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断髪令、明治四年に布告された、髪型を自由にしてもかまわない、というもので、文明開化のひとつ、所謂、散切り頭の発祥だ。
髷を禁止するものでもなければ散髪を命じるものでもないが、布告直後は随分と混乱したらしい。 因みに明治二八年に朝鮮で近代化作政策に用いられた際、儒教の教えから反発と、また日本の真似をするのかと反日家の声もあって撤回されている。 まあ、つまり何を述べたいかというと、日本人の髪型というのは、明治維新からこちら、只管自由であるという事だ。 今吉探偵と伊月助手とプリズンブレイク。前篇。 風紀の腕章は週一で伊月の左腕に現れる。 服装違反、過度の装飾、不良行為等、風紀委員の道徳で誠凛大学内の風紀は保たれており、校則は比較的緩いのは、生徒の自主性と道徳や倫理を学ばせるためである。これは生徒手帳の一頁目、学校の目的として記されている。勿論教師は親のように見守ってくれるが、干渉と言うほど関わりは実は無い。精々授業中の他の生徒への迷惑行為を窘めるために雷や拳骨を落とすくらいである。 「お、今日は伊月が風紀当番か。」 「別段乱れる風紀は無いけどね。」 「けど、この間の入学式に不審者が入り込んでいた、って・・・。」 風紀の腕章に威圧されたような一年と、ほのぼのとからかって構える三年と、慌てて詰襟を整える二年と、反応は様々。籠球部の昼食は暖かくなってきてからこちらは屋上でミーティングかてらが恒例だ。因みに今年も新入部員決意表明宣誓はやった。教師には今年もやったか、と説教は食らったが、昨年度と同じように頑張りなさい、とも言葉を貰って、特に顧問の武田先生は嬉しそうに笑っているのを見られては表情を引き締める、という芸当があちらこちらで見受けられた。 屋上の立ち入りも自由であるし、綺麗な五月晴れにさんわりと風が吹き抜ければ、太陽の下にきらきらと黒髪が靡く。凛と背筋を伸ばして、伊月の様子はいつもと変わらない。 「あとはドクターストップが解ければ・・・!」 「自業自得じゃないか?」 あまりオープンにはしていないが、一週間も気配を絶った代償に、仲間に事情は吐かされた。医師とカントクの許可が下りない限り籠球のボールには触れないと来たものだ。本人としては跳んだり走ったりに問題は無く、柔軟もきちんと参加できるが、腕に過度の負担のある練習には参加出来ずにいるのが歯がゆくて仕方がない。僅か一週間で削げた筋肉は取り戻すのに最低でも一ヶ月は掛かる。足元は殆ど問題ないが、腕の、特に左腕が全体的に細くなってしまって、右手は指先に包帯が残っている。爪が割れているので新しい爪がある程度の育つまでは最低でもペンが持てるくらいには、と包帯が残って、ボールが扱えないのは当然とも言えた。悔しいけど降旗司令塔の成長を俺は見護るよ、なんて後輩に発破を掛けたりもしている。臆病者だろうと彼は容赦がない。練習に参加出来ない分は木吉と並んでカントクの補佐や部内の雑用で走り回ったりもする。ので、体力面の心配は無いが、ボールに対する勘が鈍っていそうではあると、まだ練習の甲斐を見出している。相田リコではないが、鍛えていくのは楽しい。 「けれど名誉の負傷でしょう?」 「ありがとう福田。名誉と言うほど働けた訳ではないけどな。」 誠凛大学生の一部にトラウマを植え付けた男は確かに伊月の決定打で警察に捕縛された。今は白骨化した遺体があちこちから発掘されているらしい。 「まあ、とりあえずは早いうちにボール触れるようになるのが目下、って所だな。」 頼むぞ正規司令塔、と日向の声に、美しく微苦笑したと思ったら。 「ひゅーが、ちょっと襟元開け過ぎ。」 なんて、包帯の巻かれた指先をぴんと翻して指摘。おっまえな、と肩から腕を回されて親友と笑い合うのも日常だ。