|
燃えてしまえ何もかも。
今吉探偵と伊月助手と炎の魔物。後篇。 翌日の現場検証から、遺体はそのまま火葬の様式を整える旨が、高尾家は原田家に送ったが、伊月から待ったがかかった。 「どういう事ですか!?ご遺族に説明とか損害とか説明の仕事あるんです!原田さんは働き盛りだったんで、そこから賠償金手当と!」 「高尾、原田さんの血液型は。」 「はあ!?ウチは雇う前に緑間総合で健康診断やらなんやら受けさせませすんで、そっから幾らでも?因みに俺の読んだ履歴書と健康診断書には血液型Aでしたよ!」 「あそう?そこで着替えて。マントはそこに掛けときゃいい。」 警察署の監察室に繋がる階段に、苛立ちを隠そうとしない高尾を連れて、伊月は下って、これに着替えろ、とごわごわの一本繋ぎを押し付ける。伊月は更に靴を代えて手を消毒すると手袋を装着。高尾にもマスクは押し付ける。 「来い。」 「え、ちょっ。」 マスクの結びを後頭部に作りながら、伊月が部屋を出るので同じくして高尾も続く。 「吐くならここのバケツな。」 「は・・・。」 随分と白の似合わない人間がいる、と思ったら、花宮真が立っていて、奥には今吉翔一が若い監察医と何をか話している。 「高尾。」 呼ばれて貌を見ると、その切れ長の目に住む黒曜石を護る、綺麗に下を向いた睫毛の先に。 「はらだ、さ。」 それだけ口にすると、マスクの上から口を抑える。真っ赤に真っ黒に焼けてくちびるのない口元に歯は食い縛られて、しかし高熱で蒸された歯は変色して欠けている。頬に罅が入り、髪は眉毛は燃え落ちて、刈り込んでいた髪も意志の強そうな眉もない。一重瞼には睫毛の毛根だけが残っていて、触れれば割れそうに罅だらけで、手や足の指は高尾の目の前でぼろっと落ちた。 「・・・う。」 「吐くなら吐いていい。けど、俺の話を聞いてからだ、高尾。」 「・・・んなん、すかぁ・・・!」 吐いてきます、と正直に花宮が足元に置いてあるバケツに向かうと、無理矢理に吐いて、立ち上がると顔を拭く。 「俺が何に勉強してるか、高尾は知ってるよね。」 「え・・・?医学?」 「医学部の予科授業でさ、解剖すんだよね、色々。そんで、ここの検死とか時々やって、本とか読んでね?イッコ疑問に思ったことがある。」 赤黒く半ば炭と化している死体を凛と背筋を伸ばしたまま、見下ろす視線にどんな温度が籠っているのか、高尾からは見えない。死人用の麻布が引っ掛けられた腹は随分と凹んでいる。 「火が原因で死ぬのか、それ以外で死ぬのか。」 「・・・どう違うってカオしてんぞこいつ。」 「例えば、火事の時に煙を吸うなって言うだろう?」 ぽかんとしつつも、学校などでの火災避難訓練に、煙を吸わないように身を低くして口元をハンカチや手拭いで覆え、というのは聞いた言葉ある。 「煙を吸うと熱傷や、煤が吸引される。あと、血液検査なんかの血中濃度で中毒症。これは、所謂、火に巻かれて死ぬ、って状態。生きながら焼かれて死んだパターン。」 「・・・わかり、ます。」 「うん。そしたら簡単だよね。今俺がゆったのは、火が原因じゃない。」 「はい。」 「で、昨夜もっと簡単な方法発見しちゃった。」 「月ちゃんの言い方、軽すぎて翔一さん吃驚や・・・。」 その見下ろす眼光は、あたたかかった。 「高尾が火に巻かれる想像、してみて。無理なら緑間でも花宮でもいいや。」 「おい。」 「火に、巻かれ・・・煙が纏わりついて、酸素がすくな、・・・ぅぇ。」 「吐いておいで。」 「っす・・・。」 