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権力があるから偉いのか。
偉いから権力があるのか。 法律がひとを護るのか。 ひとが法律を護るのか。 闘わないのは強いのか。 強いから闘わないのか。 何が間違っていて何が正しいのかすら曖昧なこの世の中で、彼は今日を死ぬために生きる。 生まれたら死ぬ。 それだけはこの世の唯一つ誰もが知る理。 今吉探偵と伊月助手とプリズンブレイク。後篇。 名前は聞いた。 学んだ心肺蘇生法の可能な限りは全てを尽くした。それでもその心臓が動き出すことは無かった。 朝食は七時五〇分。起床は七時に点呼。その間に速やかに遺体は運び出された。ああまたか。そんな声を伊月は背後に聞いて、朝食は食べたが結局胃が受け付けてくれなかった。 刑務作業は一〇時まで。一五分の休憩を挟んでまた昼の鐘まで刑務作業。 「今朝また死んだって。」 「殺されたの間違いだろ。」 そんな会話をどこかに聞いて、伊月は安心してしまった。気が狂うかと思った。 「翔一さん、ごめん。」 確か約束の日時はこの時間だ、と昼休憩の運動場から真っ青な空を見上げて伊月は呟く。 「少なくとも俺は、ここが許せない。」 出て来い、と今吉は言った。手帳にも書いてあった。ひょっとしたら壁の向こうにいるかもしれない。そのままその黒髪が美しい青年は、凛と伸びた背の決意に踵を返した。 「出てこん。」 約束の時間に車に寄りかかって、真っ青な空を見上げて今吉は呟く。 話は警察から通した故に、伊月の希望があればすぐに面会も出所も出来る。ただし、今吉から手を差し出した場合、今は華族の屋敷の家庭教師を終えて事務所の留守番をしている花宮がきっと消える。 天秤に掛ける訳では無いし、掛けるものでもないが、今吉にとっての最優先は伊月であった。彼が居るなら何も要らない。そんな危険な場所に今吉は立っている。 「元気そうやなぁ、今吉翔一。」 呑気な振りをした声音に振り返る気も起きないが、気配はずっと感じてきた。血に飢える様な明るい色の光彩に、赤茶けた髪のそれは、何年経っても今吉の傍らに立っていた。今吉が棄てる形の離別になったが、後悔も反省も無い。ただ、遺恨は少し歪んだらしい。 「伊月、どないしたん?いっつもあんたの隣でにこにこしとったやろ?にこにこさせたっとったやろ。今吉翔一のほうから捨てたん?あんた棄てるん得意やし。」 「黙り。」 終っと体の芯まで冷えるような声音に、天野は怯みも戸惑いも躊躇さえしない。口の端を吊り上げ、戦慄とする感情の愉悦に享楽。けたけたと壊れたように笑いだした。その姿は健気で豪胆で華やかで儚く醜悪。 「阿呆ちゃうのぉ。伊月は頭のええ子やで?今吉翔一が何を企んでるか、そんなん解らんほど頭のええ子。愛されてる事に胡坐をかかん、見事なほどに美しい魂の子や。」 「黙れゆうとるやろ。」 「砕き甲斐あるやん。」 けたけたけたけた・・・。それはもう、楽しそうに、悲しそうに、嬉しそうに、怒りを込めて、ただただ笑う。 ひゅ、っと風の走る音に繰り出された鋭利なナイフを今吉がその喉元に突き付ければ、扇子が喉仏を撫ぜて行った。 「間違うた。」 こっちやん、と天野は誠凛の学生服のファスナーを降ろすと、中に作った隠しポケットから短刀を取り出した。首筋にちくりと刃物が減り込み、つぷつぷと鮮血が首筋を流れて学生服の中に着込んであるブラウスの襟を真っ赤に汚す。直後に今吉が瞠目するのは、まるで天野の口元が優しく、慈愛のみで作られた弧を描くから。 「くっははははははは!今吉翔一の間抜けぇ!間違うた!伊月と自分重ねやったぁ!阿呆!ほんま阿呆やぁ!今吉翔一の、バァカ。」 今度は悪辣に笑い蛇のように吐き捨てる。真っ赤な舌が醜悪なくらいに鮮やかだ。