|
幾つもの扉の続く廊下のその一つ、藍は貴重品である水をバケツに汲んで、扉をノックする。
「・・・あつい。」 女性のようだ、と彼女は思った。しかし忙しなく上下する胸筋は鍛えられた男のそれで、扇型に綺麗に並んだ睫毛の、瞼の下に、何色の瞳が住んでいるのか、白磁の肌に指の背を這わせながら夢想する。 「哦,他会做什?美?。」 今吉探偵と伊月助手と城塞舞踏会。前篇。 真っ青な空には真っ白に輝く太陽が燦燦と照っており、板の間に転がった彼は、袖無しの襟元を揺らす。 「有没有?・・・高湿・・・?短。不是?。?。」 覚束ない言葉で、訴えるように、寝返りを打った板の間は、それ自体が熱を持っているようで、飛び起きた。この部屋は酷く太陽に近い場所にある。物は少ないし、日に寄っては食べ物の工面すら難しいこの城は、無風に埃が舞い上がり、湿気が肌に張り付き、日光が皮膚を焼く。単純に、不快指数の高さに、彼は殆ど挫けそうだ。 起き上がる事に成功したなら、次は立ち上がりたい。きしっ、と肘から力が抜けて、そのまま臥すように倒れた痩躯は、まるで言う事を聞いてくれない。 死にそうだ。 比喩でも何でもなく、彼はそう思った。 板の間と美しい黒髪の狭間に、真っ青な空と、真っ白な太陽と、遠くには速く流れる雨雲。下方には赤い瓦が日光を受けてきらきらと、故郷のそれとは違った甍の波模様は、やはり遠方に来たのだ、なんて。 「あつい・・・。」 ?!と廊下に響き渡った声に、ぐったりとそれまで寝返り意外に動こうとしなかった彼が動く。 「我不知道?醒了??宝石。良好的身体状况???斯?入的手!」 目鼻立ちのはっきりとした乙女は、眦に笑みを浮かべながら、彼の体調を心配しながら扉を開ける。ぜぇぜぇと、身体を起こそうとしている様子に眉を寄せる。 「我?竟?是没用。我来了,我得到了一些水。」 「・・・我不需要。」 「?・・・。」 彼女が用意しようという水すら大変に貴重なものだと、きちんと知っている。どうせ夕立の雨水なら軒先に吊るした盥に無料で手に入るのだ。わざわざ買ってくる必要は無い。そう、彼はその淡い色の瞳を真っ直ぐに見上げた。 「??,?不起。藍?」 白い指先は日に焼けたのか、日光を浴びた箇所は真っ赤に熱を持っている。切な気に眉を寄せた乙女は藍と呼ばれ、その名前よりもっと淡い、胡人のように空色に似た瞳の中で、傷の入った光彩が収縮するのに、彼女と比較すれば幾分も大きな手が、そっと、いたわるように頬を撫ぜてくれるので、板の間に座り込んで、その美しい黒髪を碧いマンダリンドレスを纏った膝に乗せ、黒曜石色の瞳が見つめ上げてくるその眉間にくちびるを落とす。無理しないで、と。 「くすぐったい・・・。」 「??」 すう、と静かに微笑った青年は、ゆるゆると瞼を落として、眦や頬に落ちてくるくちびるの感触に、制すように指先を、乙女のくちびるに押し当て、そのまま意識を失った。 幾重にも重なった扉に、何処までも続く廊下。それはもう、道と呼んで良い。蛇のように畝ったかと思えば、龍の鱗のようにどこにも部屋があり、そのどれにも誰をかの存在があり、通りが終わったかと思えば別の建物の中にいたり、歩いてきた道を振り返っては自分が歩いて来た道を見失いそうになったり、見慣れない場所で身包みを剥がされる、なんて日常のように治安が悪いと思ったり、酷く綺麗な廊下なのに毒の匂いしかしなかったり、随分と色々な生き物が生息するこの街は。 闇の中に不気味に聳え立つ要塞は、所々に阿片を灯す光がちりちりと窓の奥で輝いていたり、月明かりを浴びるのみの鍵の無い窓があったり、カーテンを引かれた闇の空間が見える。 