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龍津道を馬車が駆け抜けた。
通行人が数人轢かれて撥ねられて、死体が量産されたが、埋葬をしようとする人間はいない。 散らばった売り物を物売りは回収し、何事も無く歩き出し、蹴り飛ばしてからやっと気付いたらしく、そこから金目のものを奪うのに後れを取ったと悟れば、狗屁、と言い放ち、今度は悪意を込めて蹴り飛ばす。 千切れ飛んだ首の皮膚から泥のように流れ出る血を、ぱしゃん、と跳ねあげて、彼は走る。 今吉探偵と伊月助手と城塞舞踏会。後篇。 仄暗い商売で売れた顔を曝して歩くもんちゃうよ。 「翔一、さんの、ばかぁ!」 顔を覆っていた布は剥がれた。袖無しと結びきりの粗末な恰好で良く気付いたなと思ったが、寧ろその軽装に顔を覆ったのが不自然だったと気付いた時は自己嫌悪で己の軽率さを顧みる羽目になった。昨日の仕合以来、藍は?が部屋を出ても咎めなくなった。女性とは不思議なものである、と思ったのも軽率だった。 あの何重もの扉に隠された部屋が何者にも約束された、彼女にとっての安全地帯だった訳である。 祖国ではなかなかお目に掛かれない野菜や果物、何の肉かは知らないが、良い具合に匂った香りに、夕飯を考えながら商店街を歩いていれば、少しばかり人道を外れた人間に周囲を囲まれ、慌てて身を翻す際に覆面を剥がれ、その整った顔立ちと美しい黒髪と白磁の肌に、意志の強そうな黒曜石色の瞳に、?宝石と呼ばれる青年だと気付かれた。 不衛生な刃物が頬を掠って、下衣に括り付けてあった物入れからナイフを出して、相手が怯んだ隙に逃げてきた。 が、それも一瞬のうちで、今度はどこから出たのか倍に近い人数に追いかけられることになった。体調は最悪。連日の稽古や仕合に怪我の絶えない体には優しくない。そもそもは今吉に会うため、伊月はあの部屋から藍の笑顔に見送られて出て来たのだ。龍城路の三叉路から龍津後街。裏街道に近いが随分と賑やかしいのは薬に酔った若者が物を鳴らして遊んで金を乞うために芸を披露しているから。 パン、と破裂音と、ガシャン、と硝子の割れる音に、伊月は飛び退る。うげっ、と思わず呻いたのは、追手の手に持たれた小銃を見つけたから。火薬の臭いに路地は静まり、次の瞬間に発狂したように路地はざわめき、幸運にも人波に飲まれるとこが出来た体をそのまま、更に裏道への路地に疾走。 「・・・疾走して失踪。キタコレ。」 「我不是来!」 背後に迫る手刀には、腕で防御を作るとそのまま蹴り上げた。 「ちっ。」 フェイントに噛まれた手首から薄い刃物を弾かれ、暗い路地に、からりと落ちた。 光明街、とは一切の光が射さない真っ暗な路地を皮肉った名称でもあるのだろう、そうして弾いた腕を伊月は捕まえる。 「舌打ちしたろ。」 「してねーよ、?先生?」 花宮は低く笑いながら、高くに放った荷物を捕まえて抱える。 「裸片咀嚼眼。」 「言うね。」 「ある程度。」 「その草履はどうした。」 「編んだ。」 到底それなりの両家の子息と思えぬ言葉に花宮はぽかりと口を開け、昔ひい祖父さんに教わって、と指先を玩ぶ伊月が振り返るまでに表情を作り直す。間が抜けていて我ながら笑えた。 「藁はどこのだ。」 「藍さんに頼んだら手に入れてくれた。」 「ああ、そういや。」 「なに?」 「脱童貞おめでとさん。」 見事に繰り出される蹴りから、芙蓉は華麗とも呼べそうな足捌きで逃げた。 「二つの意味で蹴り潰してやろうか、こら。」 きゃあ、と娼館から伸びてきた手を振り払って、二人はそのまま一定の距離を保って歩く。