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朝、目が覚めると、馴染んだ体温は既になく、肩に巻き直したのであろう晒が丁寧に巻かれて布団周りに置いてある様子に、今吉は慌てて眼鏡を掛け、その恋しい名前を呼ぶ。
朝の鳥の囀りは、まだ鶯が混じった、初夏の良く晴れた空が憎らしい位に、彼のひとのように美しい、その日の始まりの出来事。 今月探偵と伊月助手と家出猫。前篇。 覇王樹茶屋。神奈川、鶴見にあるその茶屋は、東海道の道沿いに看板を置く、主に旅人への弁当提供や最近はパンを置くようになってハイカラな街並みに綺麗に溶け込んでいる。 「宝生さん、あちらのお客様に、こちら。」 「はいっ。」 お待たせしました、と復員兵の恰好の男に弁当を渡して、金額を受け取ると、深々と頭を下げて顔を上げる。にこりとその笑顔に復員兵も笑顔を返し、ありがとう、と店を去る。陳列されたパンの代金計算に女将が算盤を弾いて、代金を受け取る。 食事処である以上に、ここは笑顔を提供する場所でもあった。 十代半ばであろうかの男の入店に、いらっしゃいませ、と宝生は笑う。男性との接触はまだ怖い。それでも徐々に、自然と笑顔も出るようになったのは、彼女からの最期の恋文を読むことが出来たから。 前に進めと、『彼女』が教えてくれたから。 「あ、え?」 その仕草に、即座に宝生は対応できなかった。その若い客は棚に在ったパンを一つ取って、そのまま懐に入れると、算盤を弾いている番台には向かわず、そのまま広く開いた扉に向かう。 「ちょっと、待って!」 聊か慌てた声に、その窃盗犯は駆け出したが、直後に帽子を目深に被った女性に足元を弾かれて転んだ。 「それ相応に働いてから食べなさい。」 右腕一本でその体を持ち上げ、潰れたパンを取り出されると、窃盗犯は泣きじゃくりながら『彼女』に縋った。弟が小さくて病気で、この間仕事辞めさせられて、と涙ながらに語り、仕方がない、と『彼女』は嘆息。 「このパン、幾らかな、宝生さん。」 「やっぱり!春さんっ!?」 「あ、エプロン可愛い。」 春、と呼ばれた女性の正体はこの際置いておくとして、女性にしては少々粗野な仕草と長身は目立ち、しかし売って余るほどの美貌と美しい黒髪を惜しげもなく晒して、その潰れたパンの代金を肩代わりしてやった。 藍色のブラウスに黒いロングスカートの『彼女』は店内の注目を集めながら、幾つかのパンを選んで購入。最近煉瓦通りに出されたテラスに紅茶を選んでまた道行くひとからの視線を集めていた。 「春さん、どうしたの?お仕事?」 「あー、違う違う。宝生さん、これから学校?」 「うん、春さんは?」 「ガッコから足着くから、ちょっと休んできた。」 はい?と宝生は首を傾げ、悪いんだけどさ、と右手で拝むように宝生の視線まで降りてきて。 「宝生さんち、この辺だよね?ちょっと隠してくんない?」 などとほざいた訳である。 宝生は現在、帝都の片隅にあった聖ローリエ女子高等学校を離れ、神奈川でごく最近に開校された光華女学校に通っている。学費稼ぎに働いているパン屋の裏通りにアパートを借りて、過去に縛られずにきちんと前を向いて生きている。 「えっと、出かけるときの鍵はここね?」 「学校、どう?」 「演劇部作ったの。私は脚本係だけど。」 通学の恰好を整える際に壁を向いた『彼女』に、気にしないでいいのに、と笑ったのは、宝生の中で『彼女』が男のカテゴリーに含まれないからだ。 「宝生さん、それはそれで悲しいんだけど。」 伊月俊が目深に被っていた帽子を取れば、ばさりと黒い髪が帽子ごと落ちた。