白い息を吐いたくちびるはいつもの紅を刷かない健康的な色を失って、がちがちと歯の根が合わない。
手首と足首にある冷たい輪は行動を制限し、インバネスコートとマフラーはおろか、学生服とスラックスを奪われた座敷牢で、薄い毛布にくるまった。












今吉探偵と伊月助手とチョコレイト工房。後編。













くしゃり、と紙の潰れる音がして、ことん、と軽く落ちる音は外へ備え付けの郵便ポストからだ。
「おい、いづ・・・。」
花宮は職業柄、耳が良い。伊月も鍛えているが、彼の育ちでは生活の邪魔になるだけだろうと花宮は踏んでいる。教えてはやっていない。
「・・・。」
どろ、っと熱したビーカーの中に黒い液体が揺れるそこから顔を上げて、雑用庶務係りの同僚を呼んだが、まだ来てねェじゃんそういえば、と頭を掻いた。マスクを外せばくちびるに湿気がまとわりついた。冬の長雨が来やがったな、と作業台から立ち上がって仮眠ベッドに乗り上げ、カーテンを開ければ霧雨の降る曇天と日の短さで星の無い夜闇のように暗い。
「・・・今吉サンよー。」
階段を下りながら呼べば、事務室のデスクで彼は一人侘しく珈琲を飲んでおり、窓の外を顎でしゃくった。取ってこい、と。
「なんで伊月来てねぇの。」
「そろそろ来んとおかしい時間やけどまあ、何時でも自分の都合で休める自分と一緒にしたらあかんよ?」
「わあってますよ!つか雨だ。郵便箱。」
「お?ああ、さっき何や来たみたいやったしな。」
郵便ポストは雨樋の連結が真上にあって、最近その繋ぎ目が弱いのかよく郵便物が水に濡れることが多いので、雨の日は専用の箱を出すようにしている。事務所が無人でも受け取れるように蓋も中身も広い。
事務室側の、外からは立ち入り禁止になっている扉から狭いエントランスを通って外に出た花宮は、郵便ポストに《雨漏リニ付キ雨ノ日ノ使用ハ専用箱ヘ。》と張り紙が無事に残っていることを確かめて、元は菓子折りの缶だったそれを足元に設置してある棚に置く。設置した当初はよく伊月が躓いていた。
「おい、ポストの鍵。」
「年長者に対する言葉か?それは。」
「ポストの鍵をお貸し願えませんかね、今吉所長サマ。」
「ん。」
不毛な会話をそれなりに楽しみながら今吉は鍵を投げてやって、花宮はそれでポストを開けた。
「・・・なんか届いてんぞ。」
「おう、さっき来とったな。」
「聞いた。なんだこれ。」
ポストを施錠して戻ってきた花宮は、くしゃくしゃの紙袋を下げていた。まだ濡れるほどの量は降っておらず、紙袋もポストに押し込んだらしい際に皺が入った以外は無事だ。
「つかさっみ。なんか食いもん、・・・てか頭痛する。」
「マスクちゃんとしとったー?」
「糖分不足だバァカ。」
紙袋はそのまま今吉の手に渡り、花宮はデスクの鍵付の一番上の引き出しからビターチョコレイトを取り出して齧った。パキン、と小気味良い音で割れて、舌の上でどろりと死血肉のように広がるのが面白い。適度に糖分も取れるので花宮のデスクの引き出しにはチョコレイトが常備されている。アソートで甘いのを袋で入れてあると大概知らない内に鍵をピックングされてまで伊月に横取りされていたりする。ので、最近はビターの板タイプを単品で数枚用意している。トラップには引っ掛かるくせに、どうしてそこだけ腕が上がる。
「何やと思う、真。」
その固い声音に花宮は眉間に深く皺を刻み、振り返って瞠目した。
紙袋は銀座の百貨店の袋で、中身はそこで売られている菓子折りのパッケージに熨斗。贈り人の名前は《伊月》と書かれてある。果たして伊月家の人間はそんな不躾な不義理をするだろうか。
「・・・あれの様子はどうやった。」
「間違いねぇよ。阿片だ。」
「芥子油は油彩にも使うさかいな。雅子ちゃんの見当は正しかったな。」
「少量なら医療行為や眠剤で通ったんだがな。ありゃ普通の人間は喰ったら死ぬぞ。」
