『廃墟になったホテル関係で、一ノ宮の名前ねーか。』 「え、何、昨日の事件関係?」 『ああ、一ノ宮、二ノ瀬、それから、同じ日程で金融関係者の島、オーナー秘書の三佳が集まってたみてーなんだ。』 「ふむ・・・。」 なんやご相談?と今吉が首を傾げたので、伊月は、ちょっと、とだけ言い置いて。 「俺の記憶が正しかったら、どれも成金の人間だってだけかな。」 『そうか・・・。あ、アリガトーゴザイマシター。』 棒読みの感謝の声に伊月は、毎度どーも、と笑って通話を終了した。廃墟となったホテルの資料が届いていることも、きちんと確認してからだ。 良く出来た助手たちの顔が渋面に曇るのは、翌日の早朝だった。 部活の朝練へと向かう早朝、自宅の電話が鳴り響いたのに伊月は眉を寄せた。朝の早い長男のために母親はまだ暗いうちから朝食の支度をしてくれて、姉や妹が起き出す頃にまでもう一眠りするのが常で、その静寂をぶち破った存在に舌を打ちそうになって、その前に騒音を止めなければ、と受話器を取った。 気が付けば、一昨日の夜に宿泊したホテルのエントランスにいた。 「あ、お、みねっ!」 朝から全力疾走した身体は暖まって、堰切った声は掠れた。 「ウメザワって、刑事、から、れ、っ。・・・っ、連絡あって!」 「え、そんなんいねーけど?」 「・・・え?」 至急の用があるので来て欲しい、と電話をしてきたのは、では、誰だ。 「来い!」 手首を掴まれ、そのまま走り出した青峰に驚きながらも、背筋にじわりと広がった嫌な汗は、きっと正しい。野生の勘、というのが一番しっくりくるだろうか、電気の通っていない旧館の二階は風が吹き込み、インバネスコートは襟を乱される。どうかしましたか、と青峰の部下たちが追ってくる。青峰は応えない。答えられない。 「待て!」 伊月の鋭い声に、青峰が足を止めた。視界の端を、何かが光った。朝日を反射して、鈍く、鋭く、光った。 扉が嵌めこまれるであろう場所からは、応接用だろうか、一部屋。そこに二つの窓があり、中にある扉はやはり無い。からん、と聞き覚えのある音が引きずられ、部屋の中の窓にはぼんやりと佇む今吉の姿があって、その手にはナイフが握られていて。 「しょういち、さ・・・!」 呼び終わる前に、 「はな、み・・・や?」 椅子にくったりと凭れかかるその左胸に、ナイフが。 「・・・ァにやってんだ今吉ィ!!」 青峰の怒号が合図のように、花宮の体に埋め込まれた刃が引き抜かれ、溢れた血液が彼のブレザーを汚し、身体が傾いで。 「花宮!?」 崩れ落ちて、視認出来なくなって、堪らず伊月は飛び出した。 「っ、しょ、翔一さんっ!!」 飛び込んだ部屋の中は埃が積もっていて、向こうから這って来たような格好で花宮が倒れており、今吉は奥の部屋で、黒い浴衣のまま立っていた。 「・・・俊?」 ことりと首を傾げるような動作で今吉は伊月を呼び、ずるっと手から落ちたナイフに瞠目した。 「なんや、これ。」 「翔一さん!解りますか!?俺です!」 「月ちゃん・・・これ、なに・・・。」 「呼吸あります!」 その声に伊月は身を翻し、右胸から大量の血を流す花宮に駆け寄った。鉄臭い中に跪いて、肘の内側の血管を捉える。血の気の無い額に手を当てた。 「花宮。花宮、聞こえる!?目ェ開けろ!体重六十七キロ、AB型。救急車急いで!輸血!呼吸あり、血圧下がってる。」 早く!と血を吐くような叫びに青峰は部下を捌いて、ホテル側から担架を借りて部屋から連れ出す。 「い、づ・・・っ。」 「花宮!喋んなくていい!」 ぐ、っと押し付けられた血塗れの布きれを反射的に受け止め、そのまま力なく投げ出された腕が担架から落ちるのと、遠くにサイレンの音を聞きながら、伊月は唇を噛んだ。 「おい、今吉サンよォ。」 戦慄っとするくらいに低く濁った声で、青峰は今吉を呼ぶ。 いやだ、と伊月は思った。 耳を塞ぎたい。 何も聞きたくない。 見たくもない。 いやだ。いやだ。いやだ、いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!!! 「これ、どうなっとんねん。」 応えた今吉の声は、何が何だかわからない、と戸惑いを隠しきれていない。 ばしゃん、と伊月の足の下で、花宮の中を熱く巡っていた血潮が啼いた。病院で集中治療室に入れられた花宮は、意識不明の重体だという。 今吉は何も覚えていなかった。夜になって事務所を施錠してボロアパートに帰り、そして眠った。気が付いたらここにナイフを持って立っていた、という。二つの事象と証言の混乱に青峰は頭を抱え、しかし目の前で今吉が花宮を刺した、という事実に、ホテルの一室を借りて今吉を閉じ込めた。 