彼の最初の記憶は山深い田舎の、天野家の離れの縁側で始まっている。
「ええこにしよったか?」
襤褸を纏った眼鏡の男が、土産や、と紙風船を寄越したが、遊んでいるうちのその紙風船は、春の微風に攫われてしまった。











今吉探偵と伊月助手と外伝・花宮真。












彼が帝都に来たのは霧崎第一大学に通う準備であった。華やかな民衆文化は一度地震と火災で滅びたかに見えたが、すぐに復興の兆しを見せて、人間ってななんて具合に頑丈なのだろうな、と思った反面、海外からの余所者を虐待する姿に、ふはり、悪辣に笑って通り過ぎてやった。
この青い空のした、無感動に過ぎ去ったのは、その実彼の頭の良さが仇でもあった。教えられたものを全て吸収し、もう教えるものはない、と凡ゆる凡百の教授は匙を投げており、ただ、とあるお上の観菊会の折、颯爽と走った男の後姿に柄にもなく感動した。思想のあったらしい軍人はその場で首を刎ねられ、脇腹に深く刃物が抉られたそれを脇腹から血を噴きながらもその男は、大丈夫ですかと自らを顧みずにお上に伺い、穢れますよって、と早々に下がった。
あの男ははたからみれば、酷く勇敢で優しく見えるのだろう。臓物を傷つけない絶妙な角度にその刃を腹に導き、しかし深くを切ってしまっていたからその場で抜いて失血を防ぐため、脇腹から刃物を抜かず、花宮だけ手当に呼んで、ほんまに痛いもんは笑えるなぁ、なんて、控えの間の奥、自分で脇腹に針と糸を入れて縫ってしまった。
「癒着せんやろか。優秀なお医者さんかかりたいわー。」
「癒着しても腹黒部分が広がるだけじゃねーっすかね。」
「それもそうか。ああ、真には前持ってゆうといたる。ワシ、公安抜けるわ。」
かっるぅ!!
花宮は生まれて初めて、言葉を無くすという意味の日本語を体現した。
今吉の体が万全になるまで休養、その間に花宮の上官になったのは、天野という年齢不詳の性別すら不詳という生き物で、時折獣のように嗤う人間だった。霧崎第一大学に進学、天野は花宮の周りに人材を集めた。古橋は古くからの同業の家の次男で花宮の腹心として、山崎は技術系に強く、原は軍事教習で秀でた成績を持っていた。瀬戸の出自はよく知らないが、花宮の頭脳戦に辛うじてついていける程の頭脳があった。
今吉の監視に花宮が抜擢されてから、五年が経っていた。何度も殺し合いをした。国家機密を握る人間をのうのうと生かしておいてはならぬ、と上からの命令で何度も暗殺命は下っていたが、結局あの男を殺すことは出来ず、下町の下宿に拠点を置いた今吉は、そこにすっかり溶け込み、馴染みの医師と馴染みの警官という、とんでもなく厄介な蜘蛛の巣を張ってくれた。ひとの人情ほどちょろいもん無いで、と過去に今吉は語ったことがあり、流石にそこで花宮は舌を巻いた。あの狐はひとに紛れてのうのうと生きている。何度も怪我して医師に大家に心配される、そしてまた怪我をして帰ってくる。これでは悪循環だ、と花宮は舌を打った。
持ち前の頭脳で警察が滞った捜査に助言して、阿片窟を潰させた手段は何より圧倒させられた。花宮が焦がれるほど憧れたあの男は、何も変わらずそこにあるというのに。
「殺し合い、飽きてきたんで、ちょっと取り入って見ます。」
独り身でもあった今吉の、飼い猫になってやってもいい、そこまで花宮は考えた。男を誑かす手段も教え込まれた体だ。天野は、さようか、と熱のない声を返したのみ、後悔すんなや、と上官が囁いたのに、首を傾げた。真はほんに頭がええな、と凡ゆる事象を前に褒めてきたのは今吉だ。その自負を花宮は疑わなかった。
今吉が探偵事務所を作る報告は既に入っており、帝都の一等地だとか目立ちやがって、と思わなかったのは嘘になる。しかし彼はそこで一つの歓喜すべき事象と出会ったのだ。今吉は酷く文章を作るのが下手になっていた。依頼人の報告義務、依頼調査報告書の作成は花宮の仕事として与えられた。つまり、彼の隣にいつでも佇んでいていいという。会話の無い事務所だったが、昔に戻ったようで心地よかった。勿論事の次第は上官に事細かに報告した。
「ここ。」
