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黒い髪を肩に流した綺麗な女は、彼を殴って育てた。
彼は黒い髪の綺麗な女が嫌いだった。 最初はその髪に塵を張り付ける程度の悪戯を仕掛けていたが、徐々に過激化していく。 結果、母親の死をきっかけに、女を犯すことを彼は覚えた。 縄を常備し、縛った肢体を死体に変えていくことの、なんと楽しい事か。 今吉探偵と伊月助手と家出猫。後篇。 「死体にしたい、とかキタコレってゆったらひととして駄目だよな。」 荒らされたゴミ捨て場から、女性用の下着、それも経血で汚れたそれが持ち去られてあった。警官の現場検証は僅か一時間程度で終わり、こちらの管轄には顔見知りが居ないため、『彼女』はその場を興味本位に任せて眺めやり、黒革の手帳に現状を書き留めた。 荒らされたゴミは誰のものか、警察は調べずに帰ったが、大家と廊下に撒かれた色水を洗い流しながら、梨子という女性について調べてみようかと思ったが、大家は残念ながら情報を持っていなかった。 「福浦さん、いいですか?」 お昼一緒にしませんか、と名目で扉の前で声を掛ければ、いいよ、と軽く返ってきた。鍵を開ける音がして、ひょこっと福浦空子は顔を出し、伊月が顔を引き攣らせて口元を抑えたのに、軽快に笑った。 「さっき作業台に突っ伏して寝ちゃってたんだー。」 顔洗ってくる、部屋入っちゃって、と伊月は宝生の部屋の戸締りを確認してから部屋に邪魔させて貰った。 「うわぁ・・・。」 昨夜はそんな余裕は無かったが、五月晴れの窓と日光に、部屋中はそのデザイン画が鮮やかだ。 「すげぇ。」 「凄い?」 「私、画才無いから。」 「デザインは別だけど、画は描くか描かないか、よ。春ちゃんも落書きでもなんかしてご覧。」 「そう?」 「うん。」 瓶に入れられたカラーインクがまたきらきらと手業台と無粋に名付けられた机の上に整頓されて並んでいる。 「色物、詳しい?」 「うん?職業柄。それとか全部馴染の染屋に特別発注したインク。」 「昨日の廊下の、あれ、どう?」 あああれー、と手拭いの中で福浦は少し悩んで、思い出すかに視線を上にやる。 「市販の赤いインクだと思う。サクラインキかな。」 「メーカーまで解る?」 「いや、発色がそれっぽいってだけ。勘。誰でもあるでしょ?女だったら誰でもあんなの血じゃないって解るしさ。」 それについては伊月は苦笑するしかないのだが。確かに色には驚いたが、血の匂いでは無い、と判断がついたのは医学部での授業のお蔭だ。 「そうだね、あと、聞きたいんだけど。」 「うん、いいよー。取れたっと。昨日のとこで良い?」 「ああ、炒飯がいいな、今日は。」 「お、いいとこ目を付けてるね。」 店内に吊られたお品書きを一瞬で見渡して記憶した鷲の目は、付け合わせに筍の天ぷらも欲しいなぁと企む。下町の食堂は財布に大変優しい。 「梨子さんって。」 「ああ、そこの部屋の。半年くらい引きこもってて、ってここでする話じゃないや。ご飯行こ。」 確かに当人が居るアパート内で出来る話でないな、と伊月は申し訳なさそうに眉尻を下げる。腕の状態はもう少し芳しくない。寒暖差の気温のせいか、と白い雲が甍に泳ぐ空を見上げる。工業地域から煙が流れて、けほりと咳き込むが、眼に来る程で無い。はい福ちゃんいつものかい、空ちゃんと昨日の美人さんもいらっしゃい、と席に通して貰って注文が通る。んーちょっとなー、と福浦は悩み、油の滲んだ窓枠に指を掛ける。 「空き巣被害、でね。」 「うん、それは聞いてる。」 「で、犯人と鉢合わせて、ってあったんだって。」 なにそれ、と切れ長の目が見開かれたのに、申し訳なさそうに福浦は口を閉ざして汁椀に口を付けた。