|
ガシャン、と扉の開閉音に、目が覚めるような気分がする。
彼の人生は昇降機で始まった。 ひとの記憶が始まる頃というのは四歳から五歳と言われている。 彼は昇降機の中で、誰ともわからぬ女の死体に抱かれて起き上がった。 震災から丸二日、彼は飲まず食わずで、それでも掘り起こされた昇降機の中で生きていた。 今吉探偵と伊月助手と昇降機の美青年。後篇。 その煌びやかな百貨店の屋上、吹きさらしに伊月は立っていた。群青のマフラーが時折風に靡くそこは、多少の遊具が置いてあって、小さな檻には春夏をシーズンに小動物が触れ合えるらしいが、今は生憎と晩冬であり、子供の姿も関係者以外の立ち入りも許されていなかった。 「ここ、いいですね。」 きっと身分の差がなくなれば、ここは万人に開かれた広い場所で、誰でもエントランスの階段を昇れるようになるだろう。羨ましそうに見上げる貧しい服装の子供を、伊月はそこから凝視っと見て、ふと微笑んだ。 「寒いんで、場所変えましょうか。」 「ええ・・・。」 警察側からの申し入れに、支配人は少しだけ怯えた。前々からこの百貨店で子供が行方不明になる事象は増えていた。何度も役員会議を繰り返し、各店舗で注意喚起も忘れなかった。社長という肩書は伊達でも雇われでも無く、企業を纏めるその実力。 「前もってご連絡した通りです。」 レストハウスの奥には役員や客人接待用のこちらも豪華な部屋がある。放送開始されたオペラが流れたその部屋は、二人で向かい合って座れば、紅茶が用意された。 「こちらの、紅茶ラテ。あれ美味しいですよね。」 「用意、させますか・・・?」 「いいえ、普段は煮込みで自分で淹れてますから。」 「伊月の嫡男ともあろう方が・・・?」 「なんで皆さんそこで驚きますかね。」 その凛と美しい青年は、誠実なまなざしを総支配人に向けた。 「子供を隠させては、いませんね?」 断罪するような、厳しい眼で。 これまで着たことの無いような上等な服に戸惑った伊月太一は、花宮に手を引かれながらその百貨店に到着した。花宮は時折Asylに訪ねてくる、義兄の友人だと子供らは認識しており、割と本気の彼らの喧嘩も見ているが、昌美母さんに見事に宥められて逆に遊ばれる様子も見て来たので怖い事で無い。ただ、着なれない上等な服だけが。 「俊兄のふく、きゅうくつね。」 「ふはっ。それが言える辺り、お前も伊月の弟だな。」 貴族の嫡男かと思えば蚤市や的屋であっという間に店主と慣れ合ってしまう兄とよく似た感性は着実に育てられ、花宮はもう監視の目を外しても問題ないだろうと思っているが、半分ほど軍属に染められた上層部に食らいつくには骨が折れそうだ。 「お前にゃ、一人助けてほしい奴がいる。」 「たすける。」 「何の障害も無く言い切りやがって、クッソ腹立つ。」 「だれを助けたらいい?」 「昇降機の中の囚われの美青年、とでもゆってやるか。」 本当に、最初は今吉がふざけて名付けた名前だったが、なんだかしっくりきてしまったのでその暗号でずっと通しているが、百貨店に入ってしまえば暗号では無く綽名になるだろう。 「昇降機の中で、お前は何か約束をするだろう。そして果たす筈だ。」 「うん、約束したらまもれって、俊兄ゆってた。」 何と厳しい教え方をしているのだろう、あの男は。当たり前のことが当たり前に果たされるその難しさは、何故当り前は当たり前と言われるか、そこに繋がる。何故、どうして。最低限を教えたら、伊月はそのまま思考を子供に任せた。何故何坊やはある日突然外に遊びに出たり、図書室で本を読んだり、個性が出れば仮初とは言え母親にとっても僥倖だ。あの施設は伊月を育てるのに最も適した環境なのだろう。戦慄っと背に駆け上る高揚感を花宮は抑え込む。