容赦なく部活のために食べた朝食が胃液と混ざって反復していく。口元を拭ってマスクを掛けるまで、慈愛にも似た視線を伊月はくれる。 「そんな顔を、俺はすると思う。」 しなやかに向けられた指先は、高尾の噛みしめた奥歯で硬くなった表情筋を撫ぜ、嘔吐に痛む蟀谷を、そして親指で、眉間と鼻の上にしっかりと刻まれる皺を撫ぜた。 「間違いなく苦悶の表情。目をきつく瞑っているから睫毛の先だけが燃えて、毛根は残る。高尾、原田さんは、半ドンの日の昼間っから布団の中で、火事の声に起きる事が出来ないような人間だったか?」 「っ!」 「結論から言う。この遺体は原田さんじゃない。高尾、原田家への連絡はお前の仕事だな?」 「はっはい!最近の仕事場、ずっと一緒だったんで!」 「今、俺が言ったこと、理解出来てるか?御父上と一度相談の上、更に・・・。」 肝心の、この死体は、誰だという事。 「高尾、ちぃっとの間、この件ワシに預けてくれへんか?」 「いまよっさん・・・。」 「ちょっとここの所、お仕事少なて運動不足の気味やし。」 「・・・そ、すか。」 任せてくれていい、と視線は死体に固定のまま花宮が言うので、玄関まで送る、と伊月は高尾の肩を叩く。大事な一日練習を主将である肩書を利用して自主練日に切り替えてきた彼だが、相棒は人事を尽くして自主練であるはずだから。二人の連携シュートほど、見事な息の合ったプレイを、伊月は自分の後輩の他に知らない。 「伊月さん、もう籠球やんないすか?」 「ボール触るくらいはするだろうけど・・・あの事務所にいてずっと籠球続けられる自信はないなぁ。」 「そうですかぁ。」 警察署の玄関に、そうやって会話して、わざわざ着替えてきた伊月の小脇にはインバネスがあるが、諏佐と途中で何をか会話したようなので、今日はこのまま警察の協力でもあるのだろう。 「それじゃぁな。」 「はい。あ、今度誠凛さんとも練習試合組みたいんで、よろしくでっす。」 「おう、フリに伝えとく。」 このひとは本当に籠球から離れつつあるのだ、と高尾はマントを羽織り、校章で飾られている大きな釦を組む。帽子を被ってしまって振り返れば、もう伊月の姿は無かった。鷹の目をして、その翻る瞬間を見逃したのを、なんだか惜しく思う。 「冬場は火事が増えて困りますね。」 「まだ秋だ。」 御尤も、と諏佐が座った椅子の背後に花宮が陣取る。 「とっとと硫酸通り魔確保せんかなー。」 「他人事か。」 とんでもない、と上等な革靴が鳴る。 「そろそろ確保しないと、俺の家が燃えちゃうらしいんで。」 どれだけ金が掛かったかは聞いていないが、震災を切欠に古びた場所は全て高尾家の建て直しに任せたという家は、伊月俊だけでなく、両親も姉妹もその婿も住む家だ。 「あの原田って男、とんだ狸だ。眞子から情報提供な。」 冊子状に纏められたそれに、餌を出された犬猫のように、捜査員が群がる。どこに潜んでいたのかと言う程だ。今までは伊月の命令で不自然にならぬ程度にじわじわと会議室に集めてあって、それぞれ違う作業をしていると見せかけ、花宮の情報を元に動いていたわけだ。 「まずは、ケミカルバーン通り魔確保。箝口令は継続する。」 諏佐の声が良く通り、青峰を頭に威勢のいい返事。 「目深に帽子を被った、身長は標準。中肉中背。秀徳高等学校付近を更に警戒。」 「それなんですけど、俺の伝手でちょっと小細工出来ると思います。」 赤線付近、秀徳高等学校付近、と捜査班の手が別れていく中で、くちびるに指先をやった伊月は、今吉が頷くのを見て、電話と給湯室借ります、と部屋を出た。 