追跡者がいることは既にある程度把握済み。行き場のあるようで無いような足取りに、背後の連中も戸惑っているようで。 「上。」 「りょーかい。」 暗い昏い路地の中、頭上にぽたんと落ちてきた藁草履に、一人が顔を上げた。 「失礼!」 ごつ、と側頭部に叩き込まれた踵に頚の骨が鳴る。眉間に撃ち込まれた拳に黒目が瞼に隠れ、眼球を指先に潰されて、同時に喉も潰されれば出るのは死に体だけだ。腹部と胸部の強打に意識を飛ばせば、ご丁寧に今度は頭を打たないように襟を掴まれ、そのまま壁に凭れる形で引きずって座らせる。 「失礼とかゆっといてよくやるよ・・・。」 「先にちゃんと詫びたもん。」 藁草履はペンライトで照らして引っ掛け、とつと爪先を遊んで踏みの具合を確認。 「芙蓉先生!?我?一起玩。」 「我很抱歉,但有?在先。」 「?宝石?!我不?我很相似??」 「?的人。」 遊び女を適当にあしらい、所々に男にも声を掛けられ、不必要的、如果?片、と怒鳴りつけ、場合によっては暴力にも訴える。女を買いに来た訳でも薬で遊びに来た訳でも無い。光明街に於いては、どうしてそんな態度が出来るという話だが、そうでもしないと相手を調子に乗らせるだけで、特に芙蓉はこの地域では優遇される立場であるので、力を力で制するのは半ば仕事のようだ。 「おっすーただいまー。」 「あ、真さんお帰りなさい。月さんいらっしゃい。」 「百園さん、翔一さんのうつってる・・・。」 「しゃーねーだろ。行動範囲限定されてんだ。」 「今吉さんなら先に奥に。」 「ありがとう。」 百園が花宮から荷物を受け取り、竈に掛かった鍋を覗き込む。俎板を出してきて、肉とエレキテルの下に色彩豊かな野菜を切って、鍋に放り込む。 「あ、真さん、柑橘類無かった?」 「ん、じゃあちょっと龍津路まで遠出だな。」 「変なのに見つからないようにね。」 「バァカ。んなヘマすっかよ、?じゃあるめぇ。」 「うっさいばか!」 全く持って図星なわけで、伊月はそのまま足音荒く、押入れを開けて、滑り込むように消えた。 「翔一さんっ。」 板張りの床に広い天井。店の一つを買い取って、奥の間を好きに芙蓉が改造した部屋は、奇妙な半地下空洞になっている。 「おお、月ちゃん、童貞卒業おめでとさん。」 「あんたも言うかっ!?」 こちらに来てから暴力で物事を解決する癖でも付いたのか、そもそも伊月に暴力によって生きる世界の規則を叩き込んだのは今吉であるから、顔面目掛けて飛んできた草鞋の裏に、ひょいっと首を傾げることで避ける。手慣れやがって、と伊月は足首を掴まれたまま、壮絶な筋肉のバランスで持って、腰に括ってきた物入れから紙を取り出す。 「はい、提出です。」 「うん?」 「因みに不貞は働いておりませんので悪しからず。」 ぺろ、と赤い舌を出して悪戯気にしかし、怜悧な切れ長の目は艶っぽく色を含んで流された。お前だけの男だと。 ?想有??多?。―そんなに金が欲しいのか。 把???我。―金返せ。 叛徒!―裏切り者! 「?のレート、今どのくらいです?」 「芙蓉の半分、ゆーとこちゃうか。芙蓉は十年前にいっぺん優勝しとるから。」 「?にも藍にも俺にも金は入ってませんよね?」 「藍ちゃんは解らんけど、月ちゃんは貰うてへんねんな?」 「俺が翔一さんに嘘を吐いたことは?」 「ないな。運営側も不正しとるとは思えんけど。」 「いい加減足放して翔一さん?」 そろそろ片脚が耐え切れなくなってきたところで、可愛らしく小首を傾げた伊月に、にんまりと今吉は笑みを返す。伊月の笑顔がまるで仮面のように凍ったのは、くい、と掲げられた足首の位置が変わったからで、うわ、と素直に驚愕の声音を漏らして、反射的に転ばぬようにと後ろに脚が滑る。 