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あるところに路面電車に乗った少女がいた。
彼女は老婆に座席を譲った。妊婦に座席を譲った。戦地で脚を無くした元兵士に座席を譲った。 何度も何度も座席を譲り渡したが、ある瞬間からその行為をぱたりと止めた。 どうしてだろうかと思うだろう。 疲れたのだろうかと思ったのだろう。 馬鹿らしくなったかと思っただろう。 少女のこころなんて、知らないくせに。 今吉探偵と伊月助手と不幸の手紙。後編。 ん、と寝起きにかすれた声で若い喉が戦慄くように呻いた。 「・・・しょーいちさん、も、あさぁー・・・。」 カーテンの向こうが白い時間に布団の中に寝巻替わりの浴衣で布団に入っていて良い訳は一切無いのだが、今朝は許された。誠凛の籠球部は本日休養日。明日から週末の練習試合に向けて調整する。 「月ちゃん、寝てまう?」 「眠いですー・・・。」 このまま一日ベッドの中で触れ合っていても別に問題も無いのだが、ヒトとして問題ないか、ともどこか理性の部分で思う訳だ。うにゅぅ、なんて妙な呻き声を発して、腕の中にさらさらと流れた絹糸のように美しい、天使の輪が浮かぶ黒髪を今吉は玩ぶ。寝る、眠い、と訴える伊月を一晩中可愛がって構い倒したのは言葉通り夜遅くに帰ってきた今吉だ。このまま昼頃まででも寝かせてやるか、と肩にぽとりと落とされている鬱血を舐めると脇腹をやけに艶にある手つきで撫でられた、ざわりと甘く背を駆けた快感に全身が総毛立つ。 「悪戯しょったら犯してまうで。」 「・・・寝ます。」 「よろしい。」 収穫はある程度、突破口を作ったのは伊月だった。あとは時間の問題だ、と今吉の判断の下、その日の探偵事務所は休業看板を出す筈だった。 その紙の色に誰かが気付くまで。 流石に血の気が引いた、と森山は語った。届いた手紙は一通。住所と森山由孝宛ての封筒。不幸の手紙の時と同じ様相に、またか、と森山は息を吐き、そして、違う、と思い当たったのだ。 「だってもう俺、横須賀の基地の陸軍将校の寮に一人で住んでんだよ?」 前に手紙が届いた時は、荷造りが途中の自宅だった。そして寮に入ったその朝に届いた手紙がこれだ。日本軍兵士強制召集令状。戦時下で民間兵士によく使用される召集令状は三種類、防衛召集という短期召集令状、教育召集や簡閲点呼として補充要員を確保するもの、そして前準備も何もなしに充員召集や臨時招集、帰休兵士召集、何も知らない国民を補欠兵士として召集する。青紙、白紙、赤紙などとも呼ばれるが、その封筒から転げ落ちて来たのは寄りにもよって赤いそれだった。 「軍基地内部犯のセン出て来よったか。」 「そうゆことなりますね。ここまで来ると嫌がらせの域まで超えますね。」 日曜日だというのに臙脂色の軍服を脱ぐことを許されない森山は、肩に背負う星ひとつが随分と重たそうだ。髪も丁寧に撫でつけてある。伊月が用意してくれた紅茶を一口含んで、美味しい、伊月君天才嫁に来て、なんて囀ったのは伊月の肘が鳩尾に減り込んだ。 「もっかい投げられたいっすか。そんで宮地さんに両腕両足轢いて貰いましょうか!」 「やめて!俺今結構傷ついてる!なんでそんな機嫌悪いの?」 「月ちゃんの朝は大概こんなやで?ゆーかまあ、今朝は普通に眠いだけなんやけど。」 「誰のせいですか翔一さん。誰のせいですか。」 「ワシのせいで月ちゃんのせいな。喧嘩両成敗。」 「それ両成敗違うくない?」 まあ月ちゃんも座って、と宥めた今吉は、ちょぉ待ってて、と一度事務室に引っ込んだ。 「お邪魔した?」 「いや、翔一さん抑制しとくんも俺の仕事なんで。」 「・・・大変ね?」 「今の森山さんに比べたら何てことないです。」 学生服にスラックス姿で膝に手帳を置いて指先に万年筆を玩ぶ伊月は、ふ、と息を吐く気配に視線をやる。精悍な顔は一晩で酷く痩せた印象を受けた。 「やっぱ、結構拙い感じ?」 「朝ご飯、何食べました?」 「え?」 「朝食。ブレックファースト。」 