大正十五年、秋。弟子の勇姿を見守ったアレクサンドラ=ガルシアは、いつまでも火神の家に世話になるのもな、と考えたのち、バスケがいつでも出来て、愛弟子のようにバスケを楽しむ子供がいて、と様々に考えた。
そんなに長く日本に滞在する予定は無かったのだが、せめて親元を離れて生活する愛弟子が成人するまで、日本に居ようと思った。












今吉探偵と伊月助手と外伝・アレクサンドラ=ガルシア












「日本のビールは美味いなぁ。」
「水が違うんですよ。この辺だったら南アルプスから水引いてる筈ですし。」
「少し甘いがな。」
「日本酒は辛口も甘口もありますよ。」
伊月俊は場末の居酒屋で、よくアレックスとも飲んだ。決して酒に強いとは言い難い男だったが、氷室と待ち合わせ、また火神が成人してからも、誠凜の同輩を集めても、よく騒いだ。といっても皆学業や仕事の片手間で、潰れるほど飲む者はいなかったが。
日本での酒の肴や、刺身や寿司も本物の味を愉しんでは、うまい、と率直に頑固親父を褒めそやし、また食いたいな、と弟子に同意を求め、そうだな、と屈託無く笑う火神と、日本人はシャイなんだから、と氷室にフォローされながら、彼女は日本という国をこころから楽しんだ。
アレックス、と呼ばれた亜米利加国籍の女性は金色の髪に碧眼の美女で、下世話な輩に絡まれるのは氷室が蹴り飛ばし火神が殴り飛ばし、二人がいない時は、伊月が大外刈りで投げ飛ばした。
「世界は広いんですねぇ。」
アレックスの故郷の話を聞いては、伊月はそう感嘆し、そら日本人は島国根性えらいさかいなぁ、と今吉が言った事もある。
「エライ?日本人は確かに器用で熱心な人種だと思うが。」
「ああ、そちらの偉いじゃないです。上方の言葉・・・方言ですね。亜米利加にも東西南北で発音が違うって聞いた事が火神にあります。大変な、とかそういう意味で、エライんですよ。」
「つまり、シュンはショーイチの面倒がエライと!」
「そうなります。」
「いてこましたろか、月ちゃん。」
「いてこま・・・?」
「ふぁっきゅーって意味ですね。簡単に使わないでください。辰也はよくぼそっと言うけど。」
あっはっは、と晴れがましく笑ったアレックスは、海外の血なのか彼女自身の特性なのか、やはり楽しそうに笑った。彼女は職探しによく役所を訪れてもあった。若松はその度に、国籍の問わずは難しいですね、と対応し、結局彼女は日本滞在期間は無職であった。確かに女性の社会進出が広く認められてきたといっても、日本人で無いのなら、と日本人は一歩引いてしまい、日本語は割と出来るんだが、との声も、企業側から聞く前に断られた。
Asylで色々と伊月も試させたが、繕い物は縫い目が笑うし、洗濯は布を破ってしまうか石鹸が砕ける。料理は大概直火。キス魔に幼子ならまだし、年頃の子供相手はちょっと、と伊月は額を抑え、しかし庭で火を熾してのバーベキューは酷く楽しかった。日中戦争が開戦する前に彼女は亜米利加に帰ってしまったが、その際に伊月はアレックスに土下座した事がある。
「貴女は、ここにいては、きっと酷い目に遭ってしまう。」
伊月はそう、アレックスを説得した。氷室も火神も自立しており、方やカフェーの美男子ウェイターで、方や出版社の下っ端であり小料理屋の弟子という互いの特性を生かした職も持っており、そうだなぁ、と彼女も頷いたもので。しかしながら伊月の申し出は、単身で帰れというならまだ分かるが、次に続いた言葉は。
「それから、出来れば、火神と氷室も、連れて行ってやって、下さい。」
「どういうことだ。」
「この国は、・・・この国は壊れつつあるんです。」
場所を変えましょう、と伊月は伊月邸の茶室にアレックスを招き、深々と日本人の綺麗な礼を見せた。抹茶は生憎彼女の舌には合わなかったが、生菓子は気に入ってくれたようだ。
「日本は、おそらくもう駄目です。国内が乱れ、十年以内に他国に戦争を吹っ掛けるでしょう。独逸もヴェルサイユ条約からこちら、国政は乱れたまま。このままだと世界は燃えてしまう。アレックスさん、お願いです。」
もう一度、お願いです、と額を畳に擦り付けた伊月に、アレックスはジーンズに胡座のまま、この男は、と目を細めた。
「亜米利加は新しい国だ。新しい国で、英吉利や仏蘭西の支援もある。そして何より国自体が豊かで、国民がまだ笑っている。資源がある。仕事がある。土地がある。生きて、活きていける・・・っ!」
日本は確かに窮屈な国だとアレックスは思った。額を框でぶつけるし、珍しそうにアレックスの金髪を見る。古い古い歴史を持ちながら新しい文化と融合しながら栄えた国は、国民の笑顔がまるで作り物のように見え始めた。酔っ払いのように見え始めた。資源が少ない日本は他国の領土を侵して国際連盟から通告を受けている。仕事がないルンペンが道端にいるのはアレックスが育ったロサンゼルスでも変わらぬが、彼らは決して蹲ろうとなんてしなかった。あるものは歌声を張り上げあるものは廃品でアクセサリーを作り、まだ誰の手にも渡っていない土地を安く買い、地道に農地を作って活きていた。