「翔一さん、ちょ、まじ、膝つっら・・・!」 「ほなやっぱり地下探らなあかんな。主さんからの連絡あらへんし・・・。」 「聞いてくださいって、ころぶっ!?」 「はい、ころーん。」 「うひゃぁ!?」 ぴ、っと軽く足を弾かれ、しかし頭を打つ前に愛する手のひらが受け止めてくれる。安心して転べるということで。 「では、藍さんは今のままで?」 「せやね。問題は?の身の置き場なんけけど・・・。」 「ここじゃ駄目です?」 「藍ちゃんにどこまで自覚あるか解らんかいなー・・・。」 伊月に圧し掛かるように転がってきた今吉の視線は、明らかに伊月の、伊月が演じた?の所業を責めている。う、と言葉に詰まって、視線を逸らす。一時的な記憶喪失か、と伊月は分析しており、躁鬱の初期症状、後期症状でもあると、そこまでは考えてある。 「ええよ?一回くらいの不貞なら許したる。」 「いいいいやあの、いいいいです遠慮しますうぅ・・・!!」 じっとりと舐めるような視線に寒気と火照りが同時に発生するのはどういう仕掛けなのだか、脇腹についと滑った指先だけで爪先までぴんと跳ねた。 「しょ、翔一さん。」 「うんー?」 「ご、めんなさい。」 うん、と紙面を見たままの空返事に、伊月は少し泣きたい。 「いやもうほんと、飼い猫には不相応な真似しましたって。あれからなんもしてないですまじで。舌入れるのすら彼女知らないんですから。」 「どうやって知った。」 墓穴かと思いきや。 「だって、彼女は暇さえあれば俺にくっつきたがって、けれども唇は押し当てるだけなので。」 なんだか随分可愛らしい、嫉妬というか焼きもちというか、中年男のそんなものを見て何が面白いと花宮なら言うだろうが。 「翔一さん、かわいい。」 ふふ、と思わず零れた笑い声は随分と艶っぽく、鼻先をちろりと舐めた舌を掻っ攫うような深いくち吻けに快楽に素直に喉が鳴る。 「あー、も、くっそ・・・。」 全部投げ出してしまいたい、とばかりに呼吸の合間に取った隙間を伊月が詰めて、れるりと真っ赤な舌を扇情的に遊ばせる。 「はは、月ちゃん、ここ一応・・・。」 公共の訓練場だなんて、そんな話は伊月も知っている。言わせるか、とやわらかくくとびるを噛み、弾んだ呼吸で舌を吸う。乳に飢えた赤子のようだな、と考えれば後頭部に腕を回され、舌を捲られ奥にまで舐め啜ろうとする相手の肩に、思わず縋る。酸素が足りなくて気持ち良すぎて目が回る。 「っは、あ。」 はふ、と熱い呼吸を今吉の肩に当て、そろそろと背骨を数えるように強弱を付けながら撫ぜてくる指先が、戦慄っと全身が粟立たせる。 「あ、翔一さ・・・。」 「おしまい。」 ちゅ、っと囀るようにくちびるを落とされ、素っ気なくも柔らかく微笑みながら言われ、ふえ、と泣きそうに啼く。 「ここまで。余所の男の匂いで浮気が暴露れてええんやったら最後までしたる。」 「・・・どっちが浮気です?」 「?ちゃんは小悪魔や。」 大層可笑しそうに、しかしからかうように額を弾かれて、腰を抱かれて身を起こす。 「あ、そういえばKは。」 「?ちゃんの仕合が終わってすぐにいんだみたいやで。芙蓉となんぞ遣り取りしてな。あれも芙蓉が優勝した次の年に優勝?ぎ取っとる。月ちゃんが心配するまでもあらへん。」 そりゃどうも、と伊月は頬が引き攣りそうになるのを何とか宥める。 「これって中華民国樹立後直後から始まった行事ですよね?何の意味があるんです?年に二回も。」 ええとこの坊主には程遠い話やんなぁ、と今吉に頭を撫でられ、ぺいっと伊月は容赦なく振り払う。本当の事だけに反論できない。 「人間の欲望の話や。