あの場所に生まれたばかりの赤ん坊を放り込み、二十年間観察して死ぬまでの記録を著けさせて仕舞いたい、純然たる好奇心ほど恐ろしいものは無く、その好奇心によって花宮の体の幾つかには既に欠損がある。二つある臓器をそれぞれ取り出したのみなので術後経過も芳しく、籠球も続ける体力はあるが、いつか本当に教本代わりにされてしまいそうだ、なんて蛇のように舌を出す。 昇降機の案内にいる青年は、伊月よりは少々小柄で、伊月が美青年と呼べるなら、彼は美少年然とした潤しさがある。 「ネクタイピンを探してんだ。なかなかこのタイに見合う色が無くてな。」 タイはいつもの緋色で無く、古代紫で、花宮は結びを弄った。 「ネクタイピンでございましたら一階、大階段東側に装飾店がございます。」 「ここに子供を預けて良いか。話は通っている筈だ。」 「ええ、ようございます。」 昇降機の青年はにこりと笑い、伊月太一を、こちらへ、と呼ぶ。昇降機は出入り口が檻になって、その無骨な檻から客人を護るように彫刻の入った硝子が張ってあり、彼の手で開閉は操作されている。 「まこさん、いってらっしゃい。」 「おー、迷惑かけんなよ。」 「知ってる。」 随分利発に育ったことだ、と内心花宮は舌を巻く。崩れた孤児院での悲劇をどれだけ覚えているかは不明。一時は失語症にまでなったが、伊月の教育の、また彼の作った養護施設での生活の賜物か。Asylでは多くの子供の纏め役にまで育ったらしい。客が乗り込むとキリキリと昇降機が動き出す。 「さて、タイピン探すかね。」 花宮の仕事は事実上ここまで。優雅に事務所の負担経理でそれなりのタイピンでも買わせて貰おう。 「少々言いにくい事なんですがね。」 伊月はそう前置いたが。 「奥様、浮気なさってますよ。」 総支配人の千代田は、お恥ずかしながら、と汗を拭った。伊月にとっては不本意な真実に辿りついてしまったのは、元々私立今吉探偵事務所は痴情の縺れに関する依頼を受けないのだが、今回は色々と変わってきたので仕方がない。 「さて、打ち合わせの時刻まで、少しお話しましょうか。」 「あ、あの・・・。」 「いえいえ。少々のほど、商売について、ひいてはここの運営なんか、ちょっとお聞きしたいな、と。」 才覚ないもので、と伊月は美しく苦笑した。 カシャン、と二階で扉が開いた。濃紺の背広の男は髪を撫でつけ、目つきの鋭い男であったが客人に変わりなく、乗機に頭を下げた。黒い帽子に黒い外套の客人は乗り込まず、昇降機の管理人、浦清水は首を傾げた。途端、黒い手袋を纏ったその手が、振りかぶられて振り下ろされた。浦清水に向かって。 「おい!」 他の客人は目の前で暴漢に襲われた青年に駆け寄り、その隙に。 「うわぁっ!」 少年は暴漢の手によって、攫われた。頬に見事な痣を作った青年はそれでも必死に扉に縋るように立ち上がり、まて、と声を荒げたが、顔面を強く打たれたことが足に来たのが、そのまま崩れてしまった。近くの店舗から見ていた従業員が駆け寄ってきて、数人が暴漢を追うが、狭い階段を走らされただけで終わってしまった。 「えっらい見事な手際や・・・。」 青年は機械の浮遊感で無いそれに目を眇め、客人に抱き上げられる手間を慌てて詫びた。肩を貸して貰って階段を挟んだ従業員休憩室をノックする。またか、と休憩中であろう従業員連中が駆け寄ってきて、髪を撫でつけた男が眼鏡を取り出し、髪をいつも通りにぼざぼさと乱したのに、目を丸くした。 「成り駒、っちゅーとこやね。」 独り言のようにその上客、今吉は呟いた。 レストハウスの上客貴賓室にウェイターが走り込んできた。伊月様、と慌てた声で呼び、駒が揃ったな、と伊月は考えた。