「中毒は?」
「俺とアンタは眠るくらいで済むだろうな。」
「ほな、この『お歳暮』はどう始末つける?」
「返礼のお電話でもしたらいいんじゃねっすかね。」
さて、と二人で呼吸を一度揃えた。
「谷はクロやな。真っ黒や。何で菓子に芥子混ぜたんや、月ちゃんであるまいに。」
「し、しか掛かってねぇぞバァカ。谷はチョコレイト製の彫刻に目覚めて陽泉の菓子工房で手習いを始めた。そしてこの間出来たのがあの作品だ。もう自宅に工房持ってやがるな、あの調子じゃ。」
「そんで、気に掛かったんは雅子ちゃんの様子やな。谷の家に居るっちゅー書生も怪しいもんや。一回ガサ入れよか。」
「はい、じゃーんけーん。」
ぽんっ、と七輪が鳴ったと思えば火が消えた。
「隅っこの炭・・・キタコレ。」
部屋の隅にあった七輪は煙を吐くのを諦めて完全に沈黙している。
「くっそさっみぃ。嘘だろ・・・。」
部屋の温度は低くないのだが、時間の問題だ、とふらふらする頭で伊月は考えた。
「手錠は冷たいてじょう・・・キタコレ。」
かしゃん、と行動を縛る鎖は千切れない。座敷牢の前には一人の男が立っていて、下手に触って拘束を強くされても叶わない。どうすっかなぁこれ、なんてやっぱりぼんやりする頭で考える。起き抜けの、霞がかった働きの鈍さとは違う、思い通りに思考回路が開かない。あと痛い。伊月は膝の上に額を乗せて唸り、くらりと目が回りそうに甘い臭いに呼吸を止めて咳き込む。
「・・・なあ。」
青年はこちらを向かず、答えもしない。とりあえずスラックスだけでも返してくんねーかな、と伊月は息を吐いた。
「コクトーを知っているかな?」
「ジャン・コクトー。仏蘭西の作家。『阿片』というタイトルの小説があった・・・。な・・・っ。」
「へえ。」
疑問符に反射的に動いた脳とくちびるに、伊月は顔を上げる。白い甘い息を吹きかけられて咽た。けほけほと腕で口元を覆って切れ長の目元に涙を浮かべて青年が睨み上げてくるのを男は悦の入った歪んだ笑みで受け止めた。
「阿片については詳しい?」
「・・・一般、です。」
「今吉さんも?」
「あのひとはある程度・・・けほっ。専門持ってんじゃ、ねぇっすかね、谷文雅さん!?」
ガシャン、と木枠に縋るように立てば、くらっと視界が揺れたが男の顔を見止めた瞬間、ギっと眼光が鋭く光る。
「あの事務所に何を持って行った。」
「傑作品だよ?俊君も見る?」
「・・・。」
少しだけ、伊月は沈黙を持った。木枠に縋った指の股をねっとりと撫ぜられて、ざわり、全身に鳥肌が立つような悪寒に肩を竦めた。
「本当に、伊月君そっくりだね、目つきがさ。正義感が強くて気配りも上手で、手助けが欲しいときに必ず助けてくれる。」
昔話でも聞くかな、と谷は笑った。何故か、酷く父親が穢される気がして、首を横に振った。
「う、あ。」
かくんと途端に狂わされた脳幹は膝から崩した。この空気を、これ以上吸ってはいけない。
「あれ、消えているね。七輪。」
一酸化炭素、と口元を抑えたが、違う。心地悪いくらいに甘い、このねばつく香が脳を焦がすのだ。
「いら、ないっ。」
「そう?寒いでしょ?」
「薬用阿片売買竝製造規則って知ってっか。」
「そうそう、伊月君も怒ったらそうゆう風に口調が荒れるよね。やっぱりそっくりだ。」
この男とこれ以上話すのは嫌だ、と素直に伊月は思った。思考は止めるな。それでも脳の働きは常より鈍い。こういう時は本でも読めばいい。脳内に保管している本を。
「阿片が・・・いつからどのように使われていたのかは判明していない。瑞西の遺跡から種は見つかったが用途は不明。古代希臘では阿片の材料である芥子の実の帽子を被った女神像が見つかっている・・・古代埃及では子供の癇癪に効くとされていた・・・希臘神話では豊穣の女神デメテルが娘のペルセポネを冥界のハデスに奪われた際に悲しみを芥子の匂いで癒したと言われる・・・。エーゲ海沿岸では芥子は賛美の象徴であり古代羅馬皇帝ネロの従医師、植物学者ディオスコリデス著書の『薬物誌』曰く、芥子は少量であれば鎮痛作用、睡眠薬として用いることが可能だが量が過ぎれば昏睡、死亡する。阿片の名前の由来は亜剌比亜。日本では亜芙蓉と呼ばれて・・・っ、くそっ。」