きちんと釦の留められてあるブラウスは鎖骨が綺麗に出ているが、女性にしては身体に丸みが無いのはそこで気付けるし、ん、と軽い咳払いで声音も男のそれに戻った。黒髪に隠されていた喉仏の影が、代わりに真っ白な首筋が大層にうつくしい。 「あら、鬘被ってるだけ?」 「スカートも下は軍袴。」 「え、生脚ちがうの?」 「流石にそんな度胸ないから。時間大丈夫?」 「あ、そろそろ行ってきます。」 「うん、いってらっしゃい。ありがと。」 「施錠してくれるならちゃんと出かけても大丈夫だからね、春さんっ!」 そうやって扉を閉めると宝生は施錠を確認して、アパートの廊下を駆けて行った。 伊月の事情を白状すればこうである。 逃げた。 昨日の事件では有言実行を物見事に成功させたが、同時に肩を脱臼すると言う負傷。そんな状態で家に帰ったとして、また両親に何か、口煩く言う親ではないが、からかいを含めて何をか言われる確率は低くない。おそらく花宮は警察に引っ張られているだろうし、今吉は事務所の雑務を片付けるだけの日だ。そんな中で左腕が使えない自分が入っても邪魔である、という自棄なのか冷静なのか解らない判断の元、逃げた。 因みに衣装は春の洋装にと今吉が作らせた逸品なので、帝都をこの格好で歩けばすぐに見つかるし、と半日あれば行ける場所、と鶴見を選んだ。そこで宝生の顔が浮かんだ。 事件からこちらの約束を幾つか反故にしたままなのを思い出したのもあるが、約束した本を持ってくる時間と体力は無かった。 「とりあえず寝て良いかな・・・。」 昨夜は愛人に強請って眠らせて貰えなかったのも手伝い、座り込んでしまう前に、昼頃に中天の光が暖かそうな、日に焼けた畳にころりと猫のように丸くなった。左肩を庇うように、右肩を下に、そのまま部屋は徐々に暖かく、すぅと穏やかな寝息に暖かく包まれた。 ビィ、とブザーの音に、薄い瞼が持ち上がる。随分と軽くなった気がする体をゆっくりと起こせば、うん、と一つ唸って目元を擦る、さらさらと長い髪が肩を滑って行って、うんー、と首を傾げる。手首を飾る繊細なレースと脚の動きを不自然に拘束する布地に、めっちゃ良く寝た、と左肩の状態に手をやる。直後に電流のように走った痛みに眉を寄せ、左肩を庇いながら見慣れない部屋の中で状況把握に寝起きの脳味噌を叩き起こす。 「何時、いま・・・。」 ちいさく作ってきた鞄の中には救急治療器具と身分証明と金銭と、少しの化粧道具があって、取っ手にはチェーンで懐中時計を吊ってある。 ビィ、とまたブザーの音で、それに伸ばそうとした手を諦め、影の角度から昼過ぎだな、と大凡の時間を考えながら扉に向かう。部屋の間取りは見た所、一間に台所と狭い洗面所。風呂は近所の銭湯だろうか。 「はい、出ますー。」 ドアの向こうにはそうやって対応して、一度声の高さを整える。立ち上がって、扉の鍵を外せば、宝生さんっ、と悲鳴のように呼ばれた。 「あ、すいません。宝生さん、まだ帰ってないです。」 「・・・どちらさま?」 見た所二十歳手前の女性は、ぽかんと伊月を見上げ、首を傾げた。 「え、どちらさま?宝生が他人ほったらかしとくって珍しい・・・あ、隣の福浦空子と申します。」 上等な服を着ている訳でないが、育ちは悪くなさそうな、髪は後頭部で結って纏めてある女はそう名乗る。 「あ、どうも。伊月春です。」 右手を差し出せば迷いなく握手に応じてくれるので、どうやら第一印象は騙されてくれたらしい。 「物書きをしてらっしゃる?」 握手に応じた右手を伊月が見下ろして告げれば、あらぁ、と感嘆の声が来た。 「よく解ったわね。富山紡績の新製品開発やらデザイン業企画やってるの。自宅でデザイン画ばっか描いてるわ。・・・そうよね、昼夜逆転しちゃってたわ最近。宝生さんまだ学校ね。」 