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強くならねばと、強く想う。
あらゆる手段を用いて勝てと。 だから、手段として欲しかったと、告白すればきっと、仕方がないな、なんて呆れられてしまうのだろう。 優しくも強いその在り方を、彼はこの上なく好ましいと、その感情の種類に彼は気付くには、随分と遅くになってからだ。 やはり、呆れたように笑うのだろうね、あなたは。 今吉探偵と伊月助手と夢に見た夢。後編。 二階に上がっての伊月の行動は、廊下に立たされた警官との情報交換から始まった。案内を買って出てくれたのは岡村健一だ。大きな体躯に強面ではあるが、気遣いの出来る籠球部元主将は、警官から受け取れた情報を元に動く伊月の疑問にも的確に返答をくれた。 「劉、入るぞ。」 「どうしたネ、モアラと・・・伊月?」 「よっす。二週間前?劉の部屋は紫原の手拭いが落ちてた、って。」 黒革の手帳と見比べながら、随分と高い位置の頭を見上げれば、ふぅむ、と顎を摘まんで劉偉は頷く。 「まあ、入るヨロシ。」 「ありがと。」 部屋は二つの寝台と机と、それぞれの私物が適度に片付いている。 「基本、二人部屋じゃな。」 「我の相部屋は明日の始業式まで実家アル。」 「紫原に関して、聞いても?」 「手拭いは確かに落ちてたネ。部活で使うから知ってるアルよ。」 この辺りに、と劉が示した部屋を入ってすぐの机の足元に手拭いは落ちていたらしい。鍵がかかる事は確認済みだ。強いて言うなら紫原は一月ほど前に自室の鍵を壊したらしいが。 「でも、アツシが入れば我も解るアルヨ?」 「だよね。」 「あと、相部屋の奴が寝る前は絶対に鍵を確かめるアル。」 「それは習慣?」 「モアラはどうアルか。」 「儂は盗まれるものは特に無いからな、遠出遠征の時くらいじゃ、施錠するのは。」 「我もそうネ。時々神経質な奴いるアルヨ。」 劉は嘆息気味に述べ、自分はそこまで気にしない、ここは治安がいい、とも語る。 「朝になって鍵は開いてた?」 「警察に話した通りアルよ。」 「うん。で、もう一つ。紫原の仕業だと思う?」 「思わん。」 「思わないネ。」 これは綺麗に揃った返答が頭上から降ってきて、伊月は満足気に笑う。 「はい、ありがとうございますっ。紫原を励まそうって籠球やってるから、良かったら行ってやってよ、劉。岡村さんもお時間あれば。俺も後で合流します。」 そうか、と岡村と劉の大きな手で二人して頭を撫でられると聊か伊月が子供に見える身長差だ。伊月だって平均に比べれば高い筈だが。握手を交わして二人が目を丸くしたのに、口の端を綺麗に吊り上げて黒曜石色の瞳が好戦的に晃った。随分と美麗な笑みに、岡村はにやりと笑い、劉は空いているその手で胸に手を当て頷いた。 「あ、寮監の部屋って言うのは。」 「ああ、この向こうの談話室を抜けた直ぐじゃ。」 それでは、と一度頭を下げて、伊月は部屋を出た。施錠する習慣を持つ寮生は聞いたところ三割程度。寮の消灯時間は二十二時。談話室にはラジオがあって円卓と椅子、新聞や娯楽本が棚には置かれて、ここに菓子塵がよく落ちていた、との証言もある。しかし皆で共有している場所なので、それくらいは許容だそうだ。 「こんにちは。」 ノックを二回すれば、中年の男が疲れた顔で扉を開けた。 「警察さんじゃないね。」 「ないです。」 にこりと柔らかく笑った青年は、陽泉のものでない制服を着ているのに、男は不審そうに凝視ろと上品な革靴の足元まで見て眉を寄せた。用心深い性質であるのか扉は半分しか開けてくれないが、鷲の目にはそれでも十分だった。 「寮監の方ですね?」 「ああ。」 「お疲れの御様子で。」 「誰だ、その制服は・・・。」 