「珈琲とトーストを可愛い慰安婦さんが部屋に持ってきてくれたよ?」 全く、と伊月は息を吐き、翔一さん、と扉の向こうに呼ぶ。きっと同じことを考えた筈だ。もーちょぉ待ってー、と間延びした声が聞こえる。すいません、と苦笑した伊月は一度口元に指をやる。 「俺の考えでよければ、動揺せずに聞けますか。」 「それはちょっと難しいかも。」 「宮地さん、連絡取れますか?」 「え、ああ、それなら。」 可能、と森山が頷くので、伊月は接客用の所長デスク横にある電話機に向かう。昨夜のうちに手帳と電話脇のノートに書き写した番号と名前を交換手に告げる。 「おはようございます、宮地さん。今、お話出来ますか。はい、ありがとうございます。三分下さい。」 三分は少しだけ過ぎた。それでも宮地は苛立つ様子は見せず、きちんと対応をくれた。 「森山さん、基地内見学って出来ますか。」 「え。」 「出来るだけ早く。」 「えっと、来週・・・。」 「それじゃ遅いんです!」 森山が肩を震わせる羽目になるほどのその声に含まれた怒りと苛立ちに嘆息しながら彼は呼ぶ。 「月ちゃん。」 ごとりと大理石飾りのテーブルには不釣り合いなラーメン鉢が置かれる。 「森山クン、食べ。月ちゃんも、頭ちゃんと動かし。」 「森山さん・・・。」 「何?」 「食べて下さい、出来るだけ。で、プラシーボですが薬出しますんで。」 「プラシーボってゆっちゃ駄目なんじゃない?」 頂きます、と手を合わせて、森山は出されたラーメンを全て腹に収めた。生活環境の変化に、身体がついて行っていないのだ。 「森山さん、血下さい。」 「え、採血?最近しょっちゅうなんだけど。」 「・・・宮地さんですか。」 「そう、あの辺の研究班。なんか新任だから、カウンセリングとかも頻繁。」 そうですか、と伊月は今吉に採血台と道具を用意させ、少しでいいんで、と本当にメモリ二つ分だけ採血し、用意された数本の試験管に一滴ずつ垂らした。真偽が確信に変わった。 「馬車ですか。」 「うん、行動範囲把握とかで馬車とか馬とか乗せられてる。」 「自動車や軍用ジープであったことは?」 「無いかな。ねえ、これ必要?」 試験管の中でゆらゆらと沈殿していた薬品の色が変わって、伊月は立ち上がるとそのまま事務室へ行って、次はコートを持って出てきた。 「今すぐ、行きます。」 「基地?」 「っていうか森山さんの行動圏と宮地さんに会いにですね。翔一さん、来ますか。」 「軍人さんの行動範囲はあんま被らんからな、行ってみたい。」 「好奇心は猫をも殺すって仏蘭西の言葉だっけ?」 採血は手首の静脈から行ったので血が止まりにくいのと、傷自体の痛みもあり森山が眉を寄せると、体温の低い手が包むように握る。 「い、伊月く・・・。」 「これ、今飲んで下さい。」 「あ、うん。」 白い錠剤を用意された白湯で飲み、成分何、と聞けばビタミン剤、と返された。 森山が御者に命じて揺られたチャリオットの中は不自然なほどに匂いがしなかった。清潔感とはまた違う、奇妙な気配に今吉も伊月も眉を寄せ、気難しい表情に森山は苦笑した。大凡半刻、最短距離を移動して、その雑踏に伊月は息を呑む。 遠くには最新鋭の飛行機とその編隊を組む航空部隊の白いスカーフや、延々と縦列を組んで歩いている陸軍兵士。その激を飛ばす上官は簡易の勲章を胸に付けている。 「入ってすぐは訓練場。あっちに宮地のいる研究棟と、俺ら地位持ちの宿舎。で、春日は空軍で英吉利の兵士に日本語教えてる。」 「ああ、春日クンは中学入るまで英吉利におったんやったな?」 「あとは練兵場で古武術の応用教えたり?」 伊月は情報の様々を黒革の手帳に書きこみ、ふむと指先をくちびるに持って行った。流石に基地内部の敷地図なんて手に入らない。鷲の目の情報処理速度を上げて、森山に宿舎への案内を託す。今吉が続き、伊月の肩を抱くように進む。掠れた単によれた袴。元は上質であった筈の足袋に下駄を引っ掛け、安心させるようにその肩を叩いた。 官位持ちの宿舎に入るにはそれ相応の地位と証明が必要だ。