「何かありました?お急ぎの御様子で。」 「うん、またちょっと・・・。」 福浦はそう言葉を濁し、今何時ごろ、ときゅいと目頭を押さえた。 「御昼過ぎ辺りかと。何かあったんです?」 「つつくわね。えっと、伊月さん。」 「春でいいですよ、宝生さんそう呼ぶんで。」 「じゃあ春ちゃん。」 「はい。」 「お昼一緒する?」 「いいんですか。」 そう言えば昨夜は夕食抜きで、今朝は朝食を食べたが、代謝を考えるにおそらくは全く体には足りていないだろう。 「うん、そこの食堂でどう?」 「福浦さんそれ頂きです!」 「はい?」 呆然と佇んだ福浦を置いて、伊月はぱたぱたと鞄に駆け寄り、ネタメモに先ほどの言葉を記す。 「ああ、あなたが噂の。」 「はい?」 「宝生さんが時々ね、話してくれるの。美人なのに駄洒落が好きで、頭がよくって私の恩人、って。」 それ色々盛り過ぎじゃないか宝生さん、と伊月は思ったが、そのまま教えられたとおりに鞄を持って部屋を施錠して、福浦に連れられた食堂は、下町の馴れた場所。福ちゃんいらっしゃい、空ちゃん何にする、と店主とその連れ合いが笑顔で注文を問いかけてくる。 「今日のおすすめなにー?それにするー!春ちゃんは?」 「えっと、焼き魚定食で。」 焼き魚ひとつー、と店内での喧騒には、勤めの休み時間か、あちらこちらで笑い声や話し声が賑やかだ。 「福浦さん、先ほどの。」 「うん?ちょっとゴミが荒らされるの。」 定食の汁椀に口を付けながら福浦は吐露するように零した。 そう言えばゴミの日だと看板はあったのに奇妙なくらいに綺麗だったゴミ捨て場の前を通りがかった記憶を伊月は思い出す。 「それ、警察に相談してます?」 「してない。」 「それは・・・。」 ちょっと問題ですよ、と伊月は魚の切り身を崩して口に入れた。 「いや、何の得もないじゃない?アパートのゴミ荒らしても。空き巣は一回あったけど、それ以来は戸締りも確認してる筈だし。」 「いいえ、ありますよ。事実、空き巣があったでしょう?」 うん?と福浦が首を傾げるのに伊月は行儀悪く食卓に肘を置いて顎を乗せる。 「アパートのゴミからは、結構色々と解るんです。どの新聞を購読しているか、電気の使用なんかも月末に電気会社から知らせが紙面で届きます。新聞を溜めたり止めたりすれば、その日は家にいないと確定。これだけ材料が揃っていれば、どの日のどんな理由で空き巣のチャンスがあるか、と判断材料は揃うんです。」 「あらまー・・・。」 「それから、宝生さんの部屋は廊下の一番奥。これは憶測ですが、福浦さんはまた更に隣からその情報を、ときちんと回覧させている。この自衛方法は有効かと私は存じますよ。女性の社会進出が増えた、ということは、逆説的に真昼は無人になる家が増えるという事ですから。」 なるほどなぁ、と箸の先を遊ばせている福浦に、ちょっと喋り過ぎた、と伊月は我に返る。そろそろ痛み止めが切れて来たので何かしていないと倒れそうになると言う無意識の意識も働いている。 「ご馳走様でした。」 「ご馳走さまでした!おじさん、代金ここね!」 「あいよー!」 「またおいでねー空ちゃん。」 「そっちの美人さんもな!」 「こらー!」 あはは、と賑やかしい食堂を出て、アパートに戻ると、学校から帰った宝生と道行で出会った。 「あ、福浦さんこんにちは!」 「宝生さん、またゴミ荒らしあったって。気を付けとけって、春ちゃんすごいね。」 「ね!春さんすごいでしょ!!」 途端に感嘆符が増えた宝生を、こらこらと伊月は宥め、これからどうする、という質問には覇王樹茶屋でウェイトレス、と返ってきた。