寮監の男の腰に下がった鍵束を視界に収めると、さて、と伊月は息を吐く。これで半分確定。 「寮内で起こった盗難事件について。」 「・・・ああ、紫原さんか。」 「深夜に廊下を歩き回っているのを見たと言うので。」 「ああ、見たよ。」 そうだな、と寮監はもう少し悩んで。 「最初は廊下で見かけた。一月前だ。階段でも見たね。」 「それは結構明確に覚えてらっしゃる?」 「徐々に、不審だと思ったのでね。」 ここまで、警察の調べとの齟齬は無い。手帳から目を放し、真っ直ぐに見やれば、男は視線を逸らす。 「階段・・・どこで見たのか、教えて下さい。」 「ああ。」 扉の鍵を厳重に確かめた寮監は、伊月の先に立って階段に向かう。途中で擦れ違う寮生の様子も伊月は見渡しながら、磨かれた手摺に手を掛ける。 「そこに立っていた。あの子は空を見ていたね。」 「そこに。」 復唱するような伊月の声に寮監は頷くと、この辺りだな、と階段を下りて立ち止まった。踊り場には広い窓があり、窓の外には銀杏の木が青く茂っている。秋は見物だろうなぁ、なんて伊月は考え、寮監が振り返ったのに、戦慄も容易い冷笑を浮かべた。 「あなたは毎晩、消灯後に二階を見て回る。一階は寮母が見回った後に施錠する。」 「そうだ。」 「ここで紫原を見た日、明確に覚えてらっしゃいます?」 「三日前だ。」 「それはおかしい。」 「何だと。」 とん、と一段、伊月は階段を下りる。 「三日前、消灯後にあなたはここで紫原を見た。」 「見たが。」 「ランプでもお持ちでした?桜を散らした酷い雨の日でしたね。」 言葉を失う気配に、ちいさく伊月は笑ってしまった。 「まあいいでしょう。紫原はここに立っていた。本当に?」 「何が言いたい。」 急に鋭くなった眼光に怯まず、ひとつひとつ、踏みしめながら伊月は降りてくる。 「一階は寮母が見回り、二階は寮監であるあなたが見て回る。実に巧妙だ。この位置は。」 寮監の隣に伊月は立った。 「一階を見て回るだけでは、この位置は見えない。あなたしか、ここに立っている紫原を見ない。」 男の身長は平均だ。伊月よりも少しだけ低い。 「だから、一つミスをしてますね。」 春の突風が窓の外を流れていく。どこからか漂った桜の花びらが四角く切り取られた空に横切って行った。 「何の話だ!あの子はここにいた。ここでこうやって立って窓から雨の空を見ていたのを、俺は見た!」 「聞いたかー?紫原―。」 急に声音の変わった伊月に、寮監は何とも間抜けな声が出る。 「・・・聞いた、けど、なに、月ちん・・・?」 「まあいいから、上がっておいで。」 ここまでね、と自分が立っている場所に紫原を導けば、その体躯から見下ろされる迫力に寮監は息を呑む。 「さて、言い訳でも聞きますか。」 階段に立っているところを寮監は見たという。ランプの無い雨の消灯された夜中に、階段の中腹で。 「紫原、窓の外には何がある?」 「銀杏の木。」 「寮監さん、窓の外は空だって言いましたね。紫原の身長だと、この位置からは空は見えないんですよ。岡村さん、劉、ありがとうございます。赤司、青峰呼んで。このひとの部屋、一回捜索してもらって。」 先程握手の際に渡した手帳の切れ端には紫原を呼んできてくれと託けてあった。胴着と結び切り袴で体育館から帰ってきた紫原は、首を傾げて不安そうに伊月を見下ろす。 「大輝、寮監の部屋だ。敦、続きをしようか?」 「俺も混ざるよ。」 「青峰、このひと寮監さん。」 がたがたと震えだした寮監はそのまま階段に腰を抜かして座り込み、警官に抱えられて立ち上がらされると、そのまま部屋に連れて行かれた。 「さて、どないなったか聞かせてもらおかー。」 「めんどくさいですね。」 体育館には青峰も事の次第を聞くためにやって来た。頭上高くに釣り下がる籠に、強く穿たれたボールが床を震わせる。 