|
小金井慎二は、色盲だった。
物心ついた折の事だと記憶している。母と姉と一緒に百貨店に足を運ぶために路面電車に乗っていて、その和服姿の女性を取り巻く色が、鮮やかに赤く、紫色の混じった色彩は、実に美しく。 「なにゆってるの、しんじ。あのひとはきれいなもえぎをきていたわ。」 今吉探偵と伊月助手と外伝・小金井慎二。 重ねて言うが、小金井慎二は色盲だった。その自覚が出たのは小学校入学直後で、ただしかし、彼の世界は彩りに溢れていた。 ひとに色が重なって見えていた彼は、徐々に、父親に教わった文字を覚えるとともにその色彩が文字の形になっていくのも覚えて行った。 小金井慎二は人間が大嫌いだった。小学校の高学年になってからは尚顕著で、しかし明るく振舞っていたのは彼の元々の性格なのか、その文字を読み取っての計算尽くの行動であるのか、もう思い出せなかった。 中学では無二の親友である水戸部凛之助と出会えた。彼は唖であった故、小金井は殊更彼に懐いた。何せ彼の言葉には嘘がない。試すようなことも散々にやった。それでも水戸部は小金井に、だいじょうぶ、と声無き声で語り続けた。 人間というのは裏にも表にも、本音と建前というものがあって、心中で誰かを罵りながら、その誰かとも仲良くする、人間心理は徐々にひとと成るにつれ、酷く小金井を疲弊させた。寒色は嫌な感情で、暖色は良い感情、と経験して行くうちに学んだ彼は、嘘を吐かない水戸部が好きだった。口が利けないので大抵は筆談を使っていた水戸部は、常に暖かい色を身に纏い、小金井に微笑んだ。 「コガって何で水戸部の言うことわかるんだ?」 「勘!」 笑顔で小金井は言い切った。すげぇな、と感嘆したくせ、彼は、気持ち悪い、と青い文字を身に纏った。水戸部も唖であるくせどうして健常の学校に、度重なる暴言は言葉になることなく、男子生徒の心臓から湧き出し、また心臓に還って行った。世界の色を小金井は知らない。 空は青い。青という色はどれだろうか。あの暴言と同じ色でないといい。夕日は赤い。赤とはどれだろうか。あの怒りの色でないといい。虹は七色。徐々に色彩薄くなり空に消えて行ったあの曲線は、七色とは、どんな色だ。 水戸部は空の色も、夕日も、虹も、大変綺麗なものだよ、と小金井はに微笑んであった。何度か病院に連れて行かれたが、原因は不明の色盲患者は、しかしその憂鬱を顔に出さずに、いつも笑顔で有り続けた。小金井が笑っていれば、隣で水戸部も笑う。水戸部の言葉には、暖かい色の大丈夫、と冷たい色の大丈夫、が二つあった。庭球をしていた小金井は、其れ相応に鍛えた身体があったが、結局選手としては芽が伸びなかった。水戸部は体育館で籠球をしており、長身を活かして得点を防ぐ役割を黙々と熟す、まるで職人になろうとする一端の仕事人の見習いだった。 「志望校どうしようか。」 水戸部は、唖でも受け入れてくれる大学で医学と教育を学びたい、と小金井に言った。小金井は、この色はどんな感情なのか、ずっと探していた折に、色彩による感情支配という文献を図書館で見つけ、では心理学や人間のこころを学べる場所がいい、と思っていた。人間嫌いは水戸部のお陰か、大分ましになった頃だった。 ここなんかどう、と小金井の姉が持ってきたのは誠凛大学の入学願書で、どうやらその新設校は何から何まで一から、教授と生徒の手で作り上げようと、そんな学校だった。 即決、というには少々時間はかかった。水戸部の親もフットマンやメイドとして外で働いてあった。唖の息子が健常の大学へ通って良いものか、悩んだ様子であるし、しかし一定の学力は突破してしまえば生徒がどんな人間でどんな思想があっても受け入れる、と学校側の説明に、そしてその説明会に訪れた教授のこころの色は、大変に輝いた色だった。未来を共に描こう。教授はそう言った。 入学してみればあちらこちらの最新の器具や体育館、そして広い校舎とその敷地。