探偵と助手のとある非日常。












白く小さな手がぱたぱたと、産着の中で笑った。

 chapter1:とある釣り人の非日常。




「釣れますか?」
のんびりと笑った青年の声に、僕は顔を上げた。僕の隣にはちいさなバケツがあって、ひらりっと一匹の尾鰭がバケツの中を回った。
「そ、そうでもない、かな。」
手元に先程魚に盗まれた餌を付け直す。蚯蚓の中をくるりと針が巡って、ちくりと皮膚に引っ掛かった。
「あ、いて・・・。」
「大丈夫ですか?」
引き攣れた皮膚を口に含んで唾をまぶしながら、頷けば、きゃたきゃたと仔が啼いた。おや、と覗き込んでくる彼は、どうやら僕の隣に腰を下ろした。
「幾つですか?」
「もうすぐ・・・八ヶ月で。」
身なりのいい青年は、涼し気な鼻梁に柔らかく眦を緩め、白い指先を赤子の頬にやる。朴訥とした僕とは正反対の生き様が垣間見え、なんだか口惜しい気持ちになるも、きょとりと僕を見上げてくる様子はどこかあどけない。
「鯔ならその辺にいるんだけど。」
指先に革手袋をしての釣りとは、確かに育ちの良い人間のすることだ。こうすると指先に怪我しなくっていいんです、とはお前はその革手袋を買う事の出来ない財布を見たことはないのだろう。
「兄貴ー!餌いれるの失敗したー!」
遠くから飛んで来た女の声に、竿をバケツに噛ませて立ち上がる。兄と呼んだということは妹か。華やかでは無いが、無駄の無い美貌の娘になるであろう彼女は、さびき釣りの針の一本を僕の襟に引っ掛ける。
ぎゃああ、と足元の悲鳴に、どうやら僕は足元にいた赤子を蹴ったらしい。
「ばっか!危ないだろう!」
「す、すいませんっ!!」
妹のほうは慌てて僕に頭を下げて、兄は赤子を抱き上げる。産着を汚した場所から撫で、根気良く暴れる赤子をその腕にあやし、安堵っと息を吐く。妹は何度も僕に頭を下げて謝罪をするので、上等な服で埠頭へ気まぐれの釣り遊びに来た二人に、薄汚れた手拭いで顔を拭きながら、少しだけ気分が良くなった。
「すまないね、あやしてもらって。僕が抱くと嫌がるんだ。」
「おじさん、釣りに来たんでしょ?」
麦わら帽子を直しながら、さびき釣りの籠に餌を詰めて貰った妹は、沢山釣れるといいね、なんて笑って埠頭の奥へ、沖のほうへ歩いて行った。
「いいのかい?妹さんを一人にして。」
身なりのいい、将来見目良く育つであろう少女を、赤子を抱き上げたまま兄は見送る。赤ん坊の頬を擦ってやって、涙と涎で汚らしいふにゃふにゃの顔を、清潔そうな、手拭いでというよりもハンケチと呼んだほうが相応しそうなそれで拭うとバケツの淵に掛けてしまった。
「一通りの自衛は出来るので。」
嬢ちゃん釣れるか、と日焼け男等に笑われ、直後に大物ではないが、切り身で焼いても中々腹の膨れそうな鱸が掛かった。こりゃ良い獲物だ、嬢ちゃんには勿体無い、じゃあおじさん食べる?肩掛け鞄から出したナイフで鱗を払って鰓に刃を入れる。これとも餌にしちゃおうか、と隣のオヤジに声掛け、そのまま頭は餌になる。醤油か飯がありゃぁよかったなぁ、と笑いながら、弁当でも包んできたらしい器に入れ、入り切らなかった分はその場で気前良く周りの釣り人に分けてしまった。その場でかぶりつく者があれば、刻んで餌にしてしまう者もいる。
「あんまりな真似したら、今度から連れて来ないからな!」
「大名釣りじゃないだけいいじゃんよー!」
「にーちゃん、こらあんた、いい嫁さんなるでー。」
「兄さんのほうは坊主かい?」
「あ、引いてた。」
赤子を膝に降ろし、器用に竿を操って、手際良く獲物と餌を交換すると、またひょいと糸を垂らす。埠頭に固められた石の足場に、こちらも何か武道でも嗜んでいるであろう身のこなしは、緩やかながらも安定しており、膝に赤子を置いてなど、ある程度の自信が到底なければ出来ない真似だ。
「・・・あ、すいません。お子さん。」
泣き疲れたのか、くったりと抱えられて揺すられるちいさな体は、くぷくぷと愉快な寝息がしている。
「いいさ。」
また盗まれた餌を付け替えるながら、ひょ、っと竿をしならせ、餌を出来るだけ遠くに投げる。僕の周囲は彼に釣り尽くされたのでは無いかというほど、獲物が来ない。坊主で帰れば妻が黙っていないだろう。せめて、言いつけられたこれだけでも。
「もらい子殺し。」
戦慄っと冷えるような声が、形の良い薄いくちびるから紡がれた。
「・・・って、ご存知です?」
「・・・ああ。」
帽子被ってくりゃよかったなぁ、と夏の太陽に真っ白な喉を晒した男は、麻のシャツに灰色のスラックスをサスペンダーに吊ってある。革靴の踵が時折かつりと小気味良く擦れる音がする。僕は日に焼けた袖無しに破れ痕を縫い、膝は二重に折り重ねた結び切り。足元は妻が結婚した当初の愛想で買ってくれた草鞋だった。
「怖いですよね。」
「・・・ああ。」
「よかったな。お前の親父さん、お前が殺されるのは嫌だって。」
嫌だとも。そう頷けば、ふふ、と彼は優しく笑う。
「あの産院、まだ続ける積りでしょうかね。」
「・・・何を、だい?」
「もらい子殺しですよ。もう警察は検討を付けてるみたいで。あ、引いてます。」
指差されて、慌てて僕は竿を引く。きちんと魚の顎に針が掛かった感触に拳を作り、じわじわと嬲って引き上げる。
「大物だぁ!」
「もう連れて来ないよ。」
「ああっ!ごめんって兄貴!」
こりゃおおもんだ、と尺を持ち出した日焼け男等に、周囲に集まった少年少女は僕を見て目を輝かせるので、その鱸の大口に手を突っ込んで掲げて見せた。お見事です、と赤子を抱える綺麗な青年は笑った。




