三年生は秋の大会が終われば部活動は出来ない。誠凛大学は三年制の予科と更に最高学府三年制、選択学部によっては四年制とそれが修了してからも研究科や大学院がある。都内に新設されたほぼ最高学府は今後も更に設備や投資がなされる予定でもあるらしく、まだ建設途中の学び舎もある。伊月も含まれる第一期生にとっては最後の部活動が出来る年であり、時間に余裕のない年でもあった。 「水戸部は医師免許取れたら聾唖学校の教師志望だっけ?教員免許も取るの?」 「養護教諭志望だから教育学部は専攻科だって。」 「専攻科出来るって本当だったんですね。」 「伊月は大学院志望だったか。」 「ううん、研究科。目と脳味噌研究したい。」 「伊月サン、その言い方なんとかなんねぇ・・・すか?」 「火神はまだ決まってないんだっけ。」 「あー、元々親父の勧めで入学したんで、まあその、語学科を・・・。」 ばかがみがごがく!?と一同驚愕の渦に放り込まれたが、なんだよですか!と真っ赤な顔で叫ばれた。 「英語って敬語がねぇん、すよ。だから、その辺ちゃんと一回考察してみてぇなぁって。語学科だったら、予科ねぇし・・・です。」 「日向は体育学科で教育学科だろ?身動き取れんの?」 「やってみせるわ。ナメんなダアホ。最近はカゲトラさんに教わって脱臼くらい嵌めれるし。」 将来のためにそれぞれ本気に勉学に励む準備に今は忙しい。一年生は一期生と二期生の遣り取りに、先輩の声に、それぞれの櫂を見る。自分はどの道に進むのだろう。梅雨が終われば予科に入らなければならない人間は選択を迫られる。よってに上級生は昼食時にこの話題を選んだのだろう。 「日向主将は教員志望でありますか?」 「あー、まあ。武田先生の跡継ぎ、なりたい、つか。」 「言い切らないところがヘタレだよね。」 「うっせ。」 「降旗先輩、法学科ってどんな風な授業をなさるんですか?」 「とにかく暗記が多いかな。俺の場合は。予科終ったら法律家もどの道に進むか選択するんだって。」 「医学部は伊月先輩と水戸部先輩と・・・。」 「ああ。俺だよ。河原。まだ教科書でしかやってないけど。」 「覚悟しとけよ。二年なったら急に解剖やらされっから。」 「まじすか。」 「おおまじ。なあ水戸部。俺は医師免許あっても多分死体相手だろうな、使うの。」 「研究科って言ってませんでした、伊月先輩。」 うん、と黒子が首を傾げるのに伊月は、そうだな、と苦笑する。 「第一希望としては研究科で視神経や脳神経研究なんだよね。けど最近警察で検死解剖とか、あと軍から宮地さん・・・。」 軍部の薬物検査が色々あって処理も終わって、と尋ねてきた宮地は最近伊月を口説きに掛かっている。曰くの事、伊月の知識や頭の回転が軍部の研究室に欲しい。 「もてる男はつらいですね。」 「からかうならそれ相応の表情でからかえ。」 「僕の表情筋は酷く面倒臭がりのようなので。」 「表情筋を表示、よう禁止!キタコレ!」 これさえなけりゃぁな、と思わず肩の力が抜けたのは毎度恒例の事と言える。メモ帳を携えて真剣な表情で何をしているかと思えばまさかの駄洒落。夢破れた後輩の数も数知れず。それでも新入生を交えてのゲームでは猛禽を思わせる鋭い眼と的確な指示で尊敬はされた。が、この度の怪我で相田に正座させられた件で、カントクの最強ヒエラルキーはきちんと知れ渡った。特に一週間の失踪と左肩の脱臼と利き手の指先の負傷は鷲の鉤爪を持つ選手としては頂けない。綺麗な反面教師とも成り得た訳だ。それでも人徳と言えようか、信頼や信用足りえる先輩ではあるようで、更に風紀委員の肩書もあって、と割かし後輩には畏怖は駄洒落で相殺されて懐かれている。チームの司令塔と言う立場からもそれは大変有難い。木吉も施術した脚の調子次第で部活にも顔を出してくれているので、誠凛籠球部は主将を軸に今日も円滑に回っている。 「そろそろ午後授業始まるよ。」 