「流石、詳しいね。」
徐々に弱くなる声音に谷は笑い、そして言葉を受け取るように続けた。
「亜剌比亜の商人を通じて欧羅巴全域に広がり、医薬品として、麻薬として使われた。錬金術師パラケルススは知っている?」
こくん、と浅く頷かれたのにくくっと喉を鳴らして笑った谷は、格子に凭れてまた新しい煙草に火をつけた。
「パラケルススは阿片のアルコール溶液を『ラウダナム』と名付けて鎮痛剤にした。阿片チンキだね、所謂。手軽に飲める鎮痛剤、麻薬として多くの芸術家の間で流行。英吉利のバイロン、コールリッジ、仏蘭西のボードレールなんかは中毒者だと言われているね。英吉利のディー・クインシー、さっきも言った仏蘭西のコクトーは阿片を題材にした著書を遺したね。そうして東印度会社を通じて中国・・・当時は清だ。大流行し、阿片窟なんて場所も出来た・・・。俺の家も三年くらい前からそうなんだけどね。」
さらりと投下された真実に、畳の目をそろそろとなぞっていた視線がゆるりと持ち上がる。
「信じ、らんな・・・っ。」
考えろ、と伊月は自分の頬を張る。ぺちりと可愛らしい音しかしなくて、谷はやっぱり笑った。
阿片の薬効主成分はアヘンアルカロイド。抑制効果が強く、不安や欲望が消える。強い陶酔感で効果はヘロインの数倍だ。
さら、と黒髪が綺麗に揺れた。谷が毛先を玩び、さらさらと耳の後ろに指を撫ぜられ、うぐと口を押えた伊月を、可愛い、と谷は評した。強すぎる麻薬は解放感の前に催吐性がある。シャツの下に撓った細い体を格子の間から伸びてくる手が撫ぜる。
「やめ・・っ、気持ち悪い・・・!」
放せ、と小さく暴れた手は手錠と体の怠さで宙を掻いただけだった。カチャリ、と錠前の外れる音に、伊月は視線だけを上げる。
「《君がミセスでなかったら》は良い値段で売れた。芥子油はいいね・・・。」
「ッが・・・?!」
蹲った脇腹を蹴られ、無様に転がった青年の足を男は撫でた。良い事を教えよう、と。
「あの彼女は、誰かに似ていないかい?」
「っは・・・ぁ・・・っ、だ、れ・・・っ、に・・・?」
痛みと呼吸不全に喘ぎながら、黒い、日の光を受けて耀く髪は肩に届く辺りで切り揃えられ、白いドレスを、着た、花畑の、後姿を伊月は思う。断片的に思い出される画の部分部分に、既視感を覚え、目元に掛かる前髪を梳かれてその睫毛を擽られ、普段涼しげな切れ長の目元が見開かれた。眼球を愛でるように伸びてきたのは男の甘い毒が染み込む舌だ。既に痛みは麻痺している。
「まさ、か。」
「ああ、本当に伊月君の息子さんだ・・・。」
ゆったりと抱き起され抱き締められる腕が、ただただ優しいのに不快だ。
「ふざけ、んなよ・・・。」
鍛えられたしなやかな脚はキンと細い鎖を張った。そろそろと膚を撫でられ、内側に回った指先にびくりと意図せず肩が跳ねる。
「気持ちいい?」
「・・・っ。」
こんな身体だったか、と自分でも驚くほど鋭敏な神経に伊月は身を竦め、両手の指を組んでぐっと握り込んだ。ジャリ、と擦れた手錠に、男は舐めしゃぶっていた胸元から頭を外した。
「油断ならないな・・・まったく。」
思わず舌打ちすれば、伊月君も時々似合わない舌打ちをしたんだよ昔、なんて谷は笑う。
「体が冷えている。着替えなさい。」
「は。」
そのまま格子戸を開けて出ると施錠し、格子の隙間から絹製の黒い布地が寄越された。
「おい。」
「はい、これがズボン。」
甘い臭いはいつの間にか薄くなって、ああ煙草が消えたのか、と伊月は思って、渡されたそれを掲げ、眉を寄せると谷は楽しそうに笑って、また後で迎えに来るよ、と来た方向に戻っていった。
