きんころんきんころんきんころん、と連打されたベルに、慌てて伊月は下ろされたファスナーを上げて、ぱたぱたとエントランスに走り寄った。その場に行き場を無くした今吉の手は、呆然と彷徨い、階段を降りてきた花宮が、ざまぁ、と舌を出した。
昭和二年、春。












今吉探偵と伊月助手と外伝・福浦空子。












「春ちゃんっ!!」
「あれっ、福浦さん!?」
その突然の訪問に伊月は目を瞬かせ、事務室方面を振り返ったが、花宮が手を振ることで応えた。先触れは無かったらしい。
「ど、うしたんですか、突然。」
「ありゃ、福ちゃんか。月ちゃん、入ってもらい。」
「あ、はぁい。珈琲と紅茶、どちらで?」
「・・・動いてる。」
「は・・・。」
確かに動いている彼は、自分の右手を見下ろし、握ったり開いたりと動かした。
「春ちゃんが動いてる!!」
うわぁ、と感嘆した彼女に、そうか、と今吉が手を打った。伊月は鶴見で彼女と出会った時は春の姿であり、目を覚ました時は宝生しかこの事務所には来ていなかった。伊月俊は福浦空子と、改めて初対面を果たしたのである。そういえばクリスマスにもニアミスしとったな、と今吉が笑った。
紅茶にミルクとキャラメルを落とした甘さに花宮は見ただけで舌を出す。暖かいヴィクトリアとバロックが融和する面談室に、伊月は蜂蜜を紅茶に混ぜた。花宮は珈琲をブラックで、今吉は今日はミルクを入れてみる気分であったらしい。お茶請けは福浦が持ってきた仙人掌茶屋のフランスパンのフレンチトーストで、一度オーブンに温めさせて、改めて頂いた。
「春ちゃんにね、お願いがあって、・・・来たの。」
三人ともがパンを一口摘まんでからそう切り出した福浦に、かなんなぁ、と今吉が苦笑する。
「いいですよ?売り出しは苦手ですけど、企画は得意です。医学も多少。あ、医学は胃が食う、ってなキタコレ駄洒落も得意です!」
「来てねぇよ。」
「来んなぁ。」
「来てないなぁ。」
同義異音の三人を伊月は若干恨めしく見やった。
「えっと、今吉探偵さんにも、一応、と。」
「はい。」
黒革の手帳は伊月の膝に。花宮はカトラリーテーブルに腰を預け、今吉はデスクにいる。福浦の座った波斯文様のソファにはテーブルを挟んで正面に伊月は凛と背筋を伸ばして微笑を湛え、佇んでいる。
「春ちゃん、今日のご予定は?」
「はい、少々お待ちください。」
慇懃に頭を下げた伊月は、白い肌に血色も良く、擦り傷を作っていた頬は常の美貌を取り戻し、血塗れになった右手にも、綺麗に万年筆を持っている。
「書類作成は終わったので、翔一さんか花宮のチェック待ちで、えっと、Asylの料理当番、が。終わったら夕方になりますね。」
「あっ、じゃあ、明日!」
「明日は別件の依頼が入ってまして、申し訳ないです。」
「明後日。」
「Asylの献立作りと翔一さんの家の掃除とここの掃除と月末の給料計算日、って俺働きすぎじゃない?」
「明々後日・・・。」
「進級試験準備期間になります。あっ、まーさんかーさんとさとさんかーさんに言ってない!!」
かくん、と白いブラウスに黒のスカートと藤紫のカーディガンの彼女は、ソファに腰掛けたまま項垂れた。
「Asylの料理当番、交代したろか?」
「へっ。」
「福浦の嬢ちゃん、えらい綺麗にお化粧しとるし、月ちゃん訪ねて遥々鶴見からや。書類は問題ないやろ、まこっちゃん。」
「あったとしても署名不備とかじゃね?」
「おい、どんな認識だ。」
「伊月の間抜け。」
「月ちゃん抜けとる。」
「やかましい。」