スラックスのポケットから取り出した伊月の懐中時計は控えめに百合の彫刻がされてある。屋上に広げられていた惣菜やら弁当やらも片付いて、後輩の進路に助言を終えると、ひらひらと手を泳がせる。これも日常。 ばたん、と大きく分厚い扉が閉まれば、あとは階段を下りて各々の教室。医学科予科は別教室だった、と水戸部は聊か伊月を急かしたが、先行ってて、と伊月は笑った。 「さて。」 階段の踊り場に降り立つと、伊月は仲間が全員階下階に下ったのを確認して、視線を持ち上げた。 「話を聞きましょう、天野さん。」 屋上に上がるには階段を上がって扉を開ければいいが、その反対側には特別教室や資料室の、到底普段の授業では使われない部屋がある廊下に続く。専門の教師が資料を取りに使いに来る程度の長い廊下の柱の一本に、ひょこりと赤茶けた髪が跳ねている。 「誠凛には頭髪に関しての規則はあんまり緩いんですけどね、伸ばした髪は後ろに纏めるように、とはあるんですよ。」 校則違反、と指摘の声は随分と冷ややかだが、両腕は緩く拳を作って体の脇に、脚は肩幅に、実にさりげなくも迎え撃つ準備はある。 「伊月、根性悪いてよう言われへん?」 「いいえ全く。」 男にも女にも大人にも子供にも、どれにも見えてどれにも見えないその生き物は、誠凛大学の水色のラインが入った学生服とスラックスに身を包んでおり手には学生帽を玩んでいる。小脇にインバネスも持っている。 「職員室に連行されます?」 「自分は何の違反もしてへんよ?」 「存在自体が違反なんですよ。」 いややわぁ、なんて笑う仕草が今吉翔一とよく似た天野は、しゃぁない、と優雅に肩を竦める。 「それより、自分飯抜きなんやで?伊月が声くれへんから。」 「俺も俺の弁当は惜しいんで。」 「いつから気付いてた?念のため。」 「そんな早くじゃないですよ。上がってきたら鷲の目の範囲にいたんです、天野さんが。」 「やっぱ目ぇ刳り貫くべきやった。」 自分にしては失敗や、と天野は舌を出す。そのまま廊下を横切って窓を開けると、爽やかにざんばらの髪を風に巻き上げる。 「猿濱らんが死んだ。」 「・・・え?」 「自分からの話はこんだけ。あとは・・・あれか真に聞き。自分より性根は悪ないよって。」 ほな、と犬歯を見せて笑った顔は、血に飢えた狂犬を彷彿とさせ、そのまま天野は窓から飛び降りる。追いかけても無駄だろう、という伊月の考えは正しく、放課後に腕章を返しに行った職員室でも、上階の窓から飛び降りた生徒や不審者は報告されていなかった。 一部参加の部活を抜けて今吉がよく世話になるらしい整体医師に肩の調子を診て貰って、事務所に行くのが最近の伊月のルーチンだ。整体医師は江戸時代に京都からこちらへ来て根を下ろしたと診察中の片手間に聞いた。整体医師は東洋医学を軸に薬物などは一切用いずに己の手だけでひとの骨や筋肉などを正しい形に整えてくれる。 「ちわっすー。」 さて何と切り出すべきか、と昼の天野の言葉を反芻しつつ、事務室では相変わらずぱきぱきとチョコレイトが噛み砕かれる音がして、新聞を捲っている霧崎第一大学のブレザー姿の花宮と、掠れた単によれた袴の今吉が、別段することも無いようで、会話も無く事務室に煙管の煙が漂うのに伊月は扉を閉め、花宮の仕掛けたトラップを避け、今吉の背後を通って、事務棚の脇にある窓を開け放した。 「月ちゃん、珈琲頂戴。」 「俺もー。」 「カフェイン中毒で死んで下さい。」 言いながらもデスクにインバネスと鞄と学生帽を預け、ミニキッチンに向かうと水を火にかけ、珈琲豆をがりがりと挽く。片手鍋を出して水に目分量で紅茶葉を煮込み、お湯が鍋の中で騒ぎ出すまでは一息だ。 どこから切り出そう、と伊月はその広い視野に新聞の一面記事の見出しを読む。流石に距離として新聞の文字は読むことが出来るほど視力は良くは無い。