「まあ、紫原には話さなきゃね。」 インバネスと学生服を脱いで、適当にボールを指先に回したり跳ねたりと遊びながら、伊月はそれを氷室の合図でパスに出す。手首を捏ねながら青峰も見ているので話が終われば仕事を終わらせて混ざりたいのだろう。 「廊下で何をしてたんだって寮監に言われたのが夢遊病の再発だって思ったんだね?」 「うん。違うの?」 「違うよ。紫原は夢遊病、多分もう治ってるし。」 「あ?どういう事だ?」 耐え切れなくなってボールを玩んでいる不良警官には苦笑させられてしまった。 「寮監の仕業。全部ね。夢遊病ってのは自覚症状が無いから厄介なんだ。記憶が無いからね。寮監が言ったのは全部嘘だよ。」 「・・・うそ?」 「そっ。」 とぉんと高くに放って手の中にもう一度、床をボールが穿つ。 「まず、紫原の部屋の鍵を壊した。」 「力入れたらばきってなったしー。」 「そ。力入れたら鍵が壊れるように細工してあった。青峰が詳しく調べてくれるでしょ。」 「峰ちん。」 わぁった、と青峰がボールを紫原に放る。任せとけ、と。 「んで、紫原が廊下にいたとか階段にいたとか、お前が寝たのを見計らって時間を仕組んで証言するわけね。」 「じゃから階段での目撃証言に穴があったんか。」 「そうなりますね。ヒトは自分の主観でしか物事を見れませんし、特に上下認識は難しいとされてます。」 下から上は見えますが、上から下を見るのは難しいでしょう、と斜めのダックインで岡村を交わせば、長身が立ちはだかる。 「ヘルプはっやぁ・・・。」 「月ちゃん。」 「翔一さんっ!」 そのまま今吉が赤司と対峙すれば、氷室にボールが渡って素晴らしく美しいフォームでシュートが決まった。 「おい、説明止まったぞ。」 「え、これでもう解るでしょー?」 スローインを劉から受け取って、ペネトレイトは赤司が防ぎに来たので、ぎゃっ、と思わず呻いた。失礼な、と赤司は笑った。 「寮監だから寮生の部屋の鍵も持ってる。それ使って、紫原の私物を持ち出したり、逆に何かを持ち出させたり、したように見せかけてっ、氷室!」 「nice!」 簡単なフェイクで抜かれるなら、本当のフォームにノールックでバックパス。流石にそこまで赤司の腕は届かない。スリーポイントが鮮やかに決まる。 「だからー、うん、これは調べないとどうにもわかんないけど、紫原でも誰でも、夢遊病の気配があったらそれでよかったんだよ。キセキは籠球世界では有名だし、紫原は紫原財閥の嫡男だろう。」 「つまりは、僻みもあった、と?」 「かもね、って話。青峰、把握出来た?」 「ああ、聴取進みそうだ。今吉サン、1on1。」 「仕事せぇや。・・・まあええか、やったろやん。」 駄駄を捏ねられても叶わないので、と今吉は服の一式を借りた格好で今吉と対峙する。ハーフコートで行うようだが、額にはじんわりと汗が浮いた伊月は壁際に一度引き上げた。その隣に紫原は腰を下ろし、彼を挟んで赤司が立つ。水筒のコルクを抜いて水分補給。 「ねー月ちんー。結局、俺は夢遊病違うかったんー?」 「うーん、違うかったんじゃない?緑間にも相談しておいで、心配なら。」 「そうだね、真太郎も心配しているだろうし。」 「んー、今度会いに行ってくるー。」 あれっ、体育館開いてる、との声で入り口を見やれば、福井が顔を出した。春期休暇返上で経営学論の書籍を読み漁っているのか、鞄が膨れ上がっている。福ちん先輩、と紫原は長い腕を振り回す。なんで呼んでくんねぇの、と岡村を詰って、着替えてくる、と立ち去った。 「さて、これで勝負は付いたかな、赤司?」 「負けですか。」 「赤司の負けっていつ見たっけ。最後。」 「三年前に将棋で一度。」 「ああ、そうだっけ。」 お疲れさん、と青峰が手を振って体育館を出ていけば、伊月の肩に今吉がぐったりと寄りかかった。 