けたけたけたけた、引いてしまった刃の先を扇子で摘まんで跳ね上げ、カシャンと地面に落ちた。 「天野屋。」 「なんや。」 呼べば、随分と平坦な声音で返答が返ってくる。 「月ちゃん、どないしよる。」 屈辱を飲むような、怒りに震えるのを抑えるような、そんな声音で今吉は視線を空にやる。 「教えると思うん?」 「・・・思わんわ。」 「よぉ御分かりで。折角なんやから面会にでも行ったりやー。ただ、言葉には注意せぇ?」 ひらひらと扇子を遊ばせながら立ち去ろうとする小柄な背中が投げてきた言葉に、今吉は少しだけ動揺した。一回だけ許したるわ、なんて笑い声が飛んできたので、油断は出来ないが、とも浮かれかけたこころに釘を刺す。 運動場に転がっていた軟式の野球のボールを跳ねて左手に遊んでドリブルの勘を取り戻すのと思考を同時に行っていた伊月は、背後からの声に勢いよく振り返って、相手を動揺させた。 「やあ、今朝は・・・。」 「大変、でしたね。」 既に死斑が出ているのにも気付けないで、人工呼吸に気道確保の際、やっと死後硬直に、その優しい子供は涙した。 「よく、あるんですか?その・・・看守さんによる、私刑・・・。」 「あるよ。」 今吉よりも少し生まれが速いだろう彼の年齢の、同室に一夜を暮らした男は、何事も無く応え、ベンチに座ると隣に伊月を手招く。 「あるんだ、ここには。」 事実、猿濱らんはここで不自然な死を遂げており、その情報は表社会には開示されなかった。 「ねえ、少し踏み込んでもいいかな?」 「何をです?」 「恋はしてる?」 はえっ、と随分と素っ頓狂な声が出た。にこにこと、父親と言うには若く、進行形で恋をしている相手よりは年上だろう男の問いかけは、随分と穏やかだ。 「して、ないことも、なくは・・・。」 「年相応の反応が可愛いね。ショウイチサン?」 「え・・・。」 「昨日言ってた。泣きながらも一度。」 お恥ずかしいところを、と伊月は思わず顔を覆って、呻く。 「男の名前だね。気にしないでいいよ。ここにいる連中はそんなこと、残された時間に檻の中でだけの世間話にするだけさ。どんなひとかな。」 勝手に夢を見るのは自由だが、誤解があっては少々困る。うむ、と小難しく悩むのは止めた。 「そうですね。優しくて胡散臭くてひどいひと。でも、好き。」 「優しいしか好きになれる要素が無いね?」 「俺から惚れたんで。最初は多分嫌われてましたよ。でも、嫌われているのだったら、って思って。」 うん、と首を傾げられたので、話を許してくれるなら、と伊月は淡くうつくしく笑う。 「好きや嫌いの反対は無関心だって言うでしょう?でも、無関心の反対は関心なんですよ。嫌いっていう事は、関心があるそこに更に感情が絡んでいるでしょう?好きと嫌いは紙一重だって、昔に教わったんです。だから、恋していいですかって、ゆった、ら・・・。」 恋してもいいですか、あなたに。伊月はそう、今吉に切り出した。正確には抱えていた感情が、月末の経理報告提出の際に言葉になった。花宮は齧っていたチョコレイトを落とした。 「そう、だ・・・っ。」 「え、ちょっと!?」 そのまま誘われるように立ち上がった伊月は、確か電話の使用は、とすいません、と一言残して刑務所内の電話機を貸して貰う。普通の収監者や受刑者なら使用のための誓約書や使用予約も必要だが、この管理者には話は通っている。 繋げて貰う番号は自宅だ。今更刑務所から息子の名前で電話がかかって動揺する親でなかった。 「母さん、使ってごめん。うん、事情は後々ちゃんと説明するから、ひいじいさんから俺に下がった柳行李あっただろ?俺の部屋の押し入れ下段。頼む。」 取って来るわ、と電話口から一度離れた母親は、さほどかからず、息子の願いを聞き届けてくれた。 「そう、刑務所の頁が確か、四冊目の二五頁目から。メモしてくから、悪いけど読んで。