「伊月君。」 「あ、先生!」 身元不明の死体を荼毘に、そこから身元調査をするという監察医は検察の部屋から出てきて、目尻に深い皺を刻んだ作り物の笑顔で伊月に頷いた。このひとはもうこころから笑う事はないのだろうか、と伊月は思う。 「紅茶は濃いめが好きだなぁ。」 「はいはい。その前にお電話借りますね。」 交換手に告げる番号から聞こえてきた怒鳴り声に、伊月は思わず電話機を跳ねた。 「あんたこそ撥ねますよ宮地准尉!!」 『わりぃ、タイミング被った。今朝言われたアレなら大坪に任せたぜ?』 「大坪さんですか・・・。彼も狙われそうなんですよね・・・。」 『あ?』 こちらの話です、とぶった切って。 「高尾和成の身辺警護の強化、頼みます。」 『おー、付属の生徒は皆部下だと思ってるし。っすよねー?』 誰に向けたのか、宮地が呼べば、研究室だろう、部下も上司も年齢も関係なく、おお、と応答があった。 『つー訳。他に何かあるかい?』 「いいえ、高尾の無事が、今回の結果の全てです。頼みましたよ。」 『ご拝命、賜りました。んじゃな。』 どちらがどちらだ、と伊月は少しだけ笑って、次の連絡先へ。 「やあ、首尾はどうかな、赤司?」 その名前が出た事に、監察医は背筋が伸びたようだった。 「ああ、そっちは心配ない。翔一さんと花宮と、ああ、さっき宮地准尉に言質取ったし。欲を言うなら葉山辺りを借りれないかな?・・・ん?ああ、高尾と身長近いから。うん、助かる。秀徳。自主練だけど高尾は午後練には参加するはずだから。それじゃ。」 きん、と電話機をそのまま、今度は給湯室へ。 「成程、赤司へ伝手があったか・・・。」 「使えるものはなんでも使う主義ですんで。紅茶どうぞ?」 「砂糖を多めにおくれ。」 「今度健康診断受けましょっか?」 「それは命令か?」 蒙慟の光は老いて白目が濁る男の瞳に、健全なる正義で宿る。とんでもない、と解く穏やかに、白湯を編みながらその美貌は笑みを結ぶ。 「どちらかとしては、俺は先生を師と仰ぎたいんですよ?」 「今吉のによく似た弟子は要らん。」 「そう仰らないで下さいって。死者は真実を語ります。真実しか語りません。その語り手に、聞き手に、俺はなりたい。殺された無念を、預かれるような人間になりたい。」 「医学の道を選んだ理由はそれか?」 真摯な問いには、その怜悧な瞳の黒曜石が、黒髪に描かれる天使の輪が、答えとしない事が答えだ。 給湯室は滅多に使われず、使われるとしても監察医が仕事終わりの帰宅前に、砂糖を大量に入れた紅茶を飲むだけなので、部屋の隅にはちらちらと埃がエレキテルに照らされて光る。この部屋の不便なところは窓が無い。 「俺の曾祖父、軍医だったんですよ。」 「・・・そうか。」 甘ったるい紅茶を含みながら、監察医は応える。 「主に北方で活動してまして、露西亜まで行くと、日本人の体じゃ凍ってしまって、凍傷で腐った体を切り落としていったんですって。」 「ああ、皮膚が壊死する。」 「撃たれて、切られて死ぬよりも、そっちが多かったって、聞いてまして。」 「・・・そうなるな。」 「とある村で虐殺が起きましてね。原因は村人の蜂起だとか、どちらかの軍が誤射したとか、まあ真実は闇の中ってお話ですよ。そこで、赤ん坊を拾ったそうで。」 寒村で拾われた子供の薄青い瞳は、その腕の中で大層に泣きながら安心しただろう。淡々と、茶漉しを使って濃いめの珈琲を注いでいく横貌は、微かに上気しているのは。 