「うっわ、汗だくじゃないっすか!?翔一さん生きてます?」 慌てて水を用意してやれば、水筒ごと奪われた。空になったそれを突き返し、今吉は再びぐったりと、今度は床に倒れ込んだ。 「大丈夫ですか。」 「床がひやっこい・・・。」 「然様ですかぁ。」 汗の滴る髪に顔に手拭いを被せてやれば、死体の一丁出来上がり、とばかりに伊月は笑った。死ぬ!と汗で手拭いが下りて鼻腔や口を塞ぎ、今吉は悲鳴を上げると飛び起きて、乱雑に汗を拭うとまた倒れ込む。 「若くないんですから。」 「うっさいでー、月ちゃーん。」 「・・・楽しそうですね。」 「楽しいから。」 憮然と呟いた赤司に、伊月はそう語る。 「しんどい事も、あったよ。苦しかったし悔しかったし、少し怖かった。」 「だから僕の所に来ればいいのに。」 「お前ね。」 「僕のほうが、そこの腹黒眼鏡よりも俊さんを幸せにしてやれる。」 だんっ、と床を打つ音に二人が注視すれば。 「何勝手に月ちゃんの名前呼んでんねん・・・!」 なんて恨みがましく唸られた。話の腰折らないで下さい、と伊月は容赦なく切り捨てた。 「倖せにしてもらうのは性質じゃないからな、俺。」 「倖せになら無いつもりですか。」 「ならなくてもいいかなとは思うよ。」 言ったでしょ、と。 「今が最良。最高では無いけどね。自分を磨いて鍛えて、幸せにはなんなくっていいから、幸せにはなって欲しい。」 「それ、自己欺瞞って言いませんか。」 「自己犠牲とか自分勝手とも言うね。」 福井が走って戻ってきて、お前らも混ざれ、なんてほざくので赤司も伊月もコートに入る。スラックスとシャツ姿だが、まあ動けない事は無い。 「ポイントガード余るネ。」 「ああ、では僕はスモールフォワード行きますよ。氷室さんとマッチアップですね。」 「よし、遠慮なく。」 「え、俺こっちの司令塔やるんです?え?」 身長差の目立つチームは3on3でティップオフ。今吉はゆっくりと回復してきてぼんやりと、駆け回る若人を眩しく見やる。 伊月の感情論とは実に複雑であって単純明快に出来ている。 自分の事は自分で。そして貸せる手は幾らでも貸す。どんなに手を伸ばしても届かないであろう距離を、精一杯手を伸ばして、辛そうにも見せないで笑う。 「月ちゃーん、頑張れー。」 「翔一さんうざいっ!」 間延びされた応援されてもチカラ抜ける、なんて聊か辛辣ではあるが、その広い視野の中心は、誰なのだろう。 夕霞が柔らかく漂う路面電車駅まで見送りに来てくれた陽泉勢には、また、と挨拶は欠かさず、うっかり遊び過ぎて座席で眠りこけた伊月の頭を今吉は肩に置いてやり、汗も引いた髪を撫ぜた。指通りは相変わらずさらさらとうつくしい。 「本当に、今吉翔一なんかのどこがいいんでしょうね。」 「赤司、お前ちょっと八つ橋覚え。」 必要なときは包んでますよ、と赤司は遠慮なく言い放つ。 「賭けますか、伊月俊の幸せ。」 「それ、賭けにならん。」 「どちらの意味で、ですか。」 真紅の瞳と夕日を受けて黄金に輝く瞳に宿るのは、聊か物騒な印象だった。どないしょ、なんて今更になって今吉は考える。 「そら、爵位もろて嫁さんもろて、お国のために働いて、孫の顔曾孫の顔楽しみに生きるんが普通なんやろけど。」 「そうですね。平民であっても結婚して国に尽くして子供の顔を見る。至極全うで幸福な人生です。」 「でも、月ちゃん普通ちゃうし。」 「それを今吉さんが言いますか。」 明日から、大概の学業施設は本格的に始動する。新しい環境に新しい門戸、ひとぶれも変わる。しかし不変もあるだろう。 「今吉さんは、どうしてこの職業に。」 「探偵さんか?」 「そうですね。かなり良い椅子であったと聞いていますが。」 