筍の天ぷらは灰汁の抜きをもう少し長くして欲しかった。 「春ちゃん、こっち。」 連れられたのはアパートがある方面とは逆方向の空き地で、この周辺には珍しく人通りが少なかった。 「春ちゃん、髪の毛、結んどいたほうがいいよ?」 「垂髪、似合わないかな。」 「ちがう。」 そうじゃない、ごめん、訂正、と福浦は悲壮さの滲む声音で俯く。 「宝生さんが越してくる前、ね、お隣に住んでたの、猿濱って女のひとなんだけど。」 「うん。」 「子供が成人したら出てくって契約で、住んでて。」 「男性お断りだもんね、あのアパート。」 そしたら、とぎゅ、と膝の上に拳を作って、話はきな臭い方向に転がっていくのを、伊月はただ聞いていた。 「吐き出したかった。ごめん。宝生さんは、あの部屋でって思うだろうから、出来なかった。春ちゃんはあの部屋にいるけど、お客さんだからって、思って。」 「いいよ、私でよければ愚痴くらい幾らでも聞ける。猿濱、下の名前は?」 「かおる子さん。」 「ありがと。」 「春ちゃん?」 「こりゃもう職業病だ。何かあっても見逃して?」 ぱちん、と片方の睫毛が下りて、悪戯花な仕草に福浦はきょとんとその美貌を見上げ、さて、と通りを振り返ったその凛とした美しい後姿に、何か胸がざわついた。とんでもない事をしてしまったのではないか。そう、思った。何か、伊月春にはこの話をしてはいけなかった気がする。外聞や醜聞といった意味ではなく、宝生への気遣いでもなく、『彼女』が何か、一瞬未知の何かに見えた。ロングスカートを捌いて踏み出される白いソックスに包まれた足首に、上等な革靴。福浦は五月晴れの下、それを凝視っと眺めながら歩いた。 アパートで仕事の残る福浦と別れ、伊月はそのまま道の途中、覇王樹茶屋の店先に、うろうろと歩いている少年の姿を見つけ、ぽんと肩を叩いた。 「今日はどうした?」 「あ、・・・あの。」 「うん?」 「お金を、払いに・・・。」 盗んだものではなく、昨日廃品回収をして儲けてきた金だ、と必死に訴えた少年に、伊月は笑いかける。 「私に言っても仕方がないだろう?で、謝罪もきちんと伝えて、それから出来たら新しいパンでも買えばいい。」 「は、いっ!」 ぼろりと眦から零れた雫を薄汚れた袖で拭い、埃で灰色く染まった目元で無理矢理に笑うと、煉瓦造りの足元を駆け出し、店の入り口で、ごめんなさいっ、と叫んだ。慌てて宝生が出てくると、通りを挟んで伊月と目が合って、笑顔を交わすとそのまま伊月は雑踏に消えた。 かつ、かつ、と規則的に革靴が足音を刻む。少々の散歩というには距離が長い。 「すいません、五年前の新聞ですけど、閲覧できます?」 日時もきちんと覚えたその新聞の、地方欄にその記事はあった。たった数行の悲劇の話。猿濱かおる子は息子の存在が邪魔だった。福浦が言うには毎夜のように子供の悲鳴が聞こえていたという。そして母親はある日綺麗に伸ばしていた黒髪を引き千切って縄に見立てると、それで自分の頚を括った。福浦から聞けた話だと、首吊りなどではなく、黒髪で作った縄で自分の頚を絞めて死んでいたのを息子の訴えで福浦が発見した。 「猿濱らん、当時9歳を遺して、ね。まじ警察碌じゃねぇわ。」 公僕の批判を一口吐いて、閲覧に借りた机の周りを急いで見渡す。花宮は治安維持法のナントカを伊月に教え込んであるため、憲兵にでも見つかれば悲惨な科白を吐いた自覚はある。それでも正体を明かせば無罪になるだろうが。 そのまま司書に新聞の複写を返し、伊月はちいさな図書館を出た。商店街方面を、夕食の献立を考えながら歩く。緩やかにぶつかりそうなひとなみを鷲の目はすり抜け、昨日鶏肉のおまけをくれた精肉店に立ち寄る。 「合挽き肉を逢引させる!キっタコレ!」 「来てないわよ春さん。」 