この辺は昔から海賊やら清と英吉利で政権争いやらあったからな。」 「阿片戦争。」 「そ。第二次阿片戦争は仏蘭西も噛んだ。下ばっかり見さされた人間が上を向いて、更に上があると目指したとしたら。」 「それもう政権どうのって話じゃないですね。国も何も関係ない・・・。」 この度芙蓉と?宝石が選手登録している大会に正式名称は無い。正式な開催日も決まっていない。選手登録方法も、様々で、?宝石の場合は暴漢に攫われた娘を助けるところからスタートした。その娘が藍だった。実はここにも仕込みはあるが、今は割愛。大会には唯一絶対規則、不殺があるが、大概にして結果的には反故になる。適切な治療が無ければ病理や怪我はあっという間に身体を腐らせる。東頭村道には医師は多いが医師を名乗るだけなら免許や腕は不要。そこから既にこの得体の知れない巨大な要塞城の姿は知れるもの。 城の中で生まれて城の中で死ぬ。 それはこの歪んだ要塞の中で作られた唯一の常識。 その常識という名の非道から、抜け出すための殺仕合。負ければ死か次の挑戦へ。勝ち上がって優勝すれば、外への道が得られる。 花宮が十年前に芙蓉として入り込んだ際は、抜け出すのに丸一年かかったと聞いてある。黒子はどうだか知らないが、彼も同じような荒治療は受けている筈だ。芙蓉を知る者は知っている。賭博だって勿論存在する。但し、大会においては一人にしか掛けられない。負ければそこで終わり、勝てば、優勝すれば一生を遊んで暮らせる金が手に入る。その後の一生が五十年になるか百年になるか、一分になるかはその人間次第。 多くの人間が魑魅魍魎のように暮らすそこは、今夜は黄色い半月に浮いている。エレキテルも然程普及していない街並みの外に、暗く昏く不気味に、十世紀の時代から増えたり減ったりを繰り返し、様々に要塞の形状を変えながら、ずっと。 芙蓉が居を置く光明街は、名前に反して光の入らない深く暗い場所にある。試したところ、無線の電波も入らない。かといって新しい場所に住まいを作れば目立つし、と試行錯誤の結果、そんな場所に彼らは拠点を置いてある。 唯一伊月だけがフレキシブルでイレギュラーだった。 「で、この脅迫状擬きやけど。」 「ですね、一応ここまで勝ち上がってる人間に、そう簡単に喧嘩を売ろうとは、俺なら思わないです。」 「さすがワシの月ちゃん。」 子供扱いされるように撫でられたが、生憎嫌な気持ちにならないのは、きっと惚れた腫れたの何とやら、というところで。 「それじゃあそろそろ戻りますよ。藍さんの身の安全のためにも。」 「あっこまで見せつけとったら?ちゃんの恩恵もちょっとはあるやろ。」 「問題は自宅が露見した、というところです。」 ここで恋しがっても仕事に支障が出るだけだ。帰ってからあの馴染のベッドの上で存分に愛し愛されと夜更かしすればいい。 「これ、次の対戦相手の情報な。」 「恩に着ます。」 「どうせ帰ったら脱ぐんやからええよ。」 裏方の仕事や、と今吉は似合わぬ背広のままその場に転がって、ひらひらと伊月には手を振った。身軽に伊月も立ち上がって脚の筋を確認すると、部屋を出る。百園と花宮にそれぞれ挨拶を告げると、上階だけを目指して足を踏み出す。 何度通っても迷いそうな道のりに、死骸はなかった。邪魔だと掃除されたのか、最悪食われることもある。正しくこの場所は弱肉強食なのだ。 「我回来了、藍。」 「?迎回来、?・・・。」 何重もある扉の一枚目を開けたところに彼女はいた。帰宅を告げた彼にそろそろと寄ってきた藍の衣服に乱れは無く、怪我も無い。抱き寄せて?はそれを確かめる。