「う、ぁ、あ・・・。」 全身の肉が削げる痛みに彼は目を開ける。 呼吸と共に漏れた喘ぎに藍が起き出し、貴重な蝋燭の火を灯す。夕立から恵まれた水で手拭いを濡らし、汗と涙を拭ってくれる。 「??・・・。」 「?客气?生了什???。」 ?宝石、サファイアを意味する言葉で彼は藍に呼ばれた。首筋に貼りついた汗を拭って、彼女はその宝石に微笑みかけた。?、と。 「お前のためだから、闘える。」 睦言のように甘く囁かれた言葉は、何故か藍のこころに響かない。異国の言葉だからではない。彼にとっての『お前』が彼女で無いからだ。うっそりと首を傾げた色濃い萌香に目が回りそうだ。 「??」 「?我多睡了一小?」 「好的、?。」 「??。」 ほぼ二週間、彼は部屋から動けずに過ごしている。傷だらけの体で動かないだけでなく、粗末な食事と少量の水は生き延びるだけの精一杯で、体中の脂肪や、筋肉すら、身体は分解し、吸収しようとする。元来筋肉の着きづらい体質が、また更に痩せ細る。藍が隣に寝入った頃、音も無く扉が開く。 「今夜は、迷わなかったんです?」 半ば嘲るように、彼は美麗に笑う 「なんや、試されとるようで気に食わんわ、その言い方。」 きしぎしと痛む体を男は抱き上げ、痙攣している指先を撫ぜて女の香りのするくちびるを舐めた。音も無く扉が閉まる。闇色の廊下はまるで母親の体から生れ落ち死んでいくように、薄い三日月に照らされる道に出た。 西城路を抜けきると、ぽつんとペンライトが灯されてあって、岩に挟まれてあった。 「歩ける?」 「百園さん・・・は。」 「生きとった。間宮女史にも連絡したさかいに、安心しなさい、月ちゃん。」 月ちゃん、と呼ばれた瞬間、ほ、と花のように笑った彼は、伊月俊。粗末な袖無しと結びきりに、鍛えた痩躯は、ただし食事による栄養が足りずに痩せ細った。末端の痙攣は典型的な脱水症状だ。再び抱き上げられると、今度は明確な意思でもって、その男の背に指を伸ばす。 「翔一さん、花宮、は。」 「順当に勝っとるよー。」 翔一さん。今吉翔一。眼鏡の奥に笑みの形に結ばれた目元は、口元を笑みの形に歪め、その美しい黒髪にくちづける。こっち、とばかりに逸らされた白い喉に軽く歯を当て、動物的本能に肩を竦め、噛みしめたくちびるに、覆うように食らいついて、くちびるを割って深くに接吻ければ、くふ、と酸素が足りずに伊月は啼いた。 「月ちゃん、明後日までに身体作り直さんか。」 階段を深く深くに下る途中で、女の喘ぎ声に身を固くする、腕の中の情人の初心さにくつくつと今吉は笑い、普段は見ない背広の襟を軽く引っ張った。 「あかんよ。」 震える脚を降ろしてやって、指を解いて絡ませる。 「は、ん・・・。」 壁に押しやられてねっとりと粘膜を蹂躙されて、上顎を擦られ、背が振るう。背中に回った腕が、力なく爪を立てる。 「如果房??情。」 ふあ、と思わず零れた声に、伊月は口元を多い、目の前にある黒に白糸で芙蓉の刺繍のあるベロアのシューズに、持ち主を見る。目の前で濃厚な乳繰り合いを見せられて、思わず足が出た。 「まこっちゃーん。」 その踵から蹴り込んでくる脚を引っ込ませようと今吉が指を掛ければ、音も無く脚は降ろされる。肩幅に開かれた足と黒に虎の刺繍があるサテンのマンダリンドレス。眇められる目元に合わせて、組まれた腕に、歪に嗤う口元には真っ赤な舌が蛇のように覗いた。 「有芙蓉的!」 「?是肯定的?宝石?」 彼らの仮の姿に気づいた周辺が、主に商売女や阿片商人からの誘いの声を、めんどくせ、と娼館の女が胸元を肌蹴た衣装で寄って来ようとするのを花宮は視線のみで追い払う。戦慄っと背の冷える眼光。