なんでもこの間給料が増えたのだか何だか、接客の種類が増えて、出来る事が増えればその分給金が増えるシステム採用は一種の欧米合理だが、最近の数字で採点を求められることが増えつつある日本人には有効な方法かもしれない。 「春さんは適当に私の部屋に寛いでていいし、あ、福浦さんのお仕事手伝う?お着物の柄とか、モダンで凄くかっこいいの!」 「いや、ゆっても私一人で作るんじゃないから。」 「企画を進めていく立場ではいらっしゃる?」 「まあ、そんなところ?昔は工場の事務方だったんだけどね。デザイン画を社長に見られちゃってさ。」 「それは一種の才覚だよね。羨ましい。」 「駄洒落センス的な意味で?」 「宝生さんもつまんないと思ってた!?」 「ううんー。駄洒落考え付いた時の春さんは可愛いと思う!!」 「あ、キタコレってさっき聞いたー!」 「そうそう!あの瞬間がすっごく可愛いの!」 まあ中身男ですけどね、と伊月は遠くに視線をやる。この道は地元の者から客人や通りすがりとひとが多い。東海道本線、電氣鐡道、京濱電氣鐡道、と電車の通りも多く、明治製糖川崎工場、東京電氣會社、日本蓄音器商會、東京製線川崎工場、そして福浦が働くと言う富士紡績工場、と工業地帯でもある。 「宝生さん、晩御飯どうする?」 「昼飯の後で晩飯の話って春ちゃん主婦か。」 「えっ、春さん作ってくれるの!?」 「私も仕事無かったら行くのにー。」 そうやって部屋の前まで来て、鍵を開けて、それでは、と一度お別れだ。 「春さん、左腕どうしたの?」 「あ、ばれてた?」 「私だって伊達酔狂で覇王樹茶屋選んだんじゃないもの。ひろちゃんが、もっと広く世界を見ておいでって言うから。お金貯めて、ひろちゃんが一回しか見に行けなかった宝塚歌劇沢山観て、いいなぁって天国で歯ぎしりさせてやるの。」 「そうか。」 「うん、ちゃんと、目的は見つからないけど、目標はあるの。気にしないでね、春さん。」 ぱぱぱと慣れた様子で身支度を整え、それじゃぁ行ってきます、と明るく手を振って部屋を出た様子に、行ってらっしゃい、と伊月は笑う。 足音がきちんと遠ざかっていくのを確認して、壁際に鞄に手を伸ばす。鎮痛剤の錠剤と、ブラウスの袖から静脈に医療用のモルヒネ。この針を入れる瞬間が一番痛い。ぎゅ、っと奥歯を噛みしめ、とくとくと鼓動をガーゼ越しに感じながら、ふー、と長く息を吐く。 「病院・・・はばれるな。整体かな。あー、景虎さんとこ寄ってから来たらよかったかな。いや、それだとカントクにばれた時怖い・・・。」 感覚が麻痺した左腕を投げ出し、膝に額を預けて見下ろす。怪我の直後に熱に浮かされながら、人事を尽くせなかった、と今吉に訴えた覚えはある。確かにこれは鍛練不足だが、脱臼が癖になっても困る。正解か不正解か、それはこれから解る。だから今だけ、逃げさせろ。結果が最終告知を突きつけてくるまで、俺は逃げる。 ぎゅっと力を籠めても軽くにしか握れない指を恨めしくも、右腕は不自由なく動くので、とりあえずは台所で収納や冷蔵庫の中身を確認させて貰う。 「オムライス食べたい・・・。」 この間事務所に相談に来た桜井が丁度金の無い時期で、夕飯を相談料代わりにと作らされていた時の手順は覚えているし、家で何度か練習したそれは妹に大好評だった。 「卵と、鶏肉かな。あ、茶屋の賄あるかどうか聞いとくの忘れた・・・。」 おそらくあったとして、宝生は働いて学校、また働きに出るスケジュールで、伊月も運動をしている男子として割と食べるので、まあ問題は無いだろう。地理には明るくない場所だが、まあ何とかなる。最低限の金銭の入った財布はポケットに入れておくとして、左手が明るく動かないのがネタ帳をメモするために大変に不自由だ、と変な方向に通常の安定をしながら伊月は宝生の部屋を出て施錠を確かめ、アパートを出た。