「五年間、その子を護りながら戦地で生きました。」 「たった五年か。」 「結構長いと思います。五年。子供が聞いたんですって。どうして味方の指を切り落とすの、って。脚を撃たれて潰されて、そこを切除して施術して助けて、それを、どうしてと聞かれて答えられなかったと。それから子供を安全であろう内地へ送り、戦地で曾祖父も逝きました。たまに帰って来てたんで、手が大きかったことだけ、覚えてます。顔は写真でしか知りません。たった一枚ですけど。」 「・・・そう、か。」 「上野先生、あなたの御父上は、どうして義父の所業に答えを見出しましたか。」 まったく、と上野監察医は嘆息する。まるで聞かん坊の父親のようで、頑固な親父のようで、白髪頭は揺らされる。白髪になる前は何色だったのだろうか。 「侮れん弟子を持ちたくないな。」 「半分は花宮の情報です。」 「あの坊主は気に食わん。」 あはは、と思わず声を立てて伊月は笑ってしまって。確かに、木吉以外で、花宮を気に入っているというのは今までに聞いたことは無い。霧崎第一大学の人間ですら、花宮への信頼は寄せるが花宮への人間的感情を聞いたことが無い。 「さて、お仕事行って来ますね、先生!今度緑間総合でも軍でもいいんで、一回健康診断です。俺の為にも是非。」 両腕に大きな盆を支えて、去り際にぱちりと片目を瞑って視線を流して魅せる。この青年は、危うそうであった第一印象から、今は酷く強かに、その上で儚げに見える。上野監察医は、その場で電話機に手を伸ばした。交換手に告げるのは、緑間総合病院の、総合受付。久々に、父親の声が思い出された。人間と言うのは弱い生き物だと、教えられた幼少の記憶だった。 「珈琲お持ちしました!俺が得られる手段は全部使った。花宮、芙蓉は何も掴んでないか?」 「芙蓉の情報圏外だ。」 「青峰、去年の放火案件出たか?」 「数が少なすぎたんで、小火と他も調べてる!」 「月ちゃん、資料複写―!」 「ついでに珈琲どうぞ。」 慌ただしく室内を駆け回って珈琲なり紅茶なり配って廻って、伊月はその資料を捲る。高尾建設の少しでも関わった事のある建物の資料は、花宮が公安の記録簿から持ってきた。公安と警察と言うのは基本持ちつ持たれつだ。 「そうか、ガソリン!」 「え。」 「石灰もですよ!」 ぱん、と机を打った手が痺れたか、ひらひらと腕を振るって衝撃を逃がす伊月の腕から今吉が資料を抜き取る。 「ケミカルバーン!監察の結果だと、水酸カリウムでしたけど、そうですよ、ガソリンや石灰水溶液!セメントはアルカリ性です!」 「っ、青峰、伊月と・・・。」 「高尾建設の倉庫備品検査で!名目は消防で、だから消防にも許可証発行させて下さい。」 一時間くれ、と一人の警官が会議室を飛び出した。 「宮地さんはー?」 歴史ある、と言えば聞こえはいいが、古い木造建築の大校舎と大体育館を訪ねてきた青年は、その明るい色素の髪を揺らし、高尾を揺さぶった。朝から吐き戻し、昼食を食べる気が起きないでいてよかった、と場違いに遠い目をしていると、高尾ぉ、と中谷から呼び声が掛かった。 「なんすかっ、監督っ。てか葉山サンっ!宮地さんもう付属の研究室で軍人さんだから!ここ滅多来ないから!」 なっ、となるで年下相手のように言い聞かせ、お待たせしました、と中谷が立つ体育館の入り口に向かう。 「ちょっと警察のほうからね、うん、硫酸通り魔の話は知ってるだろう?」 「ああ、生徒狙われましたよね。