「なあ、ここって他にひといる?」
門番に立っている男の顔は真っ直ぐに壁を向いている。室内を照らすのは蛍光灯で、頭上のそれは格子の間を通って二股で別れている。この奥にもまだ座敷牢はあり、あのコードを伝っていけば外に出れるんだな、と納得。
サテンに龍の刺繍がされている布地は広げて掲げると、それは深いスリットの入ったマンダリンドレスだった。
「・・・は?」
ずるずると引きずるそれに、ぺたっと座り込んだまま、反射が遅れてそのまま畳に転がった。
「・・・はあ!?」
思わず飛び上がった声音に、門番らしき男も肩を跳ねたのに伊月は気付けなかった。
《黙れバァカ》
「・・・えっと。」
《二回も書かすなバァカ》
「バカっていうな!!」
《黙れつってんだろ!》
口に手を当てて門番を振り返ると視線がかち合った。ふるふるっと首を振れば納得したのか、また視線を廊下にやったのを確認して寝転んだ。阿片に酔ったとでも思ってもらえるだろう。それくらいの奇行ではある。果たして天井の板が一部ずれて、ひょこっと特徴ある愛嬌たっぷりの麻呂眉が手帳を構えて覗いているのだから。
「えっと・・・。」
《1手段 2理由 3妖怪》
とりあえず、と伊月は一本指を示す。順序で行こう。
《現在地は谷の持家。書生は中学から大学生まで。念のため、中学生には阿片のアの字も伝わっていない。が、伝わっていないだけで仕込まれている可能性は高い。谷文雅は元々俺等の中では阿片配りとして有名だった。》
つまりこの屋敷には谷の書生や賄いと言う名の中毒者がいるのだ、と伊月が眉を下げれば、《とりま服着替えろバァカ》と寄越された。じとっと眇められている目にはどこから何を見られたのだろう、なんて考えると、《妖怪には黙っといてやる》なんて見せられて伊月は思わず顔を覆った。とりあえず足が冷える、と冷たい布地に足を通せば見事に丈も腰回りのサイズも合うので採寸はされたのだろう。面白い金の使い方だ、なんて見当違いに伊月は呆れた。手錠の鍵は先ほど畳の上に服と一緒に放り込まれてあった。
マンダリンドレスの襟元の紐を外して、シャツは脱ぎ捨てた。これくらいの手当は多分出るだろう。ていうか出させる、と襟から顔を出し、ぴっと二本の指を見せた。
《荒木雅子。陽泉大学所属体育学科教授。》
ぺらっと捲られたページに吹き出しそうになった。花宮は更に書き込んで。
《割と俺等寄り》《谷に疑惑、妖怪に相談》
詰まり、荒木雅子は谷文雅が造るチョコレイトの彫像がおかしいと、最初に気付いたわけだ。しかも意外とダークサイド寄りの人間だったと判明して伊月は頭痛を覚えた。そういえば陽泉大学籠球部副主将とはポジションが同じという事で時折相談事や遊びで呼び出されたりした時、いつであったか、昔はウチの監督、結構ヤンチャしてたらしーぜ、と聞かされて、そんなばかなと笑ったことがある。外見だけで言えば本当に大和撫子なのに、と福井は半泣きだったが。しかしそれなら成程、と思う場面は幾つもある。この周辺でお菓子について学ぶと言えば紫原財閥の援助と支援で菓子を商品化してホールなんかでも売れるくらいの職人を排出し始めている陽泉大学食品科学部。そこで本人曰くチョコレイトの彫刻像を作るために菓子作りを学んだ谷。その指導に当たっていたと思われる荒木の繋がり。荒木と今吉の繋がりが、実は他の繋がりとはまた違う濃度を持つそれなら。だったら今吉探偵事務所宛によく紫原から菓子が届くのも頷ける。あれは荒木の差し金だったか、と襟の紐を組み直しながら伊月はひとり、ふむと線の細い顎を摘まむ。
《いいか?》
今吉の様子は、とペン尻が《妖怪》を指し示す。いらない、と伊月は首を横に振る事で伝え、たのんだよ、とくちびるを動かせば、ひらひらっと手のひらが天井裏の暗闇で揺れてそのまま閉ざされた。これで少しは呼吸が楽になった、と伊月は足を延ばして座り込み、ふう、と唾液塗れのシャツを見やった。ざわっ、と鳥肌が思い出すように今更立った。