赤司の持つ情報がどこまでか、それは今吉には解らないし、知ろうともしないし、間違っていても正そうともしてやらないのは今吉翔一と言う男の唯一の正直だろう。月ちゃんには内緒な、と彼は言い置いた。 「要らんなったん。・・・なーんも。」 「何も。」 せやねぇ、と電車の揺れに順ずるように伊月の頭がずり落ちていくのを支え直す。 「若い子にはあんま話したないけど、まあ、赤司やったらええか。」 へらりと、実に気軽に今吉は笑い、赤司は毒気を抜かれたが、まあいいか、とその話に応じた。彼はこの話を、酷く後悔することになると、きっとここで気付いていた。 桜咲く新校舎に新入生が真新しい制服で入学してきた様子に、伊月は新しい教室の窓から見下ろす。風紀の腕章は在校生を指導するのに使われる。先輩がそんな調子だと後輩に示しがつかないと、そんな意味で校舎を巡回しつつ、最後に入学式が済んだ直後の体育館に顔を出す。今日は自主練だけで終わる予定の部活動だが、新しく設えられた籠球のゴールが従来の、籠を吊る形では無く、亜米利加で使われる、バックボードにリングとネットで作られたそれに代わった。何でも亜米利加在住である火神の父親から発案があって、色んな経緯を経て、日本の籠球世界に貢献したとか何だとか、まあ貰えるものなら、と学校側が寄付されるそのままを頂いてしまったらしい。 「ま、思惑はこの際どうでもいっか。」 裏で何があって現状があるのだとか、考えるのは飽きた。 「あ、あのっ!」 「はい?」 風紀の腕章を着けたまま倉庫に不法侵入も拙いだろうと、うずうずする手元を組み合わせて手首を捏ねていると、背後から畏まった声音が掛かった。 「い、医学部予科の、伊月先輩、ですかっ!」 「新入生かな。伊月俊を探しているなら、俺が本人だよ。」 見た顔は忘れない。これは特技であって、決意だ。伊月は今を忘れない。過去と今と未来で何が完成するか、楽しみではないか。 「籠球部に入部希望?」 どこにでもいそうな、少し身長の高い、頬のラインに未だ幼さの残る彼は、耀くように笑う。 「はっ、はい!」 部内身長ヒエラルキーが、と伊月は項垂れる暇も無い。 「初心者大歓迎。しっかり指導、練習、それから勉学。頑張れよ?」 がんばります、とその声は熱と活力で満ちている。 「だから。」 そうして低まった声は、足音も無く無防備な背後に忍び寄る。 「死んで下さい。」 肉に刃物が埋まる感触は、思いの外滑らかで、癖になりそうなほど、冗談みたいに心地がいいのに。 「なら、もう少し鍛えてから来いよ。」 後ろ手に、しかも指先に摘ままれているだけの、刃物はそこから刺すことも引くことも出来ない。その痩躯はどれだけ鍛えられているのか。 「さて、残念なお知らせだ。新入生の顔は入学式前に全部覚えちゃってんだよね。お前の名前と所属とそれから・・・。」 少年の息を呑む声に、戦慄っとするほどうつくしい微笑が好戦的に笑う。 「死に方を選ばせよう?」 刃物を弾けば伊月はその体を反転させ、少年の肩を掴むとそのまま鳩尾を蹴り込み、倒れた体を見下ろす視線は酷く冷たく、殺意すらないその眼に少年は嘔吐しながら、背中を冷たい汗が噴き出すのに振り返った。 「体育館、汚さないで欲しいんだけど。」 「いや、今のはやりすぎじゃぁないか?」 体育館の入り口に凭れかかる古橋は、どこで調達したのか考えるのも馬鹿らしい、誠凛大学のインバネスを学生服を着込んでいる。風紀が見やるに校則違反は特に無い。生徒で無い事を除けば、だが。 「正当防衛だと思う。今の。」 古橋はそのまま少年を拘束し、担ぎ上げて体育館を出る。 「あまり目立たないでくれよ、侯爵サマ。」 光を宿していない目は相変わらず、平坦な口調も相変わらずだが、面倒事が増えた、とでも言うように眉が僅かに顰められている。 「ま、頑張ってね、公安さん。」 