視力と視野って関係ないんだなぁ、なんて考えていると、湯が煮立つ。真空硝子の中に通して珈琲と、茶漉しを使って紅茶がティーカップに用意される。ソーサに載せて、盆に載せれば、あとは今吉が適当に茶請けの菓子を持ってくる。 「なんてもん読んでんだ!」 珈琲を配って置いて、伊月は空になった盆を思い切り振りかぶった。花宮はずるりと背凭れを滑る事で側頭部への攻撃を回避。 「あー?その白い太腿に雄二は手を這わせ、すみれの嫌がる脚を割り拓いた。その唇は紅を塗られた唇から発された言葉とは裏腹に、しっとりと女の蜜を帯びスミレは泣きながら・・・。」 「朗読せんでいい!!」 「何読んでんだつったのお前。てか気付や。」 「は?なに?」 「これの作者名。」 「剣田勢登朗。」 「はい、名字と名前二文字入れ替えて?」 「けんだ、せいとろう?せいけんだろう・・・正拳だろう政権キタコレ!」 「黙れ。濁らねーし、セロトウって読む。」 「瀬戸健太郎!?」 合格、と鼻であしらうように誉められたが、何か釈然としない。 「で?瀬戸が新聞でポルノ書いててどうしたの?」 「気付けつってんだろー。」 おらよ、と新聞ごと押し付けられて、読みたくも無い官能小説を読んでみる。今吉が面談室から花梨糖を持って来て、器用に袋を広げる。 「・・・ヒロインの名前表記?」 「せーかい。」 やっぱり釈然としないが、これはただの官能小説等で無く、瀬戸の趣味でも無く、何らかの形で作られた暗号文、というのが本当の正解のようで、頭の良い奴ってやっぱどっかトんでんだなぁ、と伊月は声に出さず嘆息するところで止めておいた。 「今日は御客様は?」 「うんー?予約とかは入ってへんやんね?」 ちょっと待ってくださいね、と新聞を読みながら珈琲に口を付ける花宮傍目に伊月は黒革の手帳を開く。 「無いですね。明日は花宮が水谷邸に出奔ですが。」 「まじでー?かったる・・・。」 「頑張っておいでや、まこっちゃん。」 「つまり今日は暇なんですね。」 「暇やねぇ。」 のんびりと珈琲を啜って紅茶の表面温度を調節して、伊月は決算の近い帳簿をデスクに出そうと抽斗に手を掛け、やっぱり止めた、とばかりに菓子に手を伸ばす。 「肩の調子どない?」 「もうほとんど。右手のほうが問題です。」 「後先考えて行動しような、今度から。」 「はいはい。」 また静かに部屋の空気は揺蕩って、ばさ、と新聞が投げ出される。一面には特に気になる文字も無い。 「月ちゃん。」 「はい?」 「何を落ち着かへんの?」 くるん、と指先に万年筆が回って、こつり、伊月個人の日誌に黒く染みが出来た。 「な、んで、突然。」 思ったより震えた声が出た。きゅ、っと一度くちびるを噛むも、肩甲骨の辺りに、戦慄っと走った寒気に、今吉の顔を見た瞬間、竦んだ。いつも笑みの形に結ばれる三白眼。精悍に整う貌には読めない表情がある。いつも通り、では、無かった。 「知ってるみたいだし、いんじゃね?」 とん、と花宮が叩いたのはデスクにあった一枚の紙面で、ぴらりと弾かれそのまま伊月のデスクに滑り込んでくる。《調査報告》と始まった文面はタイプライターで仕上がったもので、文責は原一哉だった。 「死んだ、って。」 「月ちゃんが知る術、無い筈なんやけど。」 「猿濱らんが、死んだって、本当ですか!?」 数週間前、神奈川の鶴見で伊月が確保した、正確には確保させた男。享年一四歳、とその紙面にははっきりと書かれてあった。 「久良岐郡根岸村字広地、横浜刑務所。独房にて所持していた縄で持って首吊り自殺。因みに洗面台の下にぶら下がる形での自殺だそうだぜ?」 「可能か、月ちゃん。」 「洗面所の排水管に縄を括り、彼は小柄でしたから、小柄でなくとも体が一〇センチ以上浮くようなら、誰でも・・・可能です。」 「そうだろうよ。洗面台の下に座り込んでいる様子を主任看守の梶原勉が発見。直ぐに心肺蘇生を試みるが、甲斐無く死亡が確認された・・・だとよ。」 