覚えてるけど、間違ってる可能性、無くは無いから。」 収監者服のポケットから黒革の手帳を出して、管理官からペンを借りて自分にしか判別できないような文字で情報を洗い出す。 「ありがとう。梶原という名字はある?」 看守と言う職業は世襲であることが多い。どの苗字も看守制服の刺繍にあったそれと合致する。 「よし、ありがとう、助かった。これで帰れる・・・!」 帰れるってどういうこと、と苦笑気味に返されたが、まあ頑張りなさい、と送り出してくれる声音にはいつも背中を押される。 「母さん、一つ聞きたいんだけど。・・・うん。俺が、父さんと母さんを殺したら、どうする。」 きっとこの問いかけに正しい返答はひとぞれぞれで、ひとの数だけあって、家族の数だけあって。 「ああ、俺は貴女に産んでもらえて、父さんや姉貴や妹に囲まれて、幸せだ。」 ただ、家族があたたかくそこにいるという、それだけの幸せに勝るものがあるか。喧嘩もすればこころない言葉だって投げてしまう事もある。それでも育んでもらえた動物的本能の無償の愛に、何かを相応に報いたい。伊月俊はそう願う。 理性あるひとであるからこそ。 通話を終えて時計を見ると、もう午後の刑務作業まで時間が無い。勝負をかけるというなら夜だ。死刑確定囚にまで声を掛けることは難しいであろうが、看守の暴力を恐れる心理があるのなら。 「今夜、お話があります。」 一五分の休憩時間に同室者に声を掛ける。出来ればひとを集めてくれると助かる、と伊月は重ねて述べた。本当に優しい子だ、と頭を撫でられ、伊月は胸元にある今吉の言葉を握る。 夕食が終わって伊月は鉛筆と反故紙を借りて、縮尺が正確な図面を作った。刑務官の見回りや交代時間は曾祖父が遺した資料を参考に、こうすればもっと効率が良くなっているだろう、と更に考察を加えて次々と情報を書き込んでいく。刑務官は警察管轄の公務員だ。 名前の判明している、収監者に暴行を加えている看守の名前も聞けるだけ聞いた。そろそろと周囲の部屋に伝言を渡して貰って、就寝までの時間は潰れる、となったところで伊月に与えられている収監者番号が呼ばれた。 「はい。」 実に穏やかな返事に、今朝死人が出たとは思えない声に、同室の二人は凝視っとその凛と美しい青年を見る。 「何か、企んでいるか。」 看守の声に顔に、真っ直ぐに向けられる視線に淀みは無い。ただただ真っ直ぐに、伊月はひとをひとと扱えない人種を見やる。 「柳内光男、三三歳。少なくとも御父上、祖父、曾祖父はここの職員でしたか。確か叔父様が別の拘置所でも働いてますね。」 さらりと開示された個人情報に、刑務官制服に《柳内》と刺繍された男は瞠目する。にこりと青年は美麗に笑って魅せる。 「梶原勉、二五歳。祖父からこの仕事を受け継ぎなさった。お父様は生まれつき病弱であって、あなたが生まれる前に死去。猿濱らんの遺体第一発見者。」 伊月の声が聞こえるのか、所内の空気は静まり返っている。 「細川進一、五二歳。息子さんがこの度地方刑務所に就職なされたと。御父上は職を引退の後に保護司とは、随分の人格者であったと推測できますが、そうですか。残念です。」 刑務官の前では正座か直立に手は前に組む。嘆息しつつ、伊月はそのまま腰に手をやり、爪先を肩幅まで開く。 「人間の持つ残虐性と言うのは大変に興味深いお話ですが、生憎そろそろおなか一杯なんですよ。・・・いい加減にしなさい。」 その地を這うような低い声に、看守の三人は肩が跳ねた。それでも懸命に言い聞かせるのだ。目の前にいるのはひとに害をなした、ひとならざるものである、と自己正当化の言葉を。 「自分の正義?そりゃ御高尚であらせられますね。だからって、他人傷つけていいって理由になんねぇぞ、いい大人三人徒党組んで逆らえない奴嬲って殺して。」 この職業は世襲である事が多い。