少尉の地位ではどうにもならないなと頭を掻いた森山だが、直後に驚愕することになる。 伊月が取り出したのはただの学生証。守衛は伊月の着用しているインバネスコートと名前と幾つかの質問で彼に官舎に入る事を赦されてしまった。 「翔一さんはすいませんが、ここで。」 「ん。見学でもしょるわ。欧米式は日本兵には合わんで。」 「ゆっても、これからは必要になりますよ?」 そんな風に一言二言交わして、部屋まで案内願います、と伊月は森山に頭を下げた。ああ、と頷くことしか彼に選択肢は無い。 その部屋は上等な絨毯で、一人掛けのソファが幾つか円卓を囲み、シガーケースも置いてあった。 「ここ、応接室。」 「はい。シガー、一本頂いても?」 「俺、吸わないよ?」 「誰が吸うんです?」 「親父とかよく無駄話しに来て。」 そうですか、と伏し目がちに呟き、入って左奥の扉に通される。 「こっちが寝室。そっちのクロゼットは私物入ってる。」 「ちょっと、見て回りますね。」 構わないよ、と森山の声に、伊月はベッドサイドの水差しを手に取った。今朝の起き抜けに使ったと思われるコップも並んであった。 「朝食は、どちらで?」 「慰安婦さんがこの部屋まで運んでくれる。」 「・・・そうですか。」 そうやってきゅっとくちびるを噤んだ伊月の表情はどこか苦々しい。 「最後の質問です。」 「うん?」 「俺に投げ飛ばされて、どうでした。」 「・・・鍛えてるな、って。」 「それだけですか。」 「何が言いたい!?」 その声は怒声と言ってもよかった。普段穏やかな森山が声を荒げる様子に、不謹慎だと自覚しながらも伊月は安堵してしまった。 「サーベルの訓練、しますよね。」 「するよ。軍議の片手間になるけど、射撃の練習もするし、地面に這いつくばってトラップを掻い潜る訓練だってするさ。籠球に必要な体力は俺も宮地も、多分春日も落ちてる。」 「では、早々に結論を出しますか。」 ひらりと翻ったインバネスコートの裾は、そのまま森山に背中を向ける。 「宮地さんの所へ、案内をお願いします。」 拒否を許さぬ声音で。 研究室とは名ばかりのそこは、細菌兵器や新規爆薬を作る施設だ。最近は原子力がどうのこうの、なんて話も持ち上がっている。 「邪魔するよ。」 所々黄ばんだ部屋に、宮地は長めの髪を紐で縛って、眼球保護用の眼鏡を掛けていた。白衣の彼は研修中とはいえ本物に限りなく近い軍医に見えた。 「も、りやま?あ、伊月もいんじゃん。さっきの電話なんだよ。爆死させっぞ。」 「トミナガ文書を拝見させて頂けますか。」 カツリ、革靴を踏み出す音が試験管を揺らす宮地の肩を揺らした。 「え、伊月君、トミナガ文書ってけっこー俺らでも手が届かない極秘書類よ?どこでそんな情報・・・。」 森山からは伊月の表情は窺えないが、ひくりと口元を引き攣らせた宮地から粗方は把握できる。きっと今の彼は、猛禽の瞳を隠さずに宮地と対峙している。 「好奇心、では無いですよ。それは俺の着ているこれが。」 くい、と誠凛大学指定のインバネスコートの襟を伊月は指先で玩ぶ。 「証明しています。」 「っ。」 息を呑む音。それがきっと相応しい。室内にも宮地以外の研究員はいるが、突如として現れた怜悧な美貌を持つ青年の登場で手元が止まって、時間を計り損ねた試験管は徐々に赤黒く染まっていった。 「砒素ってご存知です?」 「釈迦に説法って知ってっか。埋めるぞ。」 「では、砒素中毒は。」 森山は二人の会話に眩暈を覚えた。そして連日の激務に胃に穴が開くことを覚悟していた腹の底への違和感。 「砒素中毒は砒素の生体害悪によって生じる病態ですね。胃痛、嘔吐、頭痛、その症状は多岐に渡ります。神経障害、脳障害、多臓器不全。さて、ここで問題なんですが。」 伸べられた手のひらは入口で呆然と立ち尽くしている森山に向けられる。 「砒素中毒に顕著な現れは頭髪や爪だと言われています。血中の炎症反応、先程調べさせていただきました。軍務規定違反は百も承知ですが。」 す、と宮地の右手が掲げられた。