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甘やかされている自覚はある。
闇に踏み入る勇気なんか持てなくて、ずっと甘えて生活していた。 きっと彼らは自分を受け入れない。それが免罪符だった。ダークサイドに踏み入っているのを知っていて、危ないと、忠告もしない、出来ない身分を甘受し続けてきた。 踏み入ることは許されない。そう、無意識下で言い聞かせてきた日は、きっと今日で終わる。 今吉探偵と伊月助手と官軍の初詣。後編。 相変わらず散らかった部屋だが、部屋の中央にはもこりと炬燵が出ていた。 「ワシは年越しここやからな、大家のばーちゃんくれてん。」 「・・・俺、掃除しましたよね、そのお婆さんに頼まれて。この惨状なんですか。本は読んだら本棚に戻す!洗濯から帰った服は箪笥か押入れ!」 「・・・月ちゃんの小姑。」 「雑煮いりませんね。」 「撤回しますごめんなさい。」 一応伊月が来る前に踏み場は作ったようだが掃除の成果はカーテンの無い窓際にだけ残っている。いつも布団を敷く場所だからだろう。 「台所お借りします。」 滅多に使われないその狭い台所に、上方で食べられる雑煮を鍋に広げると、おお、と今吉の感嘆が来た。 「どっちかっていうとお味噌汁とか豚汁に近いですよね。京はおすましで鶏肉だって言いますからどっちにしようか迷ったんですけど。」 餡子餅を入れる勇気は無かったです、とも伊月は語った。 「せやでー。ワシんとこは味噌汁に角が立たんようにて丸切りの野菜と餅入れて鰹ぶしと青のりで食うんよー。とろろもあったけどワシはとろろ苦手やった。」 「御餅幾つにします?」 「後でまたお代わり貰うし、まずは二つでええ。話は食事しながらのほうが捗るって知っとった?」 「・・・家じゃあんまり食事中に会話は無いんで。」 食後にその日の報告や世間話の交換はあっても、食事中はあまり無駄な話をしてはいけない作法は上下に厳しい武家に多い。伊月の家の広間の床の間には、山水図の掛け軸と鞘に納まった太刀と脇差が飾られてある。 「さよか。」 まあのんびりせんか、と今吉は笑った。知らずに落ちていた肩に伊月は気が付いて、くいと顎を上げるとそのままくちびるを合わせた。この先に何があるのだろうか。甘えは許さない。鷲の爪を持つならそれを剥ぎ取ってもいいだろう。能ある鷹は爪を隠すが鷲が爪を隠すのは聞いたことが無い、と少しだけ可笑しかった。 まだらに日焼けした畳の上に、もこっと広がる炬燵布団。散らかされた新聞や煙草箱や同人誌や洗濯された単はかろうじて衣架に引っかかっているが、どれが洗濯されたものでどれが洗濯待ちなのかは今吉本人以外には解らない。 「気付いてるやろうから。」 炬燵の上に雑煮の入った碗を二つ、箸を二膳用意して、いただきます、と手を合わせると今吉は口火を切った。古い炬燵の中の炭が、かつりと弾けた。 「あの男、誰かを探しとった、やろ?」 「・・・ですね。」 ず、と行儀悪く啜れば、ほかっと腹の底から温まった。それでも薄ら寒い、悪寒と呼ぶには生易しい、まるで喉元に鋭利な刃物でも突きつけられているような、緊張と息苦しさがある。喉が渇く。 「あいつを、天野を探しとった。多分やけどな。」 「天野さんと翔一さんとの関係をお聞きしても?」 どない表現しよ、と今吉は餅を齧る。やはり伊月の予測は正しかった。今吉は天野と知り合い以上の関係だ。あの不思議な人物は、きっと今吉翔一の素顔を知る者だ。伊月俊の知らない、何かを知る者だ。 「家族、かな。」 「かぞく。」 「元は家族。でも血は繋がらん。」 「・・・はい?」 「花宮真の正体を月ちゃんは知ってる?」 「知ってます。瀬戸、古橋、原、山崎の上司。公安ですよね、所属。霧崎第一大学は明治中ごろまで、公安員育成施設でした。瀬戸健太郎はまだ二年ですがあの頭脳を買われて入学、古橋家と原家は昔から公安の家ですね、父方が。