自分の意思でこの職に就かなかった、就くしかなかった、経緯は色々、それこそひとの数ほどあるとして。 「それは、果たして道徳が許す行為ですかね。」 腹にめがけて飛んできた警棒の先を伊月は膝で弾き飛ばし、鋭利な刃物でも連想させる怜悧な切れ長の目の中に住まう黒曜石色の瞳の歪みない眼光に、恐怖から戦慄を正しく体感する。 「茶番飽きたなぁ・・・。」 振りかぶられた警棒を、手首を砕いてまた床に転がす。 「どうぞ?梶原さん。猿濱らんをここに入れる経緯を作ったのは俺だ。猿濱らんに、恨まれてる同士、仲良くしても良いんですよ?」 その冷笑。伸べられる右手の白い肌。指先の包帯は薄汚れている。看守は奥歯を噛むとそのまま踵を返した。 「部屋に戻っていい。」 それだけを震える声で述べて。 言われたとおりに部屋に戻り、一瞬の静寂。手首を抑えながら、警棒を取り落したまま、看守は去って、直後に廊下は歓声に満ちた。刑務作業中に鷲の目が見たのは、怪我を碌に手当もされない収監者や受刑者ばかりで、正に伊月の行動は英雄足りえた。 「どうやったんだ、君は・・・。」 「なんか他人行儀なんで、伊月で良いです。伊月俊。俺の名前です。翔一さんには月ちゃんって呼ばれます。」 実に爽やかな笑みは何かを吹っ切ったような気配がして、そうか、と中年の男は微苦笑し、伊月か、と確かめるように繰り返す。 「聞いて、くれる?」 「何をでしょう。」 「俺の罪。」 「俺が聞いて、それがあなたの助けであるようなら。」 こくりと頷く男の正面に、伊月は座す。構えも気取りもしない、ただ、受け入れる。 「恋人がいた。伊月にそっくりの、綺麗で、優しい子だった。重ねたんだ、正直。」 そうして彼は恋人との馴れ初めから、男同士で生きていくには暗い世の中に心中を図って独りで助かってしまった、と腕の動脈にまで深く残る傷跡を晒した。伊月は何も言わないで、懺悔と言うには生々しく醜悪で、それでも美しい思い出を語ってくれた。裁判は終わっていて、同意殺人による七年の懲役を刑務所に過ごすのだとも。 顔に大きく傷のある男は、窃盗と殺人で裁判の途中。弁護士が控訴で懲役を縮める尽力をしてくれているらしい。 「この図面は、どうするんだい?」 「脱獄でもしたくなったら使って下さい。自画自賛ですけど、割と使えると思いますよ?」 遠くで刑務官の声がして、収監者の声がして、そのまま部屋の前で伊月の収監者番号が呼ばれて慌てて立ち上がって部屋を出ると、ノートの切れ端であったり反故紙であったり、様々な文章が綴られていて、持って来てくれた刑務官に顔を上げると、そこには苦そうにだが笑う、刑務所長が看守階級の制服で立っていた。 「あの・・・。」 「部屋に戻りなさい。」 「はい。」 頭を下げて両手に溢れる手紙や言伝を貰って、鞄に詰める。他人の目がある場所で読んでいいもので無い気がした。 「脱獄・・・。」 「あっ。ダッシュで脱獄!キタコレ!」 しかしネタメモ帳は没収されてあるんだった、シュートで没収、きたこれ、と力なく呟きながら、そうですね、と。 「俺は明日の昼にはここからいなくなります。保護司志望の友人の曾祖父母は保護司で、後輩には法律家のたまごなんていますから、いざって時は逃げて頼って下さい。償うんでしょう、罪を。生きて償って下さい。死刑反対ではないですけど、反対できるほどの考えも持ってませんけど、生きて償える罪であるなら、俺は自己欺瞞でも自己犠牲でもなんでもいい、生きていてほしい。自分がどんなことをしたのか、それからどんな風に生きるのか、見極めて、生きて、そして天寿を全うしてほしい。」 「伊月、君は本当に、俺の死んだ最愛の男に似ている・・・。」 「それは最高の褒め言葉です。」 最愛の人物に、だなんて。誰にだって愛するひとは現れるだろう、いるだろう、恋慕や思慕や、敬愛や信愛。