耳の裏は針を一撃、花宮が突いた場所であり、やられてから文章が纏まらんし思い浮かばんのや、と書類作成の傍、今吉が嗤った。自嘲のような笑みだった。それはそれは、と花宮は満足そうに嗤ってやった。実験器具や機材を並べての研究を時折持ち込んだ花宮に、まあまあ頑張りぃ、と今吉は昔のように笑った。あの春の縁側の紙風船は、またこの手に戻ってきたのだ。
時折来客のある探偵事務所は今吉がこれまでの蓄えを切り崩し、そのまま滅ぶかに思われた。刹那的な美しい時間だと花宮は思っており、そこに迷い込んだ美しい黒い髪の男は、猫を探してくれと言った。
伊月の存在で、急に事務所の有様は変わって行った。伊月が勤める、というだけで依頼人が増えたのだ。痴情の縺れは取扱わん、と所長は言い切り、半分ほど減ったが、それでもまた三人で回し出した事務所はただでさえ、今吉の顔見知りの警官から依頼が来て動いてもいたので、凡ゆる経費や手続きの手間が増えた。
「俺、数字は強いんです。」
学生籠球で顔を知ってはあったものの、そこまでの個人情報は書面でしか受け取っていなかった伊月に、ほんなら伊月クン、と今吉が出題したのは赤門理乙の過去問題。八割正解という偉業には流石に花宮も、適任だと思った。算盤を弾く手段は途中で放棄され始め、もう根をあげたか、と思ってあれば、頭の計算が追っつかないから諦めた、と言われてしまった。伊月に可能性を感じたのはこの頃、仕事の無い静かな日は珈琲や紅茶を淹れて飲む習慣は伊月が取り入れた。今吉の前で猫を被ったように、花宮さん、と伊月は呼んでいた。
これは使える、と思った。
熱を孕み始めた視線。花宮が気配を消してやるだけでよかった。日の沈み始めた窓からの光の中、静かにぶつかった視線。
「恋して良いですか。」
「好きなだけ、ええよ、月ちゃん。」
その後の伊月の慌てっぷりは素晴らしく笑えたが、やはり日の沈みかけた階段だった。二人は視線が合ったのみ、静かに接吻を交わした。やっぱりな、と花宮は恍惚に考え、暫くは今吉の処遇は自分で引き取った。最良の時間を用意してやる。最高に残酷で幸いの日々をお前らに用意してやる。後に同僚に語ったところ、お前それ祝言に立ち合う爺さんか、と言われ、花宮は苦笑した。
幾らでも二人のためなら裏で動いた。上司の邪魔が入りそうならそれとなく進言し、その日常を見守ってやった。
「あ、花宮、写真撮ろう。」
それはとある元日の夕方。写真屋を呼んだ事務所の玄関、まこっちゃんこっちな、と今吉に命じられ、三人で撮影した写真は、今でも彼の手帳に挟まったままだ。伊月は丁寧に写真立てや写真入れに保存して行ったが、その年からずっと、伊月がいなくなるまで元日に事務所の玄関で、元日でなくとも年に始めに、三人で揃うと時間が無いと喚いた花宮を無視して、三人で写真を撮った。今吉が真ん中、伊月がその右手で、花宮は左手を、逃すかとばかりに今吉に肩を抱かれて、三人で、必ず。
「なあなあ月ちゃんー。」
「翔一さん、こっちの案件なんですけど。」
「まこっちゃんー?」
「待て、こっちの案件先のほうが効率いい。」
「花宮がそう言うならいっか。」
なんとも平和な日々だった。本業に際して、女装したり陰間になったり、との技術も生かされた仕事は、本業を忘れ掛けたほどである。自覚は無いが。伊月を春として着飾る際は仲間で悪乗りをしたこともあった。今吉が喜んだからだ。花宮の前を歩く今吉の隣には、伊月が佇むその様子を、ずっと見ていた花宮は、情というものが込み上げるのを隠さなかった。今吉は見破るであろうし、伊月はあれで居てなかなかに強かで賢くある。
今吉と伊月は結局一緒にはならなかった。二人で新婚旅行でもしてこいや、とからかい交じりに何度も花宮は言ったことがある。いいねそれ、ええねぇそれ、と二人も笑ったが、本気にはきっと、誰一人としてしていなかった。
伊月には徐々に伊月家長男の自覚が出ており、様々な思惑が絡んで侯爵などという肩書きが与えられ、医師への階段を登っていくが、今吉は一介の下町の貧乏人であり、花宮は傍観者を貫いた。