これを、と手渡された文書には、《子供ハ預カッタ ソレ相応ノ金ヲ用意セヨ》と簡潔な一文を新聞の切り抜きから作ってあった。 「なんとまあ・・・。」 戦慄っと千代田はその美貌が怒りに燃え立つような印象に、背に悪寒を滑らせる。この青年は、年齢に似合わずの修羅場を随分と潜ったようである。切れ長に吊り上った眦に、形の良い眉が跳ね、眉間に皺が刻まれる。口元は引き攣ったような笑みを歪めており、それでもその造詣が何よりうつくしい。怒りとはこんなにも美しい感情であったか。 「子供の命が金で測れて堪るか。」 マフラーもインバネスも預けたまま、学生服で伊月は席を立つ。千代田が慌てたように走り寄ってくる。文面を流し読みしたのを確認したように脅迫文はその白い手に握り潰された。 「すいません、電話借ります。」 そのまま交換手に告げた番号は銀行で、伊月俊の名義で手帳を確認しながら、かなりの額の交渉を行った。 「今から取りに行きます。ここからだと・・・二十分ほどで。はい。本人が行きます。」 前もって自宅には許可を取ってあった成人するまで親の管理下にある貯蓄は無事に伊月の手に渡る。千代田には、では先ほどの事お任せください、とそれはとても、貼り付けたようであったが綺麗な微笑を魅せて、インバネスコートを着込んでマフラーを肩に、鞄を持って来賓室を出た。紅茶は冷え切ってしまった。 流石に金額が金額だけに、銀行でも来賓室に通されかけた伊月だったが、そこは札束を入れられた鞄を受け取るのみで、後日改めて伺います、とあしらって、また百貨店に戻ってきた。 「翔一さんっ!太一は!」 「まあまあワシの名前呼んでくれただけでも僥倖や。これ、さっき郵便箱に投げられてったって。」 「はい。」 《金ハ昇降機ノ男ニ渡セ》 「つまり、浦清水さんに引き渡し、受取、でいいんです?」 「ああ、間違いない。」 ストーブの入った従業員休憩室には頬の腫れに濡らした手拭いを当てている浦清水がいて、私服で見回りをしていた青峰も来ていた。警官だという身分は出していないようなので、今吉が言いくるめてしまったのだろう。 「花宮は?」 「まこっちゃんもあれで仕事人やから。月ちゃんが心配したってもおもろい事なーんもあらへんよ。」 「さいですか。浦清水君。」 ぐい、と目の前に差し出された黒い鞄は、札束が詰まったままだ。 「かなり嵩張るが、太一の為だ。暴漢にもう一度、立ち向かってくれる、な?」 猛禽の名を関する黒曜石色の瞳は強く、自分のきょうだいとこどもと言って憚らぬ子供の無事を、懇願するように、また、責めるようにも見えた。 「ええ、お客様を護れなかった、僕の責務です。責任を持って、お預かりします。」 浦清水は手拭いを、手当てに動いてくれていた女性従業員に返し、彼女は麗しい青年たちの決死の遣り取りに感動したように手を組んだ。 そのまま殴られた際に背中を打った彼に同情の余地はあるが、伊月は彼に同情もしないし情けをかけるつもりも無い。悪事は悪事であると、断罪しなければ伊月の伊月足る、月ちゃん、と甘やかされる存在足りえない。 「大丈夫や。月ちゃん、千代田の旦那と話は終わったか?」 「終わった、と思います。」 「煮え切らねーな。」 「一年間もこの悪事を解決できなかったお前ら警察に言われる筋合いはないね。」 部屋を出る際、擦れ違うように青峰に言ってやれば、ぐっ、とやり込められたことから喉を鳴らしたようだった。伊月は普段のように誠に正面を見据え、凛と背を正す。 「太一・・・。」 ごめんな、とちいさな声は、今吉が肩に埋めてくれた。 ぜいぜいと肩を上下させながら階段を昇っていく浦清水は、三階の、四階に繋がる筈だが設計ミスで四階へ繋がらなかった階段の踊り場に膝を突いた。 「エレベータボーイのおにいさん、大丈夫?」 