何の比喩でも無く、ただ沿い合って二人は夜を過ごし、そして約束の朝、龍津義學の前に出された舞台は破砕された痕跡を直す事すら面倒なのか、毎回新たに板が張られる。ベロアシューズにその感触を覚え込ませ、凛と前を見据える?の目の前に、ズドンと衝撃。決勝準決勝は武器の使用は許可されている。 「斬馬刀、だっけかな。」 「不要?找。」 軽すぎる要求が頭上から聞こえる。く、と口の端が吊り上った。高い位置から見下ろしてくる相手は自分とそう身長は変わらぬだろうが、腕や脚が倍ほどの太さを誇っている。流石に小細工は通じない、というわけで。 今朝は?の試合のみ。芙蓉は明日だ。中日を置いて、明々後日に決勝。事実上、彼らは今日明日を勝てばいい。 「我不会愿意逃?。如果?人。娜、但?。」 「それは敵わない。」 どれだけ挑発しても涼しげに肩を竦めて、いっそ美麗なほどに笑った?に、男の肩が怒り上がった。 「あのバカ。」 高みの見物を決め込んでいる華宵はふはりとどこか蠱惑に煙管に煙草を揺らしている。 キンッ、と刃が立つ音が聞こえれば上出来。伊月に高所からの攻撃は鬼門だと、花宮は思っている。俯瞰の眼を持つ男は、頭上からの攻撃に対する反応が異常なほど速い。 「?始!」 対戦カードの旗が上がった瞬間、スリットから惜しげも無く曝け出された白い脛の引っ掻き傷すら美しいその男は、赤い服に白い肌に、真っ赤な鮮やかな飛沫を浴びて、艶やかに耀く黒髪を深い色に染めた。 「???????!?」 叩き潰すための巨大な刃に足を掛けていた男の両足から血が吹いた。血気盛んだった顔から一気に血が抜ける。真っ白な顔色で板場に崩れ落ち、何が起こったか理解出来ていない審判に、す、と静かに視線をやって、そのまま鮮血を滴らせて、救護の待つ場所に目を向ける。まるで温度を感じさせない視線に、戦慄っと背を震わせた観客の短い悲鳴に、審判は状況を把握したらしい。 「?!?决?的决定!」 試合終了の声を聞いて、血溜りを作りながら静かに歩き去る?の後ろを慌てて藍が追う。 「ごめん、水場、近くにある?」 かなくさい、と袖を払いながら、伊月は藍が頷いて懸命に案内しようとした先に、数名の屈強な男を見て足を止めた。 「どけよ。」 怒気も殺気も、覇気すらない声のたった三文字。彼らは賢明ながら理解出来たらしい。要塞にたったひとつの古井戸の前に頭を垂れ、一人が走ったかと思えば、盥を持って来て?に渡した。 「差哦、我没有?通。我去???里抹去的存在。」 鮮血滴る美貌に、消えろと言われてしまって、彼らはそのまま腰が引けるように逃げた。 「??」 「もう少しの、辛抱だから。」 その場に赤いドレスを脱ぎ去れば、脇腹に、肩に、腕に、擦過傷や痣が酷いのが誰にでも見て取れる。随分と過酷な道のりが結果に結びついたものだ、と血を洗い流す。金臭い、と思った。 ぱちぱち、と随分と嫋やかに手を弾く音が背後に見えて、伊月は扇形の睫毛で水滴を弾いた。 「華宵。」 「?、?宝石。我那?美?。?吐是可能。」 「我很高?、理解是相互的深深。」 中身の無い皮肉の応酬の傍ら、とん、と華宵は煙管を弾く。煙が細く、切れた。ふ、と大層美麗に笑った?は、そのまま藍の手を引いて。 「帰れるよ、俵田藍子さん。」 「・・・え?」 俵田藍子。十六歳。半分日本人で、四分の一が独逸人、八分の一に仏蘭西人、もう八分の一は伊太利人。育ちは日本で俵田家は代々江戸時代より昔から中国人に日本語を教えていた。 「?宝石、本当!?」 「らんばおしーって、いい加減止めません?御父上の安否確認出来ました。御母上もご健勝なようです。」 「だって、貴方、本当に?宝石のようなんですもの。」 