紡績工場の職員から電気会社の人間まで、女性にのみ居住を許されるアパートメントは家賃は安くないが、条件としては安心できる場所にあり、一階建てで廊下も空に面しておらずに壁が護ってくれる。 「空き巣被害・・・。」 被害者が無事であるなら出来れば話を聞ければいい、と思ったのは一種の職業病か、商店街方向でブラウスにロングスカートと綺麗な黒髪で設えられた鬘は耳の裏にピンを通せば簡単にセットできる。おや美人さん、なんておまけを貰えたりもして、ちょっと春はお徳だよなぁ、なんて伊月は能天気に考える。 アパートに帰ってきて、器用に右腕一本に荷物を引っ掛け、鍵を開ける。ただいま、と声を掛けても未だ部屋の主は帰っておらず、失礼します、と後ろ髪をバレッタで纏めて台所で道具一式、動くようになってきた左腕には味を調える事を手伝って貰う事に成功した。じわりじわりとだが、きちんと腕はこのまま戻ってくるだろう。 「ただいま、春さん、良い匂い!」 「おかえり、宝生さん。台所勝手に触っちゃった。」 「賄貰って来たけど、絶対足りないでしょ。」 「御名答で。」 一応二人に、って女将さん仰って下さったんだけど、と包まれた弁当もパンも冷えていてちょっと侘しい。 「あ、ご飯こっち頂戴。チキンライスにしちゃうから。」 「はぁいー!他にすることは?」 「大きめのお皿二つ、と、よっと。」 ざらん、と炒め鍋の中でトマトソースの絡んだ米と刻んだ鶏肉が綺麗に踊る。 「・・・多すぎない?」 「・・・やっぱそう思う?」 もう一つ皿を出して、炒め鍋から分け出すと、丁度良くこんもりと盛り上がる。 「あ、福浦さん呼んじゃう?お昼は春さんお世話になったでしょ?」 「そうだね、いらないって言われちゃったらアウトだけど。」 伊月の苦笑に、宝生は一度部屋を出て、隣の部屋のブザーを押す。はーい、と返事には少々の疲れが見えたが、伊月は今から丸く包む卵を解くのに茶碗を出そうと食器棚に向かって、宝生の様子を窺おうと扉のほうに目を向ける。扉を開け放して、不用心、と福浦の窘める声が聞こえ。廊下を護る壁に灯り取に設置されている窓の外がちかりと光ったのに、伊月は反射的に床を蹴った。 バン、と勢いよく扉を叩き閉めた音はアパート内を随分騒がせたに違いない、福浦の部屋に、扉を閉め、胸元に宝生の頭を庇った伊月は驚愕の視線を福浦から向けられた。宝生の部屋から出て、扉を蹴るように閉め、福浦の部屋に飛び込み、そして宝生を庇って扉を閉めた、まではいい。その直後に廊下に響いた何かの、間違いなく割れた音は何だ。 「宝生さん、福浦さん、怪我、ないっ!?」 日が暮れるのも忘れて作業に没頭していた福浦の部屋は薄暗く、慌てて灯りを付けると、部屋には何枚ものデザイン画が吊られて積み重ねられて、作業の進行表には印や新しい支持が書き込まれた紙で、お世辞にも整理整頓がされているとは言えないが、それでも住める部屋である。 「春さんこそっ!」 「私は大丈夫。二人とも、ちょっと乱暴にしたから。どっかぶつけたりとか。」 「あ、うん、大丈夫っ。」 「だから、私は大丈夫だから春さん大丈夫なのって!」 呼吸を乱して真っ青な顔になっている伊月の額に福浦は手を延べるが、大丈夫、と凛と告げられる。 「廊下、見てくる。」 既に部屋の前にひとの集まる気配はあって、なにこれ、と悲鳴のような声に廊下に顔を出せば、そこは真っ赤に染まっていた。 「や、血、とか?」 「いや、血だったとして、少なくともヒトのじゃないね。」 しなやかな白い指先が赤く染まった壁を舐め、臭いを確かめる。確かに腥いあの臭いは薄い。 「ちょ、春さんっ!?」 