実に気持ち良く投げ交わされる言葉の遣り取りに福浦はちいさく噴き出し、あっ、と伊月は赤面、花宮はひょいとその皿から一切れフレンチトーストを奪う。今吉は微笑ましそうにそんな若人等を見た。
「了解した。書類は不備があったら俺が引き受ける。今度蕎麦でも奢れ。Asylは所長、これでいいだろ。」
「おまっ、フレンチトーストで勘弁しろ!今月金欠なの!!」
「高尾部屋の掃除引き受ける。」
「・・・こんのっ!よろしくお願いします花宮様!!」
二人の口論をほけほけと眺めていた今吉は、ほなそういうことで、と福浦に顔を向け、すうっとレンズの向こうから、静かな視線を福浦に。
「楽しんでらっしゃい、福ちゃん。」
「あっ・・・ありがとう、ございます。」
彼女はほんの少し、はにかんだようだった。それなりにおめかししといで、と伊月に言いやった今吉には、どうやらすっかり悟られているらしい。鉄紺のスリーピースに海色のタイとハンカチという素晴らしい美男子に福浦は不覚ながらときめかされた。
銀座、三越、百貨店通りの大通りで路面電車が停車する。赤襟が福浦の乗車券と伊月の定期を確認し、いってらっしゃいませ、と頭を下げた。ボン・マルシェを彷彿とさせたその煌びやかな百貨店内は、大階段を吹き抜けが周り、アーチに刳り抜かれた窓や、また一階入り口からでも確認出来る三階の広い天井には最近閉店後に絵描きが出入りしており、宗教画が大きく描かれようとしている。
「すいません、ここしか案内出来る場所無くって。」
月初に小遣い日のある、まだ未成年は、来月からは自分の口座から自由に金を扱えるようになるのだが。伊月の財布では下町の蕎麦屋の一杯でも怪しいのだが、ここの総支配人には名前も顔も通るので、先触れて電話もしておいた。案内人の男が伊月を認め、深々と頭を下げた。
「いらっしゃいませ、伊月様。福浦様。お待ちしておりました。案内は無粋と存じまして用意しておりませんが、何か御用の際はお近くの店員に声をおかけ下さい。」
「ありがとう。福浦さん。」
案内人に手を掲げ、左肘をす、っと実にさり気無く伊月は差し出す。
「春ちゃん、ほんと男のひとみたい。」
「男ですけど。」
どこか憮然とした彼に、悪戯しく福浦は笑い、だって春ちゃんかっこいいんだもん、なんて笑って寄越した。
「いらっしゃいませ。」
「うわあ、綺麗っ!なにこれ綺麗っ!」
「趣味に合いました?」
装飾品は素朴なものから高価な宝石を使ったものまで広くある。生憎ケースの一つは空だったので、福浦の首を傾げる様子を伊月は笑って。
「花宮って、俺の同僚なんですけどね。事務所の経費で落としちゃったんですよ。俺の半年分の稼ぎはありましたね、あの値段。」
どうなってんだあの事務所の金回り、と伊月は額を抑えたが、次こっち、と福浦に手を引かれた。右手の中指と親指の付け根にはペン胼胝を飼っている彼女は、人形に着せられた洋服を、そして帽子をしげしげと眺めて。
「触って良いんですよ?」
「えっ。」
本来こういった服屋では、装飾品でもそうであるが、展示されてあるものは触ってはいけないし、買う気がないなら見て回ることも実は店からは良い顔をされない。だが、先程の装飾品店では、どんな職人がどんな素材で、と丁寧に説明してくれた。
「こ、これ高いよ?絶対高いよ?」
「んー、まあ今の俺には買えないかもです。」
「今はお蕎麦も食べれないって言ったじゃない!」
春ちゃんやだ、かわいい、なんて笑った彼女に、女性店員がやってきて、お近くでどうぞ、と白い手袋をした手でそのボア生地を触らせた。
「ふわふわしてるー。」
「被ってみます?」
「いいんですか!」