親愛に隣人愛なんて言葉がある。誰にでも、愛するひとはいる。生きていくうちに見つけて愛して護っていくんだろう。 随分と遅くなってしまった就寝時間に、抱きしめるだけでいい、と同じ布団で彼と眠った。ずっと、夜半を静かに泣いた彼の腕の中で、強く囲われながら、ただ、死んだ彼らの顔をひとつひとつ思い出す。 きっとあのまま、あの時の姿のまま、伊月が正規にどこかへ就職したとして、親友の子供の顔が見れる年齢になったとして、その孫に籠球を教えるような年齢になったとして、あの時の姿から変わらず、死んだときの時間からひとつも変わることなく、伊月の脳裏に住むのだろう。 伊月が天寿を全うする瞬間に、きっと嘲笑ったり優しく手の差し伸べてくれたりするのだろう。 「月ちゃん、今日も刑務所・・・?」 「今日は初瀬準太郎さんですね。四五歳。もう直ぐ出所近いんで、家族に託けって頼まれたんです。そのあと南高次さん二六歳。このひと鬱傾向あるんで医療刑務所の手配頼んでみようかと。」 「精神科の医療刑務所、糞飛んでくるぞ。」 え、なにそれ。そこまで狂っちまってんだよ。花宮と伊月の遣り取りも日常に戻る。 「それって人権あんの?」 「あるから医療刑務所なんだよ。抗鬱剤でも処方しとけば。」 「薬に頼るの良くないと思うの。」 「これだからイイコちゃんは生易しいね。信頼できる医者手配しといてやるとでも言うと思ったかバァカ。」 「しろってか!手配しろってか!?」 「ピックアップしとくから持ってけ。」 「さんきゅー花宮愛してる!」 「反吐が出る・・・。」 「まこっちゃん、なんでワシより先に愛しとるとか言われてんの。返して。」 「翔一さんにはいつでも言えるでしょ!」 いってきます、と放課後を終えて事務所に短時間だけ顔を出して横浜刑務所に向かうのは最近の伊月の習慣だ。看守の暴力行為に強く出れなかった所長は伊月俊に目を付けてしまったらしい。時折伊月宛に桜の判が捺された手紙が届く。受刑者や収監者からのごく個人的な手紙で、伊月に宛てるものであると検閲もあまり厳しくは無い。手紙を返したり、場合によっては本人にも会いに行く。家族に顔を合わせ辛かったり、誰かと顔を合わせて話をしたい、というのであれば伊月にとって断る理由は特に無い。 出所しても帰る家が無い、と泣く者があれば木吉にも相談するし、場合によっては直接木吉の祖父に赴いて貰う事もある。 弁護士や検事とは違う意見が聞きたい、と言われれば降旗にも法律の相談に、間に合わなかったり手に余れば諏佐や若松にも意見を貰いに行く。 単純に話がしたい、と言われて聞いていると、裁判記録には載らない事情が垣間見えて、花宮に相談もしてみる。 「月ちゃん、最近余所の男の匂いがする。」 「仕方ないでしょ。安部さんが面会の度に抱きしめたいって言うんですから。」 「なんなんそれ!なんなんそれ!?」 「翔一さんが俺を刑務所に放り込んだのが全部の原因ですからね?」 円タクを捕まえて横浜刑務所への道行、伊月は差し入れの類で膨れる鞄を膝に抱きつつ、そうやって笑う。 「だから翔一さん、ちょっと。」 運転手の視線が進行方向に向いていることを鷲の目はミラーで確認し、指先でちょいと愛しい男の名前を呼ぶ。 そっと羽が擽るような、風が触れるような、甘さも柔らかさも確認出来るまで足りないくちづけに、ぱちん、と今吉が瞬けば、丁度計ったようにタクシーが停車する。 「それじゃあ、しばしお待ちを。」 お願いします、とタクシー運転手に紙幣を渡し、伊月はそのまま通い慣れた刑務所面会室の受付を慣れた様子で済ませて刑務所内に凛と背筋を伸ばしたうつくしい姿勢を崩さずに、ちらりとその切れ長の目からタクシーの後部座席に視線を流すと淡く微笑み、姿を消した。 