ちろりとそれを口元に持って行った伊月に思わず宝生が駆け寄る。 「安心して。これ、色水。赤い絵の具混ぜただけの水だ。ここ。」 示されたのは割れた壁の窓。そして床に散らばる何かの破片の中、伊月は戸惑いなく摘まみ上げる。 「ビール瓶かな。ここの漏斗状になってる部分は意外と丈夫でね。近くに酒屋も瓶の精製工場もあった筈。破片は危ないから掃除して、一応警察に連絡して。立派な器物損壊事件だから。私が気付かなかったら傷害、運が悪かったら死んでた。」 「わかった!私行ってくる!」 「福浦、頼む!」 「他に被害は?」 「こっちは平気だった。」 「福浦さん、念のためにゴミが荒らされたことも伝えておいて。」 「了解だよ春ちゃん!」 壁の掃除は明日にしよう、と伊月の判断に、大家のお婆さんが、これまた酷い事を、と窓に段ボール紙を貼り付けて、警察が詳しく調べたら掃除お手伝いします、と伊月の声に、助かるねぇ、と笑ってくれた。 「そういえばあんた。」 「はい?」 高い場所の固定を手伝っていてやれば、ふうんと大家はひとりで頷き。 「梨子ちゃんは元気かねぇ?」 と伊月を見上げて、元気だといいねぇ、と呟きながら去った。 「リコちゃん?」 カントク?と首を傾げながら、炒め鍋に解いた卵を流し込み、丸く包んで、チキンライスに載せたタイミングで宝生と福浦が部屋に戻ってきた。 「わああああ!」 「春ちゃんお嫁にほしいいいい!」 「何これ既視感。」 各々使いやすい食器で、チキンライスは冷めてしまっていたが半熟の黄金色に仕上げられた卵の包みにとろとろと温まった。 「美味しかったー!春ちゃんほんと何でも出来るね。」 「何でもは無理だよ。」 「ご馳走さまでしたっ!」 「はい、お粗末様。」 「御馳走さま!食器洗わせて貰うね!」 「悪いよ、福浦さん。」 「いいのいいの、食べさせて貰ったし。夕飯代浮いたー!」 「そっちかー。」 台所で二人がきゃっきゃと騒いでいるのは姉と妹の遣り取りでも見ているようで大変癒される。尤も、血縁であれば小憎らしいも漏れなく付いてくるが、他人であるが故只管癒される。ちょっと変態的だが許していただきたい、と伊月は二人の様子を見守って、カーテンをきちんと閉めた向こうは真っ暗だと気付く。街灯がぽつぽつと仕事帰りの草臥れた背中を照らしている。 「やっば、宝生さん、この辺って今から飛び込んで泊まれるところあるっけ?」 「え、泊まっていくんじゃないの?」 「ちゃんとお客さま用のお布団出すよ。」 おいこらちょっと待て年頃女子、と伊月は頭を抱えそうになった。が、宝生とは仕事の関係上同じベッドで眠った事もある。 「いいじゃない、春さん。私気にしないわ。あ、でも私朝早いから、それでもいい?」 「いや、泊めて頂けると有難いよ。ありがとう、お世話になります。」 「私も遅くまで起きてること多いから、なんかあったら呼んでいいよ。それじゃあ、春ちゃんお疲れさま。宝生さんも。そんで御馳走さまでした!」 「はい、お仕事頑張って!」 「頑張る!」 中間管理職見てやがれ、なんて拳を作って怒らせた肩から炎が立ち上るようなので、働く女性の強い事、と伊月は思わずふにゃりと表情を緩め、まるで芙蓉の華のように笑う。 「それじゃあ、ちゃんと鍵閉めて。」 「うん、警察の対応も多分明日、大家さんとかも交えて・・・。」 「それじゃあ、二人は早くお休みよ?」 「はいっ。」 「はい、ありがとうございます。」 そうやって福浦は部屋を出て、食器を仕舞い終わって台所を整頓した宝生は、押入れを開けるので慌てて伊月も立ち上がる。 「いいよ、春さん。まだ左腕辛そうだもん。お風呂どうする?近所の銭湯なんだけど。ここの大家さんがやってて、ここに住んでたらロハなんだ、けど・・・。」 