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燃やしてしまえ何もかも。
今吉探偵と伊月助手と炎の魔物。前篇。 秋の間の涼やかな早朝、住む鳥のいない燕の巣は毎年同じ場所に帰って巣を作り上げる。そんな巣を削り後のある相田総合運動道場は、今朝もなかなかに賑やかしい。 正拳に加えられている捩じりを見極めて右へ飛べば、予測されていたように左手が襟を取りに伸びてきた。溜めの短さが、反射能力が、伊月の予測を軽く上回ってくる岩村の古武術の動きは恐怖を通り越して脳内麻薬のお蔭か最早楽しい。 「ちィ!」 軽やかに後退した脚が、柔軟な筋肉と鍛えられた体幹に、横薙ぎ。岩村は身体を逸らして逃げたが、牽制の積りだったらしいそれに見事に引っ掛かった。床を蹴って、低い位置をしなやかに、低空を飛ぶ鷲のように黒髪が美しい軌道を描く。一呼吸の間に首筋に、手刀。実践なら間違いなく獲られた。とく、と小指の第二関節に動脈の動きを感じて、伊月は静かに鍛えられた右腕を薙いだ左手の甲が、流れるまま蟀谷に向かってきていた拳を強く握り受けていたのを開放し、降ろす。 「伊月くん、あなた稽古の意味解ってる?」 稽古着姿で相田リコが腰に手を当てて嘆息。どこでそんなにも生きるか死ぬかのラインを飛び越えろと言ったのか、景虎でさえおそらくは言ったつもりはないし、もともと伊月は完全なる自衛と、牽制だけを覚えてきたはずだ。勿論今吉の密かなる指示によって。 「確かに、獲れとは言って無いな・・・。」 呆れ果てた、と相田景虎は子供らの指導に回りながら、伊月と岩村からの礼を受け、壁際に移動して水分補給を促した。朝晩は冷えるが日中は残暑が未だ残る。 「幾つか自制はしてますよ?得物はないんですから。手を使うのもまだ籠球の癖が残っててこう・・・。」 「籠球部はまだ自主練続いてるでしょ!引退式終わってないんだし!」 どうやら引退式は秋の文化部総合文化祭が終わってから一斉に、そして盛大に催してくれるらしい。誠凛大学での部活動をここまで育ててくれた第一期生への礼であるそうな。暇があればいつでも籠球しに来て下さい、とは新主将に据えられている降旗の言。大会前までは副主将と会計は伊月が兼任していたが、こちらは見事に福田と黒子で引き継いでくれる様子で、密やかに伊月は安堵している。黒子は未だ、消えない。消えることが出来ない。 「おっしゃ、今朝の稽古はここまで!」 ありがとうございました、と相田総合運動道場塾生は道場主に頭を下げて、各々中庭で着替えるなりしてその日を歩む。 「伊月くん、自主練出ていく?」 妹を連れて景虎に挨拶して、道場を出る途中で相田に声を掛けられるが。 「まだもうちょっと忙しい。」 「そっか。私に出来る事あったら、何でも言いつけて!」 「うん、料理以外は期待する。」 「何よそれー!」 「リコさんドンマイ!」 「相田には日曜学校とか頼みたいな。知育ゲームとか。」 そっちなら是非任せなさい、とどんと胸を叩いた相田に伊月は柔らかく笑って、中庭を借りて兄が着替える間、妹は随分話が弾んだらしい。 「舞、寄り道するけどいいよな?」 「日向さんちで優雅に!キタコレ!」 「ねえ、あのくるくる回るの何?床屋の看板よね?」 「昔の医者の看板らしいよ。赤が動脈、青が静脈、白が包帯。散髪は医者の仕事だったんだよ。んで、医師制度が出来て、医者と床屋が分業した訳。」 成程ぉ、と手を打った相田は誠凛女子師範学校での学年主席であるが、時折常識からずれる。まあ、この年齢で男子籠球部監督というのがそもそも常識で無い。 そこから暫く歩いて日向理髪店。 