ひと払いの合図だ。眼鏡を取り、明るい光彩が凝視っと伊月を射抜く。 「ど、したの、二人とも・・・。」 やっと発する事の出来たその声音は情けない位に震えている。森山の脇を研究員の白衣が通り、黄ばんだ壁の染みがヒトの顔に見えそうな不気味な広い室内は、戦慄っとした静寂に包まれた。 「森山さんは、聞きたくなければ耳を塞いでもいいんですよ。」 しかし伊月のその声は、間違いなく、聞け、と言っている。宮地もほうも、あーあ、なんて唸っている。 「宮地さん、あなたの単独犯でない事を、俺は祈ってます。」 あのなぁ、と彼は聊かげんなりと肩を落とす。そのまま書棚の扉に手を掛ける。小さな鍵の付いた扉はその鍵を半回転させるだけで簡単に開かれた。雑多に積み上げられた紙束は新しい物から古い物、複写まで様々だ。 「このままだと俺は、宮地清志さんを、告発することになります。」 「はぁ?」 がさがさと書棚を漁っている宮地の声に動揺は見られない。森山だけが苦しそうに眉を寄せる。 「森山少尉の生活スペース、生活態度、戦績、食管理。これは全て宮地さんは把握できますね。」 「・・・出来るけど?」 暇があったら遊びに来やがるからな、こいつ、なんてひらっと手のひらを遊ばせる宮地は、真っ直ぐに見詰め上げてくる伊月と目が合い、戦慄っと背を駆けた悪寒に瞠目し、息を殺すように手元を止めた。 「森山由孝少尉の食事は食堂で作られたそれから一度慰安婦の手に渡る。その際に一滴でも垂らしておけば、砒素は体内に蓄積して中毒を起こし、体調不良に見せかけて殺せる。宮地さん、いいえ。宮地さん達には。」 言い様からするに、伊月は事件の本質を全て見抜いている。集団ヒステリーに見せかけたストレス蓄積も、生活環境変化に体が付いて来れなくなった原因も、全ては。 「トミナガ文書、読ませてやっていいぜ?」 「有難く読ませて頂きます。」 「持ち出し厳禁だから。」 手渡された書類は『トミナガ文書』では無い。勿論。持ち出し厳禁というのはきっと論破すればどうにでもなるが、そこにある名前を伊月は記憶すればいい。幸い、瞬き一度でシャッターを切れる優秀な眼を彼は持っている。 「ありがとうございます。」 お返しします、と白衣に渡し、にこりと伊月は笑ったが、宮地にとってそれは底冷えする存在以外にない。あの喫茶店で見せた後輩の笑顔と、どこかが違う。 「独り言ですがね、宮地さん。」 「ん?」 「俺、この先多分、宮地さんの敵になると思うんですよ。森山さんも、ひょっとしたら誠凛の皆も。家族でさえ。」 「あっそ。」 「俺は、これからは。」 しゅるりと紐が擦れる音に伊月は中途半端に地下にある部屋の高い位置の窓を見た。すっきりと雲の無い青空がくすんでいるのは大陸からの風のせいだ。さら、しゅる、と長い指が綺麗な黒髪を梳いて、軽く編んで、先程まで金髪を纏めてあった紐はその艶のうつくしい黒髪に縛られた。 「餞別。」 「・・・なんで。」 「お前が俺の敵になったとして、今の俺はお前の敵になるかは解らない。」 未来なんてどうなるか解らない、なんて。 「嘆くのは未だ早計ですがね。」 「全くだ。」 「ね、伊月君、俺ってそろそろ耳塞いでんの飽きてきた。」 食事に毒を盛られていた男とは思えない程の長閑な声音に伊月は苦笑気味に振り返る。 「ええ、いいですよ。どうせ全部聞いてたでしょうけど。」 「俺が聞いてなけりゃ意味ないっしょ。俺は兎も角ってあの時ゆったよね。」 喫茶店での会話だろう、意外とこの男は抜け目がない。 「宮地はね、俺の事、割と本気で心配してたよね。」 くそ、と唸って宮地は髪を乱し、眼鏡で童顔を隠した。そうすると少し大人びた印象を受ける。 「さてっと。俺の仕事はここまで。宮地さんも、もう、森山さんなんて心配する必要ないですから。」 「なんて!?」 「おい、伊月!?」 その微笑は、寒気がするくらいに美しかった。 「翔一さんっ!」 研究棟の前で伊月の帰りを待っていた今吉は、気持ち悪い位に揃う隊列をぼんやりと眺めてあった。 「おお、月ちゃん。」 