「あ、宝生さん。仕事終わり?」 「店の御主人が、春さんと一緒に食べなさいって、賄じゃないの。ちゃんと作ってくれたのよ。」 ほら、と得意気な表情で紙袋を差し出してくれるその中は、焼きたてのパンの甘やかで優しい匂いがする。覇王樹茶屋の焼き立てパン、といえば帝都でも話題に上るほどの味で有名だ。 「じゃあ、ハンバーグは今度にしよっか。」 「うーん、つくねくらいなら作りましょうよ。」 「つくね作る!キタコレ!」 「春さん聞いてるっ!?」 作り売りで売ってあるつくねを買えば、今日は二人なんだね、と笑った店主が肉団子を二つ、こちらも作り売りの分をおまけに入れてくれた。 「ありがとうございます。」 「美味しくいただきますね。」 「春さんは先にネタメモ仕舞うっ!」 「はーい。」 軽やかな笑い声は、帰り道を華やかに彩って、この弁当とパンを貰えるようになった所以は、やはりあの少年にあったらしい。そのまま彼は今夜も廃品回収で稼いでくると、勇んで夕刻の工場地域の方面に駆けて行ったという。 「ほんと凄い、春さん。」 「そっかな。」 「そうよ。そうやって寄り道寄り道であなたはひとを助けて行くんだわ。」 食卓の準備をしながら、うっとりと宝生は語ってくれるが、やはりそれは本人の資質であって、伊月には間違っているかもしれない指針を示す事しか出来ないのに。 「覇王樹茶屋の焼き立てパン食べたってひゅーがやカントクに自慢しちゃお。」 そこは伊月俊本人の、紛れも無い感想だ。そこは絶対に言える。愛を恋を囁く相手にすら言えない事を言える相手。 「ひゅうが、さん?監督さん?」 「ああ、ひゅーがっての、俺の同輩。カントクは相田つって、普段は師範女学通ってるけど籠球のカントクしてくれてんだ。因みに親父さんが武術道場もしててね。」 「俊、くんの同輩?」 「うん、俺の同輩。話は幾らでもあるよ。初恋は俺が奪ったとかね。」 「え。」 「惚れっぽいのにヘタレとかね。因みに俺はカントクに小学校のとき振られた。」 「え、勿体無い!」 おや、と伊月は目を瞬く。他人事とはいえ、恋愛事に年相応の反応が出来るようになっている。全く年月はひとのこころを癒すと言うのは強ち嘘では無さそうだ。 「私より可愛くって弱いなんて、だってさ。その頃から俺は美人だったらしいよ、どうやら。」 「うん、俊くんも春さんも美人だもの。ひゅうがくん、見る目ある!」 「で、うちの妹と姉貴にも惚れて振られてやんの。見る目あるけど女運悪いの。」 「春さんのお姉さんと妹さんも美人なんだろうなぁー。相田さんは?」 「教師目指して一直線だった筈だったのに、うちの籠球一番強い奴に惚れられて。」 「押しに弱かった?」 「そうみたい。天然みたいに見せて策士でさー、そのまま天然計算腹黒にしか見えなかったよ、こっちは。ソイツが押して押して押してくっ付いたね。でも、相田の親父さんがもー娘溺愛しててさ!まだ付き合ってんの隠してる。」 「おおお!相田さん頑張れっ!」 「付き合ってんのばれたら師範憤死するかもっ。」 そこまで!?そこまで!と年相応に笑い合って、食器を片づけ、お店の御主人に何か御礼要るかな、と伊月の問いに宝生は、御主人の御礼がこれだからキリが無くなっちゃうわ、とこれまた素直に笑ってくれる。 「お布団用意するわ。春さん、お風呂行ってきていいよー。昨日の浴衣使っていいから。」 「ありがとう、そうさせてもらう。」 「腕大丈夫?」 「未だ若干痛むかな。風呂で揉んでくるよ。」 「うん、急がないでいいから。」 ブラウスとスカートを脱ぎ、浴衣を着て、行ってきます、と部屋を出た所で、おや、と伊月は扉を振り返る。急がないでいい。それは過去に伊月が宝生に告げた言葉でなかったか。