「朝早くに失礼したね。」 「しゅんにい!」 「おー、初めてたいちの声聞いたわ。」 ざんばらだった髪を短く整えてもらった少年は、伊月の姿が見えるなり、その脚に飛びついた。 「お前の事だからねーだろうが、まあ、一応短めにして洗髪もやっといた。」 「うん、助かる。いち、御礼は言える?」 ベストの中にスラックスを吊ったサスペンダーが千切れそうに縋られ、伊月の背後に逃げようとしたのを舞がじりじりと距離を詰め、怯んで腰元に頭が来たのを、伊月は撫ぜる。 「たいち?紹介したよね?俺の幼馴染の、ひゅーが。」 「順平さんおはようございまっす!」 「おー、舞さんおはよう。兄貴は服装整えといて妹は胴着のままか。」 「仕方ないじゃない、最近治安良くないんだから。」 詳細は少ないが、秋口に外套姿の男が現れ、通行人に硫酸を被せるという事件が最近多発している。標的にされるのは女性が多く、幸い胴着は分厚い造りであるし、伊月は長く伸ばした髪を帽子に隠しておけ、と妹に厳重の注意を浴びせている。硫酸の濃度にも寄るが、少し被ったくらいなら軽い火傷で済むだろう。 「たーいーちー?」 「・・・あり、がと。」 「よし、言えた!」 良く出来ました、と少年の頭を撫ぜながら目を細める伊月の様子は、まるで母親のようだ。怒られそうなので日向は生ぬるく笑って、沈黙は金を行使。生長したものである。 「ひゅーがに専属頼むのも手だよな。」 「おー、何ならガキ全部連れて来いよ。伊月の身内割で安くしとくわ。」 「昔は俺を実験台に失敗したもんだよなぁ。」 「昔の話だろ。」 懐かしそうに笑ってから、今度は自宅へ妹を送り届ける。そして《Asyl》へと道のりは迷う事が無い。 「ただいま。」 「・・・いま。」 「あら、おかえりなさい、いち。すっきりしたこと。」 「俊兄さんもいちもおかえりなさーい!」 庭に作られた物干し台と竿に真っ白なシーツを干していた間宮と、遊戯室の窓から百園が挨拶をくれる。身寄りのない子供の笑い声がこの養護施設に響き出したのは、ここ三日ほどだ。近所の幼い子供を預けていく母親もいる。そのまま迎えに来ていない親は今のところないが、きっと覚悟しなければならないだろうな、とは伊月は今吉に教わってある。 「おお、いちやん。おかえり。月ちゃんも。」 「なんで翔一さんいるんですかね。」 「今日、学校半ドンやろ?終わったら事務所な。」 「はい?ってあ、そんな時間!」 そのまま施設長は男性用仮眠室に駆け込んで、ベストの上に学生服を羽織って、スラックスのポケットから懐中時計を取り出し、たいちを迎えに来た折に螺子を巻いた柱時計と時刻を確認すると、慌ただしく。 「行って来ます!」 まるで我が家のように、靴と鞄の調子を整えると駆けて行った。学生帽は路面電車の停留所にまで走りながら形を整えると、日向と相田が同じ車両にいたので、人波に流される形で二人のいる座席まで。 「改めておはよう。」 「おはよう。今日の自主練出ないから。」 「おはようさん。了解した。どっちの仕事だ?」 「胸糞悪いほう。」 花宮理解、と幼馴染は即座に悟ってくれた。 半日の授業を終えて、日中に上がった気温から伊月は学生服の下に着ていたベストは脱いだ。生徒の多くも学生服の下に薄手のセーターを着ていたり、学生服を脱いだものもあったが、それは風紀に注意されていた。 「こんにちはー。」 エントランスで鞄を掛け直して、事務室の扉を開けば、インバネスと鞄を置いて、声のする面談室へ。バロックとヴィクトリアの綺麗に入り混じった部屋のソファには、青峰がいて、デスクでは資料を読み込む今吉が居る。 「ちわっす、伊月サン。」 「うん、青峰こんにちは。