光明街にある阿片窟や娼館には立ち寄らず、花宮は巧みに作られている扉を、やはり音も無く開ける。ぺたぺたと、伊月の裸足のみが変に湿った音を立てて、その畳敷きの部屋に通された。京間で四畳半の部屋には仕切りのある便所とちいさな竈がある。 「あ、おかえりなさい!」 そこにいたのは成人するかどうかの女性が一人、花宮の顔を確認して、顔に喜色を浮かべ、汁椀に芋汁を拵えて、三つ、箱膳すらない部屋の畳に置いた。 「あ、いただきます。」 「召し上がれ!」 「いただいますー。」 「いただきます。」 ぺた、と胡坐で座り込んでも丁寧に手を合わせて会釈して箸を持つのは、伊月が煩いからだ、とは花宮の言。 「百園さん、こちらでの生活は慣れました?」 「この部屋で、と言う意味なら。」 伊月の声に、彼女はにっこりと笑う。童顔と表現するのが相応しいか、桃色の頬には丸みが残っていて、細い首筋と、全体的にほっそりとした体には無粋な男性ものの衣類を纏っている。 「あの・・・藍、は。」 「後程。」 御馳走様です、と伊月は綺麗に笑い、狸、と花宮が思ったのを見透かしたかに、脇腹に肘鉄を突っ込む。 「てっめぇ・・・。」 「生き返った・・・!翔一さん相手して下さい!」 「あかん。せめて食後三十分は休みなさい。吐き戻したい?」 「とんでもない。」 じゃあ食休み兼ねて風呂でも行って来ますかね、と伊月は立ち上がった。ん、と花宮が手渡した紙面を覗き込みながら、入ってきた扉の反対側にある押入れを開ける。上段には布団や行李が収まっているが、下段は何もなく、床が抜けている。正確には梯子が掛かっており、伊月がゆっくりと下りていくのを追いかけるように今吉が向かい、万が一、と仲よく下って行った。伊月がペンライトを構えたのを確認し、花宮は押入れの襖を閉めた。 「百園さん。」 「いえ、解っています。でもあの。」 「心配か。」 蠅を叩き落とした花宮は、何事も無くほぼ白湯である茶を啜る。衛生などこの場所で期待してはいけない。 「藍には会うな。絶対に。伊月もありゃ、何日持つかわかったもんじゃねェ。」 女の前だが無作法に着替え、気を張る相手でも無し、と着替えた浴衣は二人が帰ってくれば交代に風呂に行くこころ積りだが、帰ってきて爆笑されるのはほぼ予定調和である。彼のキャラクターには大凡相応しくない、可愛らしい兎の描かれた浴衣。因みに干支柄で十二種類ある。作家は知らぬが、適度にデフォルメされた可愛らしいそれは、潰すまで割と時間がかかりそうだ。 「あんた、風呂は。」 「隣で。」 「あー、まああっこは許容か・・・。」 麻薬も性病も屯するこの通りに作った隠れ家は、芙蓉の名前を出せば適度な優遇が得られる。芙蓉の名前を花宮が使うのは、約十年ぶりだ。それから住人は増えたようだが、殆ど街の様子は変わっていないというのだから呆れた話で、島の外から見たこの要塞は、建築物を無尽蔵に増やし、難民を受け入れ、怪我人を殺し、無様なほどに無益を繰り返している。リン、と鈴の鳴る音に、花宮は百園を押入れからも出入り口からも遠ざける。部屋の扉から歩いて三十秒程度のところには、鈴に繋がった糸が張ってある。警戒せずに近寄れば、この部屋に向かってくる人間を容赦なく迎撃できる準備なんて花宮には軽く整う。 「芙蓉先生、我有、我要???的?西。」 「我不需要。因?它不不便的?物也是一个女人。」 媚を売ろうと手を擦り合わせながら佇む男はよほど命が惜しくないと見える。扉を開けてやれば、帽子を被った若輩がへらへらと笑いながら、しかし花宮の衣装を見て、眼を瞬く。 「芙蓉先生、あんた日本人か。」 「不知道。我忘?