ひょっとしたら見透かされてんのかね、なんて鼻歌交じりで、風呂で入れ違っても、と渡された合鍵をポケットに、銭湯に向かう。 「はっ、銭湯で戦闘!キタコレ。」 脱衣場でもろもろ籠に突っ込みながら、メモを取ろうと出したそれと重なって黒革の手帳が滑り降りてきた。 「・・・どう、するかな。」 警察に通報するのが一番いい。出来れば梨子の話が聞ければ更に。しかし、ここの警察には顔が通る人間がいない。今吉が居ればまた違うだろうが、と肩の晒を外して掛け湯に腕の筋を揉みほぐす。 「っち。」 数日鍛練サボったらこれだよ、と嫌に響いた舌打ちを残して、不躾な視線を浴びながら腕のマッサージを続ける。筋肉が明らかに削げ落ちて、生白く、死びとの腕のようだ。帰ったらまずここからだ、と固まっている肩の肉を揉んで血流を整える。くっと背を逸らして背筋と、あとは首筋。全体で揉み解さないと血栓や梗塞の原因になりかねない。指先が湯にじんわりと痺れ、ふは、と肺の奥から息を吐く。ぱしゃ、広い湯船に入った小柄な体を見て、伊月はここでの決着を決意する。 伊月は逆上せる前に、それから外気に触れる腕の調子を見ながら肩の固定を少しだけ緩め、銭湯の前でそのまま、春の姿のまま、彼を待った。きっとここで外せば被害は増え続ける。 垂髪の黒髪が濃紺の浴衣に、猫の爪のような月の下に、さんわりと揺れる。白い首筋を曝すように、さぁと掻き上げる仕草は花宮に教わった。女の色香は首筋だ、と。それってお前の趣味じゃね、と言い合いながらも春を作り上げる、爪先までの所作。 最初の衝撃は背中から来た。肩甲骨の合間をがつりと一発。 「っ!」 心得てやがる、と物陰の草地に蹴り倒されながら伊月は冷静に思う。かふ、と掠れた息が喉を走った。鍛えていなければこの一発で意識は飛ぶ。 近付いてくる足音は、歩幅が短い。草を別けるように踏み入り、蹴られた際に飛んだ荷物から金品を漁ろうと伸びた手に、強く右手を伸ばす。左手は使えない。体の下に倒れ込んだ際に思い切り腹を庇ってしまった。 「昼間、ぶりだな、強姦魔。」 「おまえっ!?」 小柄な男だった。変声期も迎えていない、少年だ。昼間にパン屋で健気に詫びを述べた男は、昼間に福浦が教えてくれた、この周辺を五年前から騒がせている強姦魔の正体だ。 「はなっ、はなせ!俺じゃない!」 「違わない。猿濱、らん、だったか。十四歳の筈だが、そうか、虐待されて育ったんだったな・・・。」 そこは憐れんでやる、と酷く低い声音で伊月は述べた。左腕の激痛で、脳が正直だ。 「親殺しの、猿濱らん、違うか・・・っ。」 「ちがうっ、俺はかあさんを殺してなんか!」 月明かりの薄い、工業地帯の煙にちいさな光の星が消される夜闇の中、ニィと伊月は口の端を吊り上げる。 「ああ、やっぱり母親を殺した、猿濱らん、で間違いないな。」 ぐ、と猿濱の体が引き倒されるように崩れる。起き上がろうと腕を使ったのが失敗だった。何のための鍛練だ、と臍を噛みながら、草地に倒れ込んでもつれ合う。黒髪がさらさらと背中を流れ、乱暴に跳ね上げられる。 「おまえ、に!何がっ解る!?」 「解るかばか!!」 力に力で抵抗されても、しても無意味。伊月は、伊月俊は、男だ。春の冷笑はその少年の背筋に悪寒も容易く、しかし猿濱も無為に女たちを襲っていたわけでなく、左腕を捻り上げられ、噛み殺された悲鳴に、今度は猿濱が乗り上がる。 「・・・お前、女じゃない・・・?」 その息は微かに煙草の匂いがした。 「だったらどうする?」 傷みに一瞬思考が飛んだ。ぐ、っと首に力を込めた手がかかる。 「男を犯した事は無いんだ。」 呼吸が荒れて、腹に乗られて身を捩らせると猿濱は愉悦を含んで笑う。彼はそのまま粗末な軍袴に括り付けたポケットから、黒い縄を取り出した。 