「嫌味にしか聞こえない。」 その昼に伊月が出勤して、ほえー、と何とも殴りたい声を上げたのは今吉だった。知ってるくせに、とは伊月は言わずに紅茶と一緒に喉から流した。 「結局爵位もろうたん。」 「条件付きで、ですよ。賜り式は内密に、俺が返上したい時に返上してもいいなら、誰にも、家族にも仲間にも知られずに、伊月俊は侯爵の冠を戴く。」 「いつから?」 「今日からですね。」 そのまま紅茶を飲み、紫原が先ほど持って来てくれたマフィンを片付けた。そしてカトラリーを整頓して、サボり症の所長が残してある雑務に今日も頭を悩ませる日常は、伊月にとっては相変わらずだ。 「そのお蔭でこっちの仕事は増えたが。」 上層部をせっついている花宮の代わりに居るのは瀬戸だ。あちらこちらから入る情報を処理して、書類を積み上げて今吉に渡す。 「いやー、俺も困ってんだ。頑張れ裏方。しかしまあ、これで俺も少しはいのちが延びた訳だ。」 「は?」 「さて、珈琲と紅茶、どちらがいいです?」 未だに今吉の手元には珈琲は残っているし、瀬戸は紅茶を先ほど眠気覚ましに飲んだ。 「じゃ、俺、明日の朝練あるんで、帰ります。」 「え・・・。」 時刻としては、いつも帰宅する時間より随分と早い。伊月がすっと視線を滑らせたのは、事務室の扉のそのまた向こうに向かってだ。 「月ちゃん?」 「じゃ、翔一さん、また明日。カステラの日限近いんで出しちゃっていいですよ。」 誰に、とは言わず、そうしていつもより早い時間にいつも通りに飄々と、トラップを踏む事無くエントランスを出た伊月の背筋はいつも通り、綺麗に凛と前を向いている。 「いつから知っててん。」 がたがたっと事務室の掃除用具入れが大きく揺れた音に、今吉は嘆息し、さてと彼も立ち上がる。 「ほな瀬戸、戸締り頼むわ。」 「あ、翔一さんそれ頂き。」 エントランスを出れば、階段の下に伊月は待っていて、おやと今吉の目が見開かれたのに、随分と楽しそうに笑った。 路面電車の停留所への道のり、石畳を規則正しい足音で革靴と下駄がのんびりと歩く。 「翔一さん、今夜泊まってっていい?」 「朝練あんちゃうん?」 「明日は勧誘会なんで、練習無いんですよ。」 ね、と片方の瞼を下して、ないしょのおはなし、と人差し指を添えた桜色のくちびるが動く様子は随分と艶めかしい。今吉は中折れ帽ごとぐしゃぐしゃと頭を掻いて、その口元にあった手を取って、握る。震えているのには気づかない事にした。 「暫く帰したらへん。」 「あ、晩飯何にします?何か食べたいものあります?」 「鶏肉。」 「唐揚げとーお味噌汁とー。」 「月ちゃんの晩飯ー。」 「あ、米あります?結構減ってた気が。」 「そろそろ米櫃底見えてきたんよ。」 「じゃあ買って帰りましょう。」 路面電車で吊革を玩びながらの夕飯の算段なんて、所帯臭いにも程があるが、楽しいので良し。 「いまよしおじちゃん帰ってきたー!」 「月ちゃんこんばんはー!」 「こんばんは。」 「月ちゃん、水飴食べる?」 「奢りなら食います。」 「晩飯作って貰うし買うたろか・・・。」 「つきちゃんのごはん!?」 「余分に買ってきたから、何だったら食べにおいで。」 「月ちゃん、翔一くんのお部屋がねぇ・・・。」 「またっすか翔一さん。」 「万年床やないだけ許したって・・・!」 しょうがないですね、と眉尻を下げて笑う伊月は伊月俊に相違なく、それを愛する今吉だって今吉翔一でしかない今夜は、宛ら蜜月の如く過ごそうと、誰が責めてもきっと彼らは口で何と言おうとこころの中では真っ赤な舌を出して笑う訳だ。 「あ、月ちゃんエプロン。」 「どうしたんですかこれ。」 「ばあちゃんが縫うてくれたんよー。月ちゃんにて。」 「うわ、お礼何が良いですかねー。」 「モノより笑顔や。」 