「宮地さんから裏取れました。これから官舎棟です。」 「ん、了解した。どないする?」 黒革に手帳に歩きながら書いて来たのであろう少し乱れた名前の羅列にあった、《森山》の名前に何だか戦慄っとしない。 「俺が請け負った仕事です。でも、いざとなったら。」 「後押し頼む?」 「話が速くて助かりますよ。」 伊月は人差し指で自分のくちびるをなぞるとその指先で悪戯に今吉の頬を突いた。 「あざと!」 「はて、何のことでしょうね。」 そのまま官位持ちの部屋がある建物に向かい、心臓を宥めるように伊月は一度息を吐いた。 「ねえ、翔一さん。」 「何や、月ちゃん。」 「親って、そう簡単に子供を殺せるものなんですか。」 「・・・さあ。」 実の親の記憶が無いと、その裏に隠されている真実を知る伊月は、そうですか、とちいさく頷いた。 「行きますよ。」 「はいなー。」 カツン、と靴音がやけに響く。今吉の下駄の音はしないが、鷲の目は背後を護衛するような彼の恰好をしっかりと捉えている。 その靴音はきっと、わざと響かせているのだと今吉は思う。相手に断罪の宣告の秒読みを伝えるように。 目的の人物があるであろう部屋は豪奢な彫刻で飾られた木製の扉にあった。葉巻の苦い香が鼻腔を突く。 ノックは三回。 「森山少将、いらっしゃいますか。」 森山由孝少尉の父、森山少将。地位も名誉もあるが、息子とは打って変わった潔癖な男は息子の存在が随分と許せなかったらしい。 七光りとは言え地位のある息子の存在を、軍内部で極秘に、それも実験台として殺そうとした元凶は、この扉の向こう。 「誰だ。」 「誠凛大学二年、伊月俊と申します。少々お時間を頂ければ。」 静かに軋んだ扉を開けたのはヴィクトリアメイド姿の慰安婦で、随分と無表情だが瞳の奥にあるのは恐怖だ。カツリ。毛足の長い絨毯を避けた足音に、森山少将は笑った。息子とは似ても似つかない笑顔だった。 年齢による白髪や皺は窺えるが、眉目秀麗、撫でつけた髪、臙脂色の軍服に白い手袋は書類に目を通し、サインと捺印を滞りなく終え、入りなさい、と感情少なく述べた。 「誠凛大学の評判は聞いている。二年、ということは第一期生。伊月、か。」 「ええ、お察しの人物に間違いありません。」 にこり。形容するならそんな笑み。何の感情も伴わない、ただの笑顔。 「血判状って、古い手口を用いますね。」 「何のことだろうか。」 「森山由孝暗殺計画、とでも。」 眇められた目元に慰安婦が頭を下げて部屋を出た。 「トミナガ文書をご存知ですよね。」 「・・・あれは上層部の許可がないと読めない筈だが?」 隙の見えない男に、どうしたものかと伊月は頭脳の回転速度を上げる。 「あんさんの許可でも閲覧可能なんです?」 「誰だ。」 「ああ、許可なしの発言失礼しますよって。帝都のしがない私立探偵ですわ。」 「・・・翔一さん?」 「今吉翔一・・・?」 僅かに動揺の色が見えた。 「軍部が隠した『トミナガ文書』、拝見させて頂きました。」 「なっ。」 かたっ、と上質のチェアが揺れ、ひょっとしたら、と伊月は逡巡。 「効率のいいひとの殺し方、殺させ方、大変興味深いです。ただ少し、詰めが甘いですね。俺だったら。」 刹那、だった。森山少将に隙があったなんて到底言えない、それでも喉笛に突き付けられた万年筆の先は鋭利な刃物のように煌めき、こくりと唾を飲む喉仏を掠った。 「あなたはひとの使い方を知らない。」 残忍な言の葉が容赦なく男を刺す。机に乗り上げた膝は明らかに不敬に値するが、助ける手はどこにも無く、震える手がサーベルの柄に手を掛けるが、今吉が足音も無く近付き背中に捻り上げると万年筆の切っ先がキャップに収まりポケットに仕舞われ、ふ、と一つ息を吐くと、乱暴に襟を取る。脇腹に突き付けられるのは最新の自動小銃だ。 「そんなもんに頼ってっからそこまでなんだよ、親父。」 「よ、したか・・・。」 毛足の長い絨毯を乱暴に蹴り、すらりと銀色に晃くサーベルを父親の喉元に滑り込ませた森山は、ぱ、と伊月の手が離れたのを確認して、いいこ、と笑った。 