了自己的?生。」 驚愕の震える日本語に、にべも無く花宮はそう応え、男を追い返す。何を売り込みに来たのかは知らないが、この要塞ではヒトは蟲以下で金以上だ。最高の商品であって、最悪の品揃えだ。浴衣を見ての反応は想定の範囲内。応え方は今吉に教わっている。それも十年前の話になるが。 「ど・・・どこまで話せるの?」 男が立ち去って、百園は口を開いていいか逡巡、花宮が、構わない、とでも言うように顎をしゃくってやったので、ほっと安堵の息を零したようでもあった。 「言語っつのは必要に迫られて、だからな。仏蘭西語、西班牙語辺りは一通りやってはあるが、独逸語の実践なら伊月が上だろ。英語はクイーンズのみ。」 「クイーンズ?」 「正しく英語ってやつだ。英吉利の言葉な。まあ、英吉利の中にも色々あんだが。」 どうだったか、蘇格蘭、北愛蘭、と蟀谷を抑え、まあいいか、と花宮はそのまま。 「米語つーのがあってだな。英吉利から渡って亜米利加の言葉になる。一口に英語つっても色々あんだってよ。」 「へ、え?」 聞いといて首傾げんな、と彼が眉を顰めた頃に、とつとつと襖が内側から叩かれ、開けようと向かう百園を制して花宮が開ける。 「まこっちゃん助けて。月ちゃん逆上せた。」 「またか!」 長年を掛けて溜めた雨水を焚いて作られた風呂は焼却炉の真上にあるので若干温度は高い。あとは何十年前の水かも知れないので何日かに一度沸騰させて殺菌もするらしいが、その程度で菌類の発生が留まるなら医者は要らない。 「おら、水。」 「あり、がとー。」 手渡された水筒に若干迷いを見せたのは、それが花宮から渡されたものであるからだ。それ以上でも以下でもない。口を付けるとそのまま綺麗に飲み干した。 「けっほ。」 「月ちゃん、へいき?」 「ちょま、鼻入った・・・。」 ぐすぐすと呻いている伊月と付き添う今吉も浴衣に着替えて来たので、任せた、と手を振って花宮は押入れから降りる。押入れのもう片側は直角に曲がった通路に続く。 「服、向こうです?」 「せやけど、いけんの?」 「ゆっくり身体解しとくんで、花宮が帰るまで。」 翔一さんはここに、と眼で合図。軽く顎を引いて、いつも通り胡散臭く笑う事で今吉は両省の意を伝えたらしい。百園はこんな二人を花宮が遠慮なくうざいだの爆発しろだのと言っているのを聞くが、これはこれで夫婦のようだ、と百園は吝かでない。 「百園さんは、俺らには気遣いなく寝ちゃっていいんで。」 「はい、遠慮なくそうさせて貰っています。」 にこっ、と笑う彼女はそうすれば尚童顔の印象が強いが、だからこそ、であろうか。遠慮したら花宮さんに叱られちゃうし、なんて言いながら布団を用意して、ちょこんと座ると作り付けの棚から本を一冊取り出して頁を捲る。栞を挟んだ場所から上下に視線が動き出したのを確認し、伊月は隠し通路に消えた。 「藍。」 朝日が鋭く射し込む部屋の板の間に、?宝石が静かに佇んでいるのに、藍は呼ばれて起き上がった。 「藍?」 どうしたの、と首を傾げる美しい青年の姿に、藍はしがみ付くように柔らかな胸にその頭を掻き抱き、その耳元が真っ赤に染まったのを、可?的?宝石、と囁いた。 らんばおしーじゃないよ、なんて嘆息しようにも出来ない程に強く抱かれて、ぽんぽんとその背中を叩いた。 「藍、它不喜?我敢打?。我明天上班?」 「当然!!」 嬉嬉と跳ねる声音は、先日までぐったりと動けなかった?への心配も勿論含まれており、明日の夢のような舞台にこころ躍らせる。 「明後日の相手はそれなりに腕立つらしいですよ。」 今吉と向かい合った時に、身に纏っていたのは赤のマンダリンドレス。