うっとりと俵田は述べてくれるが、伊月とて男であって、宝石に譬えられてもそれが誉め言葉かどうかの判別が解らない。 「明々後日の晩の船?」 「不要?得太多。我不知道在?里可以听到。」 「そっちの言葉のが聞かれてアレだと思うけど。」 肝心な場所は隠せばいいんだよ、とその男娼は明日の闘いに不戦勝を決めるとは予想もつかない程に艶やかに嫋やかで淑やかに躾けられてありながら婀娜っぽい。 「おい、阿片じゃなかろうな。」 「流石に俺でも自分の体が可愛いさ。」 にぃ、っと口の端を吊り上げ、艶めかしくくちびるを舐めるように舌を出し、姿を消した。 「?宝石、?宝石?」 「だから、らんばおしーじゃ・・・。」 乙女のくちびるに、伊月の声は蕩けて消えた。ちろ、と薄い頼りない舌がくちびるを舐め、やさしく侵入して来ようとするのに、優しい色の長い睫毛が震えて薄い色素の瞳がゆるゆると涙に滲んでいるのも、折れそうな指が薄いと言っても鍛えられている肩にしっとりと乗せられて、あまい馨りに、彼は座り込んだ。 「?宝石・・・?」 「ご、め。びっくり、した。」 「あらやだ。」 かわいい、と頬にくちづけられて、全く持って想定外の事態が起きているのに、伊月は手を掲げて、真っ赤になった貌を懸命に彼女から逸らそうと足掻いて、ぺったりと座り込んだその場に、頭から水を浴びた現在、寝耳に水の気分で彼女から素直に示される行為にどくどくと、心臓が賑わうのが収まらない。 初めて覚えた女の味は、酷く、甘美。 優勝の際の要求は、本人と、本人以外の四人の身の自由と、それから金に物を言わせた船は今吉の勝ち金。全ては彼らの手のひらの内に、一国の内情にも深く絡まった城塞の、そこから漕ぎ出した支那薄色海豚の住む内海から、香港へ。 夕方の太陽が複雑に建造物で縺れ合ったそれは、酷く滑稽にも安っぽくも、玩具のようにも見えた。夕日に真っ赤に染まった海が、血のようだと。揺れる水面を撫でていると、海豚が寄ってきた。 「月ちゃん、そいつら肉食やからね。」 大陸の漁師に扮した格好は、日光で肌が焦げる。二重の意味で熱い、と日焼けの習性が無い伊月と花宮は傘を手放せず、百園と俵田の女性二名のほうこそ強さを見せた。 「伊月―、仕事―。」 「お前もだ花宮・・・。」 大使館に連絡させた船が来るまでに、ホテルを取って置いてあった洋服に着替え、和服に着替え、伊月は誠凛大学生の証明でもあるインバネスを羽織る。百園には間宮昌美から用意された和服で、着方忘れてそう、なんて百園は笑って。 「俵田さんとは、長崎でお別れになります。」 俵田藍子の生家は帝都だが、俵田家の本家は長崎だ。彼女の叔父は依頼に今吉の事務所を訪ねた際に、正直に、寂しい、悲しい、と泣いて今回の、今吉が持てる伝手を全て使っての捜索結果、あの城塞に辿りついた。痩せこけてはいたが、言語はその場に相応しいそれで危害の無いよう、比較的治安の良い場所に自宅を買ってあったのは、妙技と呼べた。 「伊月さん、結婚のご予定は?」 提出書類の整頓は船の揺れと闘いながらになる。船酔いを起こす寸前に甲板に出て外気を浴びに来た伊月を待ち構えていたのは俵田の、真っ直ぐな視線だ。 「ありません。」 嘘は吐けない。そう思った。 「ありません。一生、きっと。」 「きっと?」 「法律が許すのなら、籍を入れても良いんですよ。」 でも翔一さん未婚だもん、なんて悪戯っぽく笑ってやれば、あらぁ、と素直に俵田は驚いたようだった。何度誘ってみても靡かない美しい男は、なんと他の男の物であったらしい。気付かなかったなんてどうかしてたわ、と俵田は、あの非日常の空間での、藍として過ごした日々を徐々に忘れつつある。?