気が付いたらマント焦げてたって話で聞いてます。」 「うん、外套ね。」 そこは秀徳生なら大事にしなさい、と中谷は手のひらをつきつける。彼もここの卒業生だ。一時は従軍し、今は一介の教師だが、軍籍を抜いてはいない。秀徳卒業の秀徳高等学校教諭とは、大抵にしてそうである。生徒がいつ躓いても良いように、一度はこの世の果てを、地獄のような景色を見てきている。 「外套と帽子があるから助かったようなものだよ、不審者が出る前に部活も切り上げてしまいなさい、とお達しだ。」 「まー、今日の自主練は俺の我儘だったんで、犯人捕まるまでは早めに生徒帰します。」 「そうしなさい、うん。」 「あー!じゃあ鍵返すの俺やっとくよー高尾君!」 真っ白な八重歯を大口開けて披露して、ぴっかぴかに耀いた笑顔に高尾は同じような笑顔で笑み返す。 「まじっすかーらっきー!そんじゃお願いしちゃいましょっかねー!」 「あいよー!さっきの中谷先生?についてったらいい?」 「あ、ほんとですね!見失わない内に!」 「うん、じゃぁねー!宮地さん見たら教えてねー!」 長い腕をぶんぶんと振り回して、戸口の上にぶつかる前に引っ込めると、なーかたにせんせー!と渡り廊下に明るい声が響き渡った。 「・・・まじごしゅーしょーさまだわ宮地さん・・・。」 「高尾、早く帰るのだよ。」 げんなりと呟けば、片手に桃色い物体を乗せた緑間から急かされた。中谷の説明が届いたのか、後輩連中は道具を率先して片付け、秋の大会を終えた体育館は、引退したひと学年分、どこか肌寒い。いや、これから冬だし!もっと寒くなるし!と散々に可愛がってくれた先輩のかたい手のひらを思い出しながら、高尾は己を鼓舞し、緑間が頭を屈めて潜る部室へと引き上げた。 「あれでよかったかな、葉山君。」 「うん、あれでいーと思いますー。」 部活の中断と、早くして生徒を帰らせる事、と二つの命令を二人でこなして、全く鍵を閉めないで鍵を返す奴があるか、と高尾に少し呆れたのは、赤司を介して、思い切り伊月にメンタル攻撃を喰らった旨の報告をされてあるからだ。ただの抜け目ない奴ではなく、時折抜け作であるから人間とは愛らしい。 「それにしても・・・葉山君、もう少し、敬語をなんとかしようか、ね。」 「えええ〜!赤司が許してくれるんだからいいじゃないですか〜!」 「根武谷も少し心配だね・・・。実淵だけじゃないか、まともなのは。」 「え、てっきり男がなよなよしいとか・・・。」 「思う。が、男気はある。お前たちをぶつけさせたら、きっと最後まで立っていられるのは、実淵だろうね。木吉は脚があるし根武谷は気分屋。花宮はきっと同じ土俵に立とうとしないだろうから論外だ。」 うん、と頷いて、生徒が帰った確認に閉めて回る予定の鍵を、職員室の机に置き、日曜日の職員室は、葉山の存在で少々堅苦しくなったので、赤司に連絡して回収して貰った中谷も、それなりに抜け目ない。 外套をしっかりと肩に巻いて校章を飾って、学生帽を被る。入学したばかりの事は、照る照る坊主のようだと思った。あんなに憧れていた学生外套が似合わないとは、と鏡に映る自分に幻滅したりした。今は胸の校章も肩章も詰襟にある期生番号も、誇れるようになった、と帰りの道すがらに考える。自主練だったためにチャリアカーはお休みで、緑間の影は随分と長いなぁと、考えていた視界の隅を、見慣れない影が横切った。 正確には、見覚えがあった。ありすぎた。だからこそ、見覚えが無かった。 