黒のベロアシューズには月と月光の刺繍がされてある。無駄な肉のない脚はすっきりと露出されており、スリットは伊月の脚力を十分に発揮できるよう、際どいラインまで入り込んでいて、屈伸に伸ばされた脚から爪先を隠すベロアと細い足首に結ばれた黒いリボン。悪趣味、と伊月は舌を出す。 「どないな?」 「戦績データから行きますね。昨年準優勝の事実上失格、一昨年は三位決定戦の際に事実上失格。その前は予選をシードで勝ち得るも、三回戦で事実上失格。御分かりです?」 肩の筋を伸ばしながら、きょと、っと上目に黒曜石色が燿る。 「確か、出場者は大会中に大会関係者を傷つければ失格。対戦相手を殺しても失格。」 「まあ、事実上、ってことは終了の合図までには相手は生きてたって事でしょうね。そうさせるくらいの権力も、ってのが苦いです。」 厄介なん出してくるわぁ、と今吉は浴衣を袖無しと結びきりに着替えて生乾きの髪を掻く。 「ベストエイト決定戦ですからね。芙蓉とは決勝まで当たらない細工はしてますんで、何とか。当たったら俺が棄権しますし。で、もう一人目を付けてるのが。」 彼です、と黒革の手帳の中に記されている名前は、K、と選手登録している小柄な男だ。 「さっすがワシの月ちゃん。」 時間の関係上ひと仕合として見ることは出来ていないが、十中八九間違いない。九年前に優勝歴があるが、何故か今大会に登録。 「勝てる算段は?」 「さあ?芙蓉と闘ってどうにかなるでしょ。それより明後日に控えたいんで。」 ふ、と儚く笑ったと思えば、綺麗に浮き出る脹脛の筋が肩に乗っていた。ショック療法にも程がある。 「こんで、及第点ちゃうの?」 蟀谷に叩き込まれる予定であった踵を手のひらに包み込んで足の甲にくちづければ、うっそりと伊月は口の端を持ち上げ、随分と艶めかしい笑みを魅せた。 「翔一さん。」 それでもどこか拗ねたような声音で囁かれるから、その足首を掴んで、引き寄せる。もう片脚が首を回って、両手が床を掴むと、今吉の上体が傾ぐ。気道を塞がれるのに手首を噛ませて、肌理細やかな太腿の内側に筋が浮く。無駄な肉が無さすぎて逆に痛々しくも見えるが、後頭部に受けた衝撃を逃がし、腕を抜いて、その白い肌に思いっきり噛み付いた。 「うあっ!?」 「気ィ抜くなド阿呆。」 脇に手を入れ、不安定にぶら下がった痩躯を回し、脚のロックが外れれば、膝を捕まえて、肩を捕まえて、そのまま頭から床に落とす手順を教え込ませる腕が、後頭部を包んで床にやわらかく落とされる衝撃が、ふわりと。 あはは、と軽やかに笑った伊月に、今吉の眉が寄る。眼鏡が滑り落ちた。 「オトさないとダメでしょ。」 するりとしなやかに嫋やかに脇腹に脚が巻く。性行為でも連想させそうな格好から伊月は身を捩って、脚の絡んだ脇腹を、もう片方の脚で、膝で持って、蹴った。 肝臓に直撃した衝撃に、床に倒れ込んで深く息を吐く。冷徹に見下ろしてくる情人に、戦慄くりと心臓が震えた。 「あー、襲いたーい。」 戦意や敵意や闘心の入り混じった瞳に、蝋燭の火でも吹き消すように欲の色が走った。一気に黒曜石色の瞳は年相応、性別相応の欲に塗れ、情人の脚の間に爪先を滑らせ、脚の付け根を柔らかく擦った。 「あかん。」 「なんで我慢できるんです?信じられない。」 そこに灯る熱を爪先でくるくると玩びながら、ゆると流された艶やかな髪と怜悧な切れ長の目に住む瞳に、年甲斐も無く入揚げる男は無様に呼吸を乱した。 「急所を掴まれて窮する、キタコレ。」 結びきりの結び目の上、臍、鳩尾、鎖骨の間、首の付け根、喉仏、顎。つうと滑らされた足先を、掴まれて。 「ひゃっ!」 