山崎家は軍から引き抜かれたと、俺が調べた結果にはありました。花宮家もそうなら今もそうなんでしょう?花宮家は霧崎の経営一陣に名前を変えて潜りこんでいますね。」 成程、籠球部ひとつあいつにはどうにでもなるってね、とも伊月は少し苦そうに笑う。 「ふうん?誰から調べた。」 「赤司の名前をちょっと借りて。花宮さんも大掃除中は捺印置きっ放しでしたし。」 これは裏技使っちゃいましたね、ばれたら消されそう、なんて仄かに伊月は嗤う。そして、すいません、翔一さんのデスクも探りました、と頭を下げる。 「五芒星、って日誌にありました。あれは公安の俗称。菊の御紋は天皇家。公安は政府を裏から護る、そうですね、忍者みたいな存在かなって。」 「流石月ちゃんやんなぁ。」 「ワシの、が抜けてますよ。」 「今のワシは月ちゃんの翔一さんちゃうから。」 「なるほど?」 今はきっと、元公安局所属の今吉翔一と話しているのだ。話を戻しますと、と伊月は碗を置いた。 「五芒星の由来は陰陽道です。陰陽五行ですね。陰陽道で政府の敵を監視していたと、政府を正義と、官軍と置くならば、派生は六波羅探題辺りでしょうかね。彼らは武力の他に修験僧なんかも所属していたようですし。どんな時代だって暗躍者は存在します。江戸城には御庭番もいましたしね。どちらにしろ葵の御紋を護った存在が今の国家公安ですから。」 「よう考えたな。」 「はい、考えました。裏付けが取れてないので何ともこれ以上は。」 つんと餅を箸で玩び、そうですね、と伊月は呟く。 「今吉翔一は昔は公安にいたのではないか、という推測は正解ですか。」 「理由は?」 「天野さんは足音がしませんでした。あの人も今吉翔一や花宮真と同じ種族の人間ですね。帝都の片隅で呑気に暮らしている伊月俊なんかとは真逆の。」 お代わり貰うわ、と今吉は炬燵から立ち上がる。炬燵布団が浮き上がって少し冷えた。彼は聊か粗野な仕草で鍋を掻き回した。 「そして、今吉翔一の様子から察するに、天野さんは今吉翔一の敵だ。公安の人間というのは基本的に身元は勿論顔すら明かしません。翔一さんの体のあちこちに古傷があるのは俺は知ってる。でも、徴兵されたという記録は見つからなかった。では何故か。どうしてそんな傷が体中にあるのか。それは公安の仕事で政府暗躍によって負った傷であるからではないか。自分の体を盾に、主と呼ばれるひとたちを護って来たからではないか。そうして何を思ったか知りませんが、今吉翔一はある日公安を自主退職。監視に花宮真を助手の名目で雇い、今の彼がいる。経歴としてはこんなところですか。」 「月ちゃん、雑煮は?」 「俺はもう要らないです。花宮さんにも差し入れたいし。」 「公安の年始は見れたもんちゃうで。」 「だからですよ。花宮真は誰にも弱いところを見せない。正確な出身地は知りませんが、時折の上方訛りを聞くに、花宮真も今吉翔一の家族であった。どうです?」 家族、というのはきっと、昔の所属を誤魔化す隠語。炬燵布団は重力に従って畳に座り込み、足元がぽかぽかと暖かくて、そのまま伊月はころりと畳に寝転ぶ。 「このまま、ワシが足降ろしたら、月ちゃん死ぬでな?」 「ええ。死にますね。」 毛羽立った足袋は、爪先を酷く無防備な鳩尾に置いている。こんなに気配が無い人間が黒子以外にいるんだなぁ、なんて伊月は場違いに思う。それでもよくよく考えれば、花宮だって時折事務所内にいるはずなのにいないと錯覚することがある。 「肋骨が折れて肺か心臓に刺さればショック死、呼吸不全、失血死。お好みで殺して下さって構いません。内臓損傷系なら多分吐血はしますから、最後に血の味のキスでも残してこの部屋から去ればいい。事務所を構える前から各地を転々としてきた、本名かどうかは知りませんけどね、今吉翔一?」 流石にそこまで調べる時間と、勇気も無かった。翔一さん、と呼んだ過去が全て崩れる様な気がしたからだ。 