珈琲か紅茶は?」 「濃いめの珈琲と、あとなんか食えるもん。」 「隈酷いねー、紅茶にしときな。ストレートで飲むと案外目が冴える。チョコレイトのシフォンでいいかな?」 たのんます、と一通りの応答まで今吉が口を挟まなかったとういことは、案外に手古摺る案件か、若しくは正式な依頼だ。今吉にも珈琲を用意してやって、伊月も紅茶はブラック。 「翔一さん、花宮は。」 「本店。」 「あ、駆り出されたんだ・・・。」 それぞれの軽食とカトラリーを配って、昼食をどうするか、と部屋の末席、事務室への扉に一番近い壁際に、伊月は紅茶の表面温度を調節して一口含んだ。青峰は一気に飲んだ後、その褐色の肌に青黒く浮かぶ隈を伊月に心配されつつ、切り分けたシフォンケーキを一口で食べた。 「細君はご健勝かい?」 まだ籍は入っていないが、そう呼んでも差し支えは無い筈だ。政略結婚でもなんでも、青峰の妻となる女性は情厚いうつくしいひとである。 「んだよいきなり・・・。」 「いや、お前ら二人とも忙しいだろ?そんな両親のための施設でも宣伝しとこうかと。諏佐さんにも伝えといて。」 「あー、了解。《Asyl》な。」 「うん。集まる大人も子供も十人十色。籠球も出来る。勉強だって勿論出来るさ。」 ごちそうさまでした、とカトラリーを定位置に戻し、茶渋を拭き取る。 「月ちゃん。」 「はい。」 「検死の依頼。いける?」 「大丈夫です。前情報あります?」 「硫酸通り魔だ。」 うげ、と思わず伊月は呻く。 「ケミカルバーンかぁ・・・まだ教本でしか解んないような若造で大丈夫?」 「監察医の先生がご指名。」 「あちゃ。」 それは断れない。どこか今吉がぶすくれているのはそれが原因か。 「けみかる・・・?」 「ああ、薬品によって火傷する、ってこと。大体三度くらいかな。」 火傷には段階が存在する。赤く腫れることを紅斑、水膨れになると水疱、皮膚が壊死する焼疵、そして文字通りの炭化。火傷の程度は紅班を第一火傷、水疱を第二火傷、焼疵を第三火傷、炭化を第四火傷、と分けられる。区分として、日焼けに肌が真っ赤になるのは立派な第一火傷である。皮膚というのは表皮と真皮で構成される。皮下組織の血管が栄養を作り毛根を育てて真皮を通って表皮に毛孔を形成している。第一火傷は表皮まで。第二火傷は真皮まで到達したものをいう。第三火傷は皮下組織の更に奥の脂肪にまで及ぶ場合を指し、厄介なことに敗血症や肺炎などの感染症を引き起こしてしまう。 更に厄介なのは、火傷が死因の場合は深さよりも面積で決まるという事。第一度ではほぼ傷が疼く程度で収まるが、第二度より段階が上がれば体の二割を負えば衝撃で死ぬ場合がある。神経性、知覚神経刺激、自家中毒、肺炎、敗血症、と二時間以内に適切な治療を行わなければ、まず死ぬ。 化学薬品を使った火傷、ケミカルバーンと呼ばれるそれは、細胞の融解や蒸発の現象に似ている。勿論ヒトを構成するものも一種の科学であるから、ある程度浸食されれば中和されて、逆に言えば中和されるまで薬品の侵入は続く。高濃度の硫酸を浴びれば、一気に第三度火傷のようになる。硫酸は、細胞の酸素を奪って焦がす。固まらせるように壊死していった皮膚を瘡蓋状にして、治療出来て助かったとしても、二目と見れた姿になれないのは教本に載っていた。サンイチサンサン部隊の消された功績だ。 そんな説明を掻い摘んで、自動車の中で伊月は青峰に説明したが、とにかくけみかるナントカはやばいってこったろ、と気だるげに返された。アホ峰とは言い得て妙である。勿論の事、眠れていないのにも起因するだろうが。 「このまま地下?」 「おー。諏佐サンにゆっとくから。」 