「かあさんを殺したのが俺だって、どこで気付いたぁ?」 「それ、だよ。」 呼吸困難に吐息で告げるのは、その手に持たれた黒い縄。 「自分で、頚、縛って・・・意識は飛ぶ。だが、そこで終わる。だからっ!」 右腕は振り払える力がある。女の髪で作られた縄は簡単に切れないと言う呪いがある。真偽のほどは、伊月にとっては目下調査中であるが、人毛、特に女の頭髪は丈夫だ。 「お前が、絞殺したんだろう、ってな!」 右手が狙ったのは粗末な服の襟で無く、申し訳程度の喉仏が育つ頚だ。指の関節に力を籠め、手刀で当身なんて生易しいものでなく、切り揃えられた爪をもつ指先で、その喉元を抉った。 「が、っふ!?」 気道を潰されて黒目がぐるんと瞼の裏に隠れ、そのまま手足を痙攣させて仰向けに崩れ落ち、伊月から奪った財布を投げ出し、その腹を伊月が容赦なく蹴り飛ばせば、近くの棄てられた井戸に強く背を打ち、意識を飛ばして失禁した。 「やっべ、過剰、防衛・・・っ。」 くらりと今更眩暈が来た。ばら撒かれた荷物を纏めようと屈んだ瞬間に、左腕の痛みが一気に全身を食む。 「春さんっ!?」 「春ちゃん!!」 浴衣の袷は握ったまま、その場に倒れてからの意識は無い。 ゆっくりと瞼を持ち上げ、その広い視野が見たのは見慣れた天井だった。時折入れ替わる新しい紙の匂いだとか、古い資料に使われている和紙だとか、草臥れた本の背表紙。複雑な構造を持つ実験器具や研究器具と、保護材に包まれている研究対象。 「・・・見慣れてるって、おかしいよな・・・。」 自宅でもあるまいし、と瞬きを繰り返し、脳が覚醒したのを見計らって体を起こそうと指先に力を入れた瞬間、身体を激痛が走る。 「・・・っあ、い・・・・たぁ・・・っ。」 「・・・起きたで。嬢ちゃん、おいで。」 嘆息の気配に目をやれば、相変わらず、いつからそこにいたのか、今吉が掠れた単によれよれの袴姿で、書架に寄りかかって、腕を組んだまま、階段の下を静かに呼んだ。 「しょーいちさん。」 「月ちゃん、おはよ。随分長い夜やったな。」 静かに静かに怒りを抑えた声が、冷ややかなのに暖かい。確かに随分長い夜だった。 「春さん?」 階段の手摺の柱と柱の合間に、ちょこんと宝生が顔を出し、大丈夫、と小首を傾げる。 「宝生さん、ごめん。」 「し、死んじゃったかと、思ったぁ!!」 そのまま普段着の彼女はぱたぱたと階段を上がって床を駆け、がばとベッドに縋り付いた。その振動ですら伊月は眉を顰める羽目になったが、右腕はどうやら動くらしい。指先を見ると指の一本一本を包帯で巻かれてあった。 「動かしちゃ駄目だよぉ春さん!爪とか割れてて酷いんだからぁっ!」 「ま、じで。」 うわ、と思わず宝生の頭を撫でようと持ち上げた右手を窓からの光に翳す。おそらくはお八つ時だ。 「今、えっと、何時?」 「何日の何時やと思う?」 うわあ、と伊月の右手はそのまま顔を覆うように落ちた。 「嬢ちゃんに感謝しときや、月ちゃん。警察に電話する前にここに電話してきてくれたんやで。」 「宝生さん、それ本当に助かったありがとう・・・!!」 倒れる寸前に見たのは後はそう。 「そうだ、福浦さん。」 「ああ、福ちゃんは月ちゃんへ情報提供したってことで、お巡りから取り調べと報奨金。あの辺のお巡りあかんなぁ。」 「それ俺も思いました。」 おい、と階下から呼ばう声は花宮だ。 「猿濱らんの調書の複写来たぞ。伊月、代筆してやっから穴埋めしろ。」 「仕事中毒・・・。」 「肩外したまま病院へも行かずにフラフラ家出ごっこしてた奴の科白かバァカ。」 「家出ごっこっていうなぁ!」 あはは、と涙を拭いながら宝生がその遣り取りに笑って、また遊ぼうね、春さん、と立ち上がった。 「あ、覇王樹のパン旨かったから今度は遊びに行くわ。」 