ゲシュタルト崩壊現象をご存じだろうか。
語源は独逸語。全体性を持つ構造から全体性が失われた認識を、人間の脳が行ってしまう事を言う。
例えば、長時間同じ文字を見続ける。すると、その文字が模様なのか文字なのか、が曖昧になる。また逆に、ボールペンや筆、何でもいい。丸を並べて三つ、中央の丸だけ低い位置に描き、それを見続けているとヒトの顔に見えてくる。これも一種のゲシュタルト崩壊現象である。心霊写真の原因とも言われている。












今吉探偵と伊月助手と四十四の謎。前篇。












放課、部活動を終えて伊月が今吉探偵事務所を訪れるのは大概一八時を過ぎる。部活で疲れた体を水分補給やクールダウンで復活させて、事務経理や雑用を済ませたり、場合によっては所長の我儘で泊まり込んだり、ともなる訳だ。
「ちーっす。」
事務室に顔を出すと、花宮が、来客中、とくちびるを動かして面談室の扉を親指で示した。片手間で新聞や横文字の分厚い本も広げてある。
「所長、失礼します。」
こつりと琥珀色の若木で設えられた扉をノックすれば、おう、と返事が返ってくる。茶菓子いいのあったかな、と支度を整え、学生服姿で入室すれば、見慣れた、と言うほどでもないが見知った色素の薄い髪の男と綺麗な黒髪の女性が今吉と対面でソファに座っていた。
「お、伊月。よっす。」
「どうもこんばんは、荒木監督、福井さん。どうかなさったんですか。」
「月ちゃん、ロールケーキ頂いたから切り分けてんか。」
「はい。荒木監督は珈琲ですよね。福井さんは?」
「俺も珈琲でいいや。」
「紅茶もありますよ?」
「まじで?じゃあ紅茶貰っていい?」
俺は紅茶頂きます、と伊月が今吉に頭を下げたので、じゃあついでに、とどちらかと言うと紅茶党な福井が頼むわ、と笑った。
「じゃあ、私は帰るぞ。」
「ありがとうございます、監督。」
「こいつに変な相談事を持ち込んで吹っ掛けられては敵わないからな。私の紹介にしておけ。」
「はいなー。雅子ちゃんも手厳しなったなぁ。」
教え子を簡単に預ける信用はあるが、信頼は無いわけである。今吉はいつも通りに胡散臭く笑ったが、荒木は形の良いくちびるだけで笑うが、眼光は鋭い。伊月を見て目元を細めるので、待っていたのだろう。そのままピーコートとマフラー姿で彼女は事務所を去った。事務室のほうから花宮が顔を出し、密かに一言二言遣り取りをしたようだが、そのまま真っ直ぐに路面電車の停留所に歩いて行った。
「月ちゃん、バミューダトライアングルって知ってる?」
「え。地理あんま詳しくないんすけど・・・。」
「そんだけの助手をワシが雇うと思うか?」
今吉と伊月の遣り取りに福井は首を巡らせ、紅茶を受け取り先ほど作ったドライフルーツのロールケーキに添えられた銀のフォークの彫刻をしげしげと見やった。
「フロリダ半島の東方八十八キロ沖、バハマ諸島を横切る線をプエルトリコへ。そこからまた大西洋のバミューダ諸島からフロリダ半島へのラインを引いた、地図上での三角形の海域ですよね?」
「合格。」
「バミューダトライアングル・・・。」
何故そんな話がここで、と福井は首を傾げる。
「なんでそないな名称が付いた?」
「バミューダトライアングルで消息を絶つ船や飛行機が後を絶たないからですね。」
「原因は?」
「諸説ありますが、ホンダワラ・・・向こうではサルガッソーでしたっけ。海中の藻によって船の動きが止まる、海中のメタンハイドレートの存在、辺りが有力ですか。」
「メタンについては?」
「化け学ですか。教科書の丸暗記でしたら、常温常圧無色無臭の気体。人体に毒性無し。融点は−183℃で、沸点は−162℃。空気に対する比重は 0.555。天然ガスですが、一酸化炭素と水素との化学反応で生産されます。満足ですか?」
「ほな、この写真はどう説明つける?」
大理石で造られた表面には、荒木雅子名義の紹介状と、数枚の写真があった。気温の低い中に上着やらもこもこと着込んで数人と福井の笑い合う写真。