通い慣れるほど通ってはいないが、案内無しに歩ける程度にはこの警察所の内部は知っている。一度二階に上がってから、別棟へと続く長い長い廊下を降りれば、地下にエレキテル、解剖のための手術器具が並ぶ部屋に来る。 「こんにちは、伊月です。」 「んお?おお、おお!よく来てくれた!」 手術台に腰を折るのが辛くてなぁ、と随分と懇意にしてくれる監察医は、着替えておいで、と消毒室のプレートがある扉を示す。洗いざらしの一本繋ぎに、今回は化学薬品が関係するので、マスクがいつもより分厚い。一定時間手を消毒液に浸して、手袋は革製の頑丈なそれは、骨は簡単に皮膚を裂くからだ。死体というのはバイオハザードの温床である。 「・・・遺体が痛い。キタコレ・・・!」 色々な死体を見てきた経験のある若い監察医は吐き戻しており、老齢の監察医は苦笑しつつも、流石にこれはな、と頭蓋の露出した男の頭を苦く見やる。 額を中心に皮膚が爛れて眉間で流れが別れたのか、鼻頭が中州のように残っているが、頬骨は出て、顔を覆う筋肉も半分が無い。顎までとろけた皮膚と脂肪と筋肉で、首筋の硬直から、死後一日程度、と伊月は戸惑いなく弾き出す。 「・・・箝口令、ですか?」 その語尾の疑問符を裏切るような怜悧な眼光に、返ってきたのは頷き。 ここ最近の新聞の見出し記事の下には、大概にして、『硫酸通り魔、続く』と今朝の朝刊にも伊月は読んでいる。 「これは、酸では無く、アルカリだ。」 濃度が同じであるなら、酸よりもアルカリのほうがよっぽどにして厄介だ。蛋白質と脂質を融解しやすく、火傷と水泡を伴いながら、焼くのではなく穿つように皮膚を壊死させていく。 「頭から被ったようだね・・・。」 「ですね。胸元、肩、は服を着ていたから無事、両腕の衣服は・・・。」 徐々に解けている硬直を、てのひらが上を向いている腕を取って曲げれば、肘から手に掛けて、軽度の火傷と皮膚の融解がある。防御創、と呼べるだろうか。 「身元の確認は?」 「大坪鋳造の出入りの会社員だ。」 「大坪系列ですか。」 「いや、仕事を依頼しに来た成金の御曹司、と。」 それは、と瞼が解けて眼球が半分潰れた遺体から、ここのほくろと服装が、とカルテを見せて貰った。顔目掛けての液体は口にも入ったようで、悲鳴も上がらずその場で倒れ伏したようだった。 「・・・どこまで手伝えばいいです?」 「遺族に帰せるまで。」 「解りました。包帯と、棺などの手配は?」 「・・・済んで、ます・・・。」 若い監察医はもう少し経験値が要るだろう、吐き終わった胃液をマスクで拭いて、そして検死台を見てまた吐いた。 「これぐらいで吐かれちゃ堪らんのだが・・・。」 「いや、俺が異常なだけですって。この件は諏佐さん現場預かりの大仕事ですよね。少し詳しく聞きたいな・・・。」 腕を組んでどう切り込むか、と考え込む仕草は、利己的だが嫌味が無い。不思議な青年は来年から授業の一環としてここに通う事を約束されている。 「諏佐に言いなさい。ああ、花宮が来てあったか。今吉にも巻き込まれてもらう。」 監察医は重々しく頷いて、伊月は思わず苦笑してしまった。ぼろぼろになっている皮膚を筋肉に骨に針で固定して、溶かされた肉や脂肪の代わりに綿を入れて包帯を巻く。片方だけ無事の瞼を下せば、睫毛が無く、焼けた皮膚を生前の色に直してやって、衣装を整え腕を組ませ、棺に入れてやれば、葬儀屋が迎えに来る。 これで終わりだ、おつかれさん、と監察医の労いを若者二人は安堵っと息を吐き、棺に向かって深々と頭を下げる。夕方の光に、警察署裏手の栞菜が曼珠沙華が鮮やかなそこに馬車が迎えに来れば、彼らの仕事は終わる。 