「テラスで伊月に珈琲淹れさせるのもいいな。」 「はい、是非いらっしゃって下さいな。福浦さん心配してらっしゃったから、春さんも元気になったら今度は今吉探偵さんと一緒に来て。勿論花宮先生も。」 「その、センセー、つの?やめてくんね?」 「だって、花宮先生は先生だったもの。それじゃあ失礼します。」 福浦さんにも春さん大丈夫って伝えておかなきゃ、と彼女が階段を下って、下り終って、事務室を抜け、面談室に置いてあった荷物を持って、エントランスを出る、一連の足音が聞こえて、更に路面電車の笛の音が鳴るまで、帝都の一等地にある今吉探偵事務所の二階には奇妙な沈黙が落ちていた。 「さて。」 と口火を花宮が切る。伊月はこのまま布団に潜るか逃げてしまいたいが、身体は動かすたびに激痛が走り、手当の包帯や晒以外は衣類を纏っていない。まあ、包帯や晒は衣類ではないが。 「伊月テメー、何しでかしてんの!?流石にこっちも血の気引いたわバァカ!!挙句春の道具一式消えたと思ったらお前、鶴見だぁ?しかも強姦魔とやり合って死にかけてるとかなにそれまじバッカじゃね!?ほんっま救いようのないバカ!!」 「まこっちゃん、訛り出てきてるでー。月ちゃん、起きたら月ちゃんがおらんでどんだけワシが吃驚した思う?月ちゃんがいっつも、部活あろうと学校あろうと甘えとった非はワシにもある。けんどな?せめて病院行けや!せめて連絡しぃや!お家のひとにもどんだけ心配かけたと思う!?ええ加減にせんと飼い子にして監禁してまうよ?」 「うわ、今吉、最後の本音出てんぞ。」 悪寒すっげぇ、ほらさぶいぼ、なんて花宮は腕を擦っているが、伊月はちょっとそんな余裕はない。 「あの、まじで、ちょっと俺、何日寝てました?」 「ざっと四日強。」 「行方不明になってた二日、いや三日?合わせたらざっと一週間は消えてたことになんで、月ちゃん。」 「はぁ!?・・・いッ!!」 二人から滾々と説明を受けて、驚いて飛び起きようとして、激痛に呼吸が止まった。さらっ、とシーツにばら撒かれた綺麗に耀く黒髪は相変わらずうつくしいが、若干艶が無い。ここ数日を伊月は一日一回の栄養剤の注射で生きてきた。 「とりあえず、帰ってこん、てお家からの連絡はまこっちゃんが誤魔化してくれたけど。新聞にも載ったから、あの元海軍軍人の事件。」 「はあ・・・すんません。」 「その間のこっちの手間考えろバァカ。で、さっき鶴見の警察署から調書の複写来たから、質問すっから答えられる範囲以外でも全部答えろ。」 「理不尽!!」 「真実全部ぶちまけてやろうか、相田リコ辺りに。」 「あっ、ごめんなさい、仕事します。」 そんなに怖いか、と包帯の巻かれた指先を今吉は見る。指先で気道を狙って抉るのは、攻撃側にも負荷が凄まじいので禁止させていると相田景虎は今吉に言ったが、しかし、やらかしてくれた。白い肌より一層白い包帯が痛々しく、肩に巻かれた晒も今吉が信頼する整体の医師に来てもらって、関節を整えて貰った。その時の呻き声に、今吉は歓喜するほど、伊月の行方不明は、彼の中に酷い虚空を作った。 「猿濱らんが犯人だと確信したのは?」 「怪しいと思ったのは、二度目に覇王樹茶屋の前で会った時。持ってた紙幣が随分綺麗だった。廃品回収で流通するのはもっとこう、古かったり皺くちゃだったり最悪破れてるだろ?」 「ああ、そういう事。で?」 「で、猿濱かおる子の死亡記事に、首を吊った、じゃなくって首を縛った、ってあったから、ひょっとしてって。確信したのは襲われた時にカマかけたら自白した。あ、過剰防衛なってない?」 「なりそうだったが、お前の体の状態で相殺させた。今吉が。」 「翔一さんありがとー。」 だから好き、なんてついでのように言われても、言われるだけでも生娘のように心が躍るのは何故だろう。 