あんなに口元を歪めて獣のように笑う口元だとか、何か酔っぱらったような目つきを隠す帽子だとか、癖のついたままの髪の刈り込みに、いつもは鳶職と言われようが、と袖無しに結びきりの恰好で暑い日も寒い日も飛び回っていた彼が、昨日に殺された彼が、今朝生き返った彼が、襤褸のような身に纏った黒いシャツの胸元に、抱えている硝子瓶は中身が入っているにもかかわらず、口を布で覆われている。ちゃっ、ちゃっ、と男が足を踏み出すたびに聞こえる音は何だろうか。 休憩の声、昼の鐘、弁当箱を開けて、食べて、食後の一服の旨さっちゃぁ、坊ちゃんも解る日がきまっさぁ、太陽の似合う男の、こんな男になれたらいいなぁと、少しでも憧れた事のある男の。 「死ねよ。」 そんな淀んだ声を聞きたくなんて無かった。 男の存在で明らかに思考が止まって動くことのできない高尾の腕を、強く引いたのは緑間で、振りかぶられた瓶が頭を庇いながらも高尾の前に出た緑間の右腕を打つ寸前に。 「駄目です宮地さん!」 パン、と火薬の弾ける音が、広がって、遠くの馬車から外套の代わりに白衣をまとった蜂蜜色の頭髪を持つ長身の男の掲げた手には、銀色に光る小銃。 「緑間、その瓶奪え!」 眼鏡の奥で瞠目した長い睫毛は、翡翠色の瞳にその泡立たない中身が揺れるビールのエチケットを鷲掴み、男の手から捻り上げるように長身を生かして奪い取る。 「てめ、あ!」 「時刻くれ。」 「んー、五時三十二分。あら、えらい日が短くなってもて。」 「確保っ。」 男が視認したのは、ガソリンの入った瓶を奪われて、その手を確認した後の、上等な革靴である。 「緑間!高尾無事!?」 「高尾!おい!」 「・・・だ、さん。」 「高尾?」 「原田さんじゃん・・・なんで・・・。」 無自覚タチ悪ィ、と言い棄てた花宮は、危険物を振り回して暴れた男が確保されて護送車に載せられるのに付いて行った。 「威嚇だろ?いいじゃね?後輩襲われてたから一発。」 「明らかに銃口がこちらを向いていたのだよ、宮地さん・・・。」 「どっちにしても危ないやんなぁ、石灰やったらどうするつもりやったん?下手したら粉塵爆発やで?」 「液体なのは見えてましたー。こんで確保終わったか?んじゃ俺寝るから。三徹目なんだよ・・・。」 「はーい、ご苦労様です。今度どこかで美味しいもの御馳走しますよ。」 馬車が曳かれて行く音も遠く、座り込んだ高尾の瞳の中に、精彩は無い。移動しようか、と微笑んだ伊月の優しさに、緑間は頷いたが、着座を促されたのは警察の取調室だった。単純に、近かった。 「高尾、これに見覚えはある?」 俯いたまま、伊月が持ってきた紅茶にも菓子にも反応を示さなかった彼が、その青い線で間取りを書かれた図面に顔を上げた。 「・・・俺が、初めて画いたやつ・・・。」 「そ。御父上の真似事で、原田さんに強請って画かせて貰った、って。」 「景観、損なうと拙いから、借景にして・・・。」 「そう、赤司征十郎の別宅の、原型になってる。赤司は試作の図面に紛れ込んでいたそれをいたく気に入って、そこから原田さんと御父上と、意見が擦り合わさって、今の別宅がある。」 「それが、どうか?」 珈琲に曇る眼鏡を緑間は一度拭いて、位置を正す。 「これだから天才ってのは参る。」 「花宮。聴取終わった?」 「月ちゃん、深いに落としすぎやで。」 「えー!俺の過失ですかぁ!?」 取調室にやってきた今吉と花宮に珈琲を、と伊月は席を立った。 「原田勢太郎、出たぜ。鳶職人の父親と父子家庭。十一の時に高尾家の門戸を叩く。