霧崎第一大学は三年制だ。三年間で完全に隠密の存在を作り上げる。国家公安局に所属式も兼ねる卒業を際に花宮から肺が一つ取り出された。二つある臓器をそれぞれ、研究に回すのだという。研究される学校名を聞いて、少なからず彼は落胆した。秀徳軍学校付属研究室。折角なら誠凛が良かったね、と術後、肺の代わりに綿の詰まった呼吸器の中で彼は言い、伊月ならお前のだって見破っちまいそうで怖いな、と古橋が言った。伊月の研究は主に眼球と脳だ。既に緑内障患者を一人抱えてあった伊月は事務所の出勤率も落ちていたが、今吉は給料計算を碌にやらなかった。久々に出勤した助手二人に雷を落とされたが、しゃーないやんか、と棄てられ拗ねた猫のように顔を背けた。
「もう、翔一さんはほんと、俺たちがいないと駄目だね、花宮?」
「あー、もう同意しかねーわ、なあ伊月。」
「月ちゃんとまこっちゃんが仲良しで翔一さん何よりや!」
「「黙れ元凶。」」
伊月は養護施設経営にも本格着手し、誠凛が最初に育て上げた医師は金を取らない事で有名だった。取ることは取るのだが、それは金のある人間からだけで、金のない人間には無償で治療して薬も工面してやっていた。今吉と花宮に叩き込まれた外科手術技能に、また内科医としても有名で、これまで誰もやらなかった対処療法なども様々編み出した。しかし裏ではなにかしらの変事で死んだ体を検め清めてやる仕事もしていたので、彼の養護施設はその実遣り繰りせずとも金はあった。
「伊月。」
「月ちゃん。」
「あ、おかえりなさい、翔一さん、花宮も。」
施設を尋ねるとこうやって彼は出迎えた。敷地内には一般人も軍人も、国籍も年齢も関係のないその広い家は、最初は子供の寝床であったが、徐々に学校や病院の側面も出始めた。今吉の事務所での事務経理はずっと働いていた。今吉とも仲睦まじくあったが、伊月の社会進出を機に、今吉へ送られる暗殺者が増えた。漏れなく死体死に体で戻ってきたが。花宮は今吉の探偵事務所が好きだった。伊月が淹れる珈琲と他愛のない話が好きだった。決して口に出してはやらなかったが、確かに好きだった。だから上層部に喰いついてやったのだ。後ろ盾を増やし、天野に契約させた。
「俺が殺すまで、あいつは殺すな。」
何度か天野は試すような真似をしたようであるが、結局その約束は守られた。花宮は果たして、酷い虚無とともに今吉の遺体を捨て墓に埋めたのだから。
「伊月、っ・・・。いづ、き・・・しょう、いち、さん・・・。」
いつも黒い服であった彼は、紅い軍服姿で膝と腕を泥に濡らし、苦しげにその白骨が犬に掘り起こされた形跡のある荒野に嗚咽を漏らした。
「月ちゃんは綺麗やなぁ。」
今吉の大嫌いだった綺麗事を完遂して生きた伊月の、美しい髪を刈ったのは花宮だ。二十歳を過ぎても麗しかった男の美しい黒髪を刈り上げ、遺髪として息絶えたばかりでまだ柔らかく温かかった今吉の口内に押し込んで、埋めた。
「翔一さん・・・っ!」
すっげぇ皮肉、と伊月は尋問室に現れた花宮に笑った。鉄紺のスリーピースを、晩冬の寒い中下着一枚にして、拘束された手足に抵抗も見せなかった伊月は、果たしてそこでの暴行に、二つ夜を、前歯を折られ舌を切られ、血まみれになりながらも、その強い瞳は力を喪わず、壁際に佇む花宮を、一瞥して、腫れ上がった顔で、微かに笑った。
「・・・っ。」
「少しだけ、時間をやれ。」
奥歯を縛った花宮の隣で、瀬戸が口を開いた。机に這いずらせ、指の骨を砕かれた手が、拝み書きの要領で、ごめんなさい、と紡いだ。ゆっくり、ゆっくりと。どんな懺悔が書かれるか興奮したように室内は気温を上げたが、花宮は期待しなかった。伊月は養護施設を密偵の隠れ家に出来るほど器用な男でない。
《ごめんなさいしょういちさんゆひのほねくたかれました》
愛用していた万年筆をそのまま転がした伊月は、そのまま綺麗な造形であった容姿もしなやかに鍛えられた身体も、全て砕かれるようにして、屠られた。ころころと軍足の足元、まだ温かくそして体液で輝いた眼球は、視神経が千切れて眼球液が滴り徐々に弾力を失ったが、それでもその水晶体も黒曜石色の瞳も、宝石のように醜悪に美しかった。棺桶に用意してやったのは古橋だった。彼は伊月の事を少なからず好いていたと思われる。