今吉は谷の性癖を知っていたか。あの女性に見せられて描かれた人物は実は特定の、とある男性だと、気付くだろうか。伊月俊の知る今吉翔一なら、気付いていても、知っていても不思議は無い。だとしたらなんと無様な有様で間抜けな真似をしたと思われているか、見放されや、しないか。
「こういう時に阿片って便利なのかな・・・。」
自分でも気付かずに音になった声に、くつりと低い笑い声が聞こえた。伊月は視線だけそちらにやった。
「どうも、着替えましたよ。この衣装が白で俺が後ろ向きなら、あの女性に見えますか。」
「かもね。」
谷はそう、自嘲気味に笑った。思いの外嵌ったらしい。
「そういえば聞きたいんですけど。」
「何をかな。」
座敷牢の鍵を開けながら谷は応える。
「《消えたAugust》ってなんですか。」
「芥子の花は夏だろう。」
「あ、成程。」
「《君がミセスでなかったら》が載っている画集があるなら持っておいで。上等な阿片と交換してあげるから。」
「要りませんよ。」
やっぱりちょっとふらつく、と思いながら畳の上を裸足で歩かされ、すっとさり気ない仕草で腰に手が回って、抱き抱えられるように運ばれる。花宮がいるのなら今吉もどこかで待機済みだろう。とりあえずヘアピン一本の装備はあるので、手錠位なら外せると、座敷牢から連れ出された廊下で再び手首に嵌った手錠には抵抗しなかった。
「甘いものが好きだろう?」
「まあ、苦いのより辛いのよりは甘いものですね。」
やっぱりね、と笑った谷に、先を読むように伊月は冷たく言い放つ。
「父と重ねるの、止めて頂けませんか。父の事は尊敬しているし、息子としては大好きですけど、だからこそ。解るでしょう、俺の父を長年見てきたなら。」
「・・・いいね。」
血の繋がりと言うのはどこまで遺伝するのだろうね、と谷は苦笑した。長い廊下は少しだけ傾斜している。ひょっとしたら壁も少し曲がっているかもしれない。今吉に過去に教わった、廊下に騙される、というやつだ。一度伊月は振り返る。確かに壁は緩やかな曲線を描いて続いている。谷の持家だと花宮は教えてくれたが、それ自体を伊月は見たこともない。アトリエは口ぶりからするに、帝都のどこか、そう、あのカフェの裏通りにでも。
「・・・まさか。」
思わず考え付いてしまった想像は、あまりに突飛で変態的だ。
「まあ、毎朝姿が見られて楽しくはあったよ。そうだね、考えてみればどうして気が付かなかったのかな、俊君が彼の息子だって。」
動作の端々、姉妹や母親が、よく似てきたと、お父さんよくそんな動作するわよね、と笑うようになってきて、まじでか、なんて伊月本人さえ無意識の動作を、谷はひとつひとつ拾い上げて上げ連ねる。花宮早く、と延々念じる羽目になった。
「着いたよ。」
廊下は畳から板張りに変わり、目の前には襖がある。なんだか視線が刺さる気がして、伊月は本能的な恐怖から肩を竦ませる。
「ここでゆっくりすると良い。」
「手錠なんて面白いものを付けたまま?」
くふり、小悪魔的な笑みに谷は目を爛々と輝かせた。
「お茶はいらない?」
「阿片も要りませんけどね。」
襖を開けるとそこは入口の襖以外は鏡に張られた部屋だった。畳の上には色黒の腕が三つ、足が四本転がっていて、伊月は思わず息を呑んだが、鏡の反射を一度視界から追い出して見れば、それはチョコレイトの彫像だった。
「食べるかい?」
ポキン、と折り取られた人差し指を差し出され、頬にその指の腹がなぞられると体温で指先が溶けて頬に擦り付けられた。
「それ、ですか。」
「ああ、上出来だったから。飾って貰っても食べて貰ってもいい。」
「あの出来事の後で食べろと?」
お前に連れられた店から記憶が無いんだよこちとら、なんて手錠が嵌って自由が効かない手で前髪をくしゃりと掻き上げた。