何も要らなくなったと彼は言った。 何も要らないのであれば、与えるものは無い。 何も要らないのであれば、どうしてこんなに骨までしゃぶり尽くされるような愛撫や天悦を与えられなければならないのだと、伊月は考える。 何かを与えるのであれば。 要らない、というなら与えない。与えられるままに甘やかされようとも、思った。 そして、その甘受はひょっとしたら、彼が棄てて来たもので、与えても来たもので、与えられ尽くして忌避してしまったのか。どうして再びその感情を手にすることに選んだのか。 知りたいなら知ればいい。 聞いてしまえばいい。 「ねえ、翔一さん。」 夜闇の中に仄白く、淡く耀くような真珠の肌には真っ赤な花の欠片のようなそれがちらちらと、情熱の源を教えるようでもあった。 「何も要らないなら、あなたを俺に下さいよ。」 矯正されていない、夜闇の中に頬を滑る黒髪は、しっとりと汗に濡れている。 「全部、俺に下さい。」 白い肌を花色に染めた熱とはまた違う、どこか追い詰められたように真っ赤に染まっている目元は涙の香りがして、しなやかな指先が頬をなぞって、目元にくちびるが押し付けられた。 「・・・月ちゃん、どいないした?」 冷たい指先を取り上げて、舐めて、歯を当てる。 「俺の事、どれだけ奪っても、いいんで。」 「うん?」 「あなたを、あなたが要らないって、翔一さんが言うなら、俺に下さい。」 そうやなぁ、と今吉は、伊月の必死な、泣くのを堪える様な声に、夢見心地に、熱に浮かされたように呟いた。 「月ちゃん、欲しいもん、あんねんか。」 「はい。」 「只より高いもんは無いって、ゆうやん?」 「・・・はい。」 「うん。」 うっとりと今吉は目を閉じ、腕の中にある薄い身体を閉じ込め、抱き込んだ。桜の匂いがする。あまく馨って知らない内に消える儚い香だ。 「月ちゃんの、月ちゃんがワシにくれてええて、思う分、全部、頂戴。」 き、と脇腹に爪を立てられて、今吉は目を眇める羽目になる。 「俺、言いました。攫ってって。」 「うん。ゆうた。」 「俺、言いました。奪ってって。」 「うん。聞いた。」 ごめんなぁ、と貝殻のような耳元に吐息で告げれば、くたりと痩躯は母親に抱かれる赤子のように身を委ねる。 「俺の事、攫って、奪って、だから、翔一さん、俺の物、なって。」 「もう、疾うに月ちゃんの。」 過去の闇も今の甘さも未来の光も、全部くれてやる。全部全部くれてやる。 「そん代わし。」 線の細い顎を持ち上げて、くちびるを貪れば若い喉は甘く啼いた。 「絶望しても、月ちゃんは文句言うなや。」 「翔一さんとなら本望です。」 花が綻ぶように笑った伊月の貌は、優しく柔らかいだけでなく、ただ、凛と強い。 強靭な肉体も無ければ、富と名声を求めるで無く。 嫋やかな肉体を持たなければ、慈愛と喜びだけで無く。 「翔一さんが絶望する前には、俺もつれてって下さいね。」 「月ちゃんだけ。俊だけ、頂戴。」 彼らは明日を、死ぬために、生きる。 今吉探偵事務所、明日は午後から看板。 黒字だからって無駄遣いは厳禁ですよ。 |
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新章、改めて突入です。今までのご愛顧ありがとうございます。よろしければ今後もこの子たちを愛してあげてください。■なんと!シリーズ好いていただけてタグありがとうございます!!ところで、「月ちゃん」って呼び名自体が伏線だったって気付いた方、おられましたかね?やたけたミステリ言いながら、実は彼らの日常のお話なんですね、これ。
2013年4月10日 00:34初出。
ちょっと赤月要素を入れて見ようかと?月ちゃんの可能性のお話でもありました。
20130516日向キャプテンお誕生日おめでとう!masai