「刑務官、は。」 なに、と花宮が目元を眇めるのに、今吉は腕を組んで嘆息しただけだ。まるで伊月が何を言いたいか、そんなものはお見通しだと、そんな風に。 「猿濱らんは未だ裁判も始まってなかった筈だろう!?刑務官はどうして猿濱の持ち物を検査していない!アイツの犯行を考えれば、縄なんてどこからでも調達できただろう!?」 「その通り。が、収監前に縄は全部押収した。全裸にしてまでだ。それから髪の毛も刈った。」 「誰がやった。」 「俺以外にそんなこころ優しい奴がいるか?」 でだ、と花宮は静かに立ち上がって、昏く鋭い刃のような眼光を伊月に向ける。 「猿濱らんが死亡した。これは事実。しかし面には出さない情報だな?お前の周りだと、俺か今吉。ああ、健太郎や康二郎はお前には甘いからどうだか知らねーが。」 「その情報はいらない。」 「今度康二郎にでも可愛がってもらえや。今吉とは違う魅力に吃驚すんぜ?」 「それはワシがお断りやね。」 伊月の鋭利な切れ長の目が、黒曜石色に光を失わずに日本刀のような強すぎる美しすぎる眼光で睨み返してくるのを花宮は、笑い棄てるようにあしらう。 「猿濱らんはどうせ死刑になってたぜ。」 「それは司法の手が決める。まだ裁判は始まっちゃいなかった。」 「ふはっ。裁判を待つまでも無く結果が解っていたから・・・自殺したんだろ。」 「それは本当にお前の意見か、花宮。」 「あ?」 かたん、と静かな音で伊月は立ち上がる。俯瞰で見るとこの部屋は恐ろしい位に壮絶に安定している。無駄も遊びもある空間なのに、そのくせ死角が無い。 「天野さんに会った。」 「天野屋・・・。」 眉が顰められた印象に、伊月は顎を引く。狙いは花宮の論破でいい。 「そう、お前や翔一さんや、まして瀬戸でも古橋でも無く、天野屋、とお前が呼ぶあのひと。どうして天野さんは猿濱らんの死亡を俺に教えた?お前たちじゃ、そう、公安じゃ、簡単に手を出せないからじゃないか?俺には教える価値があるから教えたんじゃないか?なあ花宮?お前らは絆で生きていない。そこにあるのは本能だ。翔一さんの事を静かにどこかに報告しているのも、全部そうだろう?違うか。生きるか死ぬか、その蜘蛛の本能だ。」 がたんっ、と聊か乱暴に花宮は着座する。パキンとビターチョコレイトを齧り折って、がりがりと噛み砕く。狂犬の牙の印象に、戦慄っと肩が震えそうなのを伊月は拳を握って耐える。 「生きるか死ぬか、な。」 随分な御高説を賜りまして侯爵サマ、と肩を竦めた花宮に、未だだ、と伊月は凛と伸ばした背筋に冷える汗を隠す。未だ、ここで終わる筈がない。 「じゃあちょっと死んで来いよ。」 横浜刑務所所長の椅子は随分と座り心地が良さそうだった、と猿濱らんが死亡した独房で考えているのはどういう事だ。 灰色の収監者服を着て三時間。休憩時間に受刑者同士の殴り合いがあって、仲裁に入った。 「どうしてこうなったの翔一さぁん・・・!」 思わず呻いた伊月は、今日の出来事の復習から行う事にする。学校に行くために、朝練はこの時期、早い連中なら五時には体育館に入っている。伊月もその例に漏れなかった。部活動を終えて、汗に濡れた袖無しと結びきりから学生服に着替えようと部室へ戻る際に、今吉が早朝の誠凛大学校舎前、と大変似合わない背景を背負って現れて、そのまま伊月を俵担ぎに抱え上げ、車の後部座席に押し込まれ、寒いやろから着替えなさい、と差し出されたのが進行形で着ている受刑者の制服。ぺらぺらとした粗末な布地は洗濯に毛羽立ったのか、少し肌が痒くなる。そのまま車で連れられたのが横浜刑務所で、その時になって初めて運転席にいたのが花宮だと気付いた。眼鏡を掛けてマスクをしていた。着衣も似合わない襤褸を着ていて、笑いそうになったが、話は通してあるとのことで連れられたのが刑務所所長室。