下働きをしていたが、建築の仕事にも従事。海外の技術や優れた機械を発見しては高尾家に貢献、と現当主は言うが、どうだ?」 暫くの沈黙を持って。 「間違い、ないっす・・・。」 泣くのを堪えるように、高尾は膝に乗せている拳を握りしめる。 「跡目、和成の育成にも力を注ぐ。和成十二歳の折、製図の作り方に興味を示したため、教示。和成十四歳、正式に跡目の右腕と成り得ると現当主の判断。」 「そうです・・・でも、でもあんな!」 「ここにあんのは、全部事実だ!」 ばん、と机を叩くように花宮が散らした書類の数々は、高尾家所縁の建物への放火、小火、時には煙草の不始末を装わせて家を焼いたりもしていた。そして高尾和成の年齢の頃の子供を狙っての薬品火傷加害歴。原田勢太郎が犯してきた罪の数々の矛先は全て、可愛らしくも憎く疎ましく自分のこころを蝕む小僧に。 「・・・高尾が取り調べられてるみたいになってるよ、花宮。」 珈琲を手渡しながら伊月は窘める。 「高尾建設て、江戸時代からの言ってまえば老舗やからな。その老舗で跡目で生まれつきの俯瞰眼持ちや。建築業界には仰山おると思うで、自分の敵。」 「俺にも喧嘩売ってんすかね、翔一さん?」 とんでもない、と胡散臭く笑って、やって月ちゃんはワシの月ちゃんやし、とほざく頭は振りぬかれた盆で机に沈んだ。 「原田の代わりに火に巻かれて死んだのは、指紋も全部焼かれて潰れててわかんなかったけど、ルンペンだろうって目撃報告を青峰が掴んでる。」 「常に緑間の隣にいたお前ならわかるだろ。天賦の籠球の才能、財閥に生まれた座位、天才的なピアノの腕前。どーよ、神童和成クン?」 花宮の言葉に、涙が出た。 ずっとずっと、追いかけた。あのピアノに並んでヴァイオリンの絃を爪弾くことが出来たら。 ずっとずっと、必死で追いかけた。あの嫋やかに見せて強い指が、ボールでゴールを揺らすのを。 そして、高尾が知るのは、相棒とも呼ばれたのに、愛しくも狂おしくも妬ましくも恋しく、殺してしまいたいほどの、情熱だった。 後日、高尾家には原田が帳簿付けに細工してアルカリ性の液体を盗んでいた報告と自白と、説明責任が与えられた。惜しむらくはその説明責任会に跡目の高尾和成が出席しなかったことであった。 「最近やっと元気が出たんですけどね。」 「どこで気付いたのですか?」 伊月はそう聞かれ、後に答える。 「我が家に放火しようって不審者が現れて、それを撃退してくれるひとがいなかったら俺も燃やされて死んでたでしょうから。」 なんて茶目っ気を織り交ぜて。 「これからも、躍進願いたいものですが?」 「おのが身は、なんて言うでしょう?」 「その歌は、肯定と受け取らせて頂きます。」 「ご随意に。」 見事な庭に、西洋から入れたという桜が見事な季節だった。 遠い遠い空に、雲ひとつ。夕食の誘いには、先約がありますので、と無礼を働き、まるで恋するもののように可憐に麗しく美しく、その魂の如くに月のように、涼やかにも幽林に馨る蘭のように。 微笑い、去るだけ。 今吉探偵事務所、本日も通常運転業務を平安に。 腹減ったな、と誰からともなく呟く季節ですね。 |
初出:2013年10月1日 02:08
これがおそらく、最後の伏線です。多分。はよ今月百科くれださい。
***
この話あんま評判良くなかったんですが、お気に入り作品ほど評判が振るわないのはもう慣れました苦笑。
ちょっと高尾ちゃんを苛めすぎた自覚はありますよw
20140109masai