「遺言か?」 「そんな訳ないでしょう?俺に遺言はありません。残念ながら翔一さんの言う賊軍には俺はなれない。負けたなら大人しく引き下がって自死なり割腹なり選びます。俺には今吉翔一にとっての賊軍である価値すらない。」 どうでしょう?と。 そうでしょう?と。 小首を傾げるように伊月の美しい黒髪が流れた。すっと爪先は足音も衣擦れの音も無く退いて、もぞりと伊月の隣に座りこんだ。 「なあ、月ちゃん、大事なこと忘れてる。」 「何をですか、翔一さん。」 なんとなく、いつも頼れる背中がちいさく見えて、伊月はゆっくりと起き上がると肩を寄せる。 「ワシに家族はおらん、ゆうたで。」 「聞きました。」 「ワシが自分でどっかに置いてきたんや。」 「でしょうね。」 このひとは、家族の団欒や子供たちが遊びまわる様子を、酷く眩しそうに見る。 「俊がワシの家族になってくれる、ゆうたやん。」 「あんた子供か。」 ごつりと肩に思いっきりぶつかってきた頭を、ぽんと伊月は撫ぜた。 あの時の言葉に嘘は無い。 『翔一さん』に接する『俊』は、『俊』に接する『翔一さん』は、一切の嘘が無い。 好きも嫌いも、愛も憎しみも、全て馬鹿みたいに正直に捧げてきた感情で、抱いてきた感情で、頼って甘えて抱かれてくちづけを交わした日々に、一つの嘘も無い。 「泣くな。」 「無理。あかん。泣く。」 「さっきは俺を殺そうとしたのに。」 「なんで殺されようって思うん。阿呆。」 「泣かないで下さいよ、いい大人のくせにー。」 「都合のええように大人扱いせんとって。」 「他人に殺されるくらいなら翔一さんに殺されたいし、俺。」 「これ以上泣かさんでやぁ、月ちゃ・・・っ!」 「はいはい。もう、泣かない。」 「月ちゃんが泣かすんやもん・・・。」 「解りましたよ胸くらい貸しますよ。」 ぐいぐいと腕を回され、すっかりいつもの姿に立ち戻った今吉の肩に伊月は顎を乗せた。 「天野にはもう会うな。」 「それは多分無理です。」 「会うな!」 厳しくなる口調が血を吐きそうに訴えるが、それはそのまま簡単にいなされた。 「だって、多分俺、翔一さんに殺されないならあのひとに殺される。今吉翔一を知っている俺を、きっと天野さんは殺しに来る。」 せやから言いたなかった、とも今吉は洟を啜った。なんであの時気付かずに一人にしたんやろ、なんて後悔が今更、薄味にしたはずの雑煮は何故か少し辛くて、接吻けは涙の味がした。 今吉が伊月を抱く時は、他人の温度が欲しい時だ、と伊月は思う。これはきっと、甘え。どちらもが甘えている。恋愛という名に隠した劣情は生存本能。生きたいから今吉は伊月を抱く。死にたくないから、生きている実感を得ることが出来るから。 ああ、と伊月は思った。 「倖せ、だ。」 淡い呼吸が情交の中とは思えないほどの優しい声音で囁かれた。 「しあわせ?」 指を絡めて頬に寄せ、止まらない涙を愛人の手の甲に刻むように拭う。 「翔一さんを愛して、よかった。」 あなたがあなたでいられる場所が自分で、それはこの上ない僥倖だ。ぬるま湯というには熱い。釜茹でというには優しい。拷問のような、やわらかな熱。 するりと意識が蕩けて、ふっと浮上した時は幕が上がったばかりの舞台を眺めていた。 カチカチカチカチ・・・、と拍子の打つ音に伊月は瞼を持ち上げた。そして、夢だ、と思った。 誰も居ない客席に、ぽつんとひとり座らされたそこは寒々しいのに暖かい。 だって、夢だから。今は恋しくて愛しいひとの腕の中で眠っているのだから。目の前の光景がどんなに醜悪でも残酷でも、それはもう構わない。 「やあやあ、天下の今吉ともあろう男が随分と誑し込まされたもんやなぁ。」 大袈裟に肩を竦めた、少女でも少年でも、男でも女でも、大人でも子供でもない人物が、狂いの羽織袴で嘆息しながら舞台上で黒い浴衣の狐目の男に笑いかけた。 笑顔なのに、笑顔では無い。そんな残忍とも呼べそうな表情で。 