警察署の正規裏口を使用しない儀式ではあるが、そこに滲む真摯さは、伝わるといい。 「夕飯、何がいいかなぁ。」 伊月の発言に、若い監察医が口を抑え、若鶏なんざ食いたいなぁ、と串焼きを千切るような仕草を監察医が行いながら、地下への扉へ向かおうとして、署内が急にざわめいた気配に伊月は顔を上げた。 「月ちゃん!放火!」 二階の窓を乱暴に押し開け、今吉が顔を出した。叫んで、巻き込まれてら、と思わず噴き出しそうになった伊月を瞠目させた。 「すぐに同行します!どこで!?どこで同行するキタコレっ。」 「玄関で待ってるで!」 ガシャン、と乱暴に桟を鳴らして今吉は姿を消して、伊月は学生服の上にそのまま着ていた一本繋ぎと、革靴の代わりの安全靴、頑丈な手袋を外し、消毒液のスプレーを手と顔に浴びる。 放火のあった場所の情報と遠くの警笛と、立ち上る煙に諏佐が助手席にいる自動車に、今吉と花宮と伊月が詰め込まれた。 「放火って、一体・・・。」 「下宿一棟全焼だ。消火が間に合わん。」 「怪我人は。」 「幸い、緑間総合が近い。」 「ほな、月ちゃんは場合によってはそっち。まこっちゃんは怪しいのおらんか、やな。諏佐、現場指揮やろ。ワシが補佐やったる。」 「お前しかいねぇよ!」 は、と鼻であしらった諏佐は眉間に縦皺が増して人相が最悪だ。人手不足、と花宮が伊月に耳打ちしてやった。無線で連絡を取り合いながら、現場近くで煽られ熱は、熱い、と言えるもので無かった。言う前に熱で口の中が乾いて焼ける。それ程の、炎の群。二階建ての木造の、下宿だという建物は、大きな火の玉となって、火消しが両隣の建物から貰い火しそうな場所を破砕し、リレーされたバケツで水を掛けたが、秋の乾いた風の中、包む炎は勢いを知らずに燃やし尽くされた。 伊月がそれを今吉から聞いたのは緑間総合病院の廊下で怪我人の手当の最中だった。軽度の火傷で運ばれた住人や、火消しは勲章と笑ったが、ルールオブナイン、と叱りつけて容赦なく抗生物質を塗りたくってやった。 「火は収まりましたか。」 「一応鎮火はしたな。ちっと放火で通報あったから、その線で進める。喜べ、ワシらも寝る暇ないわ。」 「きちんと鎮火したか、陳?キタコレ。」 「誰や陳。」 秋の釣瓶落としにエレキテルが煌めいて、怪我人が帰ったり場所や規模によっては入院、と職員が駆けまわる中、駆り出されていた長男が軽く会釈して去った。後ほどに何か連絡でもあるだろう。 「真ちゃん!」 それを呼び止める声が掛かって振り返ると、灰色のスーツに薄紅に朽ち葉の散るタイを緩めた高尾の顔があった。 「高尾が来たか。」 「怪我人、どう?」 白衣姿で背を翻した級友に駆け寄って、院内で走るものではないのだよ、と注意を受けつつ。 「脚や腕の広くを焼いた者はいたが、総じて軽傷なのだよ。」 「何人いた?」 「八人だ。独り身が三戸、夫婦が二戸、父子家庭が一戸。子供は無傷だったのだよ。」 一人無傷だった子供の面倒を看護婦に任せて、それぞれの処置や病室の番号が書かれた紙を高尾に渡すが、そのいつも笑みの輝く貌から、戦慄っと血の気が引いた。 「一人足りない!」 「部屋は八つで二つが開きだと聞いていたが?」 「一昨日から入ってたんだよ!独身男性一人!」 「なんだと。」 聞いていればなんだかきな臭くなって、今吉が二人の間に割り込んで。 「なんなん?あっこ高尾クンとこの・・・。」 「社宅っす!今、手が空いてんの俺だけで、先代、祖父さんの建てた社宅だから、建て替えがそろそろ要っかもつって、様子見に住んでたひとがいたんすよ!」 「待って、高尾、落ち着いて。」 「ああ、伊月さんの言うとおりだ、高尾、出かけていた可能性は。」 