「あー、うん。流石に銭湯でこのカッコは拙いし、女に化けてつーのも無理あるからね、だいたいの場所教えて。後で一人で着替えて適当に行くし。」 「うん、わかったー。」 適度に距離を置いて二つの布団が敷かれ、あの辺ね、とカーテンを少しだけ透かして長い煙突を確認させると、行ってきます、と宝生は部屋を出た。 もう寝巻のまま行っちゃうか、と咎める人間がいないのを良い事に伊月は不精を選び、ブラウスとスカートを脱ぐとそのまま袖無しと軍袴姿になる。羽織る物でもあればちょっと違ったかな、と夜になって下がった気温に二の腕を擦って、懐中時計で時間を量る。 「あ、俊さんになってる。」 「浴衣かなんか貸して貰える?地味なの。ここの廊下で誰かと擦れ違うのも悲惨だから。」 はいはい、と濃紺に朝顔の浴衣を借りて、そのままアパートを出て、道行、人気のない場所を狙って鬘を素早く外し、浴衣に包む。そうして何食わぬ顔で番台に金を払って、肩に気を遣いながら湯に浸かって、見慣れない男に、とちょっと不躾な視線を受けながら、また人気のない一瞬に女に化けた。化粧無しで女装が出来るんは十代までや、と有難くない今吉の女装講座の文句が蘇った。 「・・・リコ、が誰かは聞けばいいか。問題は瓶は何に向かって投げられた、かだな。ゴミ荒らしもか、ひょっとしたら付き纏いでもあんのかな・・・。」 長い髪の荒れの無い毛先を玩びながらアパートに帰ってくれば、よかった浴衣借りといて!とこころの中で絶叫する羽目になった。伊月の記憶が正しければ、福浦の部屋の二つ隣に入った筈の女が、一番手前の扉の前にいた。 「こんばんは。どうかされました?」 あんなことがあったしあまり出歩くな、と意味を込めて声を掛けてやれば、随分と驚いた風情で振り向かれた。 「ああ、宝生さんの・・・。」 「はい、遊びに来ています。伊月です。」 こちらの部屋は、とブザーの下にある表札の位置は、日に焼けただけで何も入っていない。 「ここ、無人ですか?」 「いいえ、梨子の部屋。晩御飯持ってきたところ。」 大家が言った娘の名前はこれだったのか、と伊月は得心し、お仕事でも、と興味本位に見せかけて問いかけてみた。 「知らないの?ああ、知らないか。半年前に空き巣にあって、それ以来部屋から出てないの。」 「え。半年も?」 「そ。キレーな子だったんだけど、半年で見る影無し。いづき、だっけ。あんたも気を付けな。」 「私?」 「うん、垂髪の綺麗な美人は狙われる、って。さっきも警察、またかって福浦にゆったらしいし。」 「あ・・・。」 垂髪の黒髪、女性ではないが、女の恰好で女だと言い張ってしまえば伊月春は通じる。夕飯前のあの騒ぎは伊月を狙ったものだった、と本能が悟った瞬間に背筋を戦慄っと寒くなった。 「じゃあね。」 「あ、はい、おやすみなさい。」 ぺこりと綺麗な容に頭を下げると、育ち良さそうだねぇ、なんて揶揄のように笑われた。おやすみ、と彼女も部屋に戻って、さて、と伊月も歩き出す。 気まぐれな家出が、どうしてこうしてこうなった。 続く。 |
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再登場宝生嬢。そしてモブの一人は不思議な花瓶の美羽嬢と同じく、フォロワさんからお名前お借りしました!!ありがとうございます!!
初出:2013年5月8日 18:37
すっかり女装が板についた月ちゃんw
これちょっとご質問多かったんで裏話しときますと、これ描く前日かなんかに仙人掌茶屋特集を見まして。
んで、川崎か鶴見か悩んでたら、当時の川崎って公害凄かったんですってねと・・・。
20130903masai