「ここにいなさい。」
「何ですか、ここ。」
「一時間後には解る。」
「へえ?」
それでは御機嫌よう、なんて伊月は嗤ってやった。襖は静かに閉められ、谷は姿を消した。
「・・・。」
部屋の広さは約四畳半。三方が鏡張り。突っ立っていても仕方がないな、と数多の自分がこちらを見る中で、指先はつと鏡面をなぞった。手に息を吹きかけて、体温を持たせ、もう一度。体温に曇った場所が暗く濁る。
「ああ、そういう事。」
ニィっと強気に、挑戦的に口の端を吊り上げたが、内心、もう誰でもいいから助けてくれ!と叫ばずにはおられない。部屋中に鏡に反射する自分がいるので錯覚するが、気配はある。鏡の、正しくは、マジックミラーになった壁の向こうに、それも結構沢山。
知ってる知ってるこういう店赤線とかにあるよこういう店青線にもあるのかこういう店行ったことないけど青線知んないけど多分あるんだろうなぁこういう店なんで俺こんなとこ放り込まれちゃったかなあああああ!!
以前、社会見学と称して今吉に連れられたアンダーグラウンドには、マジックミラー向こうに肌着一枚の女性が数名、指名を待って花札をしていたり煙草を吹かしていたり、思い思いに見えないはずのこちらを見ていた店があった。
「これは、とりあえず食えないし。」
おなかすいたなぁ、なんて考えると、鏡を背に座った手元にかさりと鳴った。
「・・・。」
紙、だった。畳と鏡の間には、紙一枚滑り込ませられる隙間があった。紙からは僅かに甘い馨りがした。
《膝を立てて》
「・・・まじかい。」
どうして娼婦紛いやダンサー紛いをしなければならない。その一枚が先陣を切ったように、畳の上には色々な文句が書かれて滑り込んできた。《立て》《その場で回れ》《笑え》《泣け》《脱げ》《脚を開け》《自慰を見せろ》。
思わず頭を抱え、うわこれ人身売買もやってんじゃねぇのあいつ、なんて罪状がどんどん増えてるなぁ、と胡坐に片肘を突いて頬を乗せた。
《どれだけ払ったと思っている》
残念ながら俺には一銭も入ってねぇよ、と言わずに舌を出してやれば、異様な熱気が鏡の向こうに広がった。
「うっわ、ヘンタイ。」
《そう言うな》
「・・・ん?」
なんだか見覚えのある字だぞ、っと思って、その紙を取る。その辺の裏白に、質の良いインクが流麗な文字を刻んである。伊月の文字は型に嵌った教科書のような文字だと花宮にはよくからかわれる。そんな花宮はやけに角ばった文字を書く。こんな風な流れるような文字を書くのは、と。
《羊羽之君 のあし 見ら得る し合わせ ここ 脱衣地と思 惑感じ候に また 目は貴方 に捧ぐ事は 蝶とも花と も覚え不実》
「ふうん。」
すっと目を通し、仄かに笑んだ彼は酷く妖艶だった。
胡坐に組んでいた脚を伸ばし、絹はしゅすりと畳を滑る。スリットの隙間に指を差込み、するりと下衣を脱ぎ捨てた。絶妙な深さのスリットからは無駄な肉の一切無い、しなやかな脚が覗いた。
「やっすい幸せですねぇ。」
くすくすと可笑しそうに笑う姿は阿片に酔ったようにも見えるのかも知れないが、一応素面だ。素足に絡む黒いサテンが夜の間に淫夢を誘う。スリットの隙間から愉しい夢を見て、そそり勃つような気持ちが抑えきれないと、時折鏡面が震えるのがただただ哀しい。
麻薬に溺れず闇の世界を見なければ、こんな邪悪な部屋の外に座る事にはならないのに。
邪悪な白いドレス姿の阿片に誘惑に勝てなかった、そんな人々の巣窟だ。ああ、谷本人が阿片窟だってゆってたなぁ、なんて伊月は考え、足元にあったチョコレイトの手を踏み砕いた。忽ち甘い馨りが立ち上って、伊月は口元を抑え呼吸を止めて脚を引くと三歩じさる。天井を見たが動きは無い。鏡の下に滑り込む紙も量は増えたが質は上がらない。脹脛に飛んだチョコレイトの破片が体温でとろけて綺麗に浮き出るアキレス腱を汚した。
「ん、やばい、か?」