膝裏を明らかに意識した指先に撫ぜられ、先ほど噛まれた太腿を隠すようにスリットに割れる布地を揺すって、恥じ入るように握った。 「しょ、翔一さん、くすぐったいっ!」 脹脛をねっとりと、舐めるように撫ぜられ、くらくらと振れた膝から、ぺたりと腰を落として座り込む。 「月ちゃん。」 ひ、と喉が引き攣るのは、その濃い声色に背を齧られたからか、薄く持ちあがった瞼に、浅ましいほどの自分が映し出された。にゃあ、と発情した猫のように喘いで、撫ぜられる膝頭に身悶え、縋って、強請って、飽きるまで舌先と唾液で遊んだ。 「?宝石、占了上?。??了。」 「当然。」 藍に抱き締められながら、?は笑う。濃墨に浮かぶ三日月のように、妖しく不気味なほど、美しく。 「是否有?想要吃的?西??我?舞手臂?宝石的!」 飛び上がるように彼女は身を翻し、簡素な、?を立ち入れた事の無い台所に弾んだ足音で駆けて、痛んだ乾パンと白湯を持ってきた。 「?。不是保??答?如果我?了。」 上機嫌だった彼女は、彼のその声で、静かに、笑みを描いた表情のまま俯いて、栗色の髪がくるりと肩に癖を持って揺れ落ちる。 「不是已?决定・・・。」 将消失、?、と呟く声に、?は正座を崩す。彼女は彼に、乞うのだ。そばにいて、と。 「俺がここにいるほうが不自然だっつの。」 そう、嘲笑に似た笑みを浮かべながら。 ヘイス、ランパオシ、フロン、読み上げられる名前は順不同で廊下や地下や屋根まで伝う伝声管を使っての呼び出しになるので、?は赤い服の組紐を組みながら、龍津義學の臨める龍津路から張り出すように作られる舞台に飛び降りた。黒いリボンが螺旋と交差を描くように、足首から腿まで飾る。艶やかな黒髪に整った鼻梁と鋭利な刃物でも思い起こさせるような怜悧な切れ長の目の中は黒曜石色。すっきりとした一重に扇形の睫毛が綺麗に揃って下を向く。中性的な美貌に痩躯は赤い絹に包み、脚は黒いリボンが緊縛も拘束も厭わぬが、それすら自由。白磁の肌に少し赤く染まっているのは軽度の火傷、所謂日焼けだ。 「また趣味に走らされたか?」 にやりと悪辣に笑う黒い絹の男と擦れ違い様に拳を合わせると、に、とこちらも爽やかに嗤ってやる。 「ヒントは目の錯覚。」 そのままそれぞれのステージにはそれぞれ相手がいて、K弃?!と審判の声。?就是很无聊、なんて芙蓉が嘲笑えば、背後にブーイングが高い。棄権した?あの負けず嫌いが?と伊月は肩の筋を伸ばしながら首を傾げ、手を組み合わせて伸び上がる。背筋がじわじわと伸びてくる感触に、腕を垂らして肩幅に開いた足元を見て、眼を閉じて深呼吸。 戦法に歪み無し。鷲の目も平時と同じように使える。 「?始!」 仕合開始の旗が上がる。 掴みかかってきた大きな手をかわし、軽く弾く。筋肉の弾力と、相手の走力判断。横に飛んで着地。観客の声が煩い。後ろから伸びてくる観客の手を強く弾く。時折嬲り殺しを見るために観客が選手を拘束することがある。尤も、相手を殺してしまえばそこで仕合は終了、選手としては失格になるが。 ひらり、視界に強い印象の赤が目の前を横切る。白い脚が白い太陽の下に目の毒なくらいに曝け出され、相手は一度息を呑んだように手を止めた。 「ちょ、っ!?」 そこで止まんなっ、と牽制の蹴りを伊月はそのまま引いて、蹈鞴を踏むように後退。 「看起来很愉悦・・・。」 肉厚なくちびるを赤黒い舌で舐め、細い眼の奥に濁った眼光に、伊月は正しく戦慄した。 やばい死ぬ。 正直に無様にそう思う。 「看上去好吃・・・。」 はは、と思わず乾いて笑う。宝石の名前を与えられた対戦相手に、その喉仏が上下して、自分よりも体格のある相手は何人か相手したけれども。