お金になんて、ならないほど高価なので。
伊月施設長のその言葉を聞いてから、慶子はほぼ、それだけを望んで、生きた。
そらは、辛うじて顔を覚えている義兄で、養父でもあった人物の手記を、常に懐に入れてあった。
昭和十二年から、その長い長い八年間、彼女は、彼は、それだけを支えに、生きた。












今吉探偵と伊月助手と外伝・伊月夫妻と清水夫妻。












「セッションしましょー伊月さーん!」
「お前も懲りないね、高尾。」
せっしょん、と聞き慣れない外国語に慶子は赤子を抱いて首を傾げていた。その壮大で摩訶不思議な物語の世界、伊月は一人の冒険者だった。決して莫迦な女では無かったのだが、札束の詰まった鞄を、と伊月が持った鞄を彼女は隙を見て一度持ち出し、中身が空だった時は落胆した。お八つにしませんか、と子供とさとが作った菓子を、彼女は満足しなかった。
何故この世界はこうも不平等であるのだろう、と腕の中のいのちを何度頚り殺す妄想をしたやも知れぬ。
伊月そらは周りの言うことを信じるのであれば、大正十四年の生まれだ。その後、清水という夫妻に一度引き取られている。
清水慶子と慶一郎の夫婦は産まれてすぐの子供を亡くした夫妻であった。震災の折から住処を流流転転としながらAsylに流れ着き、赤子はいないのに慶子は乳が張り、大層に苦しい思いをしたのを、そらの存在が助けた。
彼らを語るには、もう一人、伊月俊という存在も必要だった。最高学府を高成績で卒業した医師で、法律にも詳しく、友人知人も多くあり、多少の武道も嗜んだ柔軟に鍛えられた痩躯と美貌。時が経るに色々な仕事をした施設の長であり、探偵の助手であり、また監察医でもあった。そして何より金があった。
清水慶子と慶一郎は夫婦ではあったが、また姉弟でもあった。近親相姦は産まれる子供にどんな影響が出るか解りません。伊月は、その禁忌の愛に生きる二人に、二人で独りのような存在に、ただ、否定も肯定もせず優しく笑って、慶子にそらを抱かせた。あんあんと空腹に泣きじゃくるそらに、慶子は乳を与え、慶一郎はその光景を眩しそうに見た。
「あ、ごめんなさいっ。」
伊月はそうやってくるりと背を向けたものだが、いいのよ、慶子は笑った。
「伊月さんはお食事の時にお皿を隠すの?お箸を隠すの?お乳をあげるっていうのはそういうことよ。」
「でもー、あー・・・あ!?」
あらあら、急に飲むから吐いてしまったねぇ、と面倒を見に来てくれていた産婆が慶子に助言すれば、こうして抱いて、とげっぷを促し、汚れた着物は伊月が姉の下がりを持ってきて、あら良いお洋服だこと、と慶子は感心したように言った。事実、Asylには高価なものは幾つもあった。伊月の学生服やコートだけでもかなり良い布であったし、学校を卒業してから着ていたスリーピースも、一般人には到底手の届かない代物であったが、そこは月さんと月ちゃんと呼ばれる人物であるというか。
「月ちゃん泥だらけやで!?まーさんかーさん!!」
「何やってんだお前。」
「あ、翔一さん、花宮、おかえり。」
「さとちゃんかーさんでもええから!このええ年こいたでっかい少年どないかしてー!」
袖は捲ってあったが、白い手は泥だらけで頬を擦ってしまって、折角の美男子もすっかり悪戯小僧に混ざって台無しである。それでも凛とした眼差しは誰より強く美しかった。
「面倒だから風呂入っちゃおうか。昌美さん、ちょっとそこの銭湯行ってきますね。」
「服!月ちゃん着替え!」
「翔一さんの浴衣借りっぱなしなの、着ちゃっていい?」
「月ちゃんは阿呆か!?」
頭を抱える今吉など面白いものを幾つかからかいやり返されて笑った。そして先頭きって銭湯に、と謳った伊月の後ろに同じく泥だらけの子供も着いて行って、翔一さん牛乳奢って、なんて強請られて今吉は子供の人数分、小銭が飛んで行った。Asylに帰れば蝶子に強請られた飯事に花宮は頭を抱えており、その傍らに、そらは慶子に抱かれてあった。そらはこの頃にはもう自立歩行も始まっており、風邪に罹る子供ではあったが、しっかり育った。彼は伊月の顔を写真でしか知らないが、お前を俺は照らそう、と誓うような男の声を確かに覚えている。伊月がAsylで施設長を医師を務めた事は有名だが、特高に連れて行かれるまで書き物をしていたことは意外と知られていない。
それは思想の話。哲学の話。
そして、にんげんの話。
相反する言葉も幾つもあったが、どれも彼の哲学であり、思想であり、そして活きた証だった。桜井良は知り合いの同人仲間でそれを小さく冊子状にし、Asylの、伊月の子供達に持たせてくれた。そらは人生に行き詰まるたび、息詰まるたび、その本を開いた。