師範女学も併設されたその学校は、新しい時代への開拓を生徒に望んだ。 木吉鉄平という男に出会った。沼のような、彼自身が見えない何かを抱えて、その上澄みを掬ったような綺麗な、綺麗事で作られたような男だった。日向順平という男に出会った。底なし沼に沈みそうだった彼はまた爽やかく輝き出し、伊月俊という男を常に隣に佇ませてあった。懐刀のように。 伊月俊に出会って、小金井が驚いたことは二つある。大層に美しい男であったからだ。そして、凡ゆる文字が湧いては消えて湧いては消えてを繰り返すその中、その美貌は覚えている限り怜悧でいつも笑顔で、女のように可愛らしい顔は時折その文字に隠されたことはあったが、その上澄みでもなければ沼の淀んだ色でもない、ただ只管に純正の黒だった。正しくは黒に見えていた。 皆一つ、得手不得手はあるものの、小金井は見事に得手もなければ不得手もない、言うなれば器用貧乏であった。視界の隅にうねうねと漂う文字の波が邪魔をした。集中力を高めるにはどうしたらいい、と相田リコに相談したところ、いつも決して冷たい色を抱えることのなかった彼女は。 「深呼吸して、正面を見据える。目標を見据える。これが一番ね。」 その時、まだ未熟な私がこんなことを、と彼女を取り巻いた薄暗い文字を、小金井は見逃さず、やっぱカントクは最高!と手放しに褒めた。隣の水戸部もこくこくと頷いていたので、間違ったことはしていない、と小金井は今でも思っている。 部員は和気藹々と帰り道で駄菓子屋に寄ったり、また相田が通り魔に襲われた際は皆で必死に、渦巻く何かに囚われそうだった伊月を引き止めた。 後輩の入学すると俄かに浮ついたが、ここが、こんなところが、とどこか落胆した後輩に、水戸部はダンクを披露して、器用貧乏と言われる小金井は極めることの出来ていないスリーポイントから土田のリバウンド。一本、攻めるぞ!主将日向の声は良く通り、伊月のノールックパス。黒曜石の瞳は強く、仲間を信じたのだろう。 美術の時間に小金井は、絵の具の全ての色を少々ほど出し、パレットの中で混ぜた。 「この色、だ。」 チームメイトの一人、伊月俊の周りを取り巻く言葉は小金井には少々難しくて、読めても理解出来なかったが、それは哲学や思想と呼ばれるもので、一度伊月の勤務先に我儘を言って連れて行って貰ったりした。水戸部の妹の事で相談が、と言えば、伊月は、もちろん、と笑顔で引き受けた。くるりくるり、今日も伊月の身には全ての色を混ぜた不思議な色で文字が描かれる。 「翔一さん。」 「ほい、月ちゃん。」 画集を手渡す折だった。その遣り取りの瞬間、見たこのとのない色が彼ら二人を取り巻いた。福田が伊月に向ける視線と酷似色のそれは、一瞬二人を取り巻き、そして互いの心臓に還っていった。 ああ、と小金井は思った。これが恋の色、恋慕、そして情愛だ。 生憎として小金井は自分の色が見えなかった。秋の大会、橙色であるらしいボールを只管に追いかけた二年半。結局は器用貧乏の域から出れなかった彼だが、確かにそこに存在した。 色盲を知っていた水戸部は、目の事なら伊月だとも教えてくれて、事実脳と眼球の研究をしていた伊月の研究室を訪れた。医学科は四年制であり、小金井が通った学科は三年で卒業してあった。 「しき、もう。」 そうか、と淡く伊月に文字が浮かぶ。 「空の色もね、夕日の色もね、なーんも俺、知らないんだ。」 天真爛漫を画に描いたような小金井だったが、その伊月の反応は怖かった。様々な文字は今までの医術書の記述か、部屋中にとっ散らかって、霧散した。思いついた、とばかりに伊月が出してきたのは、いつぞやの画集だった。麻薬取り締まりで捕まった男の画集は発禁であったのだが、伊月は何故かその画集を持っており。 「この絵、どう思う?」 「・・・綺麗な景色、かも。」 