「はっ、委員で好いんですか、キタコレっ。」
「伊月さま、ネクタイの新しいお色は如何です?」
「春ちゃん、その鉄紺似合うね。やっぱ寒色好き?」
「そうだね、青とか藍色とか。」
「濃紺に朝顔も似合ってたね。」
「もうその春ちゃんって、やめて下さいよー。」
帽子を被って鏡に向かった福浦は、ひょいと首を傾げるように振り向いた。そのモダンな見返り美人に、不覚にもどきりとしたのは伊月の何か、どこか寂しく切なく姉を見る気持ちに似た、あの夜の。
「福浦さん、ひょっとして・・・。」
「もうちょっと明るい色がいいかな、もしくはリボンの色違うの。」
「ございますよ。こちらの棚へどうぞ。」
女性店員と花を咲かせるような福浦の空気は実に柔らかく、前に出会った時は仕事一筋の、仕事一徹すら感じさせる強い女性だったのが、今は。
「どう、春ちゃん、似合う?」
「ええ、お似合いです。」
「俺の好みで言うなら、もう少し大人しい色が良いです。」
「ええー!?」
この値段か、どうしようか、と悩んだ彼女には。
「買うか買わないか、で悩んだ場合、買わないほうが賢明ですね。値段で迷うのでしたら、少々高くとも買ったほうがいいです。」
内面を磨くことと外面を磨くこととは似て非なるものですが、どちらも追従するものです、とも伊月は言った。
レストハウスに入ったのは紅茶ラテを勧めたかったからで、総支配人が挨拶に出てきたのは、ちょっとすいません、と伊月は席を離れた。
「伊月様、この度はご来店のほど、まことに・・・。」
「すいませんっ!」
粛々と挨拶をしようとした総支配人に伊月は頭を下げた。
「和服、女性用はありますよね?」
「は・・・はい。」
気圧されたように頷く千代田総支配人の眼前、伊月は線の細い顎に形の良い薄いくちびるに指を遣り、視線を右端に固定。背の低い千代田が腰を下げて顔を上げた格好に、背の高い伊月が腰を折って頭を下げてから、と二人の顔の位置は密談でも交わしているようだ。
ぱちんっ、と伊月は口元にやってあった指を弾いた。あ、鳴っちゃった、と独り言を零したが。
「最高の品物と接待と店員を、着物屋に寄越して下さい。支払いは申し訳ありませんが、伊月俊名義のツケって、いけます?」
「い、いけますとも・・・!」
わたくし千代田が肩代わりしてもようございます!との啖呵は、そこまでは結構、と美麗に優雅にあしらった。まるでツケを頼む立場で無い。
伊月が来賓室から戻ってくると、隣のテーブルのご婦人達と何をか福浦は歓談しており、伊月が戻ってきたと気づくと、ほら見て春ちゃん、とそのご婦人が着ているモダンな小紋を示した。
「あら、あら、ひょっとして伊月の俊さま?大きくなりあそばされて!」
「えっ、あの、えっ!?」
「覚えておりませんかしら、ご学院でお祖母さまが・・・。」
「すいません、当時の俺幾つでした?」
「あらいやだ、そうだわ。」
「ごがくいん・・・って春ちゃん実は凄いおひとだった!?」
「いやいや、全く。一介の籠球球児で今は医大生ですよ?で、どうかなさいました、福浦さん。」
あ、いや、はしゃいじゃって申し訳ないです、と福浦は手を振って。
「伊月さまのご友人の方?この小紋をお作りになった、と。」
「本当に!?」
「なんで春ちゃん食いついちゃった!?」
「福浦さんこの小紋画いたの!?そうだよなんで気付かなかったの俺のばか!上品なのに遊びが入ってて素敵です。よくお似合いです。」
「あら、ありがとうございます。この小紋、一目惚れだったんですのよ。可愛らしいけれど、この文様の色が上品なので私の年齢でも着れるの。」