子供の大きな瞳が心配そうに揺らぎ、きゅっと黒い背広の袖を掴む。伊月を見慣れているからこそ、彼からは華奢で弱い印象がある。だいじょうぶ、ともう一度繰り返した少年は今にも泣きそうで。 「大丈夫なわきゃねーよなぁ。」 カツン、と上等な革靴が階段を昇ってくる音がして、浦清水は振り返る。使用されない階段は埃臭くて、エレキテルの光も届いていない。赤く血のようにネクタイに飾られている宝石は、金額の桁が一つ違っており、ほぼ展示品の扱いだったが本当に買う人間がいたのか。 「まこさん、僕、これでこのひと自由にできた?」 「おう、流石伊月の弟だ。」 花宮様、と浦清水はまだ掠れる声で呼ぶ。 「ここ数日は、警察と見られる客が、ありました・・・大丈夫、でしょうか?」 「太一はお前を無事にエレベータから連れ出した。」 「そうだよ!おにいさん、今日から自由に、お買物も、お出かけも、出来るんだ!」 僕みたいに、と太一は目を輝かせ、その自由に羽ばたく兄の生き様に只管焦がれる。いつか自分もああやって、練習して籠球をやって、勉強して立派な学者になりたい、と夢想する少年は。 「そん中の一割はお前の取り分だ、との奥様からのお達しだ。まあ上手い事、あの猛禽と狐から逃げられたら、だけどな?」 ニィ、と花宮の口の端が吊り上る。ご愁傷様、とくちびるは声に出さず紡ぐ。 「宗助!逃げなさい!」 鋭い女の声で浦清水は顔を上げ、階下に拘束された女はモダンな洋服の、胸元が広く開いたワンピースに豊満な身体を捩った。褐色の腕に後ろ手に拘束された彼女は、浦清水が恋して焦がれた、共犯者。 「奥様っ!?」 「浦清水宗助。良い名前だ。」 ひゅっ、と風切音に浦清水は振り返ると身を捩った。背中に叩きこまれる筈だったのであろう、しなやかにスラックスの裾が揺れ、インバネスの裾が反動に翻る。だん、と強く踊り場を踏んだ脚と逆、反す刃のようにもう片脚が伸び上がり、踵が肩甲骨の間を叩く。かひゅっ、と掠れた息が気道を走って、そのまま浦清水の体は意識を飛ばした。 「俊兄!」 「太一、無事か!」 「なんで、なんでエレベータボーイのおにいさん、蹴ったの!!」 「・・・青峰、確保だ。」 弟から責めるような眼を向けられ、伊月は顔を背けた。伊月太一は一日中昇降機という名の檻の中に拘束される青年を助けた、という名目で誘拐される役目を花宮から渡された。いつもは金で雇う暴漢は、花宮が演じた。事の真相は伊月が前もって千代田支配人に説明しており、今吉はそれを客観視しつつ、警備の配置や千代田夫人の確保に青峰を使った。 「させ、ま、せん・・・っ!」 重い金音に、伊月は振り返って瞠目した。子供を腕の中に抱え、その細い首に銃口を突きつけ、浦清水は最後の抵抗を試みた。 「青峰!」 報せを受けて飛んできた諏佐が千代田夫人に手錠を掛け、青峰は階段を上がろうとして花宮に制された。踊り場に浦清水と伊月は対峙する形になっており、階段の中ほどに花宮と青峰が、焦れた。 「この子供を、殺されたく、なければ。」 鞄は口を開けて札束を吐いている。浦清水はそれを興味が無いとばかりに見向きもせず、ただ伊月を睨む。子供は何が起こっているのか解らず、ただ対峙する形の伊月が酷く苦しそうな顔をしたのに、声を上げずに泣き出した。 「しゅん、にい・・・っ!」 「泣くな。」 厳しく優しい声が、苦しそうに微笑する兄から発される。 「大丈夫、お前に怪我をさせるような真似はしないさ。太一。そこで眼を閉じて、じっとしときな?」 いつもの言い聞かせるような、悪戯すればなぜそうしたか、諭すようないつもの声。 「うん。」 「いいこ。さて、浦清水君、少し話をしようか。」 「なんだよ。」 「伊月さん、確保するか。」 青峰の声に伊月は手のひらだけ述べた。