「小学校時代の同級生だ。」
誰だろう、と伊月が記憶を遡る前に福井が教えてくれた。彼は中学から親の都合で帝都に暮らしているが、長期休暇には祖父母が暮らす田舎に帰省する。
「向こうでちっとした同窓会やってだな、そん時に撮った写真が昨日現像されてな。で、ほらここ。」
「え?あー・・・。見事な心霊写真に。」
「だろぉ?」
その数枚の数人の向こうの青い空の手前には、ぼんやりとヒトの顔が幾つか浮かんでいる。
「こらこらー。」
「はい?」
「さっき自分が説明したん忘れたんかい月ちゃん。」
「え?」
「それ、多分地中のガスと空気の摩擦やで。」
「あ。」
よくよく見れば、人間の深層とは恐ろしい。ヒトに見えたそれは、エドヴァルド・ムンクの有名作品とよく似ているが、偶然そんな形になった空気の流れだ。カメラという文明が偶然そんな形に捉えてしまったわけだ。
「近所で鬼火が見られた、とかで若者は勿論、年寄り連中も浜辺には近寄らなくてな、どんなもんかとここに来た訳だ。」
「成程。ってか鬼火ですか!?」
「おう、あの辺は昔勤労学生や老兵が基地も作ってやがって、それを爆撃された過去もあってよー、マジ誰も近寄らねぇ。まあ、俺等は肝試し半分に行ったけどよ。」
「ちょっと待って福井さん、この木陰にあるの卒塔婆・・・。」
「おう。死んだ動物とか勝手に埋めに来るんだと。」
「これは御誂え向きな肝試し場所にもなりますね。」
「そんで、この写真撮ったヤツ、ダチの親なんだけど、こないだ死んだらしい。」
「はいい!?」
なんか怪談じみてんですけど、と伊月の声に福井も同意したが、事務室のほうから花宮が出てきた。
「裏取れた。飯食ってたら火を噴いて死んだ、ってな状況でしたね?」
「ああ、そう聞いてる。」
交流のある年長者には、取ってつけたような敬語だが一応日本語にはなっている。
「おそらくはそのガスを吸い過ぎて、腹の奥が囲炉裏の傍なんかで燃えたんだと思いますよ。」
「えっぐ・・・。」
うわ、と福井はフォークを置いた。
「もう少し聞かせて貰えるか?福井の実家はどの辺や。」
伊月が地図を出してきたので福井は頷く。
「写真はこの浜辺で、俺の実家はこの辺。歩いて二時間くらいか。ちっせぇ集落がこの浜辺にはあって、でも四〇そこらで男共は死んじまうんすよ。」
どういうことですか、と情報を集めていた黒革の手帳から伊月が顔を上げる。試合の時の貌とよく似てるなぁ、なんて考えながら福井は紅茶を含んだ。好みの味だ。
「いや、その辺まじわかんなくてなー。呪いだとかそういう話は昔話にあるんだが。」
「詳しく聞けます?」
「なんか、俺も昔じーさんに聞いた話だからな、本当かどうかも調べた事はねぇんだわ。」
「それでも一応。」
ちょっと待てよ、えっと、と一度福井は顎を摘まんだ。
「確か、貴族の姫さんが昔住んでたとかで?戦国時代つってたか。」
「殺されたんか。」
「そういう話で聞いてます。侍女やら娘やら全部殺されたんだが、その後その暗殺に関わった連中が全員自殺したとか殺し合ったとか。」
「まあ、戦国時代やったらそんなん腐るほどある話やな。」
「俺もそう思って。」
本気には考えてないっすわ、と福井はロールケーキを崩す。甘すぎないクリームが今吉は気に入ったらしい。
「ただ、爆撃は気になるな。どないな規模やったん?」
「十三年前だから、俺も覚えてる。でっかい基地が浜辺に在って、俺たちの住んでた町まで兵士が多かった。そこに敵機から爆弾放り込まれてドッカン。」
「死人は?」
「結構多かったんじゃねぇ?町の病院は怪我人で満床だったし、廊下にもこれ明らかに死んでんだろって連中多かった。で、呪いの浜辺とか祟りの浜辺とか呼ばれてたところにまた血濡れの浜辺、ってな寸法?」
「よくもまあそんなところへ肝試しに・・・。」
「昔の仲間に会ったらテンション上がるだろう?」
「否定しませんけど。」
でも実際人死に出てますからね、と伊月はこめかみを抑えた。福井は今更になって苦笑気味だ。