花宮から入った情報であれば、収監者や受刑者を虐待していた看守達は人権再教育を受けた者と、自分まで檻の中に入ってしまった者もいた。 法律というものは誰に対しても平等だ。平等であれと作られている。今までの歴史を生きた国のひとびとが意見を言い合って、罰する罰しないと決めてきた歴史。残虐であったり馬鹿みたいに単純であったり、意外なほど軽い事件に重罪もあった。 歴史は本の中の出来事では無いし、何百何千何万頁とあっても全てを書き切る事なんで出来もしない。隠された罪は誰が知る。知らないから隠されたのではなかろうか。 逆説の中で生きる今日の青空は少し曇って、夕方からは雨が降りそうだ、と今吉はタクシーの後部座席で溜息を吐く。 ただ、刑務所内部を軽く経験して見学して帰って来い、と放り込んだ企みは、まあ確率としては低くなかった現状の有様を見せているのは間違いなく伊月の人望に他ならなく。 「なんや、月ちゃんは名前があっても無くても綺麗なんやんなぁ。」 少し憎らしくて悔しくて、気が狂うほどに愛おしく、恋しく、そして大変に誇り高い。同時に実に危うい存在であるとも言えた。 伊月は過去に幾つも、今吉に対しては愛を明言し、感情を身体を遠慮なく貪れと、無防備に全てを曝け出してくる。今吉がその味に飽きれば彼はどうするのだろうか。静かに姿を消すだろうか、それとも何も言わずに、花宮のように隣に佇むだろうか。 天野の狙いは残念ながら物見事に成功した。 法務の腐敗を、看守による私刑を伊月は断罪。駒になるべき存在ではないものが奇妙に駒として働いた。伊月にその自覚はあるだろうか。あればいい、と今吉は思う。曾祖父の遺した資料を借りて、矛盾に満ちた美談を造り、きっとひと時でも誰かのこころの片隅に彼の凛とした姿勢は残るのだろう。 だとすれば、と詮無い思考は後部座席の開閉音で中断を余儀なくされた。差し入れの類で膨らんでいた鞄には今度は手紙や石鹸が入っている。 「月ちゃん、指どない?」 「景虎さんにも相談して、要らない爪は剥しちゃいました。ちゃんと食事栄養偏らなければ来月末には元通りになりますよ。授業は感染症防止に宮地さんから貰ったゴム手袋してます。」 「さようか。」 「はい。出して下さい。翔一さん直帰します?」 「月ちゃんも一緒がええ。」 「はいはい。」 都内の下町の路面電車の停留所を運転手に告げて、ぽすんと伊月は座席に沈む。インバネスの裾がひらりと踊って学生服の胸元に落ちる。 「寝る?」 「最近少し睡眠不足ですかねー。手紙の人生相談って言葉選ばなきゃってコガと相談しながら書いてるんで。」 それはまた一介の男子学生には重たい話をしている事だ、と思わず微笑ましくなって、指通りの良い、艶が色めかしくも清廉な、天使の輪色に耀く黒髪を今吉は撫ぜる。もっと、と擦り寄ってくる様子は猫によく似ている。 「あ、ば火神の中期考査対策ノート作んなきゃ・・・数学・・・。」 「大変やなぁ。」 「翔一さん手伝ってー?」 「月ちゃんの仰せのまま。数学どの辺?」 「微分積分と統計辺りは叩き込まないとですねー・・・。」 「眠い?」 「すんません、眠いです。」 おいで、と肩を貸してやれば、素直にこてんと頭を預けてきて、ほんのりと薫る清潔な石鹸の香りと、伊月本人の馨りだろうか、どうにも惹きつけられてしまう、甘くも無ければさっぱりとした、爽やかで艶やかな香りがする。居心地のいい場所を探って、単の袖をつんと引っ張った様子に、袖に隠してその指先を絡め取った。 「月ちゃん、よぉ頑張ってんね。」 さらりさらり、白い頬に滑る毛先を撫ぜ、髪に鼻先を埋めると鼻腔を体の芯までその匂いに酔わされる。 「がんばれって、しょーいちさん、ゆった。」 うつらうつらと揺れる声が述べ、どくり、心臓が高鳴った。 伊月は今、何を言った。 漠然とした恐怖にレンズの奥に瞠目し、頭を撫ぜていた手が止まる。 