様々な色に塗り潰された伊月は、その瞬間、凡ゆる文字が消えて、その美貌が露わにされた。 「い、づき?」 「ああ、ごめんね。こっちは?」 また違う画家の画集は、こちらは多くの色彩に溢れはせずが、その描かれる女性は。 「美人。」 「そっかー、それ、俺。」 「まじで!?」 「去年のだけどね。桜井・・・絵描きなんだけど、どうしても、って。」 様々な色で文字の言葉の溢れた彼は、そのまま様々な画集を積んで、お気に入りなのであろう、様々な絵画を見せてくれた。 「どれも、何かしらこころを打つ。そんな存在なんだ。」 また、徐々に伊月は様々な文字で埋れ出した。学友時代からずっと考えてきた伊月という同輩は、清濁を関係なく飲み干し、自分の哲学としてその胸に、幾つもの言葉を持っていた。 色盲患者に関する報告、というのは見ないふりをした。伊月が高みに登る為なら幾つでも役に立ちたい。小金井の思想はそこで固まったと言っていい。今まで避けてきた画集や絵画の関連雑誌を読んで、その感想を伊月への手紙に認める。伊月は筆まめな男で、どんなに忙しくても必ず返信をくれた。 絵画や画集は徐々に贅沢品として民衆には閲覧が禁止され始めたのは昭和七年。小金井は志願兵として中国まで出兵していたが、その知らせに正に飛んでくるように葬儀に立ち会った。 白い棺桶に様々な色彩の花に、インバネスコートと学生帽が燃やされて行くのを、水戸部に肩を抱かれながら、人目も憚らず泣いた。伊月の葬儀に立ち会えたのはまことの家族以外はAsylのこどもたちや職員と、兵役を免除されていた水戸部と木吉と、夫人のリコと伊月の昔馴染みの日向。小金井と同じように志願兵として満州にいた土田は間に合わなかったが、夫人が来てくれて、やっぱり泣いた。 透明な文字が空に登る。青いらしい空に赤いらしい炎の狭間、ごめんね、ありがとう、と言葉は間違いなく盟友に向けられたそれだと、小金井は確信した。今吉は抜け殻のようにその焚き火を眺め続け、ゆっくりゆっくり、燃やし尽くされた遺体の、粉々になった骨を大事に大事に骨壷に収め、泣く事も出来ず、その仄暗い文字を小金井は読み取れなかった。 誠凜という学校は、何より生徒の自主性を重んじた。誰より自分の意思を貫き、そして生きて死んでいく。 活きろ、とあの何もかもをないまぜにした色の文字の中、確かに小金井はその意味を、おそらくは、正しいか正しくないか、自分で考えながら生きた。 「あっぶね、走馬灯・・・。」 伊月が死んでから、三年が経っていた。米軍からの攻撃に捕まった小金井は、露西亜の日本人収容所で目を覚まして呟いた。籠球に鍛えた体は日々の労働に虐め抜かれ、粗末な食事に痩せ衰え、筋肉まで分解されたが、突き指を繰り返した指は関節が太いまま。他の戦友はどうなったか、知らぬ。土田の行方も小金井は知らない。唯一水戸部には葉書一枚の便りを送っていたが、聾唖相手の個人病院と学校施設の片手間、忙しいのであろうので返事は結構です、と小金井は毎度文章の最後を締め括った。 同輩の中に志願兵は小金井と土田のみであり、後輩には河原があったが、結局は会えなかった。 せめて、空の色は、伊月の葬儀の日のような、美しい空の色でありますように。 小金井はそのまま目を閉じ、寒いなぁ、と思った。 小金井慎二、享年三十歳。 ロシア日本人収容所にて凍死。 土田聡史、享年二十九歳。 満州にて二階級特進 河原浩一、享年三十九歳。 病弱の気味で一度免除されるも志願。南方司令部より、二階級特進の弔電が届く。 降旗光樹、享年四十歳。 南方より帰還ののち、戦友の遺書を遺族に配り終わって、その後道端で死んでいるのを近所の農家に発見される。 福田寛、享年三十歳。 北方にて二階級特進。伊月の写真を最期に握りしめていた。 |
初出:2014年2月21日 03:25
今月探偵番外編、第六段。
20140421masai