「空気の流れが明らかにおかしいな。調べるか。」
「ここまでどれくらい距離あります?」
「俺の実家がある町なら半日に一本の列車で三時間。そこから徒歩二時間だな。ちいせぇ集落だからバスとかも無ぇし、そもそもヒトが少なくなってんだよ。」
「過疎?」
「に近いか。俺の家は半分くらい出稼ぎみたいな勢いで帝都来たしよ。」
ふむと今吉が顎を摩る。
「月ちゃん都合つくか?」
「え、俺も行くんすか。」
まじでか、と言葉を無くした伊月を置いて、福井の情報をもとに今吉と花宮は準備を進め、花宮が留守を預かって、そのヒトの少ない浜辺で伊月はインバネスコートで防寒している肩を竦めた。
「さむっ、寒いです・・・!」
念のためのマスクが余計に耳元に寒い。冬場の海辺は耳が千切れそうに寒い。雪の積もった道路は舗装が無く、雪は道端に堆く積もっている。砂浜はその性質故に雪は積もらないが、かなり雪深い田舎である。
「この辺やな。」
焦げた木片を今吉の軍手が拾い上げ、伊月の皮手袋に転がした。黒い木片は、焼け焦げだけではなく変色した血がこびりついている。そこには浜辺沿いに広大な空き地があった。写真に在った通り、防風林に青松白砂の光景は美しいと呼べそうではあるが、卒塔婆と広大な空き地がその印象を裏切っている。草地となっているそこには、機械の欠片や何かが風化しかけたように散らばっている。
「まあ、確かに肝試しには御誂え向きや。」
今吉がマッチ箱を取り出し、擦ると信じられない勢いで火が昇った。
「ああっつ!!」
「なにやってんですか!」
「鬼火の実験?マッチでこれやと確かに自然発火もするわ・・・。」
一気に全体が燃え上がって黒く焼失したマッチはそのまま下駄が乱暴に砕いた。焦げた前髪を伊月は払ってやる。そして再び歩いて二時間。小さな旅館に宿泊の旨は既に通っていて、粗末だが防寒設備のしっかりしている部屋に二人で安堵の息を吐いた。
「うあー寒かったー。」
マスクは道中、大丈夫だと判断できた場所で外し、今吉のトンビと伊月のインバネスコートは仲良く壁の衣架に並んだ。旅館の周りは民家もあるし警察署や消防署も揃っているので、何かあっても対応は出来る。念のため、と警察には青峰を経由して連絡も通した。
「ほなお仕事しますか。」
「はい。」
既成の地図と白い紙が並んで、その上を記憶に辿って伊月は問題の個所の地図を作製する。工場基地があったらしい場所にあったものは手帳に書かれた。
「ガスはメタン辺りが正解ちゃうか。」
「ですね。無臭でしたし。危ないですよあそこ。後で消防署に連絡して、発掘なりして原因消さないと。万が一上空に飛行機なんて近くを飛んだらこの辺がバミューダ海域になりますよ。」
「せやな。で、漁師に聞けたんは。」
えっと、と伊月が手帳を捲る。浜辺に行く前にそこここで話は聞いてきたが、時間の都合上片手間だ。結局裏付けに一番役立ったのは公民館に逢った新聞だった。
「正確には四十四歳の年齢で死んでます。警察の情報によればこの集落で生まれて神奈川で水商売をしていた女性ですね。放火殺人ですが犯人は捕まっていません。次はこの辺でバス運転手をしていた男性が、遺書を遺して焼身自殺。その二週間後、今度は千葉で出稼ぎに来ていた男がガソリンを被ってこちらも焼身自殺です。それぞれの共通点は、出身があの集落であることと、享年が四四歳であること。」
「最初の事件からどんだけや?」
「三件目が三年前。今解っているだけですと、その二か月前が最初です。」
「そんで、全員火で死んだ。」
「そうなります。」
煎茶は少し渋くなった。
「晩飯までもうちょい時間あるな。話聞きに行こか。福井クンの話やったら、集落の年寄りがまだ漁師として働いとる。そろそろ仕事も終わらしてる頃やしな。」
「また外ですか・・・。」
「あったまったやろ?」
ほら行くで、とトンビを羽織ってマフラーと軍手を装備した今吉に慌てて伊月もコートを羽織る。一時間ほど歩いて到着した集落の端には、幾つか民家が連なって、適当なところの木戸を今吉は叩いた。遠目にコンクリート製の鳥居が見えた。表札は無いが、出てきたのは五〇そこらの男だった。