伊月の長男は特高に連れて行かれて殺された。その後花宮の管理下にあり、今吉や天野の手配に疎開したが、そらは疎開しなかった。正確に言えば、出来なかった。
清水夫妻はずっとそらのことを実の子のように接しており、また、伊月の友人の家で働き出したきょうだいにも、恩はあった。
《恩義を受けたら、いつでもいい、百年かかったっていい、絶対に忘れず返しなさい。有難うという言葉の意味を学びなさい。》
《常に自分を身近に、他人を傍らに、愛せ。》
《自分の世界を形創る自分以外のものは、終身の宝だ。》
《自分を通してしか世界は見えない。だからこそ他人を大事にし、自愛せよ。》
幾つあるか、考えるのは止めた。その多くの人生観は、義兄の生き様であったのだろうし、また、これに則って生きたい、活きたい、とそらは思った。
昭和十八年、伊月保也が出征した。伊月の家やその周りは高学歴や研究者が多かった。よくAsylで青空理容室をやってくれてあった日向順平は弱視で丙種であったのに、徴兵された。木吉鉄平は脚に怪我を抱えており兵役免除。木吉リコは父親の弔電に泣いた昭和十九年。そらは特攻隊に配属されてあったが、訓練を終えた半年後、出撃の直前に玉音放送が流れて、中止になった。
そらは案外早くに東京に戻れたほうだったのだろう、寒い冬の風が復員服に厳しいその日、大きな焚き火を覚えているその庭に、一人の女が蹲っていた。
清水慶子は良い母親だったか、そらは知らない。
慶一郎が良い父親だったのかも、そらは知らなかった。
「子には、慈母と賢父があるといい、だったか。」
自分の道を照らしてくれた光はそのちいさな冊子の中に確かにあって。慶一郎は志願兵としてフィリピンで死んだ。みんなみんな志願して死んでいった。国のために、万歳と言って。しかしそらは、操縦桿を握った際、間宮昌美の泣きそうな笑顔が浮かんで、伊月舞の、泣き顔が浮かんだ。その刹那が命運を分けた。一瞬早くに飛び立った仲間の零戦は、そのまま中空にふらふらと漂い、近くに艦隊に墜落した。
伊月舞とそらは晩婚といって良かった。彼女は少々兄を慕いすぎるきらいがあったと昌美の言葉を思い出す。兄が死んでから、見合いを断らずに三人の男と結婚した。どれも戦争で死んでしまったが。
「慶子、さん。」
その焼け野原の荒地、寒い中に着物一枚もんぺ姿で痩せ衰えた彼女は、一心不乱に土を掘って食べていた。確かに皆で庭に芋を植えたそこはもう、瓦礫と焼けた煉瓦があるのみ、彼女は土を掘り返し、食らう。
「どこよ、どこ、どこ・・・?」
「慶子さん。」
そらの声も届かない彼女は、どうやら何かを探しているようだった。
《他人へ伸ばす手を躊躇うな。》
《悪人と善人でひとを区別するな。》
「そら、ちゃん?」
まるで亡霊のような声だった。痩せた彼女は三十路を超えていたが、そらには誰より美しく愛しい女性であって、ちいさな子供の手を引いているのに、そらは目を瞬く。舞は四度結婚をした。四度目の結婚は式を上げる暇もなかった。といっても、伊月舞にとって結婚式は悲劇の日であった。伊月俊が特高に連れて行かれてたのは彼女の神前結婚式の最中で、彼女だけは伊月俊の最期の言葉を聞けていなかった。操られるよう、命じられるまま、魂が抜けたような舞をそらは出征の前日、抱いた。
「千人針も五銭銭も要らない。貴女に生きた証を刻みたい。」
意図せず彼女は寅年の生まれだった。舞は俊が、そらに名付ける折の事をよく覚えていた。夜のそらを照らすのは月。今は夜だけれど、きっと昼になったらそらは月を抱いて強く輝くさ。兄はそうやって、まだ赤子であったそらの柔らかい頬を突き、ぎゃんぎゃん泣かれて狼狽えた。それをあやしたのは慶子であったのに。
「舞、さんっ・・・!」
「そらちゃん、そらちゃん、そら・・・さんっ!」
互いで痩せた体であったのに、その冬は酷く暖かく、空之助、と舞は子供を呼んだ。まるで奇跡よ、と彼女は涙を拭い、空之助をそらに抱かせた。その子供のためだけに行きたような彼女は、たったひとり、伊月の家の名前を背負って東京で行きた。そして活かした。家は燃えてしまったが、兄が大事にしていた柳行李やAsylでの日誌を仕舞った木箱などと一緒に家の蔵を当座の住処としており、一度焼けていないらしい父親の実家に身を寄せる旨をそらに伝えた。
「舞さんが住み良いようにして?僕はもう少し・・・。」
貧しかった国民の死に様を克明に遺した間宮昌美の遺書めいた手紙も、子供達の指先も、確かめてそらは静かに泣き、Asylのあった焼け野原に向かった。