手錠を投げてやったら振り返りもせず受け取った。 「君が、君たちが攫った子供はどこにいる?」 「・・・奥様に。」 「諏佐さん、頼みました。」 「ああ。」 次に。 「受け取った金は、どうしている?」 「生憎、金の使い方を、僕は知らなくてね。」 「何故、子供を攫うような真似をした?」 「奥様がこの金儲けを考えなさったから。」 「ほんまですか、千代田夫人。」 今吉の問いに彼女は、そんなにここの経営は明るくないわ、と自嘲気味に述べ、後ろにいた夫を振り返りもしなかった。経営にしか興味の無い夫と、若く麗しい青年を、彼女は天秤に掛けた上、金銭の工面に利用した。 「お前は傀儡だった訳か?自分の倫理はどうした。」 「あんた、言うんだね・・・。」 浦清水は泣くように笑う。銃口は伊月に向かってゆっくりと腕が伸ばされる。ここで伊月は嘆息した。 「月ちゃん。」 「解ってますって、翔一さんちょっと黙って。」 子供が傷つけられて許せないように、今吉だって伊月が目の前で撃たれるのは勘弁したいのだ。 「僕はね、昇降機の中で生まれたんだ。」 「お母様、頑張ったね・・・。」 「僕に母親はいないよ。震災で死んだ。」 戦慄っとするような恍惚の笑みで浦清水は言い切った。指は既に引き金にあって、どう動くのが最善か、爪先の位置ですら気を使っている伊月とは大違いだ。 「僕の初めの記憶はね、昇降機の中から助け出された記憶なんだよ。倫理なんてどこで学ぶの?」 「倫理や道徳は生きるうちに学ぶものだ。」 「じゃぁさぁ!僕は生きても来なかったっていうの!?」 「まあ、そうなるな。毎日を無為に昇降機の中で命じられるまま働き、命じられるままに愛し、自分を自然に生きて来なければ、必然的に。」 規則の中でめいっぱい自由に生きて規律を学び、世界を学び、そこには教科書なんかなくたっていい。自然に自由のまま生きて、他人と触れあい、こころに道徳を刻んで生きる。 「高尚なもんゆってんじゃないよ、俺は。自分で立って生きる。それだけでいい。親がいないのは、そうか、それは苦労した境遇だった。でもな、やっていい事と悪い事、てのが!世の中にはあんだよ!子供を金の取引に使う?ふざけんな!大人ならいいってもんでもねーけどな!お前ら二人は俺の、最高にいい見本で悪いお手本だった!閉じられた世界で一人で生きるのも良いよ、愛や恋に人生奉げようと良いよ。ただそれに、他人巻き込んで悲しませてんじゃ、ねーよ!ばか!!」 流石に肺活量の限度があったらしい。最後は子供のような罵倒になってしまって、ぽかんと目を丸くした浦清水の眼前、褐色の肌に纏われた警官服。 パン、と乾いた火薬の音に、血飛沫が舞う。 「ぁう、あ、あ・・・!」 踊り場に広がった血溜りに浦清水が呻く。拳銃を取り上げて階下に放った青峰は、肩に貫通して壁に減り込んだ弾丸を確認すると膝を折った。 「青峰っ!?」 「わりっ、今しかねーと、おもっ、た。」 「ひ、ひきがね、ひくつもり、な、なんてなっ・・・!」 「解った、落ち着け。花宮、太一預かって。青峰、そこ座って。貫通してるから傷だけここで縫っちゃうからっ!」 マフラーを解いてインバネスを脱ぎ、その場に医療器具が広がる。諏佐が今吉に緑間総合への連絡を頼み、野次馬を花宮が追い払う。千代田夫人は車に連れられた。夫と話す時間は必要だが、それは彼女が拘留される限りいつでも出来る。 「傷触るよ。」 「うぎっ。」 「我慢っ!」 大動脈は近いが傷つけておらず、伊月はその場で応急的に傷を縫い、布を幾重にも重ねて、それはもうタオルや手拭いを扱う店舗からそのまま買い取り、圧迫の要領が整うと強く晒を縛る。 「早いとこ病院行って。桃井さんや黒子に叱られるの俺嫌。」 「そりゃ、どうもっ。」 