「いきなりすんません。京都で民俗学研究しとります、今吉言います。」
平然と飛び出す嘘に伊月は顔に出さないように頭を下げた。
「この辺で特定の年齢になると火で死ぬーゆう話を聞きまして。」
「・・・ああ。」
それか、と男は頭を掻いた。公然の秘密のような状態なのだろうか、どうぞ、と男は二人を狭い家に招き入れた。囲炉裏に火は無い。
「急に燃え上がる事があってね。」
伊月の視線に気付いたのか、男は温石が入っているらしい包みから急須を出して、同じく白湯と言うには温度が低いそれで茶を淹れた。
「どこまで調べなさった?」
「いや、四十四歳でしたか、この辺の集落出身の人間が火で死ぬ、ゆうことだけ。」
「俺もね、四十四の時に戦地で焼き殺されそうになったもので。」
男がセーターの袖を捲ると、赤く爛れたケロイドがあった。
「なんとか生き延びて今は漁師をしているんだ。」
「それはそれは・・・。」
大変でしたなぁ、と笑みを消した今吉は伊月を見る。万年筆を走らせていた手元から視線を上げ、伊月が聞いたのは、コンクリート製の鳥居だった。
「結構大きいですよね。海際なのに傷みもあまり見られませんし。」
「あれは去年新しくしたんだ。あんまりにもこの集落出身に不吉が多いものだから・・・。新聞に載ってないだけで、十人は死んでいる。」
「え・・・。」
「もともと、木製の鳥居だったんだよ。」
彼は天井を仰ぐ。鳥居のある方向に、それに縋るような瞳で。
「それが痛んできたから取り換えようとね。」
「でもそれって・・・。」
「ああ、下手に触ると何が起こるか解らない、と声もあってね。」
でもね、と続く言葉は恐怖に震えていた。
「道路を車で走っていると、後ろの座席に誰かが座って座席が水浸しになっていたりね、漁港の途中で親子の影が見られたり・・・。あと、俺はくやしい、って声を木陰で聞いたよ・・・。」
「昔この辺りで殺された姫君がいたというのは?」
それはこの辺りでは有名な話だ、と男は言った。
夕食の準備に井戸端の女達からも似たような話が聞けて、特に鬼火の目撃談と顔が一瞬浮かんで消える怪奇現象が多く語られた。
「屋外寒い・・・はっ。屋外は一度くらい出ておくが良い!キタコレ!」
「月ちゃん黙りなさい。寒い寒い言いよってからに。」
「だって寒いんすもん。日向や火神辺りだったらぶっ倒れてもおかしくない位に怪奇現象の情報は入りましたね。」
「せやね。鬼火と影の目撃談のトリックは分かってもーとるからおもろないけど。車の座席の水もアレ、化学反応やし、木陰の声は風の反響やろし。ほんまおもろないわー。」
「面白い面白くないで依頼受けないで下さいよ。」
道行をそうやって談笑しながら町へ向かう空は黒に時折星が輝いていて、足元をペンライトが照らす。
「四十四歳の怪奇は一度置いておいて、あとは鳥居ですかね。」
四十四歳で死んでしまうかも知れない、そんな噂は噂や偶然で片付けるには少し異常だ。潰せる可能性から潰していく。
「竜神伝説は知ってる?」
旅館の玄関を潜りながらの今吉の問いに、一応は、と伊月は頷く。お食事はお部屋に運ばせて頂きました、との仲居の声を聞きながら、部屋に戻る。
「雨乞いなんかの水神信仰でしょう?蛇や龍の形をしているのが多いですね、絵画なんかのモチーフを見ると。蛇神は金物を嫌うと言いますから、鉄製の漁道具は海に落としては水害や事故の原因になるとされてます。おそらく鳥居はそれでしょうね。証拠と呼ぶには聊かカルトですが、あれを新しくしてから事件の数は減ってます。が、減っただけです。」
魚介の刺身を突きながらの会話としては、随分血生臭い話である。
「まこっちゃんの情報やと、報道も途中から出身地と年齢を伏せ出しとるからな。福井クンの写真撮ったひとも四十四歳やったしな。なんやろこの符号・・・。」
「四十四って数字もちょっと不吉ですよねー。」