「殺す気か?」 「ええもん見れたし、今日はやらかさん。見たとこ医学齧っとるだけの普通のこぉやし、肋骨の一本でも掠めてほっといたら多分死ぬし。でも、今はせぇへんよ。」 「どういう風の吹き回しや?」 ざあざあと、背景に作られた梅の木が揺れた。ちらちらと紙で作られた雪が舞い落ちて、篝火が焚かれる幻想的な舞台は更に登場人物を増やす。黒いブレザーの青年は、口端を上げて悪辣に笑った。 「おめーが可哀想だっつー話だ、バァカ。」 でもな、といつも眉間に縦皺が刻まれるその愛嬌ある眉が更に寄る。 「こいつはもっと可哀想だ。」 「可哀想。」 「ここまで巻き込んどいて、思うてへんとは言わさへん。」 すっと女のよう、というには繊細さの欠ける仕草で指先が狐目の男の心臓を指差す。さんばらの髪が篝火の風に煽られて燃え立つように、毛先が血色に美しく醜悪に輝く。 「慰安旅行で、ほんまは殺すつもりやってん。」 「・・・真。」 「言うなよ。俺だって話を回されるまで気付けなかった。古橋のテリトリーだったからな。」 俺だって被害者だったんだぜぇ、なんて黒いブレザーの青年は肩を竦めるポケットから万年筆を取り出して指先で回し、自分の頸動脈付近に突き付けて握ると真っ赤に舌を出す。 慰安旅行、と伊月は首を傾げた。落とされた橋を、落ちかけた自分を思い出した。すうっと血の気が引く音を聞いた。 「失敗した、て聞いて。この子を殺すには、まずお前や思うてな、表の手順踏んで捕まえようとしたんやけど、ほんまあんたは今吉翔一やなぁ。随分周到に立ち回って真犯人確保や。あの寒い日ぃに浴衣一枚でよぉやったなぁ。」 花宮を刺した現行犯を取り押さえられてそのまま逃げた今吉は、伊月の働きで嫌疑から免れている。あれも仕組まれていた。裏で糸を引いた人間がいた。あの計画を犯人に与えたのは、あの狂った羽織袴。 「どこまでがお前の差し金や。」 「どこまでやろ?こんだけかな?全部かなぁ?」 くすくす。子供のように笑って、獲物が罠にかかったのを確信したような、笑み。 「子供が隠されたんは何でかなぁ?マトリョーシカも足りへんままやんなぁ?幽霊はほんまにおらんかったんかなぁ?親子喧嘩の真相はどないかなぁ?教授と生徒の仲が拗れたんもなんでやろぉ?ストラディバリウスは結局誰に譲られたんやろなぁ?なんであの娘は妬まれたんやろぉ?阿片はいつからばら撒かれたんかなぁ?あの壺は誰が買うたんやろなぁ?」 「・・・しょ、ーいちさ・・・。」 声は、思ったより掠れた。 「俊。」 じっと、舞台から注がれる視線に、身が竦んだ。動いたら殺される。 「この子、ほんまは好きなんよ。頭はええし、知識もあるし、鷲の目って呼んどるんやっけ?視野も広い。運動神経もええやんか。ほんまはウチが欲しいくらいやで。」 「渡さん。」 けたけたけたけた。壊れた玩具のような笑い声が舞台に響く。 けたけたけたけたけたけたけたけたけたけたけた・・・。 「そんなんどないでもなるわ。どうでもええわ。ただ、こっちは慈善でやとんちゃうで?この子の言う事やと、カッコええから、憧れたから、天野屋利兵衛は拷問に口を割らんかった。やったらカッコようて憧れの今吉翔一のためやったら、きっとこの子は何でもする。試そか?」 舞台にいるその人物は、客席に座る伊月を随分と距離を短く呼ばう。あの腕の中に絡め取られそうな錯覚を、黒い浴衣の男を見て振り払う。 壊れ狂った高笑いは舞台上に醜悪に残酷にしかし美しく響き渡る。黒い浴衣の男は表情を険しく歪め、黒いブレザーの青年はじっとその遣り取りを見ている。痛ましい過去にいつも歪に嗤っているくちびるの形が苦悩に歪む。 「昔のお前もしたやろ?謀反の情報握るんに、男の体で男誑かした。真もそうやんな。真にその技仕込んだんもお前やろ?まだまだ、あーんなこんまい時期やったのに、お外で遊びたい盛りやったんに、奥の間連れ込んで教え込んで指示したやろ?真みたいに頭のええ子もそうおらん。