青峰の強い事、そのままふらふらと手摺に頼ったが降りてしまって、諏佐に叱られ昇降機に乗せられた。 「お前もだよ、浦清水君。」 「・・・あ。」 「あのねぇ、自覚してる?君は、色んな子供の将来の可能性を奪う手伝いをしたんだよ?」 血溜りから荷物を取り上げ、紙幣に染み込んだ血液に呻いた伊月は踊り場から降りながらインバネスを羽織ってマフラーを巻き直す。 「俊兄・・・。」 「よく頑張ったな、太一。浦清水君はお前の手際できちんと昇降機の檻から出ることは出来た。」 でもな、と子供と視線を合わすように伊月はその場に膝を突く。 「浦清水君は、今までで最低三人の子供たちを、攫って、どこかへ売り払う手伝いをしてたんだ。正直、太一を使ったのは悪かったと思ってる。ほんとに、怖い目に遭わせて、ごめんな。」 「俊兄、しょういちたんていさんの、お手伝い、なんでしょ?」 「ああ、それは、そうだけど・・・?」 「俊兄が、やらなきゃって、おもったんなら、僕はそれのお手伝い、たくさんしたい!」 自分が出来る事なら、なんだって、したい。他人の役に立てるなら、たとえ子供の体であろうと、立派に役目を全うして見せる。 「これからも、よろしくな、太一。」 「っうん!」 抱き着いて来た子供の小さな体を伊月は抱き締め、ありがとう、と強く想った。こんなにも愛されて誇らしい。 「月ちゃん、諏佐が話聞きたいゆーから。」 「あ、はい。太一もですよね、やっぱり・・・。」 「太一が証言してくんなきゃ、俺がただの悪役なんだが。」 「まこさんあくやくなの、いつもでしょ?」 「言いやがったなこの餓鬼!」 「しょういちたんていさん、俊兄こきつかったらだめよ?」 「肝に銘じるわ。」 伊月に抱き上げられて、花宮と負けずに口喧嘩を繰り広げて今吉に釘を刺した子供は、これから将来が楽しみだ。 「自分で、駄目って思ったらそれは自分にとって悪い事だと、俺は思う。」 面会許可の下りた浦清水に、伊月は静かに語る。俯いて返事もしない相手だが、何も話さないよりもマシだと思った。 「自由な生き様が、自然であると俺は思うんだ。浦清水君にとっては、自然というのが何だったのか、そこからきっと誤解しちゃったのかもね。」 伊月はこれまで、自由に生きて来たと思う。自分が由しと思う事を、規律規則に反しない場所で、境界線で、道を踏み外さぬように、それでも自然に生きてきた。 「着物も生き物、キタコレ。」 「はっ!?」 「あ、なんか痩せた?痩せたセーター!またキタコレ。やっべ今日絶好調な校長先生・・・っ!」 「何それ伊月さん、駄洒落?」 くすくすと、年相応に笑った青年は、やつれてはいたが随分と麗しく、大きな目に長い睫毛を瞬かせ、頬を持ち上げてくすくすと、気品漂う仕草で笑う。それなりの家の生まれではないだろうか、と花宮は調べを進めている。人間物心ついたころの前後の記憶というのは消えないもので、一番に人生において影響するのもその時期だと伊月は論文で読んでいる。そういえば伊月俊が物心ついた時、一番古い記憶は、駄洒落が絶好調な母親とそれを拙く真似る姉と、微笑ましそうに見守る父親と自分の、四人の画面で出来ている。確かに今では駄洒落も伊月俊のライフワークであるし、二十歳の近くなった今でもあの居間での団欒は欠かせないものになっている。 「駄洒落。面白い?ネタ帳あるよ、見る?」 「なにそれ見たい!」 仲間には下らないと一蹴されるネタ帳を、浦清水は酷く楽しそうに見た。 「暇があったら浦清水君も考えてみてよ。枯渇かっこ悪い。」 「「キタコレ!」」 まるで刑事事件の被疑者とその確保に当たった人間とは思えない暖かい遣り取りが、その日の面会室にはあった。 「伊月さん、全部全部、本当の話を、聞いてくれる?」 