「俺の惚れた腫れたは理屈じゃねーのよ?不敬なんざ知るか。拘留でもなんでもどーぞ。けどなぁ。」 サーベルの切っ先が少将の階級を示す肩章を破り取る。 「俺の大好きな友達をさ、馬鹿にしてんじゃねーよ?親父様。」 おい、と森山が開けっ放しにしてきた扉を見れば、一平卒から様々な階級を肩に背負う人間が集っていた。 「おやおや〜派手なことやってんねぇ〜ぃ。」 空軍軍曹までいらっしゃった。これもうクーデターの域じゃないか、なんて伊月は頭を抱え、今吉はそんな様子に胡散臭く笑った。 「お、い・・・っ!」 「伊月君、手錠ある?」 「あ、手錠って言うか。」 縫合用の糸なら、と捻り上げられたままの両腕を降ろさせ、後ろ手に薬指同士をくるくると強めに巻いて縛った。宮地に貰った紐はあるが、これは使ってはいけない気がした。今も伊月の肩口に彩られている。さらさらと滑りの良い髪からは降りかけていて、今吉はそれを結び直してやる。 「森山少将。森山由孝の名に置いて、部下を意図的に殺そうとした、そう指示をした、その罪で告発する。」 告発。その言葉は伊月が切り口として宮地と森山に預けてきた言葉だ。使って貰えた、と少々の安堵と、これからの彼らの道行に期待が膨らむのが抑えきれない。 「森山さんっ。」 「えっと、合ってる?合格?」 そして決まり切らないのも彼だろう。 「膿は早々に絞り出すに限る。血縁であってもな。」 今吉の言葉に伊月は振り返ったが、やはり胡散臭く笑うだけで、何だか少し安心してしまった。不謹慎だなぁ、なんて。 「奇妙な手紙の騒ぎもこのひとの仕業だと思いますね。海常の恐慌は収束しています。秀徳もです。森山さんも宮地さんも、安心していいです。」 「ありがとな。」 「伊月君やっぱ最高だね!」 拳を合わせられる距離でないのが悔しい。 間接的な親殺し。 これからを後悔しない保証なんてない。 それでも誇りの臙脂は彼らを前へ前へと進めていくのだ。大嵐が吹き荒れる中であっても、大雪の中であっても、何も見えない空の上でも、凪いだ海の上でも、その背中は広く大きく見える。 「月ちゃん。」 「はい、それでは俺は退散します。多少の混乱は避けられないと思うので、新聞や国民の動向は気を付けておいてください。そこまでは流石に手が出せませんから。」 「おっけおっけ。任せんしゃい。」 「いつかは本当のトミナガ文書、見せてやるよ。」 「口実ですが見たいのは事実なんでお願いします!」 「また、籠球やろうね。」 答えなんて、決まってた。 未来がどんな残酷であろうと、受け入れる準備は整った。 世界を渦巻く戦火よ、彼らから誇りを奪うなかれ。 世界を渦巻くであろう戦火から、どうか神風が護ってくれるように。 世界を渦巻く不変の不幸は、後の幸福を約束されることで終わると誓え。 世界を渦巻く混沌に、彼らが飲まれることが無きように。 今吉探偵事務所、本日休業中。 ひとたびの僥倖とその永遠の真理を。 |
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こんな重くなるって聞いてないよ!!!時代的にはこの●年後くらい戦争突入なんすよ。でもその辺は弄った。あの戦争に勝ってたら負けてたらでこの世界は興誠されてる。でも「なかった」事にはしたくない!っていうジレンマ。うああう。震災も実は「ある」んですけどそれで終わらせるのは絶対嫌だった!!んで!!時々描写されてる「焼け出された」とかはその辺の方々なんですよ・・・。明確な描写は辛いんでぼかしてます。なので「っぽい」が免罪符なのですすいません・・・。いつも閲覧評価ブクマコメント本当にありがとうございます!!ドライアイなmasaiは鼻水が止まらんです。我が家の俊ちゃんは連続の夜勤で眠ってやがりますちくしょう。
2013年3月6日 06:20初出。
「今後」に目を向けたお話でしたが、宮地さん、一言良いですか。脳科学はこの時代にはありません・・・。
20130404masai