伊月俊の遺体が燃やされたと聞いているそこは、そらが覚えていた限りではその熱で煉瓦は焼けており、もう今は土台と多少の煉瓦の欠片に、何かを削った様子をそらは見つけた。
「俊義兄さん。」
《耐えろ》
土台の石には、そう刻まれてあった。こんなものがあっただなんて、知らなかった。大正十四年九月、と掘られたそれは、そらが生まれた頃のもの。
「貸しなさいっ!!」
横から引ったくった痩せた手は、寒い中に赤く悴み罅割れ、白い息がぜいぜいと零れる口は獣のように、焼けた土で汚れてあった。
「ないじゃないの、ないじゃないの・・・っ!!」
金物の蓋は歪んで中からはベーゴマやメンコ、綺麗な模様の歌留多が入っており、どうやらつい先程掘り出されたらしかった。
「慶子母さん。」
「ここなの、伊月施設長は、ここに埋めたと言っていたの!あるはずなの!!」
「何が・・・?」
「お金で買えない高価なものが!!」
嗚呼、と叫び崩れた彼女は、白髪の多く混じった髪を振り乱し、肋骨の浮いた胸元を掻き毟る。
「・・・見つけてるじゃ、ないですか。」
その菓子折りの箱であった缶には、子供達が遊んだ、綺麗な思い出が詰まった綺麗な文様が幾つもあった。
《伊月へ》
見たことのない文字が底に残ってあった。正確には、ある。あのちいさな本は、高名な画家が知り合いの印刷会社に頼み込んで頭を下げて、憲兵にでも見つかれば酷い処分を受けるだろう覚悟で、伊月俊の文字からそのまま刷り上げ作ったものだ。
「俊義兄さん・・・?」
あの声が本当に彼のものなのか、確かめる術は彼になく、ただ、その筆跡だけが。
《さて、誰が読んでいるだろうね、楽しみだ。翔一さんは駄目。ここで閉じて。花宮はまあ、いっか。拗ねないでね、翔一さん。これは俺の宝箱。俺たちの宝箱。昌美さんとさとさんに、教えてもらって作った辺り、俺も単純といえば単純だ。さて、まずは太一、言うようになったよな、お前は。何度屁理屈を捏ねるなと叱ったかも知れない。俺の小さな頃にそっくりだそうだよ、お前は。陽子は少し男勝りが過ぎるな。景虎さんの道場を一度訪れてみようか。ときこ、と呼ぶには未だ違和感があるね。ときちゃん、と昔のように呼ばせてもらう。ときちゃんには本当に頭が上がらない。翔一さん共々世話になった。よっちゃんと仲良くな。》
知った名前も知らない名前も、多くあった。
《最後に、そら。こう言うと他の皆は拗ねるかもしれないが、お前は俺の中の、何より大きな輝きだった。幸せになろうとするな。幸せを求めるこころを持って、苦しみながら生きなさい。》
《昭和元年三月一日 伊月俊》
封筒にも入れられていない、しかし綺麗な便箋にお手本のように綺麗な文字が綴られた手紙に、そらは泣いた。顔も写真でしか知らない義兄は、こんなにも自分達を愛してくれていた。厳しい叱咤もあるが、それ以上の、愛情による激励。
「寄越してっ!!」
やはり引っ手繰るようにして慶子はそれをそらから奪った。これも違う、と吐き捨て、くしゃくしゃに丸めて棄てたのを、そらは拾い、皺を伸ばして畳む。懐にある冊子に挟む。大事に大事に、その、どんな高価なそれより価値のある言葉を仕舞った。
「さよなら、慶子さん。」
伊月そらは、その後息子空之助に、義兄から教わった世界の仕組みや哲学を、思想を持つ一人の男として、生きて、妻の後を追うには随分とゆっくり、その決して長くない生涯を閉じた。

間宮昌美、享年三十九歳。
東京大空襲にて死亡。辛うじて下宿は無事であり、伊月舞によって遺品は整頓された。

伊月舞、享年三十五歳。
死因は連合国により、肺炎に改められている。

伊月綾、享年三十二歳。
長男を出産の折、産褥熱にて死亡。最期に弟の真名を呼ぶ。

伊月そら、享年六十歳。
息子の成長を見守り育て、心臓を患った手術の失敗により死去。

伊月保也、享年三十八歳。
マレーシアにて二階級特進。

日向順平、享年三十三歳。
南方進出の折、艦隊沈没により行方不明。

木吉鉄平、享年七十七歳。
曽孫の誕生を待たず、心不全。名前は曾孫に受け継がれている。

木吉リコ、享年三十二歳。
死因は連合国により、肺炎に改められている。

清水慶一郎、享年不明。
南方戦地で二階級特進。

清水慶子、享年四十二歳。
精神病院にて自殺。

桜井良、享年二十六歳。
画家であり思想家を貫き、風刺画も多く遺す。特別高等警察による拷問で死亡。

初出:2014年2月18日 21:11

今月探偵番外編、第三弾。

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