ネタ帳を返しながら、浦清水は怯える小動物のように伊月を見やる。 「いいよ。弁護士にも言えない事だって、個々の待遇の悪さの愚痴とか、何でも俺は聞く。」 まあ、だからってゆって改善させる権限は無いんだけども、と伊月は苦笑したが。それでも、と浦清水は縋るようだった。 彼の人生は昇降機の中から始まった。生まれた家も母親も解らぬゆえ、孤児で徒党を組んで、雨風をしのげる場所を拠点に、小銭一枚のために靴磨きから盗みまで、なんでもやった。そこで千代田夫人に見目で拾われた。千代田家には跡継ぎと成れる男児がいない。正確にはいたのだが、生後一年足らずで死んでしまい、夫人も震災の折りに怪我で子供を産めなくなってしまっている。そこから数年、まるで死んだ我が子にも出会った心地であったのだろう夫人は、浦清水を懐に入れて可愛がった。母親のように、また恋人のように。昇降機の案内人を任ぜられ、千代田はひとを纏める手腕はあったが金を工面する手腕は少々心許無かったので、夫人と浦清水は共謀して金の工面に子供の身代金を使ったのだ。 そこで売られた子供は成金の四男五男であって、そちらは千代田の家の使用人の家で働いているという。被害者のいない事件なのかもしれないな、と伊月は思った。使用人の家に待遇の差はあるかもしれないが、成金の使えない息子という白い目からは逃れることが出来るのだ。 子供は存外にして大人の事を見ている。今回、伊月は戸籍上の義弟の存在でそれを尚顕著に感じた。 伊月だって何か事あるごとに今吉を見てきた、今吉の背中から学んできた自覚はあるが、末恐ろしい。 「大人って、一人の人って書くじゃない?」 「あ、うん。」 文盲であったが千代田家の教育で多少の読み書きは出来るらしい浦清水は、伊月の独り言のような声に頷いた。 「子供から見たら、俺の年齢って大人なんだよな。」 「伊月さん、もう大人でしょう?」 「いやいや、人生甘くないって。研究室には年嵩の教授ばっかりで、論文は再提出の嵐だし。なんでかってと、論文の書き方が成ってない、なんだよね。当然子供な訳。余所に挨拶に行っても、肩書で許されることは勿論ある。でもそれだと、大人じゃない。一人の人って呼べないから。」 「一人の・・・ひと。」 「うん、自立、と言い換えてもいいかな。凭れかかって頼って生きることを、止めた存在というのかなぁ。」 しかしそこには逆説的な酷く切ない意味がある事に、伊月は気付いているのだろうか。 誰かに凭れかかって生きる事。頼って生きる事。それは子供の特権である。大人で無いひとの特権である。 しかしながら、人間という生き物は世界とは無関係で生きられず、一人でも生きていけるが独りでは生きていけない生き物である。広い広い世界の中で、世界の片隅で、蹲って独りきりで生きる人間がいるというのなら、是非お目にかかってみたいものである。 「でもなぁ、月ちゃん。」 今吉は伊月にそう語る日が来る。 「ワシは大人でも、一人で生きて来たんと違うんよ。」 伊月は、言葉を返すことが出来なかったのを、彼は覚えている。 今吉探偵事務所、明日も通常通り運営しております。 所長の男前が上がりましたので、是非とも見に来てやってください。 |
初出:2014年2月11日 19:31
次回前後篇で完結です。これまでのご愛顧忘れません。本当にありがとうございました。
完結してもbotちゃんは残しておきますので、構ってやってください。暇があるときは中の人がいたりもしますのでw
***
浦清水の今後は実は決めてあったんですが、この頃はスピード重視だったんで、もうしゃーないこともあるでーと。
また次の機会があったら彼にも何か孝行させたいな、と。
20140421masai