無駄な装飾の無い、国旗だけがやけに存在感のあった部屋では今吉と刑務所所長の会話に入っていけるはずも無く、明日のこの時間には出ておいでや、と今吉が耳打ちを寄越したのは刑務作業の時間で、そのまま伊月は石鹸作りの輪に看守の脚で持って蹴り入れられた。ここまでが午前。 一二時に昼のベルが鳴って、昼休憩。運動場に出たり部屋で読書をしていたりと様々だったが、食堂で受刑者同士が殴り合う事態が発生。誠凛大学籠球部司令塔はうっかり仲裁に入った。そして殴られた。花宮曰くの良い子ちゃんはそこで色々と頭に来ていたモノが爆発したらしい。 「うん、殴り返したのは良くなかった。」 それから捕縄でもって手首を後ろ手に縛られ、独房に入れられた。独房は文字通りの一人部屋。しかし寝具の類は一切に無く、不衛生な便所と洗面台がある。伊月含めて三人が独房入りを果たす際、こないだ若いのが死んだ部屋だ、と受刑者が囁き合っていたのと洗面台の排水管に凹みを見つけたのが決定打になった。 ここまでが今吉の計らいか、それとも偶然か。伊月は記憶を叩き起こしてその錆びだらけに排水管に指を伸ばす。座り込んだ伊月の肩の辺り。 「あいつ、小さかった、な。」 虐待されて食事も碌に貰えず孤児となって盗みや強姦、強姦致死を行った少年は、ここで一四年の生涯を閉じた。同情しない、事は、無い。今まで出会ってきたどんな殺人者も、犯罪者も、被害者だって狂わされた運命を自覚があったにせよ無自覚にせよ、呪っていた。どんな心境が他人を殺すに至るのか、それだって伊月にとっては未だ勉強の足りない域で。理由があっても無くてもひとはひとを殺せる。 「なんで、死んじゃったかな。」 自殺。自死。色々と表現はある。自分を殺すとは、どんな心境なのだろう。自分を殺す。比喩で無く。声無き女中も自死だった。中江弘子も自殺だった。国谷学もあれは見方によっては自殺未遂だろう。 「絶望、現実からの逃避、恋人に命じられ・・・。」 ふむ、と伊月は顎を摘まむ。今吉に死ねと命じられたら伊月は死ぬだろうか。場合による、と伊月は考える。少なくとも今は死ねない。妹が嫁に行く若しくは婿を採るまではあの家にいる、とも決めている。次の秋の大会でチームに栄冠を齎して、医学がどうのこうの、これは今や今吉のために学んでいる学問だと言っても過言ではないが。消去法をまず選ぶ。伊月家はおそらく近くに婿を貰う。姉が学校を卒業してからになるが。そうすれば血は絶えない筈なので、伊月家の長男、という肩書は要らなくなる。秋の大会は精一杯、血反吐を吐くほどに頑張ればいい。 「あれ、結構近いな。」 詰まる所、籠球が無いなら伊月は自分を構成するモノが一つ減って身軽になる訳だ。じゃあ寿命は次の大会が終わったらか、と思考が行き着けば、急に頬が熱くなった。綺麗に拳を入れられた左頬がじんじんと熱を持ち、手拭いを濡らして頬に当てる。 「そっか、死ぬってそんな簡単だったのか。」 洗面台の下にもう一度座り込み、ヒトの重みで凹んだそれを撫ぜる。 「簡単・・・。」 そうして猿濱らんが座り込み横たわり、畳も無い部屋のがらんどうを伊月は眺め下す。 「・・・な、わけ、ない。」 床に染みがあるのはおそらく死んだ事で体が弛緩して排泄物が落ちたから。首を吊って舌が押し出されて顔は鬱血し血管を塞いで顔が血液で膨れ上がる。 「これ、なに・・・。」 その赤黒い斑点は、乾いた血液だった。 窓も無い部屋に時間が測れず、蛍光灯の光に黒髪が輝く青年を刑務官が引きずり立たせるようにして独房から解放されたのは一六時半。ここから夜の二一時就寝までは夕食と余暇になる。 世話になる部屋は四人部屋で、この間一人が自殺して空いたと言うのだから呆れて声が出ない話だ。洗面台に鏡があったので確認させて貰えば、頬は腫れも無く、ただ爪でも掠ったのか、少し抉られて血が滲んであった。 「なあ、お前、何したの?」 「言わなきゃ駄目か。」 