逃がしたらあかんて焦ったんやんなぁ?」 ぎちりと奥歯を噛む音が、観客の茣蓙の上に妙に響き渡った。舞台の上の出来事を、暴露されていく真実を、伊月は何も考えることが出来ずにただただ聞いて、受け止めて、呼吸をして、しかし瞬きさえする暇もなくころころと話は転がり堕ちていく。きっとこれは、彼らが伊月に知られることをずっと避けてきたそれだ。付かず離れずのこころの距離を保った黒いブレザーの青年と、隙間なく抱き合うこころの奥底に隠し扉を作った男の、暗い、昏い、深淵。 そうか、と伊月はなんとなく思った。これは夢ではない。 「人買いに売らせて情報のために体を売らせる術を教えたんはお前や、今吉翔一。この子もそうやって使うつもりちゃうの?正直にゆうてみ?自分は怒らんよ?やってそないせぇゆうたん、自分やもん。良心の呵責なんて疾の昔に焼き芋の材料にでもしたったわ。美味しいに焼けるで?知っとるやろ?」 ひらひらと黒い袂が揺れる。耐え切れない、と口元を抑えて喉の奥でくふと吹き出し、また、けたけたけたけたけたけた・・・。嗤いに揺れる声で、かきねのかきねのまがりがどぉ、なんて狂った歯車は唄い、しもやけおててはもうかゆない?とからかうように歌詞を変えた。 「相変わらず狂った頭だな。」 黒いブレザーの青年がぽつりと呟き、せやで、と狂いの紋付き袴はその場で黒い薔薇のように舞った。 「自分は正常に狂っとる。そこに矜持があるんや。」 「狂気の自己申告たぁ笑えない冗談だな。」 青年の言葉にそれはくるりと客席に、壮絶な殺気を孕む、茶色というより橙色に近い瞳を伊月に向けた。 「あったかいもんなぁ、汚れてへんガキ、ゆうのは。体温が高いんちゃうよ。ぬるま湯は霜焼けを癒すやろ?それと一緒や。お前はこの子で暖をとっとる、んー?暖を盗っとる狐に過ぎん。お前も、真も。」 ふざけんな、と獣が唸るような声音に、駄目だ、と伊月は思った。何が駄目なのかはわからない。解らないけれど、駄目だ。ひゅうっと不自然な喉の動きに、ゆるりと梅の木が揺れた。蕾は、きっともう直ぐ。 「どしても、そうやな。どうしても自分に渡したないーゆうんやったら、精々無駄に気張って潰れ?自分は知らぬ存ぜぬを貫き通す。あの子にも、あの子にも、この子にも。今吉翔一が死んだとしても、だぁれも困らんこの世界はな、ほんまによぉ出来とんで?勘違いせんでや?」 優雅な舞踊を踏むように、袴の裾は捌かれ、刀に見立てた扇子がすっと狂い一文字の家紋の下から現れる。それはゆっくりと、狐目の男を裂くように袈裟斬りに近い曲線を描いた。 「自分が死んでもそれは変わらん。花宮真が死んでもまた新しい上司があの子らには宛がわれるだけ。この子が死んでもお前には知る術は無い。それくらいは容易い事やろ?あんたが一番理解してんちゃうの?家族はおらん?自分で棄てたくせに。両親の顔を知らん?嘘やろ?自分で屠っといて。兄弟はおらん?嘘やん。あんな楽しそうに裂いたやないの。忘れたとは言わせんよ。それをぜぇんぶ知らんふりして、一人だけ長閑に暮らしよって。」 すっと猫のような眼が獰猛に輝く。 「自分は絶対許さんよ。」 ニィっと犬歯が鋭く燿る。 「逃げられると思うなよ。」 扇子だったそれは、いつの間にか戦慄っとするほど美しく晃く白刃になっていた。 「天野屋はいつか、お前を殺す。」 カチン、と鞘に白刃が収まり、羽織袴を綺麗に捌いてその男でも女でもない、大人でも子供でもない、そしてヒトでもケモノでもない生き物は舞台の上手に姿を消した。 黒いブレザーの青年は、舞台中央に立ち尽くす狐目の男に一度視線をやったが、そのまま舞台の下手に歩き去った。 「俊。」 そう、男が呟くと、カチカチカチカチカチ・・・と拍子が鳴って舞台の幕は下りた。 夢は、夢では無くなった。花宮に持っていこうと包んであった入れ物が風呂敷ごと消えていたのを鷲の目は見てしまったから。 「翔一さん。」 「ん?」 