「殺人願望・・・か。」 「ッ!」 ふざけるな、と怒鳴りそうな衝動を押さえつけ、伊月は部活も講義も休んで今吉の普段の単と袴と足袋を持ってきた。今吉本人はユニットバスで血を洗い落としている。ざあざあとシャワーから水が降り注ぐ音に、しんと静まり返った部屋、不意に青峰が立ち上がって、荒々しくバスに向かう扉を開けた。 「やりゃがった!!」 「・・・しょういち、さん・・・。」 こんな季節に、浴衣と下駄だけで、彼は姿を消してしまった。 「緊急配備!被疑者が逃げた!出入り口張れ!」 青峰の檄に、へにゃっと膝が笑った伊月はそのままソファに座り込んだ。 殺人願望?確かに誰がどうやって殺されたかを考えるなら、逆にどんな手腕が効果的か、どうすればひとが死ぬか、今吉なら簡単に考え付くだろう。もしも本当に催眠術に掛かったのなら、万が一、億が一でもあり得ない話では無い。しかし、今吉だ。伊月が恋して焦がれて止まない今吉翔一だ。得体の知れない胡散臭い探偵で、それでもどこか憎めなくて、たまにおちょろけてて、花宮を弄りに行くのは嬉々として精神的なものをごっそり削っていくが、まさかナイフで刺すなんて。 「え・・・うん、ないわ・・。」 ないわー、ともう一度口の中で繰り返すと、今度は何だか心配するのが無駄になってきた、と思った。 ないわないわ、と伊月が頷いている頃、今吉が転がり込んだのはリネン室だった。 「すまんのー、ちょぉ肩貸したってー。」 ひょこっとダクトから顔を出し、ぽかーんと眺め上げてくる従業員はサクラでケチャップな彼だった。 「あれ、昨日ぶりやん。」 遠慮なく肩を借りて、リネンワゴンを目に入れた。これならヒトひとりくらい簡単に運べそうだ。 「ちょっと、協力頼めるやろか?」 疑問形の形を取りながらの命令を、今吉は下した。 ワゴンの中にすっぽり収まると、シーツを被って廊下に出して貰う。あれだけの出血を目の前に、血で濡れたのは手元だけだった。今吉は寝起きはいい。伊月と比べれば雲泥の差で寝起きが良い。しかし決まった時間にしか目を覚まさないために、今朝のような『事故』が起こった。 今吉は知っている。自分が花宮を刺してなどいないことを。そもそもあんなに肉を貫く感触を手が覚えていないはずがない。そして、刺すなら間違いなく頸動脈や心臓を狙う。今朝の出来事は、今吉にとって、事件に巻き込まれた事故だ。 「今、黒い浴衣の眼鏡の男が来なかったか!?」 上手い事誤魔化してや、とひっそり祈ると、彼は、見ていませんがどうかなさいましたか、と酷く丁寧に警官相手にも冷静に対応した。ワシより心臓毛深い、と呑気に思った。 「おおきにー。」 「あの、一度物置に行きますね。」 ガシャン、と大きく揺られたので、リフトにでも乗ったのだろう。手元にかさりと音がして、今吉は腰の下のシーツを引っ張って捌いた。黒革の、素っ気ない手帳が出てきた。 「まこっちゃんのやん・・・。」 「はい?」 「あ、今喋って大丈夫なん?」 「あ、リフト降ります。物置行きます。」 そのまま暫く静かな喧騒の中をガラガラと運ばれて、ドアの開閉の音に、ふう、と息を逃す。柄にもなく緊張した。 「大丈夫です。」 「おおきに。」 ひょこっとシーツの狭間に顔を出し、物置の薄暗い明かりの下で、ぺらぺらと手帳を捲る。間違いなく、後輩で監視役で助手の花宮真の文字で半ば暗号化された書き込みが手帳の半分以上が埋められている。 エントランスが俄かに騒がしくなる気配に今吉はシーツの中に引っ込んだ。警官と、あの声は黄瀬涼太だ。 「月ちゃんの隣に居ったってなぁ、黄瀬クン。」 独り言を呟いて、ここまで匿ってくれたボーイにもう一度お願いと言う名の命令を。 「粗大に出すでっかいゴミと空き箱仰山持ってきて。」 よっこらせ、となかなかに年齢を感じさせる掛け声を付けてワゴンから出ると、下駄の鼻緒をきちんと直し、からりと大荷物用の台車を今吉は取り出した。 続く。 |
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調子に乗って第四弾。本格推理物っぽくてなおかつライトな感じってどんなだろうと考えた結果、某お孫さん探偵のトリックというかストーリーというかを踏んでみました。そういえばこういう試みは初めてじゃないか!
2012年11月05日 14:57初出。
このお話は物語の根底のお話でした。今吉探偵の決死行はあくまでおまけみたいなwキャプションの「試み」っていうのは今吉と伊月が別々に行動してるってことですね。
結構賛否分かれたんではなかったですかな。このシリーズを気に入って頂けてる方にはとても好評でした!
20121114masai