じゃらじゃらと小銭の入った袋を抱えて女はとぼとぼと歩く。

chapter2:とある春売りの非日常。

「やァ、せいこ。」
厭らしく笑う男はこの宿場の飯炊きに入った。さて飯だけかねぇ、なんてあたしたちは嗤ったものだった。
「なによ。」
「体が悪いって伏せっていたじゃァないか。俺の馴染みの医者でも紹介してやろっかなァ、って。」
黒の袷に白い袴だなんて虫唾が走るような格好で、しとやかに歩く男はあたしと歩みを並べ、藁草履でじゃりりとあたしとの距離を詰めてくる。
「お前、生娘?」
「飯炊きよ。そんなわけないじゃない。」
「なんだァ。高く買ってやろうと思ったのに?」
「勝手に言えばいい。」
あたしは初潮が来る前からこの爛れた宿場で生きている。親の顔は忘れた。あたしでも、こんな下衆の親の顔は見てみたい。
「買ってくれるの?」
「それなりの値段、だがなァ。」
初心を振る舞えば悦び、淫乱を演じても悦ぶ生き物に、あたしは身体を売って生きている。昆布巻と笑われようと、あたしはそれで生きている。目の前を白い肌が塞ぐ。
「なによ。」
「ヤらせろよ、一発。」
「やぁよ。気分じゃないわ。」
じゃらり、と懐の金が鳴る。
「なァ、孕んでる時ってすっげぇしたくなるって、本当?」
あたしは、この蛇のように厭らしく嗤う男が嫌いだった。女のように与えられるままを甘受し、女のように男に媚を売って廻る恰好が、素晴らしいほど吐き気を催す。
「じゃァ、女ってな生き物は、淫乱じゃなきゃ生きられないんだァ?」
柄ばかりが派手な粗末な着物の裾を手繰って、なァせいこ、と誑かすように嗤う男の腹を蹴って、あたしは走って逃げた。
女は男に力じゃ敵わない、子供が産める年になる前に、あたしはそれを諦めた。
「あこ・・・っ。」
産褥の酷い友人に、渡すべき金があたしの懐から消え、奇妙な飯炊きの男が消えたのは、その深夜の事、らしかった。

