宝石、と呼んで愛した男は伊月という存在に上書きされ、忌まわしいものを見たであろう記憶は花宮が睡眠導入剤に少しだけ医療用の麻薬を混ぜて消している。 船旅の五日間は俵田家に報告すべき書類の整頓と、東シナ海との船酔いと闘って明け暮れた。長崎で二泊三日、丘酔いを治し、大型客船で東シナ海、瀬戸内、大阪湾から太平洋。 台風と交差する悲運は白浜で二泊。捕鯨を得意とする地域ではきちんと海の幸も堪能した一行は、やっと合計する事半月掛かって、東京湾、旧江戸、帝都に返ってくることが出来た。 「うーわー、日焼け酷いー。」 「焼けたつーか焦げたつー感じだよな・・・。」 シャツの袖やインバネスの裾が擦るだけでも、襟が触るだけでも痛い首筋に、城塞の中で暮らす内にだらしなく伸びていた髪も揃えた。 「せやから外遊びするときはお帽子しなさいゆうたやろ。」 「そうですよ、真さん、月さん、私だってあんなに注意したわ。」 「面目ありません。」 「だって船酔いしそうになるたび帽子とかめんどくせぇ・・・。」 百園さと。二十歳。こちらは明確な意思で持って人買いに売られていったところを、華宵が掴んで、あの城塞にて保護。捜索願の依頼主、間宮昌美は職場の仲間。彼女たち二人は謎に包まれたままの事件の鍵となる。 だが。 「ただいまー!間宮さんすいません、事務所任せてしまって!」 「あら、お帰りなさい。お茶を用意しましょうか?」 「百園ちゃん連れて帰ったでー。」 「あらあら、良い日焼け具合。さと、楽しかった?子供たちにお土産話はあるかしら?」 「今吉、俺もうこのまま一回帰って寝て、もっかい来るわ!」 「はいはい、まこっちゃんおつかれさん。」 「うあああ練習メニュー倍増してないかなぁ!無線届かなかったんだもんあっこー!」 「黒子クンおるから大丈夫ちゃうの?ほら、お家に日本帰ったでって報告しとき。」 「お電話お借りします!で、帰って風呂入って寝ます!」 「ワシもとっとと風呂入って寝たい・・・。」 すっかりぐったりへこたれた三人の男共は、間宮の柔らかい笑顔に優しく背中を押されて。 大きな目に綺麗に通った鼻筋と、笑顔の似合う口元が笑えば、一気に雰囲気が柔らかくなる彼女は、依頼に来た折から、金は要らないので出張している間事務所内の掃除や電話の処理を頼めないか、と頼んであった。新聞も全て、最後に見た時よりも整頓されたデスクに月毎に付箋を貼って保管してくれてある。 「はい、百園の無事はこの眼でしっかり確認しました。もう三日程度お世話できます。今吉さん、花宮さん、伊月さん。しっかり休んで、お仕事に備えなさって。」 ぽんぽん、と手のひらを叩き合わせ、笑顔という奉仕に対する最高の褒美も頂けて。 「お言葉に甘えます。」 暫しの休息、召し上がれ。 金臭くない水に、太陽の香りがする布団に、一汁三菜の鮮やかな食卓に、怪我をすることも他人を傷つけ貶め殺して手に入れる平穏なんて必要のない、そんな自宅でこころ許せるひと時を。 今吉探偵事務所、諸事情により三日ほど休ませて頂きます。 茶請け菓子に年甲斐無く喜びますので、お気軽にご依頼お越しください。 |
初出:2013年7月28日 02:02
そして次のステージへ。 ■botが出来ました。まだまだ調整中ですが。【@ITtanntei_bot】(7/28
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まーさんありがとうでした!!
こっからが大変だったというね。因みに今は無き九龍城を舞台に、こんなのあったら面白いなーと一人の中二患者が考えたんが発端やったんよ。
20140109masai