くらっと霞む視界は遠くで硝子が割られる音とサイレン音で、閉ざされることが許された。
「耐性つけてへんねやから。」
「・・・うっさいです。」
見事に時間稼ぎに貢献できた安堵からその場に座り込んで脚を投げ出して鏡壁に凭れかかる伊月の頭を今吉が撫ぜた。
「一応病院は手配した。緑間総合な。数日通う事になるやろけど、依存強い連中はひと握りっちゅーとこやな。文屋へはワシらの名前は伏せた。」
「そりゃ手間おかけしまして。」
「お前はその無防備さをどないかせぇ。」
黒いサテンのスリットから覗く脚は蠱惑的すぎる。警察が廊下の壁を破ってチョコレイトの破片を回収した部屋はとりあえず寒い。心身ともに疲れ切って、伊月は何もかもが億劫になってきている。
「谷の私室にあったぜ、学生服。クリーニング出しといた。」
「・・・後半の報告要らなかったよ花宮さん・・・。」
うわぁ、と流石に三人でその惨状にはドン引きした。念のためにコートとマフラーも明日までは帰ってこない。靴下くらい返してくれてもいいじゃないか、と伊月は思った。
「名簿は?」
「明日には揃う。」
「解った。学生らはどうなった。知らんかった連中のほう。」
「明日には新しい下宿先が決まる。こっちで手配した。ああ、伊月の制服も。」
「やめろ掘り返すな思い出したくない。」
「せやからっ。」
ぽんっ、と頭に手を乗せられて。
「月ちゃん。」
きゅ、っと頬の茶色い液体を拭ってやって。
「無防備やって。」
ちょんとくちびるを奪われるまで、その膝小僧は剥きだしのままだった。がつっ、と鈍い音に、あーあ、と花宮が頭を抱え、顎やら鼻やら抑えて呻いている上司を半目で見やった。伊月は急いで立ち上がるとズボンを穿いた。
「膝いって・・・。」
「お前らバカか。」
「翔一さんがばかなの。」
「とりあえず、明日は検査に回すから、午前は休めよ。家のほうには連絡しといたから。」
「え。」
「歳暮。ポストに放り込まれてあったからな。返礼の電話と仕事が立て込んだから借りるつっといた。どうぞこき使ってやって下さいな、との事だ。ご愁傷さんだな、バァカ。」
「うわー。お前の猫何匹装備されてんの?」
「ざっと五六十匹?」
母さん騙されてるなぁ、なんて唸りながら、渡された履き慣れた革靴を履いて、警官隊が破ってきた廊下から外に出ると、頭上に月が煌煌と、雲の狭間で星の輝きを殺していた。長雨の狭間に少しの別れを告げに来た、と言わんばかりの様子に今吉が息を吐いた。寒いのは得意じゃない。
「翔一さん?」
「今吉?」
振り返った二人は、相変わらず面白いように働くし動くし頼りになるし、と今吉は思いっきり顎を蹴られて舌先を噛んだ口元を摩りながら、いつも笑みの形に結んでいる目元を緩めた。
「さー。帰らんかさ。」
「最後まで残ってたの翔一さんですし。」
「最初に来たんは月ちゃんやけど。」
「うっさいですね。」
「コイツじゃなくてもお前は無防備だと思うわー・・・。」
まあ実はお前に内偵さすかって手も考えてはいたんだが、と花宮は黒のハイネックに黒のスラックスで、屋根裏を這いまわったせいか肘と膝が埃で灰色だ。足元は黒の足袋で草履を引っ掛けている。えっなにそれ聞いてないっ、と悲鳴のような声音に、言ってねーし、と花宮は飄々と交わす。
「月ちゃん。」
「はい?」
「あんじょう孝行しいや?」
「一番の親不孝が言うか。」
「・・・まあ、さよか。」
いやさよかじゃねーよバァカ。さよかじゃないですよ原因が。と二人に嘲笑われて苦笑される道のりは、きっといつもと同じ日常に続いている。
「てゆか、よく精神崩壊しませんでしたね二人とも。俺、割とやばかったのに。」
ずるい、と素直に見上げてくる伊月に、二人は少し眉根を寄せたが。
「そりゃ、あんくらいじゃ酔わねぇし。」
「は?」
「せやなー、あれくらいやったら酒に酔うんと変わらんかな、食うても。」
「はっ!?」