「猿濱らん、十四の割に体ちっせぇけど、医学部生としての見解は?」 「虐待されて育ったって福浦さんに聞いてた。多分栄養貰えなかったんだろうね。あと、煙草やってたっぽい。」 「ああ、そら背ぇ伸びねぇな。こんなもんかな。」 「あ、あと、宝生さんのアパートに、名字わかんないけど、梨子さんてひとが居て。多分猿濱の被害者だと思う。猿濱が空き巣に入って、そこで脅迫まがいに乱暴されたんじゃないかなってひといんだけど。」 ああそれか、と花宮は作業台にあったファイルを取る。 「それについてはアパートの大家や宝生、あと福浦空子から証言な。多分それで間違いない。最近電話使ってた、つーから地元にでも引っ越すんじゃねぇかと俺は踏んでる。他には?」 「今んとこ別に。もう平気?」 ざっと花宮が証言を纏めた専用の紙と穴だらけの調書の複写を見比べる。 「んー、後はまあ、後々出てくんだろなんか。お前が持ってた荷物、そこの棚な。浴衣は洗って返した。福浦には多分バレてると思っとけ。」 まあその辺りは犯人と揉みあって脱がされかけたりもしたし、と伊月にとっては想定内だ。ただ、次に会った時はどうだろうなぁ、とも考える。 「手は包帯取れるまで絶対安静な。良かったな、勉強が増えるぜイイコちゃん。」 「いやだなぁ・・・。」 「んじゃ俺これ提出してくるわ。」 「いってらっしゃーい。」 はいはい、と階段の見切れるところでひらひらと手を振ってやった花宮は、そのまま事務室で作業を終え、鶴見の警察署まで車を走らせたらしい、エントランスの扉が閉まる音がした。 「月ちゃん。」 「これ、いつ取れますかね?」 「中指と薬指は悪い事言わん、動かさんほうがええ。」 「うう、意識しだすと痛いです。」 じんじんと指先が重くなるように痛くなってきて、耐え切れずにぽすりと体の隣に寄り添うように。手のひらを上に落ちる。 「骨も大事な靭帯も損傷あらへんよって先生ゆうてはったから、起きれるようになったら、なんか美味しいもん食べて、籠球もやりなさい。」 「あのね、翔一さん。」 「うん?」 起きてすぐの働きに脳が耐え切れないのか、その声には理性が無い。 「翔一さん。」 「うん、月ちゃん、どないした?」 「・・・翔一さん、さわって。」 薄いくちびるに指を這わせれば、ふわりと吐息が艶めかしくも幼いのは、きっと睡魔と歩みのリズムが合って来たのか、うん、とむずがる子供のように一度目元を眇める。 「しょーいちさん・・・。」 「うん、こんだけな、月ちゃん。」 水分の足りていないくちびるに、こちらもまたかさついたくちびるを押し当て、熱を分け合うためだけの、儀式のような接吻に、脳髄が燃えそうだった。 「月ちゃん。」 すぅ、っと穏やかな呼吸は正しいものだ。 「月ちゃん、もう、おらんなったら、嫌やで?」 どちらの手を取っても痛みに呻くだろう、その痩躯を、抱きしめることも出来ない歯痒さを、枕元を覆うように腕を置いて、今すぐ食らいつけそうな距離で覗き込めば、扇形の綺麗な睫毛がうっすらと持ち上がって、くちびるが微かに震えて、またそのまま伊月は眠りに落ちた。 なりませんよ。 そう、囁いた声は、今吉が飲み込んで誰も聞いていない。 今吉探偵事務所、明日も営業時間は平常通り。 所長の腑抜けを許せるご依頼主様のみ、是非お越しください。 |
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そんな四話構成でした実は〜。これから翔一さんにはちょっと大変な目に遭ってもらうことになりそうですねぇ。(杉下警部っぽく。
初出:2013年5月9日 01:44
改めて恥ずかしいひとだなぁとw両方とも。
20130903masai