手帳の最後の頁は真っ赤に染まり、万年筆の文字は乾かぬ間は少し青ばんで見える、今吉から贈られてあった綺麗なインクだった。
葬儀に伊月の棺桶が開かれることは無かった。実家で葬儀を終えた後、井桁に組んだ木の上、Asylの庭でそれは燃やされた。学生時代に着ていたインバネスコートと学生帽。誰も入らない奥の間で遺体の処理をしてやった今吉は、見んほうがええよ、と彼の家族にも手伝わせなかった。見せなかったのでなく、手伝わせなかった。近寄らせなかった。怪我をした子猫を舐めて手当てして外敵に吠え毛を逆立てる野良猫のようだ、と花宮は思った。
「憲兵さん、酷いことしょんな、月ちゃん、綺麗やったん、こないになってもて・・・。見んほうが、ええよ。」
な、と花を供えに来た伊月のきょうだいに言い聞かせるように、これは誰からの贈り物な、と遺体に語り、白い手甲に組ませた手に、今吉は誓うようにくちびるを当てた。
莫迦な男だと、思った。
なんて莫迦な男だろうか、花宮真という男は。これでは今吉を殺す意味がない。この男はもう、死んでいるも同然ではないか。遺髪を渡して盛大に泣かせてやるつもりであったのに。もう泪の一つ落とそうとしない。
線香だけ、と既に特別警察の制服を着用していた花宮は、伊月の家族に頭を下げ、どうするよ所長サマ、と普段の調子で声をかけた。
「まこっちゃん、紅いん似合わんなぁ。」
もう、事務所は事務所の機能をしていなかった。花宮の本業が表に出てきてしまったからだ。今まで裏から意図を引いて操った蜘蛛が、表に陽のあたる世界に出て来てしまった。これからも花宮は上官の命令や通報があればまた誰かを問答無用で自白の強要という暴力を振るい、殺して行くのだろう。
「人間だけが殺し合いをするっていうのは実は違くてさ、草食動物でも共食いするって知ってた?人間だけが、生かし合いを出来る生き物なんじゃないかなって、最近思う。」
体調の不良の気味を伊月に相談すると、お前も翔一さんに負けないくらいの古傷あるなぁ、と伊月は言いながら聴診器を当て、独逸語で書かれたカルテを手に、まっすぐ、花宮を見て、言った。金融恐慌から年々旗色の悪くなったこの国は様々な国と掛け合い、決裂し、問題行動を外交に見せて、その度同行させられる花宮は、バカめ、と蔑んだ目で見てきた。半田家は金の回りが悪くなり、潰れた。蝶子にお前どうしてくれんの、というのは彼女をAsylに雇い入れる際に、花宮さまは、と聞かれたらしい。
多くが伊月を喪って泣いた。地方の軍事演習に出ていた旧知も間に合う輩は一周忌までに伊月の家族を訪ねて泣いた。
「蝶子、結婚しよう。」
彼女とは十ほど年が離れていたはずだが、伊月の葬式に出た彼女はもう一人前に結婚できる子供も産める存在であり、Asylを護るにはここに潜り込むのが丁度いいとも彼は考えた。そこの死体同然の男より、断然に利用価値があったのと、彼らしくない、酷く人間的な感情で。
誰かと結ばれたかった。
今吉と伊月のように、強い何かで結ばれたかった。
「伊月を生きて返さなかった特高に恨みはあるだろう。だから、俺と結婚しろ。俺の見込んだ女は、そんなに頭が悪くない筈だ。」
蝶子は事実頷き、Asylを護るために花宮と籍を入れた。
伊月の遺髪を入れてあった木箱から、一筋、残っていたらしい。するりと花宮の頬を滑った頭髪は、涙を拭うようだった。
「なんだよ、お前、そこは、翔一さん、だろ・・・?」
ばか、と苦笑気味の罵倒は、伊月の得意技だった。相手が何者であってもあの笑顔に騙される。そして絆される。
不恰好な盛り土の上に落ちる雫は留まらず、しかし土に染み込んで消えた。伊月の一周忌を終えた直後だった。
「なあ、まこっちゃん、殺して。」
「お安い御用ですが。」
死に急ぐ野良猫の行方は花宮だけが知る。
「真、俊の次に愛してた。」
ありがとよ。
「とでも言うと思ったか、バァカ。」

花宮真、享年三十四歳。
大東亜省入省を辞退し、その後消息不明。暗殺されたものと思われる。

初出:2014年2月16日 22:15

今月探偵番外編、第一段。

20140421masai