阿片チンキの入ったチョコレイトを食べても平気な体質ってどういうこと、なんて二人の顔をきょとときょとと見ている伊月の頭を二人でぐしゃりと撫ぜた。綽名のように正に美しく優しい彼は、ひとの闇をどこまで受け入れ、受け止めるだろうか。その広い視野に絶望を捉えて見放して鷲のように風塵だけ残して飛び立ちやしないだろうか。
これから共に歩くかもしれない未来で彼を壊してしまうかも知れない恐怖に、普段飼い慣らしている感情が溢れそうになるのが止められない。
戦慄。
それは原始の感情だと、今吉も花宮も理解しているし、疾うに殺しつくした感覚だとも思っていたのに、この伊月と言う少年の存在と来たら。
「翔一さん、花宮さん。」
ひらっ、とマンダリンドレスの裾が翻る。足元は石畳で黒い衣装で月明かりの下で伊月は真っさらに笑った。
「俺はいつまでも、お二人に珈琲を用意したい。」
そんな風に、二人の思考を読んだような言葉を寄越すから。
「ふはっ。あれば飲んでやるよ。」
「珈琲淹れるん上達したやんな、月ちゃん。」
いつも通り、花宮は悪辣に、今吉は胡散臭く笑った。
どうしてだか巡りあってしまった運命なんて、今更考えても仕方がない。成るように成るし、成るようにしか成らない。過去を呪うよりも未来を祈ったほうが幾分も気分は充実するし、並行してバイオリズムだって変化してくれるだろう。
翌朝の新聞では谷文雅、本名谷文乃助が行っていたとされる薬物、人身売買、全ての罪が暴かれ、友人の悲劇に伊月の父親は肩を落としていたが、いつの間にか普段の、凛と姿勢の良い父親に戻っていた。
胸に隠せない情熱なんて、愛に隠せば美化される。従順に見せて背徳の理不尽な思考は妖しく揺れる満月の下に漫ろに歩きながら、それこそ明日を生きるための愛に変えて仕舞えばいい。全部壊れたら、破片を全部、粉々になったそれまで拾い上げて歪に修復してやればいい。
この世界は所詮泡沫。昨夜と今夜の間に命を吹き込んでも知らぬ内に消えてしまうという訳だ。
それでも彼らに黒衣の嫦娥は今夜も優しく微笑むのだから、世の中は上手に回っている。


今吉探偵事務所、本日は午後から営業予定。
珈琲か紅茶か、クッキーの御茶請けも用意してございます。

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お待たせしました!!これねー、いつも一晩かかって前後編描くんで、今回は数日の空白がほんとに苦痛で苦痛で!!仕事の合間合間にメル飛ばして描くっていう変な手法取ったんで、いつもの八割増しくらい訳が分からないですすいません。あと、まこっちゃんのせいで「バァカ」がゲシュタルト崩壊www今回のは陰鬱っていうか淫鬱(ひどいw)っていうかなので、第八弾は明るめの雰囲気で行きたいと思ってます!うん、第八弾は決まったんですよご協力ありがとうございます!それ以降は不明www皆さま次第www責任転嫁って良い日本語ですよね!!あとすっごい個人的なんですけど、このシリーズは前後編で描いた場合は後編のほうが前編の評価を上回るのを個人目標に掲げてたりします。叶った事は確か無いんですけどw■タグありがとうございます!いじらしい・・・「(弱い者や幼い者が)力いっぱい頑張っている痛々しく健気な様子」・・・(手近にあった国語辞典から。)・・・月ちゃん可愛いですな!!<●>□<●>クワッ!!■新たな萌え・・・新たな!?萌えて頂けましてうおおおおいタグあリがとうございます!!そして服は着て下さい!!(12/12

2012年12月11日 00:36初出。

「女の子が簡単に肌を出すものではありません!!」by伊月助手。因みについったで白状したように、BGはすまっぷさんのだいなまいとでした。犯人さんのお名前や絵のタイトルは知人とその楽曲から拝借しました。谷さんごめんね!

20121224masai