カーテンの無い窓の下、射し込む朝日に綺麗な扇形の睫毛がゆっくりと持ち上がる。天使の輪色に耀く黒髪は枕になっている腕の中でしゃらんと絹糸のように揺れた。 「しょ、いちさん?」 「うん?おはよう、月ちゃん。」 さらりと黒髪を撫ぜられてその骨ばった、固い手のひらに擦り寄る。 「どないしたん。準備は昼からにせんか。ゆっくり寝より?」 「・・・翔一さん。」 「ん?」 「もう一回、呼んで。」 「月ちゃん。」 「うん。」 そんな、他愛もない遣り取りだけが、酷くこころを落ち着ける。肌に触れる肌だとか、耳触りのいい珍しいイントネーションの声音だとか、三白眼の中の明るい光彩だとか、安い石鹸の香りに交じる薄い体臭だとか、くちびるに触れた愛人の粘膜のあまい味だとか。 「今夜も泊まっていい?」 「月ちゃん、ちゃんと起きてる?」 「・・・不思議なくらい、なんか、すっきりと。」 いつもはうだうだぐらぐらと血が上ってくるまで起き上がってこないし会話も成立しない、下手をすれば忘れている、それくらいに面白い低血圧な起き抜けを披露するくせ、今朝の、と言っても時計は朝の時間をもう直ぐ終えるが。伊月は妙にはっきりとした声音で今吉に告げた。 日に焼けない腕はきゅっと今吉の首に回って、昨夜爪痕を刻んだそこを悪戯っぽく撫ぜた。 「ちゃんと起きなさい。」 「なんかそーゆー気分じゃなくってですねー。」 なんていうのかなぁ、とそのまま目の前にあった鎖骨を甘く噛む。ぴく、と男の肩が振れるのに、つうっと舌でなぞった。 「誘ってんの?」 「いいえ?美味しそうだなって。」 ぺとり、ひたり、指先は、どんな由来で傷つけられたのかを昨夜教わった傷跡を撫ぜて、慈しむように、手当でもするように赤い舌が舐めた。 「月ちゃん、脇腹ワシ弱い。」 「・・・。さて、事務所行きますか。花宮さんにお雑煮差し入れなきゃ。」 包みが無いのは気付かない振りで、ぴょこっと起き上がって、ちょっと体外的には起き上がれない今吉に真っ白に磨かれた背中を晒した。肩甲骨に真っ赤に咲き乱れている所有印に、今吉はその首を決めて引きずり倒した。 「こら、翔一さんっ。」 ぽふっと布団の中に転がされながら伊月はちいさく抗議して身を捩る。 「いま、一瞬呼吸止まったじゃないですかっ・・・。」 「俊が悪いん。」 「・・・っあ。」 俯せに転がった痩躯はそろりっと撫ぜられた臍のラインに身を震わせて、肩越しに今吉を振り返った伊月は綺麗に笑って魅せた。晒される首筋に噛み付いて、やさしい獣は頬を捕まえられて接吻けられた。 「今年もよろしくどうぞ、翔一さん。」 「来年もよろしゅうな、月ちゃん。」 「来年の話は鬼が笑うんですってね。」 「月ちゃんの鬼―。」 鬼が出るか蛇が出るか。そんな賭けはきっと成立しない今朝の中、二人はくすくすと囀った。 今吉探偵事務所、仕事始めは一月四日から。 今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。 |
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思いの外オリキャラが出張ってしまったというね。苦手な方すいません。でもあの役は名前のあるキャラにはさせることが出来なかったのです。それは夢か現か幻か。後編へどうぞ。■タグありがとうございます!!展開的に嫌われるんじゃないかと思ったんですが、そう言って頂けて幸いです。今回は本当に言葉合戦って感じでアレでしたね。翔一さんと月ちゃんはもう破れ鍋に綴蓋とでも言いましょうかwww諺は趣味で作られるもんちゃうねんで〜ですよね二人してさ!!
2013年01月01日 00:17初出。
読者さまに翔一さんの味方の方はおられませんか状態だったんですが、黒バスって作品の性質考えたらそうだよね皆これじゃあ月ちゃんの味方しちゃうよねっていうねw
20130118masai