呼吸の感覚が狭くなりつつあった高尾の真っ青な顔色が少しだけ戻る。ええこや、と今吉が頭を撫でてやれば、嘆息するように緑間が眼鏡の位置を直した。 「今は現場は警察が抑えとる。ちゃんとした捜査は明日からの予定な。」 「電話貸して、真ちゃん。親父に連絡しないと。原田さんこれで博打癖治ってなかったら轢いてやる!」 「宮地さんが移っているのだよ。」 え、と次に瞠目したのは伊月だ。原田、とは《Asyl》の建設に、落成間近まで関わった名前ではなかったか。よくある名字だが、休憩の頃に、仲間を呼んで、小銭を掛けて将棋盤を挟んでいたのは知っている。 「博打癖・・・?」 「あー、伊月さんも見たっしょー?何でもかんでも金賭けて遊んで、最近じゃちょっと賭博場でも見かけられちゃうみたいで。給料じゃ足んないかなー・・・。」 うちはちゃんと本人の仕事ぶりで給料計算してる筈なんすけどぉ、と父親に連絡を終えて一息吐いた高尾はくちびるを尖らせる。 詰所から高尾が出てくると同時、現場がそんな態勢で警備されているか、と書面に預かってきた花宮が、まるで使いっ走りのような扱いに今吉の肩に指先を食い込ませて抗議する。 「賭場・・・?」 「赤線すから。」 「花宮、原田って男に見覚えある?身長は俺らよりちょい低め。中肉中背だけど、身軽なとこあった。」 「高尾家自慢の鳶職サンです!」 「うん、聞いてる。赤線の賭場なら眞子は詳しいだろ?」 「は?ああ。」 一を聞いて百を知るが如くに胡乱気に声を上げた直後に、きゅっと眉間に皺が寄る。 「伊月、今吉、来い。」 「なに?」 急に腕を引かれて足を縺れさせそうになるが、今吉はからりからりと下駄を鳴らして着いてくる。高尾建設の社宅は骨組みを残しぽたぽたと水滴を落としている。じゅっ、と未だに残る火種を消す音がいやに耳に残る。壁は土も下地も焼けたが、家具は比較的原型を保っている。 「火元はこの部屋の裏だ。」 だからよく焼けた、と警察から借りた懐中電灯で部屋を照らす。一階の一番東側だ。合計で八部屋あったというから一階に四部屋、二階に四部屋の見当で良いだろう。西側は比較的損傷も少なく、東側は通りに面してあるので、そこから火種を投げ込んだ、というのが警察側の見解。 「こっちだ。」 「まこっちゃん、高尾クンも来てるで。」 顔パスで現場に入れた三人とは違って、顔に強い光を当てられて、灰色のスーツに隠されている銀糸が光る。 「・・・伊月の判断に任せる。」 はぁ、と花宮が一度嘆息し、顎をしゃくって、警官に拝み倒す高尾に目元を眇めたままだ。花宮にとって、大したことは無い、表だろうか裏だろうか、些末なそれが、きっと伊月や高尾には、天地を揺るがすほどの事変であると、その眇められた眼光と、不機嫌そうに顰められた愛嬌ある眉が語る。 「月ちゃん、ここに何があるか、解る?」 「え。」 花宮はどうしてここに伊月を連れて来たか。彼は一見無駄に見えて無駄なことは一切にして斬り捨てる主義である。ここにいて伊月が使えることは、図面の作成くらいのもので、しかしそんなもの、社宅である以上、高尾家には複写が保存されてある。落成式に礎として足元に埋めるそれの、複製が。 「・・・まさか。」 「お前より背の低い、中肉中背、だったか。」 「で、髪の毛短く刈り込んで・・・。」 「それは解らんが。」 「わから、ない?」 「ああ、それはもう・・・。」 一瞥された事を、高尾は気付いた。彼の視野は伊月のそれより広くて、しかしまだ鍛え方が足りていないので伊月程の精度は無い。尤も、普通に日常を送るなら、伊月のような視野は不要。 「綺麗な燻製だ。」 