トーナメントが始まって何人とも対戦してきたが、明らかにこの男の様子は異常だと、悟る。 板張りのステージに男は拳を突っ込み、その粉々になった木片を、伊月に見せびらかすように、愉悦を含んで笑う。 「変態さんかー・・・。」 正直腹いっぱい、と強い眼光で睨み返すと、ひゅあは、と甲高く男は笑う。そういえば俺と黒子が抜けたら部活どうなってんだろうな、なんて考えながら、伊月は足場を強く蹴る。真っ白な脚で一度牽制。そこから上体は落ちるが仕方ない。リボンの巻かれた脚が急に伸び上がってきた錯覚の後、喉に入った。とんっ、と軽い音で手のひらに足場を弾いて着地、首を抑えている相手は口から涎を垂らしながら、ひゅうひゅうと呼吸し、ぐんと握り込んだ拳を女のように細い相手に振り下ろす。 寸でに避けた相手は逃げなかった。板場を叩き割った太い腕に脚を掛け、肩に躍り上ると、しなやかに、太い首にその嫋やかな脚を巻く。 「息、止めてろよ。」 果たして通じたかどうだか、ばり、と爪に脛を裂かれる感覚には眉を寄せた程度。伊月はそのまま男の背中側に体重を倒した。酸素不足と重心の急な変化についていけなかった大きな体はまず膝を崩した。観客の熱が上がったのに、ちょっとひらひらと胡蝶のように踊る赤い絹をどうにかしたい。 伊月が板場に脚を降ろし、酸素薄くなってその上脳震盪じゃ死にかねないよなぁ、と倒れてくる体を、腕が垂れ下がって脚は完全に座り込む大勢をとっているのに、息を吐きながら、その背中を支える。 意識を失う、戦意を失えば、仕合は負けだ。 「?束了!冠?・・・?宝石!」 ?が、伊月が勝利したと審判の声に、艶やかに黒髪は翻り、白い服を着た連中が対戦相手の介抱に向かうので、?はそのまま、観客の中に埋もれていた藍の嫋やかな指先を取って、女王に忠誠を誓う騎士のように手の甲にくちづける。わ、と歓声が上がれば、藍ははにかむように笑って。 「我??!?宝石!」 そう、人目も気にせず叫んで、伊月の首に抱き着く。 ここで愛していないと返せるほど?は非情な男でないし、しかし嘘を許される立場でなかった。口の虚構。嘘とは巧い話である。 乙女の細い、痩せて尖った顎に指を掛け、つ、っと色濃い仕草で撫ぜた。興奮から眦を真っ赤にしていた彼女の頬がぱあと薔薇色に耀いて、痩せこけた頬を撫ぜ、顎を上げさせ、多少強引に見えるような仕草で腰を抱く。ん、と藍は喉を鳴らし、目の前にある端正な顔に目を見開いた。 ん、ふ、と女の声に、くちびるは解放された。女のように淡く色付く薄いくちびるを親指で拭う、貴公子然としたしかし中性的な印象の強かった?の、妙に男臭い仕草に、藍はその薄くも鍛えられた胸板に擦り寄った。 あいしてる。 そう、何度も繰り返して。 ?の勝利と直後の芝居めいた乙女との遣り取りに、観客は最高潮まで盛り上がる。 なにやってんですかあのひと、と誰かは呟いた。 あーあ知らね、と誰かは呟いた。 随分ええ男になってしもうたねぇ、と誰かは呟いた。 次に彼が件の隠れ家に姿を見せるのは、六日後。 続く。 |
初出:2013年7月26日 18:55
新婚旅行かと思ったらまさかの違った。この度もモブの二人にフォロワさんのお名前お借りしています。そのまま出すにはあれなので、いつもちょこちょこ改変してますよ、念のため。
***
碧さんさむちゃんありがとうでした!!
こっちに転載する際、最も不安だった一品。因みに翻訳はぐぐる先生です。
この時期は雰囲気エロに嵌ってたんで、割かし文章でしか表現できないえろすはいい感じに行けたんじゃなかろうかと。漫画だったら絶対R指定はいるね。
20140109masai