「その模様、はる、って言うんです。」
「小紋に?」
「その、小紋の模様、一つが。はる、って。」
「では私は、春を沢山運んでいるのね。」
「・・・っはい!」
その遣り取りを伊月は静観し、少なからず感動した。レストハウスでの会計はそのご婦人が、春のお裾分け、なんて洒落てくれて、二人で仲良く顔を見合わせ、笑顔で礼を言えた。
エレベータガールの白い手袋が女の力でも動かせるように滑車仕掛けに提案したのは伊月で、無事に導入されたらしい。帽子の入った箱を福浦は丁寧に持ち運び、時たま目線まで持ち上げては包装の袋を横から下から見て、ふふ、と実に可愛らしく笑い、伊月はその左手にエスコートの形で目当ての店舗まで連れてきた。
「あ、保也義兄さん。」
「やあ、なんだか愉快そうな呼び出しだと思ってね。一揃いは出させて貰ったけれど。」
鯔背に着流し姿で義弟とその客人を迎えた優男は、いらっしゃいませ、と福浦に頭を下げた。女性店員が襷掛けでわちゃわちゃしている店内は、無事に人員配置も終わったらしい。財布は大丈夫なのかな、と悪戯っぽく笑うのは、嫁からの伝播か。太宰府に財布は採譜していただきます、なんて返しておいた。
「福浦さん、荷物こちらへ。」
「お着物?流石にそんなお金無いわ。」
苦笑気味に返した福浦だが、いいえ、と戦慄っとするほど美しい男の微笑に言葉を無くす。
「俺が、貴女に贈りたい。」
振袖は辻が花のような高価で伝統的なものでなく、しかし同じくらいに伝統もあり金の必要な、生地は模様は京都伝統友禅の源氏物語を新しい紫色が主色で紡がれたそれに合わせた蒲葡の帯揚げ。襟は京紫の刺繍を季節の花で四本、白い足袋と漆の綺麗な下駄の鼻緒は紅紫。菖蒲色の帯締め。下着やその他紐なども一式準備させられてある。そして帯はこの店に伊月が始めて入った折に気に入った、茶金色。
「別に変な意味はありません。ただ、唯一のひとになりたい、と女性は考えるのだそうで。貴女は唯一の女性になるんです。だから、俺の唯一、着物の一式を押し付けられた女性になってくれませんか?俺の趣味で、脱がすつもりもない着物を、贈った愚かな男にして下さい。」
「春ちゃん・・・?」
「それを着て、焼き餅を妬かせて、焦がれさせてやりなさい。そんな強かな女性でいて下さい。俺の予定を無理やり開けさせた貴女には容易いことだ、福浦さん。」
「しゅ、ちゃ・・・っ。」
はら、と落ちる涙に嗚咽に化粧が崩れそうになると、はいはい、と伊月は福浦の、女性の細い肩を叩いてくるりとその場で百八十度回転させ、目のあった店員に可憐に片目の瞼を下ろしてやる。頷いて駆け寄って、折角ですから少しの試着を、と衝立の向こうに福浦を連れて行ってくれた。
「綾さんが結婚直前の事なのだけれどね、俊君。」
「はい、義兄さん?」
「綾さんは事あるごとに俊君の名前を出して、この場面ならこうエスコートしてくれて、この色が似合うと言ってくれるのに、と散々ごねられたのだけれど。」
「知ってますよ。事あるごとに姉貴は、保也義兄さんの事、保也さんは保也さんは、と不満ばかり言っていたので。」
「ひょっとして。」
「ひょっとします。」
嫁の婚前の謎の不機嫌を思い出し、女性って怖いねいやはや、と頭を掻いた呉服屋の次男坊に、年嵩の女性店員は、何言ってんだい坊ちゃん、と背中をばしばし叩いた。その婿入り先の弟のほうは、まあ俺の姉貴だからな、で事を済ませてしまうあたり、やっぱり伊月俊である。

いつの時代も女性よ強くあれ。

初出:2014年2月22日 23:25

今月探偵番外編、第八段。

20140421masai