弾かれたように伊月はそれらしい部屋を見て、高尾は一歩じさった。 「西側の二階は少し焦げたくらいだな。一階も一応焼けたが中は残ってる。昼寝中だったかどうか知らんが・・・。」 部屋の中の見分は終わったようで、鑑識が二人、懐中電灯を携えて出て来た。もう入っても構わない、と花宮に会釈を寄越した。 インバネスの裾が消毒液の臭いを振りまきながら、その焼け落ちた扉から懐中電灯が照らし、応急的に繋いだエレキテルのスイッチを諏佐が降ろそうとしたのを、止める。 焦げた箪笥と机と、原型の無い玄関口と窓際。畳は一部を残して全て真っ黒に焼け焦げた。畳一畳ほどが無事にあるのは、そこに何か、黒い塊が横たわっているからだ。 肉の焼ける臭いが、まだ部屋に充満している。空の夜風が冷えた。 「伊月、頼めるか。」 真っ黒に焼けた布団の下には、無傷に畳が残ってあった。掛布団は傍らに畳まれてあるが、きちんと役目を果たしていたのか、真っ黒に焦げたそこに、肉と脂が付着している。焼けて収縮した筋肉に、腕を掲げて膝が持ち上がって、指先は炭化してある。 「原田、さん?」 引き攣った声で呼べば、ぼろりと指先が炭色に染まってしまった。 「花宮、高尾、呼んだげて。入口まででいい。」 「了解した。」 声が飛ばされれば、上等な革靴が消火の際に出来たぬかるみを跳ね上げて走ってくる音と、入口で喉を震わせる様子が見えた。 「見ての通りだ。御父上に連絡をしておけ。」 「そん、いづ・・・。」 「詳細連絡は、追って、警察か、若しくは俺が引き継ぐ。」 凛と見据えるまなざしに、ふらつきながら高尾は導かれるように部屋に入り、崩れかける壁土に息を呑む。赤黒い焼死体は一介の男子学生の正視には耐えられなかった。その場で崩れるように嘔吐して、泣いて、花宮に引きずられて出て行った。 「諏佐さん、明日まで現場保存頼んでいいです?」 「ホトケも全部か。」 「吐瀉物くらい処理させとけバァカ。」 「了解した。」 敬礼に返礼し、通りへの狭い入口に蹲っている灰色のスーツの肩を叩く。 「犯人、確保したら、真っ先に教える。」 ぽんと肩を叩いてやって、諏佐が迎えの車は、と言う前に、高尾は憔悴した顔で、自宅の呼ぶんで、と警察の車に乗り合わせた。今吉が歩き出したのを筆頭に、花宮と伊月は続く。すっかり日の沈んだ秋の夜道に、憎らしいほど明るい月が照る。 「・・・箝口令、二人とも知ってた?」 「今吉の入れ知恵。俺らは最初からわかってたからな。」 疵が焼かれたそれと溶かされたそれでは、全く違う。何を持って伊月に秘匿の情報としたか、その事情によっては怜悧な切れ長の目から、射殺すような眼光が注がれる。 「最初は赤線の娘だった。別嬪だったが、あの傷じゃぁなぁ。そこで実験みてーに三人やってる。」 「俺の記憶じゃ最初は秀徳高等学校の男子生徒だった。腕に火傷、マントが焦がされたって。」 年齢の頃は伊月のくらいが上、小学校高学年の子供にも被害はあった。比率は女性を上回ったのは七人目。四人目の被害者が、コップに入れられた液体の異常に気付いて、犯人の顔は見えなかったが、腹を蹴って撃退した。 路面電車で別れる停留所まで、あと二つ。 「幸い明日は日曜ですからね。」 座席に凭れかかって、家まで送ると申し出た今吉に、それじゃあ甘えちゃいますかね、なんて穏やかに微笑む伊月は、なんだか戦慄っとする。 続く。 |
初出:2013年9月30日 20:51
原点顧みつつ、今回は高尾家の災難編ですw
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岩村さんvs月ちゃんは何度描いても楽しいですね。
20140109masai