頑張れと、今吉が言ったから、頑張った。 「つき、ちゃん・・・?」 とんでもない事をしてしまったのではないか。 とんでもない事をしてしまった。 今吉が言ったから。そのひとつで伊月の行動は説明されてしまった。頑張れと、言った。託けた。学生服のポケットに紙片が覗くのを滑り取れば、伊月の手帳に記した今吉の、相違ない言葉が、《頑張ってな、月ちゃん》と綴られてある。 言った。言ったとも。頑張れと。暗に猿濱らんの真実を探って来いと、そうやって送り出した。 ひょっとしたらこの美しい魂を持つ青年は、今吉が死ねと言えば死んでしまうのではないか。 馬鹿げている。とんだファルス。それでも安く眠る彼が、きっと殺されても文句は言えない程に無防備に眠る彼が、否定してくれる気が、果たして。 「堪忍して、月ちゃん。」 これは下手に喧嘩も出来ない。下手な言葉で愛を囁くことも出来ないのでないか。 『あなたに恋していいですか、翔一さん。』 会計報告こちらです、と明らかに言い間違った声音に、今吉が伊月に淹れさせた珈琲を啜っていた時の言葉が蘇る。 『ええよ、好きなだけ恋して?月ちゃん。』 あの頃は、月ちゃん、なんてふざけた綽名は伊月のぬるま湯の坊主、という揶揄でもあった。今吉の言葉を聞いて己の言い間違いに気付いたのか、耳まで真っ赤に染めて、泣きそうな顔で謝罪と訂正を繰り返す、幼気な様子が健気な様が、こころの奥に暖かな綻びを生んだから。 何も欲しがらないと、そう決めていたこころは簡単に裏切った。どれだけ若い頃に戻ったのか、と年甲斐無く、惚れ込んだ。 「お客さん、大丈夫ですか?」 もう少しで着きますよ、と運転手の声に、ああ、と今吉は応え、薄い肩を揺すってやれば、薄い瞼が扇形の睫毛が持ち上がって、ぽやりと今吉を眺め、しょーいちさん、と幼い発音で、花のように笑った。 「月ちゃん、もう降りらな。」 「はいー・・・。」 目元を擦ろうとする手を取り上げ、擦らんの、と告げれば素直に従って、荷物を膝の上に揃え、静かに雰囲気が凛と爽やかに、正しく整っていく、という表現が壮絶なほど似合う。どうかしました、と小首を傾げた伊月に、なんも、と応えた声は、吐息に近かった。 運転手に料金を支払い、夕飯の匂いが漂う下町の、慣れた雰囲気で挨拶を受けて一つ余計な声を返して窘める道行はいつも通りで、この向こうに孤児院がありましたよね、と世間話序でに、どうなったんでしょう、とぼんやりと零す横貌に、その美貌に、視線は奪われると言うのが、やはり正しい。 「翔一さん?」 どうしましたぼうっとして、と覗き込んでくる様子に、思わず縋りそうになる。 「月ちゃん、おらんならんとって。」 「それ、この間聞いた気がします。いなくなりませんよ。」 それでも求める言葉をきちんと返してくれる。 「月ちゃん。」 「何ですかー。」 今吉の自宅に続く階段の下、今度は何だ、と眉を顰めた伊月の目の前に、ぱらりと細かく千切られた紙片が季節外れの桜吹雪のように散って、夕方の風に攫われた。 「い、まの!翔一さん!俺のポケット探った!?」 詰るような声に、告げたいのはこれだけだ。 「ワシの事、好きでおって。」 何を今更、と肩を竦め、しかし目元を赤く染めた伊月には、今吉の心情を図れと言うほうが、無理な話だ。しかし。 「さっき破ったの、もう一回書いてくれるんでしたら、明日も愛してます。」 そんな風に、甘く囁く。 今吉探偵事務所、明日も平常業務。 非日常なんて、ありふれた矛盾を誰が喜ぶというのか。 |
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ちょっと馴れ初めの一部をどうぞ。
初出:2013年5月27日 20:37
ほんとに翔一さんって月ちゃん嫌いだったのね、と思いましたまる。
20130903masai