同じ年くらいの男の問いに、伊月本人でさえどうしてここにいるのか理解できないのに、聞かれて応えられる訳がない。 「俺さ、親殺したんだよ。尊属罪だってよ。」 「死刑判決出たの?」 「いやもう、決まってんだろ?尊属殺人だぜ?尊属殺人。」 「確かに無期か死刑だった筈だけど、そんなに嬉々と自分の罪を語れるなんて、人間性疑うよ。」 「・・・だって俺、人間じゃねーし。」 「は?」 男はそのまま黙って、壁際で座り込んでしまった。伊月の荷物は筆記具と本が入った粗末な鞄で部屋に届けられた。ネタ帳が入っていないのは嫌がらせだろうか、黒革の手帳は入っていた。一番新しい頁を捲ると、《ちゃんと出て来なさい、頑張ってな、月ちゃん》と見慣れた流麗な文字が刻んであった。 「翔一さんてひとは・・・。」 もう、とどれだけ優しい笑みであるか自覚もせずに、伊月はその一頁を破り取ってポケットに入れた。 「ねえ、君さ・・・。」 「俺ですか?」 中年程の男に声を掛けられ、きょとんと小首を傾げると、ぽんと肩を叩かれた。 「ショウイチサン、って誰だい?ああ、話したくなければ話さないでいいんだ。」 「・・・強いて言うなら俺がここにいる最大の理由ですかね?」 伊月の随分と憂いだ表情に、彼は眉間を抑えた。誤解された自覚も伊月には無い。あとは顔に大きく傷のある、明らかに堅気で無さそうな男が同室にて新入りには興味無さそうに読書中。伊月には今吉の目的がさっぱり読めてこない。 ただ、解ったのは猿濱らんが自殺であったとして、その前に出血するほどの怪我をしていた事。伊月の体格と照らし合わせると、彼の膝の辺りに大きな傷があったと思われる。しかしこの環境で血が滴るほどの怪我をするとは、と伊月は腕を組んで顎に指をやる。 看守から声がかかって収監者番号で呼ばれて、部屋を出たのは親を殺したと言う青年だ。こんな時間に面会は受け付けていない筈だ、と伊月は考え、その広い視野に男の声を聞く。 「あー、またか・・・。」 中年の男が呟いて、はたと伊月が振り返る前に、聞こえたのは呻く声。そして笑い声。 「な・・・に・・・。」 ぎゃっ、と聞こえた声は明らかに悲鳴だった。 「な、ちょっとっ!」 立ち上がろうとして、がしりと手首を強く掴まれ振り返ると、顔に傷のある男が顔を左右に振る。廊下では、ぎゃぁ、いで、がは、と血反吐を吐くような悲鳴と呻き声と、肉を打つ音と、笑い声。 「ひとを殺しておいてよく人間面が出来るなぁ!」 明るいその声音は、何を言っているのだろう。ぐ、っと腕を更に強く手首を握られる。 「止めないの!?」 男は口を開かず首を振るだけ。その首には、縄を幾重にも巻いた痕があった。 「駄目だよ。そいつ、口が利けないから。」 潰されたんだよ、と中年の男が廊下に視線をやる。 「なにこれ・・・。」 おかしいだろう、おかしいよな、と伊月は頭の中に繰り返される言葉に、先ほどの餌のような食事を吐き戻しそうになって口を抑える。 そして、唐突に。 「・・・そっか・・・。」 殺されたのか。 猿濱らんは、自死を選ぶように仕向けられた。 「殺された、んだ。」 理解して、しまった。 中年の男に目を塞いて貰うと少しだけ力が抜けて、そのまま嗚咽を噛み殺して伊月は涙だけを止め処なく流し続けた。よしよし、優しい子、と男が宥めてくれてもそのまま。抱き締められるようにして泣き疲れて眠ったらしい。 起き上がる力が無いまま、私刑で嬲られた青年はそのまま同室の彼らに粗末な布団に運ばれたが朝になっても布団から起きてくることは無いと、伊月が知るのはまだ九時間も先の話だ。 続く。 |
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プリズンブレイクしに行く!キタコレ!!
初出:2013年5月27日 02:59
このキャプションは酷い。
20130903masai