そして早朝の列車で二人は帝都に戻り、福井には心霊写真の真相原因の報告を伊月が持って行ったが、結局四十四歳のタネは解けないままだった。
翌日、青峰から連絡があった。近日に四十四歳を迎えるでろう、あの集落の人間が、山奥で遺書を遺して集団で練炭自殺をしていたのが見つかった、という内容だった。
「これもう集団ヒステリーの域やで・・・。」
がりと今吉は頭を掻いて、その記事の載った新聞をデスクに投げた。出身地と年齢はやはり伏せられたが、青峰からの連絡の直後に花宮が裏を取りに走り、出身地と四十三歳という年齢が合致した。
「いや・・・おかしいでしょうよ・・・。」
現場写真には四人の男女が小屋の中で折り重なっているのものだった。
「一酸化炭素中毒でしょう、これ。おかしいです!」
「は?どこが・・・っ!」
そうだ、と花宮が背凭れから飛び起きた。
山小屋なら防寒対策はしっかりしているはずだが、現場となった小屋は農家の器具倉庫の捨てられたものだった。部屋の中で折り重なって死んでいたが、農機具倉庫には一酸化炭素中毒を起こすほどの密閉は無い。倉庫内の事故を防ぐために消防署からは換気扇や換気窓の設置が義務付けられている。
「何だこれは・・・。」
「花宮。」
「何だ、伊月。」
「向こうの工場跡からは?」
「全部撤去させた。鬼火の原因はもう無くなった筈だ。」
うん、と伊月は頷くことでデスクの背凭れに背を預けた。どうしても晴れない靄がそこにある。四十四歳は火で死んだ。あれは事件や事故だ。今回の四人は四十四歳でなければ火で死んだわけでもなく、警察の発表では自殺で片付けられた。
「・・・自殺。」
「うん?」
「どうして、自殺って判断されたんですか。」
「遺書が出たらしい。」
「内容はないよう?」
ゴツっ、と脳天に拳を入れられ伊月はデスクに蹲った。
「四通とも、《家族を頼む》だったらしい。」
「全部一緒?」
「筆跡鑑定もやった。ちゃんと四人分あった。」
「自殺の前準備としては上出来やけどな・・・。」
そんな風に奇妙な謎だけ残して、依頼された事件は解決した。動物の死体を埋めるという事は腐敗ガスの温床になるのでそれは止めさせるようにと自治体へは指示させ、奇妙な模様が写真に写り込むことも無くなった。花宮の誕生日を挟んで過ごした連休は、とりあえず嫌がるほど祝福しておいた。事件報告書も保管棚に入って、何事も無く日々は過ぎた。
何事も、無く?
ふと伊月は通い慣れた学び舎の校庭で、胸ポケットを抑えた。隣を歩いていた水戸部が夢首を傾げて、地下へと続く階段の途中で数段下って伊月の顔を覘き込み、心配そうに眉を寄せた。
「・・・最近、さ。」
水戸部は言葉を発さない。だからこそ聞き手に回る。
「なんか、変じゃない・・・?」
彼に疑問形の言葉は酷だと伊月は知っている筈なのに、揺れそうな黒曜石は凝視っと水戸部を見た。これから薬品臭い研究室に入るのに、生徒は一様に複雑そうな顔をしているが、伊月の様子は何だか違う。水戸部は体調でも悪いのかと手を伸べようとするが、ちがう、と呻くような声音に手を握られる。朝練でそれなりに体温を上げた筈が、凍りそうに冷えている。宥めるように撫ぜてやると、水戸部は筆談用のノートを出した。
「いや、俺の気のせいならいいんだ!」
何をか綴ろうとしたそれを止めて、地下教室に入る。最近は解剖の授業はせず、ヒトがどうすれば死ぬのか、助かるのか、と授業と論文の提出に追われる。解剖の授業は献体が無いと行えないし、このクラスではもう殆ど、十二分と言っていいほどやっている。解剖に使っていた台は机になっていて、教室中の持ち出し不可の図書を使っての勉強になっている。
伊月が手元に持ってきたのは旧日本軍が行った人体実験の記録だ。それは懺悔も何もなく、ただ実験結果とその写真が載っている。
《細菌戦における細菌散布方法は三種類が考えられる。》
《1.謀略的方法による散布。》
《2.航空機からの細菌爆弾散布。》