「シュンは誠実な男だと、私は思うが。」
「は・・・?」
「頼み事をする時は、相手の顔を見て、目を見て、言え!ドゲザなんぞ旋毛が見えるくらいで面白くもなんともないっ!!」
実に彼女らしい言い分に、伊月は思わず笑ってしまった。彼は顔を上げてにこりと美しく笑う。はい、と目を細めて、大変に綺麗に笑った。
正座に、凛と背筋を伸ばしてその誠実な眼差しで胡人のあおい瞳を見据えて。
「氷室と火神を連れて、亜米利加に帰ってください。」
「何のために?」
「活きるために。活かすために。」
日本語の難しいニュアンスは理解できなかったが、伊月が、ただのうのうと生きていけと言っているのとは違う、と彼女はきちんと理解した。火神の先輩であり、氷室ともよく笑いあった彼は、人間としてどう活きるか、ひととしてどう死ぬか、そんな考えを持つ男であったとアレックスは記憶している。
美しい男だった。
大和民族の真黒の髪には真珠色の天使の輪が描かれるのは愛弟子の片方も同じであるが、切れ上がった眦に住む黒曜石色の瞳は誰より美しく輝いた。
『そのあとは彼が言っていたように、戦争になってしまってね。無条件降伏まで日本は傷だらけで戦い続けたの。』
月のようなひとだ、と愛弟子の片方は言っていた。美しく夜空に輝く癖、その背面は隕石の衝突で傷だらけなのだと。
『タツヤ、タイガ、あなたたちは日本人である誇りの前に、あの男が生きた国の人間である誇りを持ちなさい。』
『シュン?』
『そう。生きるというのは犬でも出来るわ。』
少年の片方は、ぴゃっ、と飛び上がった。ついこの間大型犬に尻を噛まれてまだ青い尻に歯型は残ったまま、思わず彼女は、あのこの曽孫ねぇ、と笑ってしまった。
『でも、自分を他人を活かすのは、人間にしか出来ないの。母親と一緒に生まれて、死んでしまう時はきっと独りでも、目標を持って、目的を探しながら、悩みながら、そうして死んでいくの。』
『幸せになってって、僕のパパは言ったよ?』
さら、と嘗ての彼を彷彿とされる美しい黒髪が揺れた。
『幸せになる、というのは、アメリカンの考えなのよ。私たちの考え方と、彼らの考え方は違うわ。タツヤの考え方と、タイガの考え方と、アレクの考え方も私の考え方も皆違う。だから、とシュンは言ったわね。だからこそ面白い、と。』
「いんたれすと・・・。」
ひととひととは同じ教訓の中で育って果たして、きっと違う人間に育つ。解り合うことは酷く難しいけれど、だからこそ。
『バスケットは楽しいかしら?』
『『うん!!』』
綺麗に揃った返事に曽孫が笑う。プロを辞めてからあんなにも荒んだ彼女は、この二人に毒された、というと言葉は悪いが、彼の言葉を借りるのであれば、バスケットに生きた彼女をバスケットに活かしたのだ。
この先三人はどのような人生を送るのだろう。プロバスケットチームで稼いできたといってもその一生をアナログ時計で喩えれば、ほんの僅かな数分は、曽孫を確かに活かしただろうが、その喪失は曽孫から生きる希望を潰えるほど、ただ動物のように生きた彼女は、この二人の愛弟子に活かされている。
深夜に車を飛ばしたと思えば子供にしては遠い距離を日本に比べれば治安の悪いロスの街を遠出した二人を迎えに行ったと来たものだ。まこと、生かし合う人間というのは素晴らしい。
バスケは好きだと言い切った二人を眩しそうに見やった曽孫。この三人は同じバスケが同じように好きであったとして、果たしてその末路はどうなるだろう。曽孫は一度絶たれたプロ活動から荒み、しかし子供二人にまた情熱を感じさせられた。ひとというのはどれだけ体が大きくなったとして、それは大きくなっただけで、一人で存在出来なければそれは大人ではない。これは日本人は上手く考えたな、と彼女は思う。ひとりのひと、と書いて、大人という文字になるのだそうだ。
アレックスは確かに大人になった。そして大人になりきれない子供達に、時折こうやって話しかけている。大昔、日本という国で出会った、とても美しい青年の話を、語り継いでいる。
『タツヤ、タイガ、そろそろ今日も行くか?』
『おばあさまは、しあわせですか?』
黒髪のほうが言う。
『幸せになりたい、と思うことが、幸せなの。』
青い鳥をお読みなさい、と彼女は言って、その日当たりの良い寝室で目蓋をゆっくりと降ろす。だいぶ視力が弱くなってしまった。年を取れば誰でも目は悪くなるというのに、曽孫は聞かなかった。
『本当に幸せでない間は、幸せになろうと思う暇もないものよ。』
『おばあちゃん、寝る?』
ええ、すこし、とほぼ寝息で告げられ、騒ぐなよ、と彼女と同じ名前を受け継いだ曽孫は、愛弟子を部屋の外に送り出す。
『おやすみなさい。』

アレクサンドラ=ガルシア、享年九十九歳。
子には先立たれたが、孫、曽孫に囲まれての呼吸不全。

火神大我、享年五十二歳。
日系アメリカ人収容所にて施設解体、収容者解放に尽くす。

氷室辰也、享年六十八歳。
日本人への降伏呼びかけ時に活躍し、ベトナム戦争にてPTSDを患う。

初出:2014年2月21日 17:22

今月探偵番外編、第七段。

20140421masai