死にたくない死にたくない、神様仏様。彼女はそれを遺して、屠られた。

chapter3:とある看守の非日常。

私が数日前に首を括らせた女への郵便物が溜まってきた。生前は人望あるひとであったらしい。
「ふうん?自分の子、心配せなあかんのに、売り払うてもーとるがな。」
そこで親である権利なんかないわ、とこの男は所長の客人なのだが、私などという低級官吏の粗末な部屋に、最高学府の大学の制服と高い学力を持つ制服の若者を、今は勉学の時間ではなかろうか。しっかり勉強せねば私のようになってしまうぞ、と麦茶を啜りながら思った。
「えっと、あ、これだ。」
「旦那?」
「うん。お名前ちゃんと伺えてるよ、これ。これとこれも。」
「他に見覚えは?」
こっちの筆跡とこの住所は解ります、と最高学府大学の制服の青年。彼は清潔に切り揃えた美しい黒髪に安いエレキテルの下だというのに天使の輪を描いており、研究者が多いらしい高学力の青年は、一枚一枚の、特に女の文字を見て仕分けている。耳が隠れるほどの髪の長さは、何故か嫌悪感が無い。
「これ、解るわ。」
「あ、また旦那さん発見。そんなに奥さん怖かったんですねぇ。」
あの女受刑者は助産院を商っており、娼婦や貧しい家庭から赤ん坊を金と交換して、夫に暴力を振るい、赤ん坊を海に落とし殺させていた、とのことである。死刑が執行されてから、夫には連絡をし、棺ごと迎えに来させたが、葬儀を工面してやることが出来ない、と位牌だけ持ち帰った。
「そういえば、あのひと。」
「んー?」
「おめーちょっと手動かせよ先に。」
「助産院、止めちゃうそうで。あ、これさっき名前あった。ここ?」
「ん?」
「そら、産婆おらんなったら助産院出来らんやろな。月ちゃん、これ旦那さん。」
「そうじゃなくて、あ、これも旦那さん?質に入れたら意外と・・・。」
「こら月ちゃん。」
「こら伊月。」
「いや、正直にですよ。助産院も人殺しも止めて、孤児院作ろうか、という事だそうで。幸いご近所に乳母になれそうな女のひとはいたので、じゃあ敷地買い取ってやっちゃおっか、って。」
「誰が。」
「赤司。」
その名前に、ひきょっ、と喉が変に鳴ったのは私だけでは無かったらしい。掠れた単に寄れた袴、潰れた下駄に中折れ帽と眼鏡の男は、言い聞かせるように、月ちゃん、と呼んだ。
「あのとっちゃん坊主に何唆された?」
「唆されてたまりますか、翔一さん。ちゃんと住民の総意汲んでます。あと、工事中は敷地に誰も入れないで、信頼できる宮司さんに施工式やって貰って、俺の家が世話になってる建築屋さんに落成まで面倒見て貰うんです。」
月ちゃん一人で世界は変わるもんやねぇ、なんて呟いた彼の真意は私には解らなかったのだが、胡っ散臭ぁ、と。まこっちゃんと呼ばれる彼が呻いたので、どうやら私の脳は正常であるらしい。
「安物ですが、麦茶でも。」
「あ、おおきに、いただきます。」
「あ、せいこじゃねぇのー。」
「何?知り合い?」
「俺に金蹴り食らわせた女。」
「まこっちゃん、それどないな状況やったん?」
画して、その女死刑囚の身の回りの物は、すっきりと整頓され、子供の安否を気に掛ける母親には男の事務所から手紙を送り直し、金になりそうなものは二束三文でも、どこかの質草に流れたのだろう。
「死にたくない死にたくない、神様仏様。」
「死んだら、変な三人が迎えに来てくれるさ。」
蹲る死刑囚に、最近の私はそうやって笑いかける。

今吉探偵事務所、明日も通常業務。
こんな日常は、嫌だという話ですよね。

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初出:2013年8月24日 23:06

Asylのはじまり。

20140924masai