《3.砲弾による散布。》《伝染病蔓延の仕組みを研究し、開発した細菌兵器の効果の試験として、しばしば謀略を用いて中国東北部の都市や農村に細菌をばら撒いた。死者が出ると防疫出動と称して死体を回収、必要部位を標本とし、そのまま焼却処分した。》
《参考写真:松花江で焼かれる黒死病死体。》
情報処理の終わった頭が一瞬飽和する。モノクロの荒い写真は真っ黒な死体に焼かれた筋肉は収縮してこちらに助けを求める様なかっこうで実験に当たった兵士たちの足元に昏い眼でこちらを見ている。
「細菌兵器・・・。」
どうやらペスト菌を主に使った実験だったらしく、それに関しての項目が多い。ペストは人類の歴史を通じて最も致死率の高かった伝染病だ。十四世紀に欧羅巴で大流行し、人口の約三分の一が死滅したと言われる。単独では運動性を持つが、宿主中にいる時には運動性を持たないとも聞く。ペスト菌は三種類の亜種がおり、歴史上に何度も流行を繰り返している。治療は抗生物質だが、抗生物質のみの治療では不足な患者もいる。その場合は循環補助、呼吸補助、腎補助など別の措置が有効である。他に有効な措置は無いものか、と伊月は真っ黒な死体の写真を見やる。
ガタン、と椅子が後ろに倒れた。
突然立ち上がった伊月の様子に、教科書や論文に目を落としたり教師に質問していた生徒は目を丸くして注視する。
「い、伊月君・・・?」
「教授、旧日本軍研究施設の資料はもっと手に入りませんか。」
「何を突然・・・。」
まともに考えて、そんなものが簡単に手に入るはずがない。十年以上前には旧日本軍は解体され、資料だって新政府に全て燃やされた。まるで血で腐って真っ黒な、使い物にならない資料はいらないと、表向きはそうやって綺麗事で塗りたくった理由で、自分達が犯した過ちを全て海外の専門機関に裏から情報として明け渡し、知らない振りを通している。結局、返事は決まっているのだ。伊月がその日に仕上げた論文は、専門家もかくやと言う出来で本になりそうな勢いだったが本人が拒否をした。そんなつもりで書いたものではありません、との事ではある。
どこに連絡したらいい。この時間はまだ花宮だって流石に授業だし、霧崎第一大学に果たして連絡をして彼に繋げてもらえる可能性は限りなく低い。あの狂いの一文字に捕まる事は避けなければいけない。宿直室前にある電話機の前で立ち尽くしていると、リャンと呼び出し音に肩が跳ねた。
「お、伊月―、受話器取れるかー?」
気さくに声を掛けてくれたのは、国語担当教諭の通称ゴリ松先生で、はい、と伊月は頷いた。
「もしもし、誠凛大学の・・・あ、はい、伊月俊は俺です・・・。」
電話を取って学校名を交換手に告げれば、ではそのまま暫くお待ちください、と回線がつながり、今吉と申しますけど伊月俊君おってですか、と来たものだ。
「あ、なんか俺に電話だったみたいで。ありがとうございます。」
そうやってゴリ松教諭には頭を下げて、もしもし、と電話に向かった。
『こっちに電話しようと思てた?』
「悔しいけど正解です。」
『なんの用事?』
「その、なんでもしってんでー、みたいな言い方嫌いです。」
『月ちゃん、それワシ以外にゆうんやないで?』
「は?それで、ご用件は。」
相変わらずやんなぁ、と今吉は少し笑ったようだった。そして、真剣な声音で。
『ここからは裏の仕事やで。』
そう、述べた。
「解っています。」
考える暇も選ぶ暇も、伊月にはあった。
「後程、事務所で。」
薄く笑って、通話を終えると、二階の教室に上がって、今日の部活休むわ、と日向に言って、気を付けて行ってこいよ、との返事を貰った。彼も彼の仲間も、色んな意味で生半可では無いようだ。


続く。

***

はなみゃー誕生日祝い出来る予感がしないごめん!一行だけフライングで祝わせてもらった!!本文の一部はウィキ先生にもお世話になりました!!蔵書だけじゃ足りなかった!!■タグありがとうございます!!花宮誕生日おめでとう!!画を沢山ってほどでもないけど描いたよ!!(1/12


2013年01月11日 23:11初出。

20130118masai